第4章 森の声 (4)
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《現れたか、小僧》
話獣との距離は、数値で示せば約40メートル。
それだけ離れている、いや雷祇にとっては、僅か数センチ手前にいると感じてしまうほどの存在感。辛うじて喉を通るようになった空気が、意識を奪うのだけは避けている。
“最初よりも圧されておるのう。まあ、当然じゃが”
立ち上がろうとする終演よりも、先に動き出したのは雷祇の思考と喉。
「な、ぜ……。なぜ、人を襲う」
終演の元には辿り着かなかった雷祇の言葉達。だが、遥か離れているはずの話獣の耳には、はっきりと届いた言葉が話獣の嘲笑を誘う。
《何故人を襲う、だと。不思議な事を聞く小僧よ。貴様が何を勘違いしているか知らんが、我が人を罰するのは、この森に入りし愚かな人のみよ。そう、貴様ら人と同じことをしているだけの事》
“この手の話を、雷祇は理解できんじゃろうな”
終演は座り込んだままでいる。動かそうとしても、終演の言葉を体が無視しているから。
「人と、同じ事?」
《そうだ。貴様ら人は、我らから奪いとった土地を自らの住処とし、我らがそこに踏み入れば駆除という名の惨殺を行う。かと思えば、我らが森に無断に入りこみ、我が同胞を殺しては土地を奪い取る。そこで抵抗しようものなら、人に害をなす物としてまた駆除などと抜かす。全てにおいて自分達を至高の存在とし、この世界を自分達の物と思い込んでいる貴様らこそが、この世から駆除されるべきなのだ! 分かるか、小僧》
「わ、分かるわけがない! 人や自然は共に生きるべきだ! この世界だって人を必要としている! だから、人を駆除するなんておかしい!」
雷祇の主張を最後まで話獣は黙って聞いた。途中で止めるよりも、全て話さしてからのほうが追い込むのは容易いから。
《ならば聞こう。何故人は種を滅ぼす、共に生きるのだろう? 何故人は種を保護する、共に生きるからか?》
「そ、それは……。滅ぼすのは分からない、けど、保護するのは守らなくちゃいけないから」
“雷祇の頭では、それが限界かのう”
《やはり愚かなり神の子よ、答えは簡単なのだがな。人が滅ぼす種、それは人を傷つけ、人に害をなし、人が必要と思わない事。ただそれだけの理由で人は種を滅ぼす。逆に守る種は、人が判断し、大事だと決めつけ、人が守らなければ滅び行く種を守る。この星が、この自然が創り出した世界で唯一矛盾を繰り返す人という種族。自然の中で滅び行く種は、守らねばならぬだと? おかしいとは思わんのか、その自らの言葉が。貴様は分からんか、もう自然では生きていく事が出来なくなったという事がどういうことか? それは、人の下で飼われるしかなくなったという事だ。数を増やした処で、本来なら自然では生きていく術を失った者達だぞ。それがどうやって自然で生きていくというのだ? その逆、人が手を出さねば滅びることがなかった種がどれほどいると思う? 貴様ら人の犯した罪のせいで、この星の均衡がどれほど崩れたと思う? もう手を付けられんほどに崩れてしまった。我は人との対話を望んだ身ではあるが、それも今となっては虚しさしか残らん。挙句の果てには、自分達人が攻撃されれば、何故だと問う。あまりにもくだらなき人よ。だから我々話獣が人の天敵となり、愚かな種族を滅ぼそうというのだ》
「違う、違う違う、そこまで人は愚かじゃない! 人は―」
終演は雷祇をそういう場面には近づけないようにしていた。情緒不安定にはしたくなかったから。ただ今は、少しの後悔が芽生えていた。免疫があまりにもなさ過ぎる、脆い雷祇の心に。
「雷祇、もう止せ。無駄じゃ」
「どうして!」
「その通りだからじゃよ。ワシの知っている人という生物は、話獣の言うとおりの種族じゃからじゃよ」
信じている人の言葉で崩された自分の知っている世界。不安、混乱、そんな言葉では言い表せない心の動きが、雷祇の顔を変えていく。
「そんな―」
《そういうことだ。小僧とは言っても、少しは世界が見えている者もいるのだな。だが、だからといって滅ぼさん理由にはならん。そして今日から我は動き出すのだ。最も危険だと感じる貴様を殺した後に、愚かなる人類を滅ぼす事を!!》
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震える足に釣られて、川原の石達も恐怖のダンスを踊る。震えは足に止まらず全身へと伝わり、雷祇の体に纏わり付く空気さえ迫り来る話獣に怯え、風を作って遠ざかる。
“か、体は、言う事を聞かない。なら、耐えるし、か、ないんだ”
その言葉で落ち着いたのは心だけ。体は逃げ出すことも出来ずに、構える雷命に縋り付く事しか出来ていない。巻き起こる風に木々は体を反らし、踏み出す足に潰され砕け散る石達。川の流れは走る話獣に逆らえず、流れを逆流さして敬意を示している。
《我の一撃を受けるというのか。良かろう、力の差を思い知るがいい!》
そうしてる間に雷祇と話獣の距離は見る見る縮まり、話獣の踏み込みで川が一瞬無くなると、ただの大粒の雨に変わる。そうして振り上げられた爪は、ただの人の形をした石のように固まる雷祇の体を引き裂く事を命じられ、行動に移す。
“耐え、るんだ”
その心の言葉に石のようだった体が動き出し、話獣の爪を耐えるべく体を庇うように雷命を持っていく。
《無駄だ!》
その言葉どおり、力を込めた話獣の攻撃を雷祇が耐え切れるはずも無く、木々を薙ぎ倒しながら、雷祇の体は吸い込まれるように森の奥に消えていった。
“なんてことじゃ。雷祇、お前さんは―”
どうする事も出来なく、薙ぎ倒される木々が雷祇の体が健在だと終演に教えている。それで出来た道を、ただ呆然と見つめている終演の目に、その道の奥に向かう話獣の姿が映った。
「話獣よ! 何処に行くつもりじゃ!」
《無論、止めを刺しに行くのだ。もし死んでいるのならば、それを確かめに》
巨大な石の柱が1つ消えてなくなり、岩山と化したその下に雷祇は埋まっていた。
“人は、一体なんなんだろう?
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何のために生きているのかな?
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何で争うんだろ?
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どうして、どうして身勝手なんだろう?
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なぜ自分たちのことしか、考えられないのかな?
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人は―”
“関係ねぇよ、お前にはな”
“? 誰? 君は、誰?”
“俺か? 俺は俺だ。お前は、俺だ”
“?”
“いいんだよ、お前は何も考えなくて。それに、人間なんざ関係ねぇんだよ。俺達はもう、人間じゃねぇんだし。まぁ、お前は俺の器としたら上出来だったさ。そこだけは褒めてやるよ”
“僕が、人じゃない?”
“そうだ。お前は、人間じゃねぇ”
“違う! 僕は―”
“バケモンだ。化け物の方が言われ慣れてるか?”
“え……”
“そうか、お前はあのゴミに育てられたんだったな。何も知らねぇ訳だ。お前、存在理由考えた事あるか? まあそれは、俺の器だけどな。俺の存在意義を知っっちまったら、お前多分自殺するだろうな。なぜ俺が化け物にならなきゃいけなかったのか、とかな”
“僕が……化け物”
“そう。お前は人の形をした、この俺の器にしてこの地上で唯一許された捕食者。何者でも狩れる力を与えられた、化け物だ”
“ち、違う、僕は…………”
“俺だ”
佇む話獣の前には、岩山と化した石の柱があった。それを前にして、体が膨らみそうなほど大きく息を吸い込む。その空気を体の中で圧縮すると、小さな塊にして岩山に撃ち込んだ。丁度その時だった、岩山の中から幾つもの雷と激怒にも似た笑いが森を襲ったのは。
“な、何なのだ?”
それを避けるために、話獣は後退りを余儀なくされる。
「はぁぁぁぁぁあ!! やっとだ! やっと出られた!! 糞長かった! この俺に対してやった事、あのゴミに知らしめてくれる! 殺すなんて生易しい事じゃ、この俺の気が晴れねぇ!! さぁ、苦しめ方を考えるとするか」
そこに居たのは、先程話獣が吹き飛ばした人間ではなくなっていた。人間の髪と目は黒だと決まっているにも拘らず、今目の前に居る人間は金色に輝く目と髪をしている。雰囲気が変わった所ではなく、目も鼻も口も、顔を作る全てのパーツが抜き取られ、別の人間の物がそこには埋め込まれていた。輪郭、肌の色、背格好も変わっており、そこには完全の別人しかいない。
「まあ、その前に準備運動も悪くないか」
岩山を一瞬にして砂に変えた雷を鎧のように纏っていたが、それを消して話獣に向き直った。
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《先程の人間ではないな。一体貴様は、何者なのだ》
上着を脱ぎ、雷命の鞘に巻きつけながら人間は答えた。
「まあ、違うといえば違うが、違わないといえば違わなねぇんだな。もう奴はいなくなっただろうが、簡単な話、僕が俺になたくらいだ」
《どういう意味だ?》
「お前が深く知る必要なんざねぇよ。ただこの俺を楽しませればいい。随分と久しぶりなんだからよ、俺の体に血を感じさせてくれ。お前の血を、全身に浴びさしてもらうぞ。俺の体を傷つけたのはそれで許してやるよ」
それは話獣を驚かせた。言葉が耳に辿り着くのと、人間の剣が話獣に届くのとが同時だったから。
ガキィィィイイ!!
「いいね」
稲妻のような速さで斬りかかった剣は、顔を覆った鬣に弾かれる。弾かれた時に出来る確実な隙を直感で読み取り、草むらの中から突然現れるように鬣を掻き分けて話獣は噛み掛かった。が、その攻撃で砕く事が出来たのは、主人から遅れた人間の影だけ。人間はすでに稲妻の如き速さで動き、話獣と距離を取っていた。
《小僧、やはり貴様は別人のようだな。先の小僧をどこにやった?》
次の攻撃を仕掛けようとしていた人間の動きが止まる。つまらない事を言うなと直接口で言う事はなかったが、そんな表情を顔に作って。
「はぁ〜、んな事より、今のが本気か? 防御の反応はいいが、攻撃が鈍すぎる。それじゃ当たりもしねぇし、すぐに殺すぞ。楽しみたいんだ、頼むぜ」
全てが別の物に変わっている人間。話獣は何とも不思議な、言い知れぬ感情の芽生えた心を読み取られぬよう慎重に、踏み出した場所を確認するように言葉を選ぶ。
《やはり別人だな。森が我以外に怯えている姿など始めてみる》
「そりゃどうも」
《貴様は小さい事には拘らんようだな》
「あぁ」
《そうか、ならば我も拘るのは止そう。だが我の力を見くびるのは浅はかぞ。まだ本気なぞ、到底出してはおらぬ。今から見せる本気の姿、その小さな眼に焼き付けるがよい》
表情が明らかに変わる。迫る誕生日を待つ子供の表情に、その時のプレゼントを想像する顔に。
「何だ、それならそれと初めから言ってくれ。これからが本番なんだな」
《無論だ。我は獣の頂点に立つ事を定められた身ぞ》
そうして上げる雄たけびは遠吠えとは違う、進化の苦痛を耐えるために漏れる呻き声。
「ほぉ、翼か」
背中の皮膚を突き破り、少しずつ形作られる骨だけの翼。その骨に、添え木を伝う蔦植物のように伸びる細胞が、徐々に血を通わせていく。皮膚のない肉だけの翼を苦しそうに羽ばたかせると、血肉が飛び散り辺りは生き物の腐った肉の臭いが立ち込める。
「おいおい、これ腐ってるじゃねぇか。ったく、期待させんなよな」
飛んできた肉を地面に放り投げると、また稲妻のように素早く動き話獣に斬りかかる。雷命が話獣を捉える。その瞬間に話獣と目が合い、人間が不思議に思う。その目には自身が満ち溢れているから。
バサァ!!
腐っていたはずの肉の翼を、春の日差しに照らされ一気に芽吹く草花のように毛が覆いつくしていく。そして、雷命が捉えたはずの話獣の巨体が、一瞬にして夜の空に駆け上がった。
その姿を、空振りした勢いに負けて、思わずしてしまった尻餅の格好のまま見上げた。
「なんだ、飛べるのかよ。そんじゃ、今からがスタートだな。さあ、俺を存分に楽しませてくれよ」
夜空に突然現れた影は、先程まで地を駆けていたはずの話獣の物。しかし今は、夜空を駆け上がる姿に変わっている。あまりの突然の事に、終演は理解できる状態ではなかった。
「なんなんじゃ。あれは、さっきの話獣なんじゃよな……」
呆気にとられた。が、その混乱が導き出す答えを、終演は1つしか持っていなかった。
“力を使いおったな。まさか、飲み込まれては、あ奴が現れてはおらんだろうな……”
「いい加減、下りてきてくれねぇか! ったく、何やってんだ。これじゃ戦えやしねぇ」
話獣が開けた葉の海の大穴。そこから流れ込んでくる夜の匂いで、腐臭は薄くなる。夜空を駆け上がった話獣の姿を目で捉える事が出来ない人間は、尻餅をついた時に離してしまった鞘を手に取り立ち上がる。
「おいおい、無視かよ。今の状態じゃ、流石の俺も飛べねぇし、待つしかねぇか」
その声を月の影に入り、森の大海原を見つめて聞いていた話獣。
《この星は我が守ってみせる。地上に蔓延る薄汚れた人間どもを一掃して。そのためにはまず、あの人間を殺さねばならん。力、得体の知れぬ力を持つ人間を》
“来るか!”
見上げる空。そこから落ちてくるのは、話獣の放つ威圧感。人間は話獣の姿が見えるのを、今か今かと待ち構える。
“月の中から来るか。面しろ、何だ?”
話獣の姿が月の中から微かに見える。その徐々に大きくなる話獣の姿、捉えたはずの話獣の姿が少し震えているかと思うと、その震えが広がっていき月をも飲み込む。
“風!”
人間は足に雷を通わせると、話獣の放った風の弾丸を穴から森の中に移った事でかわす。その風の弾丸をかわした瞬間、森を包む朝霧のような砂埃が一瞬にして木々の間まで行き渡り、透明な空気を土色に染めて視界を奪う。
“何も見え、!”
その砂埃が、空から駆け下りてきた話獣によって押し潰され、また土へと一瞬にして返る。その時舞い上がった風に、人間は体の自由を奪われる。話獣が勢いそのまま地面に到達した時に、森の木々が捲れあがる土に飲み込まれ薙ぎ倒される。その木々の中に、風に自由を奪われる人間の姿を見つけた話獣が、風が止む前に羽ばたき人間に向かう。
「チィ!」
風に縛られた体に雷を通わせる。話獣は動き出す前に切りかかろうと、爪を振り上げる。そして振り下ろされた爪は、人間の右肩を掠めた。
《死ね!!》
爪の攻撃を避けた人間だったが、それ程大きく動けずに話獣の噛み付く範囲を脱してはいなかった。
「甘ぇよ!」
話獣の大きく開けた口が一瞬にして閉じられる。なぜなら人間は自由になっており、雷命で斬りかかっていたから。
“攻撃を受けるわけにはいかん! 何をされるか―”
話獣の考えどおり、人間の攻撃は鬣が弾いてダメージにはならなかった。ただ、
“笑顔?”
鬣の隙間から見える人間の顔には、見下すような笑顔が。
「何度も同じ行動を、俺が破れんとでも思ってるのか?」
人間は、両手で持っていた雷命から片手を離して鬣に触れる。
「神の雷だ」
その掌から放たれた雷が、話獣が人間から離れる前に体を包んで筋肉を麻痺させる。
《グァッン》
「よく頑張った、褒めてやるよ!」
鬣が力なく崩れ落ちる体に遅れをとる。バサバサと揺れる鬣の隙間に見える話獣の目が、気を失ったのだと人間に教える。その顔目掛けて、雷命を両手で持ち突き刺しにかかる。
「遅ぇんだよ!」
崩れ落ちるだけの話獣。そのはずなのに目には光が戻り、だらしなく開いた牙を噛み締める。だがその話獣に、容赦なく雷命は突きつけられる。
《グォゥオゥ!》
雷命が貫いたのは、話獣の左目。その目を抉り出そうと人間が力を込めた瞬間、噛み締めた牙を少し開き、体の中で密度を高めた風の弾丸を放つ。その弾丸が牙の隙間に当たり拡散すると、散弾になって人間の体を襲う。
「がはっ」
その散弾は人間の腹に全て命中し、人間は風と同じスピードで吹き飛ばされていく。その衝撃で話獣の左目から雷命が抜かれて血が噴出すが、話獣は関係なく人間を追いかける。
「やってくれるな!」
吹き飛ばされていた人間だったが、体から雷を放つとバランスを立て直し地面に手を着き、吹き飛ばされていたスピードよりもさらに早く、稲妻のような速さで話獣に迫る。人間の姿を確認できなかった話獣だが、人間を吹き飛ばした方から一瞬光が走ったのが分かり、勢いを緩める。
「だから遅ぇんだよ」
その声は、話獣の背中越しから聞こえてきた。木に掴まって止まった人間は、その木を蹴り話獣の背中に斬りかかる。
《無駄だ!》
完全に防御など間に合わないタイミング。それにも拘らず、話獣はそう吠える。
「何が無駄な、!」
もう少しで話獣の背中には雷命が突き立てられるはずだった。しかし、人間の体は伸びた鬣に捕らえられ自由を奪われる。
「こんな使い方、ありかよ!」
獅子が舞う踊りのように、見上げた顔を一気に振り乱す。それに呼応して、伸びた鬣が捕らえた人間を地面に叩きつける。その鬣を解くと、地面に埋まるようにめり込んだ人間の上に行き、後ろの二本の足で立ち上がると体を踏み潰そうと、体重を掛けて両の前足で踏みつけようとした。話獣の体重が一気に掛かった地面が、波紋が広がるように地面を波立たせる。
“感触がな―”
話獣が人を潰せた感触がないのに気づいたその瞬間、下顎に激痛が走った次に上顎にも激痛が走り、話獣の目に顎から伸びる雷命が映る。
「この口、このまま塞いで―」
話獣は鬣を伸ばし、人間をそのままの格好で縛ると、木や地面、岩などに狂ったように下顎を打ち付けて飛び回る。
“こいつ、俺をこのまま殺すつもりか。バカにも程が、!”
話獣はその間にも、鬣を伸ばして全身を締め上げていく。その攻撃で最も人間を苦しめたのが首に巻きついた鬣。この攻撃の後、人間は雷を放てないまま、木や岩に無防備に打ち続けられた。
ズガガガガン!!!
終演の耳に届く、森の悲鳴のような轟音。何が行われているかは分からなかったが、話獣と雷祇の戦いであろう事だけは分かった。
“雷祇……”
錆び付いて動かなくなったブリキ人形。正に今終演にお似合いの言葉であるが、軋む体を無理矢理立ち上がらせると、音のする方に向かって歩き出す。
“雷祇。死ぬんでないぞ、雷祇よ”
荒れ狂う獅子の踊りは、夜明けと共に終わりを告げる。
《もう良かろう……》
鬣を人間から解くと、動かしすぎて大きくなった顎の穴から雷命が抜け、人間が力なく地面に落ちる。
《少々やり過ぎたか……。ここまでやると、再生するまでに―》
話獣が振り返り見た森は、竜巻が通った後のように木や石が砕けて散乱していた。
ブシュウ!
それは、その森を確認した時だった。不意の激痛に襲われたかと思うと、斬られた片耳が目に入ったのは。
《小僧!!》
振り返り見たものは、人間の足の太さほどある木を、腹から抜き取る所。
「イテェな〜。もう少し加減しろよ。下手したら死ぬだろうが、って殺すつもりだったんだな。悪いがこの程度じゃ死なねぇよ、俺は特別だからな」
そう言うと、鞘から服を外し着始める。その言葉、行動には余裕しか感じない。そしてこの時、話獣の心の中に芽生えた物が花をつけた。
“昨日とは違う、だが我が感じたことがなかったこの感覚。この小僧から滲み出る、我の心が震えさす、怯えさせる威圧感。この小僧はここで殺すべきだ! いや殺さねばならん!!”
話獣は雄たけびを上げると羽ばたき、人間に向かって飛び掛かる。
「いい加減、違う攻撃をしろよ」
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ギシギシと軋む音が終演の耳には聞こえているのだろう。ケルベロスを杖にして、足を引きずりながら2人が森に造り出した道を通っていた。
“さすがに…無理じゃろうな……”
夜が薄い朱の色に染まり始めた頃に終演は歩き出したが、今はもう太陽は天高く頭上付近にまで来ていた。そして、辿り着いた道の終わり。そこに広がる光景は、終演が最も望んでいなかったもの。
「よぉ、ゴミ」
返り血を全身に浴び、血の衣を纏った人間。服の上からでも、全身傷だらけだと分かるくらいその人間の体は傷ついていた。しかし、そのことを一切感じさせない笑顔を終演に見せる人間。その人間の奥に顔を半分切り落とされ、前足からは身が無くなり骨となり、片翼をもぎ取られ、腸を取り出された獣が横たわっていた。
「お前が殺ったんか?」
「俺以外誰がいるの? てめぇはさっきまで寝てたんだろ? 雷祇はもういねぇし」
この人間の声を終演は聞いたことがある。
「何年振りじゃ。お前の声を聞くのは?」
「さぁ? 雷祇とてめぇが会った年から聞いてねぇんだろ」
終演は人間を見る事が出来ずにいた。
「何目ぇ逸らしてやがる、こっち見ろや。久々の再会だぜ、祝おうじゃねぇか。それとも何か、俺を見ることも出来ねぇのか?」
「……」
ただただ終演は、黙って俯く。その姿を大体分かっていたらしく、何も言えない終演を見下しながら近づく。
「ねぇ、終演」
この言葉で終演の目の色が変わる。
「お前に終演などと呼ばれた事はない!」
「そんな事言わないでよ終演」
人間の顔が変わっていく。それは見慣れたはずの雷祇の顔。
「僕は毎日終演と呼んでるじゃないか」
「止めんか!」
その言葉と同時にケルベロスを雷祇の顔に向ける。
「どうしたの? 震えてるの? そうか声がいけないんだね。うん! これならいい」
震えるケルベロス。そのケルベロスに触れながら、終演に近づいていき耳元で囁く。
「何時僕が目覚めるか、本当は怖かったんでしょ。怖くて怖くて堪らなかった。そうでしょ? だからいつも、僕を狙ってた。ほら、いつも思ってたことをすればいい、いつも僕にしていたことをすればいい。この大砲で僕を殺すといい。だってもう、雷祇はいないんだから」
「!! やめんか。そんなことは―」
バサァ!
その時、死んだと思われていた話獣が巨体を起こす。
「ふん。まだ生きてるか。しぶとい奴だ」
「寝ていればいいものを」
死神の足音がすぐそこにまで話獣の耳に届いているだろう。起こした体からは、もうすでに血は出ていない。そんな体で、話獣は人間を睨みつける。
《人間、よ……。この身…果てようとも……貴様は葬る。人な、らざる者よ、化け物、よ》
“人……ならざる…者………。化け物……” 「チィ! まだ居やがったか!」
頭を振り、苦しむ人間は膝を付く。
“さっきの言葉に、反応しておるのか?”
《我、は、このまま、死ぬ訳には、いかん! 貴様も、貴、様! 死の、道連れに、してくれるわ!!》
片翼しかない翼を羽ばたかせ、人間に向かい話獣は死の特攻をする。
「ゴミ、まだこの体、俺だけの物じゃ、ねぇ。だがいつか、俺だけの物に、してやる!」
崩れ落ちる。その雷祇の姿を見た終演は、話獣の攻撃の盾になる事を望むかのように、雷祇の前に立ちはだかった。意識を取り戻した雷祇は理解できない状況だったが、現状がとてつもないピンチに置かれている事はすぐに分かった。
「しゅ、終演。はぁ、逃げて、逃げて終演!!」