第6話:まきまき教授の診察室
「だ、大丈夫ですか!?」
廊下に、僕の裏返った声が響いた。
研究棟の夜は、昼よりもずっと“音が大きい”。換気扇の低い唸り、蛍光灯の微かな電気鳴り、遠くの自販機が冷える音。
その無機質な静けさの真ん中で――白衣の人影が、床に倒れていた。
心臓が跳ね上がり、頭が真っ白になる。
殺人現場? 事故? 僕が、どうにかしなきゃ?
思考が空回りして、足だけがその場で固まった。
助けを求めるように凛さんを見ると、彼女は驚くほど冷静で、深くため息をついただけだった。
「り、りりり、りりりん! りんりん!!」
「あたしは“りんりん”なんて名前じゃないし。……慌てすぎ。大丈夫、ただの酔っ払い」
「……よ、酔っ払い?」
僕は即座に倒れている女性へ視線を戻す。
血の匂いはない。床も濡れていない。
そして今さら気づく。さっきまで研究室特有の薬品臭だと思っていた匂い――これ、違う。
アルコールの匂いだ。近い。近すぎる。
「た、たすけ……みずぅ……あと酒……」
「これ以上飲んでどうすんのよ。また吐くぞ、酔っ払い」
凛さんは横たわる女性の元へつかつかと歩き、慣れた手つきで襟首を掴むと、ぐいっと持ち上げた。
そのまま近くの椅子へ座らせ、コンビニ袋からスポドリを取り出し、容赦なく口元へ。
「ごめんね祈里君。……これが件の教授」
「……えっ、これが?」
失礼ながら、目の前の人物が“有名な教授”には見えない。
白衣こそ着ているものの、髪は水色のグラデーションで、少女みたいに細く柔らかい。頭頂にはぴょん、と跳ねたアホ毛が一本。
両脇に流れる細いツインテールが揺れ、金色の切れ長な瞳がやけに印象に残る。
黒のハイネックノースリーブ。丈が短いのか、白いお腹が覗いていて――
教授どころか、深夜のクラブ帰りの人に見える。
僕の顔に「本当に?」と書いてあったらしく、凛さんが渋い顔で言った。
「……すまない。本当に間違いなく――いや、疑いようはあるけど教授なんだ」
「ちょ~っと~、なぁにそれ、ひどくな~いぃ?」
教授(?)は凛さんのスポドリを手で払おうとして、逆にむせた。
凛さんはすかさず教授の頬をわしづかみにして、強制的にスポドリを突っ込む。
「ぐっ……ごぽっ、ぶっ、ぐぼぼ……!」
「包帯薪教授だ。……名前は真希。だから“まきまき”。覚えろ」
まきまき教授は半分溺れかけながらも、目だけはギロリと動いた。
「これでもダンジョン研究の第一人者で、ギフトについてこの人以上に詳しい人はいない」
「……あの、凛さん。教授、息してます……?」
「……あ」
凛さんがようやく、腕の中の教授がぐったりしているのに気づく。
慌てて肩を揺すり、頬をぺちぺち叩くと――
「ハッ!? あたしはいったい、にゃにをぉ……?」
復活した。早い。しぶとい。さすが教授(?)。
そして次の瞬間、まきまき教授の視線が僕に突き刺さった。
じろ、と舐めるように僕を見たあと、にこっと笑う。
「どもぉ! 君が祈里君だよねぇ! あたしのことは“まきまき”って呼んでねぇ!」
「は、はい……初めまして、鈴木祈里です。どうして僕の名前を……」
「昨夜ぁ? っていうか今日の午前一時くらいかなぁ。凛君からメールが来てね。状況は把握させてもらってるよぉ」
そう言うと教授は、作業デスクの紙束をひょいと掴み、目で追い始めた。
――速い。速すぎる。目線が右から左へ、機械みたいに往復する。
「よし。とりま凛君、邪魔だし出てって~」
「はっ? いや、どうし――」
「秋元先生が“前のデータ解析終わったから早く取りに来い”って怒ってたよぉ」
「うげっ……忘れてた……!」
凛さんが本気で嫌そうな顔をした。
そして僕に向き直り、早口で言う。
「ごめん祈里君、すぐ戻るから。変なことされたら――本気でぶん殴っていいから!」
「えっ、ちょ……!?」
止める間もなく、凛さんは小走りで研究室を出ていってしまった。
狭い空間に、僕と教授だけが残る。
蛍光灯の白い光が、やけに冷たい。
僕の喉が、こくり、と鳴った。
「……そいじゃあ、検査始めよっかぁ」
まきまき教授は椅子に座ったまま、僕へ手招きする。
え、僕? と自分を指さすと、
「そうだよぉ。祈里君以外いないでしょお。ほら、はよはよぉ」
「は、はい……」
近づくと、酒の匂いがさらに濃くなる。
教授は足で椅子を引っかけて僕の前へ滑らせ、「座れ」と顎をしゃくった。
促されるまま座る。
目線が少し上から落ちてくる。――僕、ほんとに小さくなったんだな、と今さら実感して、胸がきゅっとなる。
「それじゃあ! これ! おねあい!!」
「……へ?」
教授が差し出してきたのは、床に直置きされた焼酎の一升瓶だった。
うりうり、と押し付けてくる一方、教授は机の上のガラスコップを手に取る。
「……あの、これをどうすれば……」
「おいおーい。凛君はどんな教育をしてるんだね。年長者がコップ持ってるってことはぁ――お酌が社会のどおりさぁ」
だめだ。
この人、完全に酔っ払ってる。
僕は諦めて瓶の蓋を取り、こぽこぽと注いだ。
――重い。想像よりずっと。途中で手元がぶれて、教授の白衣の袖に少しかかってしまう。
「ご、ごめんなさい!」
「いいっで、いいでぇ……ていうかぁ、“まきまき”ね、まきまきぃ」
「は、はい。……まきまき」
そこからは地獄だった。
距離が近い。息が酒。肩を抱かれる。胸を揉まれる。腕に絡まれる。キスをせがまれる。
僕の耳元で、研究者とは思えない軽口が飛んでくる。
笑い話にできるレベルの“絡み”ではあるけど、僕の精神は確実に削られていった。
(まずい……このままだと僕の大事な“何か”が……!)
逃げなきゃ。早急に。
必死に頭を回した僕は、ひらめく。
「そ、そうだ! まきまき!」
「ん? なぁに?」
「僕、トイレ行ってきます!」
「先生はトレイじゃありません!!」
「誰もそんなこと言ってません!!」
通じない。会話が成立しない。
教授は僕の腕にぎゅっと抱きつき、さらに力を込めて拘束してくる。
(詰んだ……)
そう完全に諦めかけた瞬間。
がちゃり、と扉が開いた。
凛さんが戻ってきた。
「り、凛さん!!」
「ただいま祈里君。変なことは――」
凛さんと教授の目が合った。
次の瞬間、まきまき教授の目が見開かれた。
汗が、ものすごい勢いで噴き出しているのが、抱きつかれている僕だからこそ分かる。
(殴られる……そう覚悟したんだ)
教授は顔の距離を変えないまま、超早口で僕の耳に囁いた。
「ご、ごめんごめんごめん!! まじでごめん!! 祈里君、いや祈里様!! ここから真面目に診断する!! だからお願い、話合わせて!! 後生だから!!」
必死すぎる。
……まあ、僕も、こう……距離が近いせいでおっぱ――いや胸筋の感触を、ほんの一瞬だけ……
うん。ほんの一瞬だけ。
「ちょっと腕周りの筋肉と関節を、包帯薪教授に触診してもらってました!!」
僕は嘘をついた。自ら進んで。
教授の目に光が灯る。
「そ、そうなんだよねぇ! ギフトの影響で筋肉量や骨格が変わることもあるからさ! ね? あはははは!!」
「そ、そうなんですね! あはははは……!」
「……まぁ祈里君がそう言うなら信じるけど。教授、セクハラはやめてください。祈里君、まだ高校生なんですから」
「わ、分かってるよぉ……」
なんとか、凛さんは納得した――ように見えた。
でも僕の心はちくちく痛む。
(僕、まだ“純粋枠”で行きたいんだ……)
しかし凛さんの目は細く、怖い。
「まあ真面目にさぁ、ある程度は分かった。ていうか信じることにしたね」
「……信じる?」
不穏なワードだったせいで、妙に耳に残り、復唱してしまう。
「そ! 正直、祈里君が嘘ついてる可能性も全然ありえるからねぇ!」
「そんな嘘なんて……!」
「嘘じゃなくても……記憶の混濁とか、“そう思い込んでる”可能性は捨てきれないだろぉ?」
確かにそうだ。
もしかしたら僕は最初から美少女で、男子高校生だったという記憶が誤った記憶の可能性である可能性も――いや待って、可能性が多すぎる。
「でもねぇ、いくつか“矛盾しない根拠”がある」
まきまき教授は指を一本立てる。さっきまでの酔いが嘘みたいに、目だけが妙に冴えていた。
「まず、凛君から来た状況報告と、行政側の照合。名前、年齢、学校、家族構成――そこは一致してる」
「……」
「次に、身体。さっきお酒注いだ時さぁ、あれとか、とぉくに分かりやすかったんだけど……体の使い方が変っていうか、慣れてないんだよね」
「慣れてない……?」
「うん。肩と手首。重心の預け方。まるで“自分の体じゃない”って感じ。宇宙にいた人が地球に戻ってきたみたいなさ」
……言われてみれば。
歩き方も、視界の高さも、指先の距離感も、全部が微妙にズレていて。僕はずっと、借り物の身体を扱ってるみたいだった。
「だから、君の言ってることは“信じるに値する”。情報にも大きな相違がない。そういう意味で、信じることにした」
「……驚きました。ちゃんと調べてたんですね。ただのダルがらみだと思ってました!」
「ふふぅん! これでも教授だよぉ。舐めないでもらいたい!」
「舐める……」
そこで、僕の中で変な点と点が繋がってしまった。
さっきの距離の近さ。やけに顔を寄せてきたこと。呼吸の確認みたいな仕草。
もしかして――もしかして、あれも“検査”の一部だったんじゃ……?
「……もしかして、さっきからしようとしてたキ――」
「は?」
まきまき教授の声が、素に戻る。
「……キ?」
「……キス……」
墓穴を掘った。
凛さんのどすの効いた声が、狭い研究室に地鳴りみたいに響いた。
「……そっかぁ。白状しろ。お前ら」
「「は、はいぃ……」」
そのあと、まきまき教授はめちゃくちゃ怒られた。
ついでに僕も怒られた。「なんで嘘ついたの」って。
理不尽だ。
……それはさておき。
説教が終わると、まきまき教授はすっと立ち上がった。
さっきまでの酔いの揺らぎが、嘘みたいに消える。
「――そいじゃあ、真面目な話に戻そっかぁ」
教授の目に、焦点が合った。
空気が変わる。
凛さんでさえ言葉を飲み込むほどに。
「まず結論。祈里君が“鈴木祈里”であることは、ほぼ確定。身元照合、住民票、学校の在籍、保護者連絡――各種手続きは、あたしの方で動かしとく。数日で元の高校生活に戻れると思うよ」
胸の奥に詰まっていたものが、すっとほどけた。
――よかった。よかった、のはずだ。
「ただ、肝心な点が一つ。祈里君のギフトが、どの神格経由なのか……それが分からない」
「……えっ。ギフトって、神様からもらったもの、なんですか? どの神様って……」
「ギフトはね、ほんとに“神様の力”だよ。神様の実在がどうとかは分かんない。でも現象としてそう。覆しようがない」
教授は指を折る。
「今まで報告されてるのは、基本ギリシア神話圏の神格。アテナ、ポセイドン、アレス……そういうの」
「……それが分からないと、なにか不都合が?」
教授はにこっと笑って、言った。
「うん。わんちゃん死ぬねぇ」
「えっ!? 死ぬ!?」
凛さんが慌てて割って入る。
「教授、脅すみたいに言わないでください。祈里君、最悪の場合の話。最悪の場合」
凛さんは僕の方を見て、落ち着かせるように言った。
「ギフトは“贈り物”。贈り物をもらったら、贈り主にすることは?」
「……感謝、ですか?」
「せいかーいぃ」
教授が会話の主導権を取り戻す。
「神格に祈りを捧げる。供物ってほど大袈裟じゃなくても、感謝の“同調”をする。そうするとギフトが安定する。逆に――」
教授は肩をすくめた。
「贈り主が分からず、誰にも祈らない。感謝が宙ぶらりん。
神様って嫉妬深かったり礼儀にうるさかったりするからねぇ。特に“愛が重い”タイプだと――力の“逆流”が起きることがある」
「……逆流」
「簡単に言うと、神様が“おい、無視すんな”って揺さぶってくる。
ギフトが暴発したり、反動が身体に来たり。下手したら命に関わる」
背中が冷たくなった。
昨日の痛みが、蘇る。
あれ以上のものが、内側から来る……?
教授は、でも優しく言った。
「大事なのは“知る”こと。ギフトは神格の力そのもの。使っていれば、だんだん輪郭が見えてくる。
だから当分は――凛君のダンジョン探索を手伝うといい。というか、もうそういう流れなんでしょ?」
教授は、いたずらっぽく笑った。
「いやぁ若いっていいなぁ。青春だなぁ。……さけさけ」
教授は凛さんのコンビニ袋を漁り、缶チューハイを取り出して、ぷしゅ、と開ける。
ごきゅごきゅと飲み干して、満足げに息を吐いた。
凛さんがこめかみを押さえた。
「……それで、今日の仕事はなんですか」
「うん。今晩、二人にはダンジョンに潜ってもらう」
僕の喉がこくりと鳴った。
昨日のことが、脳裏に焼き付いている。
ドラゴン。死闘。痛み。暗転。
教授は、どこか猫型ロボットみたいなテンションで両手を広げた。
「はい、デン!! 渋谷区二丁目――第2エリア、第4層の調査!!」
「……第4層か」
凛さんの顔が曇った。腕を組み、ぎゅっと力が入る。
「一昨日は第3層までの調査を頼んでたよね。今日はその続き。
解析的に、そろそろこの区画の“底”が近い。だから、踏んでほしい」
「……やっぱり危ないんですよね。昨日みたいに、またドラゴンが――」
一瞬、教授の表情が固まった。
でもすぐに笑って、手をひらひら振る。
「ないない。昨日のレポートは読んだよ。あれは第1エリア。
こっちの第2エリアは構造が狭い。大型が湧きにくい。たぶんねぇ」
“たぶん”。
その一言が、僕の胸をざわつかせた。
凛さんの表情はまだ硬い。
僕はその横顔を見て、息を吸う。
怖い。
でも、凛さんについていくって決めた。相棒になるって決めた。
ここで逃げたら、きっと――僕はまた、自分を嫌いになる。
研究棟を出ると、冬の夜気が頬を刺した。
渋谷の光は派手で、遠くの喧騒が嘘みたいに続いている。
だけど、あの入口の周りだけは、空気が違う。
街の明るさが届かない、暗い“穴”。
凛さんに導かれながら、僕はまたダンジョンへ向かう。
胸の奥のざわめきを抱えたまま。
今夜こそ――僕のギフトの“贈り主”に近づくために。




