第33話:合宿へ向かうバスと、ダンジョン肝試しの話
朝方。まだ日が昇りきらない薄い空の下、僕は学校の前に停まった大型バスの扉の前に立っていた。
吐く息が白く――とまではいかない。でも、肌に触れる空気はちゃんと冷たくて、制服の袖口からじわっと寒さが入り込んでくる。アスファルトは夜の湿り気を残し、タイヤのゴムの匂いが少しだけ鼻についた。
バスの横には、テニスバッグの山。ラケットケースの細長い影が折り重なって、ガットの張り替え直後みたいなナイロンの匂いが混じる。部活の朝って、こういう匂いがするんだ。
今日から鏑木さんのお願いで、四泊五日のテニス部合宿にマネージャーとして同行することになった。
僕の役目は、まず人数確認。チェックシートを手に、名前を目で追う。
(残りは鏑木さんと、部長さんだけ。……何してるんだろ。鏑木さんに限って遅刻は――いや、考えられるな)
ちらりとバスの窓を見る。
中では部員たちが身を乗り出すようにして、こちらをじっと見ていた。視線がまとわりつく感覚。背中の皮膚が、むずっとする。
「ねえ、あれ誰?」
「えっ!? 鈴木……って、D組の?」
「かわいいよねえ。お人形さんみたい」
悪口じゃない。むしろ褒められてる。
なのに、胸の奥がぎゅっと縮む。褒め言葉って、なんでこんなに逃げ道がないんだろう。笑って受け取れたら、きっと楽なのに。
そんな中。
「おっはよう! ずっきー!」
空気を切り裂くみたいに明るい声が飛んできた。
反射でうつむいていた顔を上げると、鏑木さんがそこに立っていた。両手には紙コップ、ジャグ、そして何かよく分からない袋類――とにかく荷物がいっぱい。腕がちぎれそうなのに、顔だけは元気だ。
その横には、もっとすごい荷物の山があって……それを持っている人は、荷物で顔が完全に隠れていた。テニスバッグにボール缶、救急箱っぽい箱まである。これ、マネージャーの荷物じゃなくて、ほぼ部活の生命維持装置だ。
「おはよう、鏑木さん……あと、その人――」
僕の視線に気づいて、鏑木さんが肩越しに振り返る。両手が塞がっているから、口だけで紹介してくれた。
「あっちは部長の恵美先輩。ほら先輩、自己紹介して。例のマネージャー引き受けてくれた子だよ」
荷物の山が「マジ!?」って言って、あわてて左右に揺れる。
そしてそのまま全部を地面に置いた。
隠れていた姿が、露になる。
褐色の肌。黒い髪は短く、前髪は眉より上でぱっつんと切り揃えられている。
丸っこい黒い瞳が、僕を上から下まで一瞬でスキャンした。……うっ、目が合う。
「初めまして! 纒井恵美っす! ずっきー君だよね! よろしくっす!!」
ぴしっと敬礼みたいに手を額に当てて、にかっと笑う。
三年生。テニス部部長。――第一印象が、体育会系の太陽そのものだ。
僕も慌てて頭を下げた。
「はい、鈴木祈里です。五日間の間ですが、どうかよろしくお願いします」
頭を下げた、その瞬間――
ひょこっ、と視界の下から恵美先輩が入り込んできた。
しゃがみ込んで、上目遣い。
「ひあ!?」
自分でも意味が分からない声が出て、反射でのけぞる。
距離が近い。近いっていうか、心の安全圏にいきなり踏み込まれた感じ。僕の女性耐性、ゼロ。僕は知ってる。僕が一番知ってる。
「頭下げるんは、こっち側っすよ。こちらこそ改めて、五日間――お世話になるっす」
恵美先輩はしゃがんだまま、目を閉じて、膝に手を置き、ゆっくり頭を下げた。
さっきまでの勢いから想像できないくらい丁寧で、綺麗な所作だった。なんだろう、ただ明るいだけじゃない。ちゃんと部長なんだ、この人。
「ほら、恵美先輩。もう時間だから急いで」
そう言いながら鏑木さんは、黙々と荷物をバスへ運び始める。
バスの中でも部員たちがバケツリレーみたいに荷物を後ろへ回していって、ボール缶が「カン、カン」と乾いた音を立てた。ラケットケースが肩に当たって、小さく「いてっ」と声が上がる。
僕もチェックシートの恵美先輩と鏑木さんの欄に、急いでチェックを入れる。
「全員揃いました。恵美先輩」
報告すると、恵美先輩は勢いよく立ち上がって、ぐぐっと伸びをした。肩甲骨が鳴りそうな勢い。
「よし! それじゃ出発っすよ! 野郎ども!!」
海賊の出航号令みたいに両手を広げて叫ぶと、バスの中から「お~!」と声が返ってきて、何人もが拳を突き上げた。
その勢いのまま、エンジンが低く唸り、バスはゆっくり動き出す。
――そこから先は、意外なくらい静かだった。
僕は一番前の席。鏑木さんの隣。
通路を挟んだ反対側の席では、恵美先輩が二席を占領して、すでに爆睡していた。さっきの太陽どこいった。寝顔は、普通にかわいい女の子だ。
顧問の先生と運転手さんのやり取りは、全部鏑木さんが捌いている。……どっちが部長なのか、分からなくなる。
(運動部の合宿って、もっと騒がしいものだと思ってたけど……案外、みんな静かなんだな)
朝が早いせいか、眠っている子が多い。起きている子も、スマホをいじるか、隣の席と小声で喋るか。イヤホンの線が揺れるだけ。
車内に漂うのは、柔軟剤と、スポドリと、テーピングテープの匂い。
「まだあと三時間くらいはかかるから、ずっきーも寝てていいよ」
鏑木さんはメモ帳を開き、今日の日程を確認しながら、横目で僕に言う。
優しい。……でも、僕は朝に気合いを入れてコーヒーを三杯、がぶ飲みしてきたせいで、まったく眠くない。心臓だけ元気。
「僕は大丈夫だよ。鏑木さんこそ、何度もあくびしてるけど大丈夫? 仮眠するなら、起こすよ」
鏑木さんがこっちを向く。近くで見ると、目元に薄い隈がある。
「ありがとう。でもね、四日目にある肝試しの件で――合宿所の女将さんと相談しないといけないことが多くてさ。前もってまとめとこうと思って」
そう言って、僕にも見えるようにメモ帳を傾けてくれる。
少し身を乗り出して覗き込むと、ページいっぱいにびっしり文字が詰まっていた。箇条書きの項目も多い。準備の量が、ただごとじゃない。
「実はテニス部の恒例行事で、合宿所の近くにある廃ダンジョンを使って肝試しをやってるの。
テニス部が持ってるチャンネルがあるんだけど、それを使って毎年ダンジョン配信みたいなことしてさ」
……廃ダンジョン。
もうモンスターが湧かなくなった――とされている場所。危険があるとすれば落盤みたいな“物理”くらい。心霊スポットとして扱われることすらある。
……“とされている”。
その部分が、やけに喉に引っ掛かる。
「奥にある祠まで行って、そこで自分の目標を言って帰るの。昔の先輩たちのアーカイブもあるけど、見てみる?」
こくり、と頷く。
鏑木さんがYouTubeを開いて、チャンネルから動画へ飛んだ。限定公開の文字。関係者だけが知ってる、合宿の恒例行事。
動画の中では、暗い通路をライトで照らして、キャーキャー騒ぎながら進む先輩たちが映っていた。
その中に――去年撮ったのだろう、今より少し幼さの残る鏑木さんがいた。声も、表情も、少しだけ柔らかい。
その瞬間、鏑木さんがぱちん、とスマホの電源を落とした。
「ごめん。流石に去年の自分を見られるのは……ちょっと恥ずかしいかも」
頬をぽりぽり掻いて、照れたようにはにかむ。
その表情につられて、僕も少しだけ笑ってしまう。こういう時の鏑木さんは、ちゃんと同級生だ。
「でもよかった。最初ダンジョンって単語を聞いた時はびっくりしたけど……動画を見る限りだと、雰囲気は肝試しって感じだし……」
言いかけて、言葉を選び直す。
「……安全、なんだよね?」
その“安全”を口にした瞬間。
鏑木さんの表情が、ほんの少し曇った。
(……やば。まずいこと言った?)
「安全……のはずなんだけどね。ちょっと怖いの」
鏑木さんは、視線を落とす。声のトーンが、さっきより小さくなる。
「落盤とか、足場とか、そういうのももちろんあるんだけど……一番は――まだ、モンスターがいるかもしれないって思ちゃってさ」
そこで、言葉が一度止まった。
鏑木さんの指が、メモ帳の端をぎゅっと掴む。白くなるほど強く。
「廃ダンジョンって言ってもさ。絶対に“ゼロ”じゃないっていうか……一体くらい、どこかに残ってるかもしれないじゃん。奥の祠の影とか、崩れた瓦礫の下とか」
バスがトンネルに入った。
窓の外の光が消えて、黄色い照明が等間隔に流れていく。
その灯りに照らされた鏑木さんの横顔は、明るいはずなのに、どこか影が濃く見える。
そして――彼女の手が、わずかに震えていた。
ミノスダンジョン。――肝試し感覚で訪れたダンジョンで出会った、非日常の様々な怪物たち。そして現代日本で生活するうえで遭遇することのない、死の恐怖。
“あれ”を見た人にとって、「たぶん大丈夫」は、安心の言葉にならない。
「昨日、ずっきーの配信のアーカイブ――っていうより切り抜き、見つけちゃってさ。無断転載だから、あんまりよくないんだけど……見ちゃって。
あの時のこと、少し思い出しちゃって」
トンネルの壁に、バスの走行音が低く反響する。
眠っている部員たちの呼吸音まで、少しだけ近く感じる。世界が狭くなる。
「だからね。合宿所の女将さんが、元々ダンジョン研究家で有名な人だったって聞いたから……より安全に肝試しができるように相談しようと思って。
危険なこととか、注意した方がいいこととか、質問をリストアップしておいたの」
……強い。
怖いなら中止にすることもできるのに、逃げずに、ちゃんと“安全にする”方向に動いてる。
その姿勢が眩しくて、僕は思わず、口を開いた。
「その……一応僕も、ダンジョン配信者だからさ。多少は、気を付けた方がいいこととか分かるよ」
僕程度で“配信者”を名乗るのは、正直、恥ずかしい。凛さんに頼りきりで、胸を張れるものじゃない。
でも――鏑木さんの役に立ちたい。そう思って、おそるおそる言った。
鏑木さんの肩から、ふわっと力が抜けるのが見えた。
ちょうどトンネルを抜けて、眩しい朝日が車内に差し込む。光が戻る。影が薄まる。
「……本当に、ありがとう。じゃあ、まずは――ダンジョンの中で“モンスターが残ってるかもしれない”って前提で、特に気を配ること、教えてほしいな!」
さっきまでの暗い影が嘘みたいに、鏑木さんは笑顔だった。
僕は一瞬だけ――“肝試しが怖くて僕を呼んだのかも”なんて邪推をして、すぐに首を振って霧散させる。そんなふうに考える自分が、一番いやだ。
「まずは何より……視界に頼りすぎないこと。って凛さんが――」
言いながら、僕は窓の外を見る。
景色は街から山へ変わっていく。建物の密度が薄くなって、低い森と細い道。ガードレールの向こうに、朝の光を反射する川。水面がきらりと光るたび、胸の奥がざわつく。
“廃”って付いてる。
“安全”って言われてる。
だから大事が起こるわけない――そう思いたい。
けれど、“ダンジョン”であることには変わりない。
心のどこかが、勝手に準備を始めてしまっている。
(……それに。例の女将さんって、何者なんだ?)




