第3話:弱点は弱点を生む
焼ける。皮膚が、肉が、骨が。
――なのに、焼けるそばから“元に戻る”。
焦げ落ちたはずの指先が、あり得ない速度で再生していく。骨が剥き出しになったと思った瞬間、白い肉が盛り上がり、皮膚が張り直される。
残るのは、無限にも思える激痛だけだ。治っても、痛みだけは置き去りにされない。むしろ“治るぶんだけ”何度でも味わわされる。
「あぐぁ……ぎ……ああああああああああ!!」
叫び声すら焼けて途切れる。喉の奥が炭になり、空気だけが漏れる。
それでも――痛い、痛い、痛い。
《被虐の女神》は、傷を消しても、痛みだけは絶対に消してくれない。
そして雨みたいに、さらりと炎が止んだ。
次の瞬間。炎の壁を突き破って、僕を抱えたままの凛が飛び出した。
網膜が焼け焦げ、何も見えない。鼓膜が焼け落ち、何も聞こえない。皮膚はただれて触覚もない。
でも――痛みが“薄れた”ことで、現実だけが分かった。僕はまだ生きていて、凛は僕を落とさず走っている。
凛は走る。腕の中で悶える僕を、ぎゅっと抱え直しながら。
「絶対に大丈夫。大丈夫だから」
……音が、戻った。
焼け落ちたはずの耳に、彼女の声だけがすっと入ってくる。たったそれだけで、心の奥の震えが少し落ち着く。
凛が急ブレーキをかけ、横へ飛び込んだ。
刹那、真横を灼熱が走り抜ける。あと数瞬遅れていたら、また火に包まれていた。
ビルの中へ転がり込む。コンクリが冷たい。煤と埃の匂い。
外ではドラゴンが咆哮し、吐いた炎が建材を舐める音が反響する。
ようやく戻ってきた喉から、僕は必死に声を絞った。
「……ありがとう、ございます。助けて……いただいて」
目の前の凛が、丸い目をして固まった。鳩が豆鉄砲を食ったみたいに。
「い、いや……むしろそれ、こっちのセリフなんだけど」
呆れたようにこぼして、凛は流れるように僕の頭を撫でてくる。
僕が小さくなったのか、凛の手が大きいのか。どっちか分からないけど、彼女の手のひらで僕の頭がすっぽり覆われてしまった。
「それより……あのドラゴン、どうしましょう」
「……そうだな」
凛は地面に胡坐をかいて、低く唸る。
真横では瓦礫がめらめら燃え、外ではドラゴンの足が地面を踏み荒らしているのに――彼女は意外なほど冷静だった。
「あの……どうも僕、あなたの痛みを肩代わりできるっぽいんです。だから、このまま抱えて逃げてもらえれば……」
「無理。確かに傷は治せるんだろうけど――丸呑みにされたら、どうしようもなくなる」
反論の余地がない。確かにそうだ。
「それに、君が苦しむでしょ」
そう言って、凛はまた僕の頭をわしわし撫でる。
たぶん僕は今、凛の目線だと小学生か幼稚園児くらいに見えてる。腹立たしい。……なのに、撫でられて落ち着いてしまう自分にも腹が立つ。
「倒すしかない。てことは逆鱗を……でも、首の位置が高すぎるな……」
僕にも手伝えることはないか、必死に考える。守られるだけなんて嫌だ。
逆鱗。ドラゴンの喉にある弱点――だったはず。
でも、その位置はビルの二階くらいの高さ。凛でも届かない。
……あれ。
でも、それなら――。
「お姉さん。逆鱗って、ドラゴンの弱点ですよね」
「そうだよ。ドラゴンの弱点。だいたい喉仏のあたりにある、唯一“鱗がない”部位。……でも、あれくらいのサイズだと、あたしじゃ届かないんだよな」
凛の表情が、少し曇る。
外ではドラゴンが向かいのビルを覗き込み、中を確かめるように鼻先を動かしている。――もう時間がない。
「……いい案があります」
たった一言。
凛の視線が、まっすぐ僕に刺さった。生きることに必死な目。僕も同じ目で返す。
僕は作戦を全部伝えた。
凛は目を見開き、半歩引いたような顔になる。引いた。でも、笑ってない。
それでも僕が立ち上がり、凛の目を見据えると――彼女は一度だけ目を閉じて、次に鋭い目で頷いた。
「……無理と無茶の区別はすること」
「はい!」
凛は立ち上がり、ポケットを探って――小さな謎の塊を取り出した。手のひらに収まるサイズで、やけに重い。
それを、僕の掌に落とす。
「……これしかないから、気を付けてね」
僕は強く握りしめて、頷いた。
「それじゃ、後は頼む」
僕はビルの中から飛び出した。
その刹那、ドラゴンの瞳だけがぎょろりと動いて、僕を見据える。
走る。とにかく走る。大通りを避け、細い路地へ滑り込む。
大通りを走るよりは、まだ細い路地裏のほうが安全だ。
――そう思った。だが、考えが甘かった。
ドラゴンは獲物を見つけた猫のように、ビルの外壁を砕きながら迫ってくる。そして壊した外壁を足場に、こちらへと狙いを定めた。
刹那、ドラゴンの咥内が赤く光った。
狭い十字路。炎は形を変える。逃げ道は、ない。
だから――
「作る!!」
横のビルの窓ガラスへ、勢いよく飛び込んだ。
破片が全身に刺さる。けど、炎で焼かれるよりマシだ。
着地なんて考えていなかった。背中から床に叩きつけられ、肺から空気が抜ける。
でも止まれない。この侵入は、確実に見られた。
痛みを無視して立ち上がる。
傷はすぐ治る。刺さったガラス片は、盛り上がる肉に押し出されて、ぽとぽと床に落ちて割れていく。
走る。別の出口。別のビル。
何度も、何度も、ドラゴンの攻撃を紙一重でかわし続け――。
やがて限界が来た。
身体じゃない。傷もない。骨も繋がってる。
……心だ。
普通なら死ぬ痛みを、何十回も耐えた。
耐えてしまった。だからこそ、恐怖が遅れて押し寄せてきて、頭の中を埋め尽くす。
ひときわ背の高い建物へ飛び込んだ時だった。
もう脚が言うことを聞かない。呼吸が浅い。視界が白い。
それでも、最後の勇気を絞って、ビルの外へ飛び出した。
――その瞬間、ドラゴンと目が合った。
出口の真横。巨大な口が、最初からそこに“待っていた”。
同じことを繰り返せば、先を読まれる。ドラゴンだって馬鹿じゃない。
刹那、僕の体はナイフみたいな牙に貫かれる。圧迫。引き裂かれる感覚。持ち上げられる。
呼吸が潰れ、視界が火花で割れる。
それでも僕は、藁にも縋る思いで握りしめたままの右手を――地面へ伸ばした。
指先が届きそうで、届かない。
その瞬間だった。
牙の衝撃が腕に走り、痺れが骨まで叩き込まれる。
握力が、意思ごと弾き飛ばされるみたいに抜けた。
指がほどけた。
拳が開いた。
そして――両の掌が、情けなく空気を掴んだ。
ドラゴンの目を見たまま、僕はにやりと笑った。痛いのに、笑えた。
――次の瞬間。
顎が、さらに深く沈む。
胴を引きちぎろうとせんばかりに、僕の胴を噛み砕きながら、ドラゴンはぶんぶんと左右に振り回した。
視界が、街の残骸と夜空を交互に叩きつける。
骨が鳴る。内臓が潰れる。息が、抜ける。
(よかった……なんとかマンホールの中に入れられた)
一拍。
まるで世界が息を止めたみたいに静かになって――
バゴォン!!
地面が叩き上げられた。
ドラゴンがびくっと首を縮め、反射で眼下を見下ろす。
「そりゃ……逆鱗は怖いよなあ」
ジガシャン!!
白い軌跡が、天から伸びてドラゴンの背を――そして心臓を貫いた。
勢いそのままに白い線は体を貫通し、地面のコンクリへばきりと突き刺さる。
「でも心臓は一つじゃねえだろ?」
凛だった。
このビルの最上階から、道路標識を槍みたいに構えて急降下――重力を丸ごと乗せた一撃を叩き込んだ。
――と同時に、僕の身体を稲妻みたいな激痛が貫いた。
視界が白く弾ける。息が止まる。
そして脚が、ばきっ、と嫌な音を立てて――あり得ない角度に折れ曲がった。
それでも。
虚勢のために、男の意地で。
涙目のまま、僕は笑顔を浮かべた。
「大変だったぜ。感づかせずに、ここまで誘導するのは……」
凛は息を切らしながら、こちらへ視線を走らせる。
次の瞬間――
「お姉さん!!」
叫ぶより先に、凛は僕を牙から奪い返し、さっと抱えた。
そして全速力で走る。
けど、さすがドラゴンだ。後方で動き始めている。
道路標識程度じゃ致命傷にはならない。――せいぜい多少怯む程度だ。
でも。
それも計算済みだ。
「やって!!」
凛の声が響く。
――僕の力。《被虐の女神》は、“人”だけじゃない。
守りたいと思った“もの”にも、付与される。
燃やされても消えなかった服みたいに。
そして僕は、さっきからずっと、このビルに手を触れながら――“守る”って決めていた。
倒壊寸前まで入ったヒビ。軋む鉄骨。崩れる寸前の壁。
その“壊れるはずの痛み”を、僕はずっと肩代わりしてきた。痛すぎて、死んだ方がマシだと思うくらい――。
だけど、今なら分かる。
これが、最後の一撃になる。
僕はゆっくり目を閉じた。
全てをやり切ったと、信じて。
砕ける音がする。
ガラガラ、と世界が崩れていく。鉄骨が悲鳴を上げ、コンクリの塊が空気ごと引き裂いて落ちる。粉塵が爆ぜ、夜のビル街が白く塗りつぶされた。
その中心で、ひときわ大きく聞こえる――凛の荒い吐息。
……そして。
――ピロン。
冷たい通知音が、耳の奥で鳴った。
スマホなんて見ていないのに、文字だけが脳裏に焼き付く。
『次は――』
そこで、ぶつりと世界が途切れた。




