第28話:身長二メートルの赤ちゃんが『まま』って呼んでくる
あれから数日――嘘みたいに、のんびりした日々が続いた。
廊下ですれ違うだけで胸が縮むようだった一条君のグループも、今は妙に静かで、目が合っても逸らしてくるだけ。授業中も、背中に刺さっていた視線が消えたみたいに軽い。
凛さんが手伝ってくれたおかげでレポートの進捗も良好。提出期限を見て喉が鳴ることもない。
夢見ていた順風満帆な――いや、最高の高校生活だ。
時刻は午後六時。
今日の僕はキッチンに立っている。換気扇の低いうなりと、まな板に包丁が当たる乾いた音。湯気に混じって、だしの匂いがふわっと広がる。
香苗は友達と遊んでくるらしく、帰りは少し遅いらしい。だからこそ、冷めてもレンジで温め直せるものを作っておこうと思って。
先にお風呂も済ませて、髪をタオルで拭きながら――さて、一人で夕飯を食べ始めようか。
そう思った、その時だった。
……ピロン。
スマホが小さく鳴った。
画面を覗く。通知の差出人は凛さん。
『すぐに……来てくれ……』
たったそれだけ。
いつもの凛さんなら、まず要件を端的に書く。必要な情報だけ、って感じで。だからこそ、この短文は――変だった。
「もしかして……また、何かあったんじゃ……」
胸の奥が、嫌な冷え方をする。
考えるより先に身体が動いていた。僕は「少し出るね」の走り書きをリビングのテーブルに置き、靴を引っかけて家を飛び出した。
駅までの道は、夕方の匂いがした。アスファルトの熱が落ち始めて、どこか遠くで焼き鳥の煙が流れてくる。
改札を抜け、電車に乗る。車内は部活帰りの学生と、疲れた顔の社会人。つり革が小刻みに揺れて、僕の心臓もそれに合わせて揺れた。
最寄り駅に着くと、息を整える暇もなく凛さんのアパートへ向かう。
建物の入り口に差し掛かった瞬間、空気が少し冷たくなった気がした。
アパートの廊下。
カチ、カチ、と点滅する蛍光灯が、視界の端で白く瞬く。虫の死骸が一つ、ライトの下に落ちていた。
前ならこんなもの、気にも留めなかったのに――長いこと、ここから離れていたからだろうか。妙に不気味で、背筋がぞわっとした。
それでも、凛さんの部屋の前までは勝手に足が動く。気づけば扉の前。
インターホンを押した。
ピンポーン!
……反応がない。
コンコン、と扉を叩いても、沈黙。
窓ガラスの隙間から、うっすら光が漏れている。いるにはいるはずだ。
諦めて一度駅に戻ろう――そう思って踵を返しかけた時、ふいに、ドアノブに手をかけて引いてみた。
……開いた。
鍵が開いている。チェーンもしていない。
嫌な予感が、背中を押した。隙間から中を覗く。
ワンルームの玄関は、開けた瞬間に奥まで見えてしまう。
そして、凛さんがいた。
電気がついていない、真っ暗な部屋。
ちかちか光るデスクトップパソコンのモニターだけが、凛さんの輪郭を青白く縁取っている。
凛さんは、いつものゲーミングチェアに体育座りで座り、ぼーっと画面を眺めていた。
……気づいていない?
「あの……凛さん?」
声をかけても反応はない。ヘッドホンをしている。
胸が嫌な速さで脈打つ。僕はゆっくり扉を開け、カチリ、と照明のスイッチを押した。
ぱあっと明るくなる部屋。
そして、全貌が明らかになる。
――汚部屋。
僕が来なくなった、たった一週間程度でここまで? っていう勢いのゴミ溜め。カップ麺の容器、コンビニ弁当の空き、散乱した衣類、床に落ちたレシート。空気がアルコールと油の匂いで重い。
「ちょ、凛さん! 僕がいなくなっても掃除はしてって言いましたよね!」
返事がない。
怒り半分、心配半分のまま狭い通路を進み、凛さんの背後へ回る。
そして――無理やりヘッドホンをむしり取った。
その瞬間、目が合った。
凛さんの頬は赤い。目は充血していて、頬には涙がつたった跡がうっすら残っている。
さらに、デスク周りに散乱する大量の缶チューハイの空き缶とも目が合った。軽い金属音が、僕の足元でころりと鳴る。
「凛さ――ひゃ!?」
凛さんが、突然抱きついてきた。
次の瞬間、バタン、と床に押し倒される。
まきまきレベルで酒臭い。いや、まきまきより濃いかもしれない。
(……酔っぱらってる。完全に)
「ちょ、ちょっと……!」
凛さんは僕の上に重なり、僕の胸に顔をうずめてきた。
大きい。重い。なのに、妙に力が抜けていて、抱きつき方が子どもみたいだ。
「……ままぁ」
「へあ!? まま?」
猫なで声。
凛さんの口から、今まで聞いたことがない種類の甘ったるい声が出た。普段なら絶対に言わない単語まで飛んできて、思考が一瞬止まる。
「ままぁ……おかえりぃ……」
ぎゅっと抱きつく腕に、さらに力がこもる。
僕の肺がきゅっと押されて、息が詰まりそうになる。
そして――ぐわん! と、凛さんが僕を抱いたまま勢いよく立ち上がった。
「ままぁ、おなかすいた。ごはんつくって~」
屈託のない笑顔。
身長ほぼ二メートルの赤ちゃんが、胸の中の僕に懇願してくる光景、何??
「ちょ、ま、分かりましたから! 分かりましたから、降ろしてください!」
「まま、なんでそんな、へんなしゃべりかたするのぉ?」
敬語のことだ。たぶん。
ていうか、ここまで酔ってる凛さん、初めて見た。酔うとこうなるの……びっくりなんだけど。
でも――正直、ここは合わせないと危ない。
無邪気な顔をした凛さんに、背骨を抱き折られる可能性が普通にある。
僕は今から……全力で、ままになるしかない。
今ここに、身長ほぼ二メートルの赤ちゃんと、小さなままが誕生してしまった。
「ご、ごめんね~凛さ……凛ちゃん。ご飯作るから、ままのこと降ろしてくれるかな? できる?」
「うん、できる!」
にこにこ笑顔。
凛さんはそっと僕を下ろしてくれた。
(よし……とりあえず料理。凛さんが食べてる間に片づけ……!)
「まま! ごはん!」
「はいはい、わかったわかった」
肩を掴まれて、ぐらぐら揺らされる。凛さんのパワーで、僕の視界がぐわんぐわんする。
キッチンに向かおうとするのに、凛さんの手が離れない。
「あの~凛ちゃん。肩から手、放してくれないと……まま、ご飯作れないんだけど」
「やだ! りんもいっしょ!!」
一緒と言われても、このワンルームのキッチンは玄関と部屋を繋ぐ細い通路にある。二人並んだら、まじで詰む。
「えっとね、料理中は油が跳ねるから、あついあついだよ?」
「あついのやだ……でも、ままといっしょがいい……」
凛さんの顔が、しゅん、と暗くなる。
その表情が、香苗が小さい頃に見せたものと重なって、胸がきゅっと痛くなる。
「……仕方ないなあ。分かりました。良い子にできる?」
「うん、できる!」
得意げに言った次の瞬間、凛さんは後ろからぎゅっと抱きついてきた。
後頭部に柔らかい感触。背中にあたる熱。――なのに不思議と、まったく変な気持ちにならない。というか、なる余裕がない。
僕はそのままキッチンへ移動し、まずは上に散らばったゴミをまとめて玄関へ寄せる。処理は後。
冷蔵庫を開けると、冷気が頬に当たった。
「これなら……焼きそばくらいなら作れるかな」
「やきそば! やったあ!!」
嬉しそうな声が背後から響く。声、でかい。苦情来ないかな。
来たら何て言えばいいんだろう。「でっかい赤ちゃんがいて……」で納得してもらえるかな。
「……考えてても仕方ないか。とりあえず作ろ」
そこからは、意外と滞りなく進んだ。
マフラーみたいに首に巻かれる腕が少し危なっかしいけど、怪我なく完成。ソースの香りが立ち上り、鉄板じゃないのに屋台みたいな匂いが部屋に広がる。
後ろから時々聞こえる「おぉ……!」という子どもみたいな感嘆の声のおかげで、料理が少し楽しかった。
「ほら凛ちゃん。ご飯できたから、お椅子座れるかな?」
「うん、すわれる!」
凛さんはどたどた走ってゲーミングチェアに座った。
焼きそばを置くと、「いただきます」と礼儀正しく手を合わせて食べ始める。どこかお行儀がいいのは、さすが凛さんだな……いや、凛“ちゃん”か。
さて。凛さんが食べている間にも、僕にはやることがある。
まず掃除。
溜まっていたカップ麺や冷凍食品の包装、空き缶を分別してゴミ袋へ詰めていく。缶は水で軽くすすげば、スーパーのリサイクル回収に出せる。
明日は燃えるゴミの日。燃えるものは明日出して、燃えないものはまた今度。玄関にまとめる。
凛さんの元へ戻って、食器を洗って、フライパンを洗って――。
こうやってわたわたと動くのは久しぶりで、少し楽しかった。
そして気づけば、日付が変わる時間になっていた。
(終電……なくなっちゃった。仕方ない。今日は凛さん家で寝よう。とりあえず香苗に連絡……)
スマホを手に取った、その瞬間。
後ろからぐいっと引っ張られて、僕は大きくよろけた。
けれど待っていたのは硬い床じゃない。
柔らかい凛さんの体だった。ぎゅっと抱きしめられて、まるで人形になった気分になる。
「そろそろ寝よっか」
「うん」
耳元で吐息がかすれて、少しだけドキッとした。
でも、続く言葉は――その温度を変えた。
「さいきんね……ずっと、さみしかった」
後ろから聞こえる声が、急に弱い。
「……どうして?」
「まま、さいきんいなくて……ずっとひとりぼっちだったから……」
腰に回された腕に、ぎゅっと力が入る。
確かに、家に帰れるようになってから、僕は凛さんの家に一切来ていなかった。来たら迷惑をかけるかも、って思って、意識的に避けていた。
でも――逆だったんだ。
「そっか……ごめんね。寂しい思いをさせて」
「よるに……ひとりは……さみしいよ……」
僕は凛さんの腕の中で身をよじって、向き直る。
そして僕からも、ぎゅっと抱きしめた。小さな体で凛さん全部は包めないけど、顔くらいなら、手のひらで優しく包める。
「……それじゃ、今度からは――ままが、一緒にいるね」
「あと、おふろと、ねるのも……いっしょ……」
「う、うん……そうだね、いっしょ……!」
ここは、嘘を混ぜるしかなかった。香苗も心配だし、毎日一緒に寝るのは厳しい。お風呂はさすがに――色々とダメな気がする。
でも、今ここで否定したら、凛さんはきっと拗ねる。
「あ、でもお酒の飲みすぎは駄目ですからね!」
「……むぅ……おさけのむのも、ままのせいだもん」
凛さんは頬をぷくっと膨らませ、僕の胸に顔を埋めた。
まんま、小さい頃の妹と同じで、可笑しくて、つい笑みがこぼれる。
「はいはい。これからはままが来るから、お酒は控えようね」
「……うん」
消え入りそうな返事が、胸の中から聞こえた。
「それじゃ、そろそろ寝よっか?」
僕は凛さんを布団に座らせ、電気を消す。
真っ暗な部屋で、凛さんの気配を頼りに布団へ潜り込む。
その瞬間、ひょいっと引っ張られて、抱き枕みたいに抱きしめられた。
つい一週間前まで、これが当たり前だった。懐かしい。
「……ままがね……いなくなってから……ずっとさみしかったの」
「うん、うん」
またか、と少しだけ呆れる。けど、酔ってるんだから仕方ない。
「ままがいなくなってから……ぱぱ、へんになっちゃってね……」
――違和感。
それは僕に対する言葉じゃない。そう気づいた瞬間、背筋が冷えた。
「すごくきびしくて……おこってばっかで……それで……それで……」
凛さんの声が震える。
「しぐれ……うみゅ……」
僕は反射的に、凛さんの唇に人差し指を当てて止めた。
名前――?
酔いの舌で潰れた音。でも、確かに人の名前みたいだった。
「……もう大丈夫。ままは絶対どこにも行かない。ずっと凛と一緒にいる。だから、今日は寝よう」
凛さんはこくり、と頷く。
それから数分もしないうちに、すうすう、と寝息を立て始めた。
さっきのは、きっと僕への言葉じゃなかった。
凛さんの“本当の”お母さんへの言葉――そして、凛さんの過去の欠片だ。
聞くなら、酔っている凛ちゃんじゃなくて。
ふだんの凛さんから、ちゃんと聞かなくちゃいけない。
凛さんは隠していることが多い。僕はまだ、凛さんのことをほとんど知らない。
でも、だからこそ。少しずつでいい。歩み寄って、たくさん知りたい。
「ふわあ……僕も……そろそろ……」
凛さんがしっかり眠っているのを確認して、僕も目を閉じる。
耳に入ってくるのは、凛さんの寝息だけ。それが妙に安心できて――僕もすぐ夢の中に落ちた。
翌日。
カーテンの隙間から差し込む光が眩しくて、僕はゆっくり瞼を開けた。
その瞬間。
目の前で寝ていた凛さんも同じタイミングで起きたようで、ぱちり、と目が合う。
「……おはよう。どうして祈里がここに?」
「おふぁようごじゃいます……昨日のこと、覚えてないんですか」
凛さんは一度目を閉じ、必死に記憶を探す顔をした。
そして、ぱちりとまた目を開く。
「すまん……何か、しでかしたのか。あたしは」
気まずそうに顔が青ざめる。
……絶対、別方向の“やらかし”を想像してる。
「そういうのじゃありません。凛さんに来いって言われたから来て、終電がなくなったから寝させてもらっただけです」
凛さんは、ほっと息をついた。
「……しかし時間は大丈夫なのか?」
凛さんがスマホを見せてくる。
表示された時刻――八時過ぎ。
「まずい! 遅刻だ!?」
ぐっすり寝すぎた。
ここから電車で家に戻って、鞄回収して、学校――間に合うわけがない!
「どうしよ……大遅刻だ……」
「仕方ない。乗ってくか?」
「はい!!」
凛さんの提案に全力で頷く。
凛さんのバイクなら、電車よりずっと早い。なんとか一限の途中には滑り込めるはずだ。
この日から、僕は二日に一度は凛さんの家に泊まることにした。
表向きの理由は簡単。凛さんの生活力の欠如だ。
配信の相棒として、相棒の体調管理も仕事の一つ。
凛さん一人じゃ、料理も洗濯も掃除も――放っておくと、部屋がすぐ地獄になる。だからそれを名目にして、凛さんを説得した。
幼児退行のことを理由にしなかったのは、良心からだ。
もし僕が同じ立場で、酔った勢いとはいえ「まま」なんて呼んで抱きついてたって知ったら――多分、穴があったら入りたくなる。いや、普通に死にたくなる。
だからこれは、ただの“相棒のメンテナンス”。
そういうことにしておく。
……でも本当は、あの夜の「さみしい」の声が、ずっと胸に残っていた。




