序章 そして物語は動き出す
はぁ、はぁ、はぁ……
“逃げなくちゃ! 逃げなくちゃ!! ここまできて捕まりたくなんかない!!”
窓がなく、今が昼か夜かも分からない。照らす明かりは薄暗く、浮かび上がらせるのは冷たい鉄で覆われた廊下。その廊下に響く、切らせた息と裸足で走る音。その音の主は服を着ておらず、髪を振り乱し、涙と鼻水が出ていても関係なく、ただ一心不乱に前だけを見て走り続けている。もう二度と‘あんな場所’には戻りたくないという思いだけで。
「いたぞ!! No,001はこっちだ!!」
「なんとしても捕まえるんだ! 足くらい撃っても平気だ! こいつらは所詮人間じゃないんだからな」
「そうだ! 見た目はそうでも中身は‘化け物’なんだ!」
後ろから聞こえてくるそんな声を置き去りにして、小さな体は風のように走り続けた。幾つもの分かれ道を、自分の勘だけを頼り曲がる。その選択が正しいのか、それとも間違っているか、考える事などなくただ只管に。その小さな体が止まった時、そこには扉があった。冷たい廊下と同じ鉄で出来た大きな扉。逃げ出してから幾つも目にし、取っ手に手を掛けては、開かない事に絶望した扉。普通の呼吸の仕方を忘れたように乱れた息に、止まっていると今にも倒れてしまいそうなくらい小さな体は震えに襲われていた。そんな状態の中で、深く考える余裕など生まれるはずもなく、ただ開くことだけを願い、その小さな体には大きな、自分の顔ほどある大きな取っ手に手を掛けた。
ガチャン
願いはした。震える手に精一杯の力と願いを込めて扉に手を掛けたが、まさか開くとは思っておらず、戸惑いが息をするのを忘れさせた。まだ扉は少ししか開いておらず、その隙間から差し込む光は小さかった。自分の心と体を落ち着かせるように、小さな体が大きく息を吸い込む。ゆっくりと、気持ちを鎮めるようにゆっくりと、昂ってゆく気持ちを押さえつけるようにゆっくりと扉を開けていく。そして、その扉を開ききった先に広がった光景それは
あまりにも眩しく
あまりにも心地よく
そしてあまりにも絶望的な景色
“一体どれくらいの高さなんだろう? 自分を40人以上並べても、とてもじゃないが足りないな”
目に映る、あまりにも広く、遥か遠くまで続く水溜り。いつもとは違うベトつく風が体を撫でて、いつもとは違う人が作り出せない日の光を浴び、こんな日が来るとは思ってもいなかったのだろう、先程までとは違う意味での涙が頬に流れた。
“あぁ、これが海なのかな”
そう心の中で思っっていた。
「無駄だ、諦めろ」
日に照らされて温まりだした体をその言葉が切り裂き、血と共に体を冷えて凍らせる。凍りついた顔のまま慌てて振り返った先に、先程追いかけてきていた3人組みが、肩で息をしながら睨みつけていた。
「そんな怯えた顔するな」
一番前にいる男が、息を整えながら話しかける。
「お前も、習っただろう? た、高い所から落ちれば、死ぬってこと。それに、この島の周り、は、岩だらけだ。お前なら、この高さから岩に、直撃しても即死はないんだぞ。苦しんで苦しんで、誰もいない海に沈んで、一人寂しく死ぬ。そんなの嫌だろ? だからおいで。‘みんな’待ってる。心配する事なんて無い。怒られて、少しお仕置きをされるだけだ。それが済んだら、いつもと変わらない生活が待ってる」
「さぁ」 「さぁ!」 「さぁ!!」
3人の男が、長く太い手を伸ばし、小さな体を捕まえようと詰め寄る。
けれど、ここの秘密を知ってしまっていた。単なる‘お仕置き’で済むはずがない事。
それに知ってしまった。世界は、目の前に広がる世界はとても青く、果てしなく広い事を。
「嫌だ!! あんな暗い青空しかない部屋になんか、もう2度と戻りたくない!! 僕はもう、自由なんだから」
その言葉と共に振り返り、小さな体を自由へと向けて飛び出させた。
「おい嘘だろ!」 「バカ止め!!」 「!!」
“あぁ、鳥ってこんな感じなんだろうか? いや、違うかな。鳥はもっと自由に空を飛べるんだろうな。僕のは、ただ落ちてるだけ、か……。でも、それでもいいや。だって、こんなに気持ちいいんだもん。最後にこんなに気持ち良くなれたんだから、うれ”
ぐしゃ!!
「マジかよ……。あのガキ、ほんとに飛びやがった」
「だからここの鍵も閉めとくべきだって、前に言ったろ?」
「なんだよ。てめぇだって、言っただけで気づいてたのに、結局は閉めてないんだろうが」
「そ、それはそうだが……。けど、お前が―」
「ウルサイ! 少し黙れ」
一番前にいた男のその言葉と睨みで、2人は言い争うのを止めた。
「で、でも……」
「俺達が撃った弾みに落ちた。報告ではそういうことにしておくぞ。いいな! いいな!!」
「あ、あぁ。分かった……」
2人揃ってそう答えた。
「奴等は化け物だ。死んだって関係ない。ただ、体がなきゃ流石の化け物でも不味い。海に流される前に、さっさと回収に行くぞ」
2人の男は走って向かっていた。小さな化け物の体を掴み損ね、代わりに手に残った数本の髪を海に投げ捨てて、一番前にいた男が2人に遅れて死体の回収に向かった。