第30話:上着の匂いと、合宿のお願い
それから、二人で校舎の明かりの方へ戻り、靴箱の前まで来た。
けれど、鏑木さんの姿はない。まだ来ていないらしい。
「……あの、鈴木君。今日は、本当に……ありがとう。また、今度」
「うん。また、あしたね」
熊谷さんは小さく頷いて、それから何度も振り返りそうになりながら、先に帰っていった。
僕は下駄箱の前に残って、鏑木さんを待つことにした。
「お昼はあんなに暑かったのに……夜は冷えるなあ……さぶい」
待ち合わせ場所も決めていなかったから、ここが一番分かりやすいと思った。
時々足音が聞こえてきて、そのたびに反応してしまうけど、全部別人。どんどん他の部活の生徒たちが帰っていく中、鏑木さんだけが来ない。
(帰ったらすぐご飯作らないとな。香苗に怒られる……)
さっきまで熊谷さんと二人だったせいか、急に一人ぼっちが寂しく感じる。
セーラー服の上から羽織った上着の袖を伸ばして、萌え袖にしてみる。
(あ、なんか我ながら……これ、かわいいかも……)
前まではピッタリサイズだったのに、今はがっつりオーバーサイズだ。
下駄箱前の大きな鏡の前でポーズを取っては、自分の小ささに驚かされる。
気づけば午後八時。
さっき警備員さんに「早く帰れ」と怒られたところだ。もう部活の生徒はほぼ帰ったのに、鏑木さんは来ない。
(もしかして……僕を置いて先に――)
「ごめんずっきー!!」
廊下から声が響いた。
たったったっと軽い足音。廊下の奥から鏑木さんが走ってくるのが見えた。僕の前で止まり、肩で息をしている。
「だ、大丈夫! 別に待ってないから、落ち着いて!」
「ぜぇ……はぁ……いや、それ無理あるって。逆にこんな時間まで残ってる方が心配になるって」
それもそうだ。
少しすると、彼女の息はすぐ整った。流石は運動部。
「コラ~、そこの二人、早く下校しなさーい」
警備員さんが睨んでいる。
「とりあえず、外、出よっか」
僕らは小さく頭を下げて、慌てて外へ出た。
二人だけの暗い下校道。
どこかデジャブがあって、少し背筋が冷える。僕と鏑木さんの足音だけが、夜の道に小さく響く。
鏑木さんから、どこか華やかなミントの香りがした。
たぶん部活で使う、あのペーパータオルの匂いだ。汗を拭くたびに、すっと鼻に抜けるやつ。
「その……ごめんね。まさかこんな時間まで残ってると思わなかったよ」
「流石に約束したんだし、帰れないよ」
そう言うと、鏑木さんは小さく笑った。呆れたのか、喜んでくれたのか。
……たぶん、どっちもだ。
「真面目だよね、ずっきーは」
ほっとしていると、突然、鏑木さんが立ち止まった。
「へくちっ!」
くしゃみ。
彼女はセーラー服の上からジャンパーを着ているのに、寒そうに腕をさすっている。
「寒がりだって言ってたもんね……はい、これ」
僕は自分の上着を差し出した。
鏑木さんは一瞬困惑したように、僕の手元を見る。
「そしたら、ずっきーが寒いんじゃない?」
「ううん。僕、暑がりだから。着てくれると助かるな」
少しのためらいのあと、鏑木さんは僕の上着を羽織ってくれた。
肩に落ち着いた瞬間、彼女は袖口を鼻先に近づけて――ふっと小さく息を吸う。
「……ずっきーの匂い、する」
「え?」
耳元に落ちたみたいな小声。
聞き返したら、鏑木さんはハッとした顔で僕から視線を逸らし、頬を染めた。
「ち、違っ……変な意味じゃなくて! その……安心するっていうか……!」
「う、うん……」
僕も僕で、心臓が一回だけ変な跳ね方をした。
「ごめんね。その生地、ぺらぺらだから、あんまり温かくないかも」
「……あったかいよ。すっごく……」
温かみを噛みしめるみたいに、彼女は袖口をきゅっと掴んだ。
……温かいなら、何よりだ。
そこで、大事なことを思い出した。
僕が鏑木さんを待っていた、一番の理由。
「ところで、話っていうのは?」
「あっ……!」
鏑木さんは思い出したみたいに、慌てて僕の手を両手でぎゅっと掴んだ。
いきなりでびっくりして、体が固まる。
「な、なに……?」
「お願い。今週末から、うちのテニス部、春合宿があるんだけど……マネージャーとしてついて来てくれないかな?」
「ま、マネージャー?」
「うちの部活、今年マネージャーが一人もいなくてさ……旅費とかは部活から出すから! お願い!!」
手を掴んだまま、深々と頭を下げた。
ぷるぷる手が震えている。なんだか、告白みたいで少しドキッとしてしまう。
「……いいよ」
そう言った瞬間、鏑木さんの顔がぱっと明るくなる。
「いいの!? ほんとに!?」
「いいよ。お手伝いできることがあるなら」
「ありがとう!! ずっきー大好き!!」
掴んでいた手をぐいっと引かれて、僕は鏑木さんの胸の中に引き込まれる。
全身全霊でぎゅーっと抱きつかれて――凛さんを思い出すなあ、なんて、ぼんやり思った。
しかし次の瞬間。
鏑木さんの体がびくっと跳ねて、腕から力が抜けた。
「……っ!」
勢いよく離れる。手も離れている。
顔が赤い。……嬉しさだけじゃない赤さだ。
「え、いや、その……本当にありがとうね、ずっきー」
帰り道で、マネージャーの仕事内容も聞いた。
どうやら宿泊先の女将さんが腕を骨折してしまっていて、どうしても料理ができるマネージャーが必要だったらしい。
しかもゴールデンウィークの時期。参加したがる変わり者はいない。
部員たちで練習時間を削って料理をするしかないか……と悩んでいたところだったそうだ。スポドリ作りや雑務もあるけど、練習に参加する必要はないらしい。
(それが一番安心だ……運動、苦手だし)
「それじゃ、後のことは追って連絡するから」
「うん、分かった。それより……もっと家の近くまで送らなくて大丈夫?」
「……ぷう」
鏑木さんが口を膨らませた。
「正直、今でもわたしとしては、ずっきーの方が心配なんだよ……ここから家まで遠いでしょ」
目線を合わせるように、彼女はしゃがんだ。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない! だってこんなにかわいいんだから、不審者に変なことされたらどうするの!」
ほっぺをむにっと摘まれて伸ばされる。
反論しようとしても、情けない声しか出ない。
「もう……気を付けて帰ってね」
「分かってるよ。それじゃ、また明日」
「うん、また明日ね」
鏑木さんは最後に振り返り、笑顔で軽く手を振ると、そのまま走っていってしまった。
「……あ。上着、貸したままだ」
僕の大事なものを奪っていった人の背中を見送りながら、思わず小さく笑う。
そして家に帰ってからは、案の定、妹にめちゃくちゃ怒られた。
理由は、帰るのが遅くなったからでも、服を忘れてきたからでも、その間に妹がご飯を作ってくれていたからでもない。
――遅れる旨の連絡を忘れていたからだ。
僕に残された選択は、無言の土下座しかなかったのだ。




