第27話:静かな日曜日と、あの日の答え
騒動が落ち着いて、ようやくやってきた日曜日。
予定通り、今日は朝から研究室に入り浸り、自分のギフトについて調べていた。
休日の大学は、驚くほど静かだ。廊下の足音もまばらで、窓の外の風が木の枝を揺らす音ばかりが目立つ。
研究室も例外じゃない。蛍光灯の薄い唸りと、パソコンのファンの小さな回転音だけが、僕の背中を押してくる。
とはいっても、少ない情報から「自分の神格」を同定するなんて、ほとんど暗闇で星座を当てるようなものだ。
資料を広げては首をひねり、ノートにメモしては消し、また読み返す。——そんな作業を延々と繰り返して、絶賛悪戦苦闘中である。
「お疲れ様。コーヒーでも淹れようか?」
「ありがとうございます。いただきます」
まきまきは学会で関西へ行っていて、研究室は僕と凛さんの二人で占領中だ。
言ってはなんだが、まきまきがいないと、部屋のどこかに染みついたアルコールの匂いが薄まって——空気が少しだけ、すがすがしい。非常に失礼な話だが。
凛さんは手際よく、ポットから湯を注いでいく。カップを温める仕草が妙に慣れていて、こういうところだけ、生活力があるんだな……と変な感心をしてしまう。
「ほら、熱いから気を付けて飲めよ」
「はい、ありがとうございます」
コトリ、とカップが僕の机に置かれる。
ふわっと立ち上る、コーヒーのやさしい香り。
ズズッ、とひとすすり。
凛さんの淹れるコーヒーは濃いめで、ちょっぴり苦い。けれどこの苦さは、ついこの前まで凛さんの家で過ごした日々を思い出させる。
僕にとっては、もう「思い出の味」になりつつあった。
「……おいしいです!」
「なら良かった。レポートの方はどうだ?」
それを聞かれて、僕は笑って誤魔化すしかない。
正直、まきまきから出されたレポート——全然進んでいない。
調べ物はしてる。してるんだけど……文章にする段階で、完全に固まっていた。
画面のワードには、タイトルすらない。カーソルだけが、点滅して僕を煽ってくる。
「まあ、まだ四日程度ですし……ここからです。ここから……」
「まだゼロ文字……先が思いやられるな……」
ノートパソコンを覗き込んだ凛さんの顔が、呆れとも心配とも取れる苦笑いになる。
恥ずかしさで胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「そうだ、箇条書きでもいいからまとめておけって言ってたやつは……」
僕が汗だらだらで目を逸らしているのを見て、凛さんは察したらしい。
「……そっちもやってないと来たか」
「うぅ……自分からやるって言ったのに……面目ないです……」
凛さんは腕を組んで、少し考えるように天井を見上げた。
怒られなくてよかった、とほっとしてしまう自分が情けない。
「まあいい。今日はあたし暇だし、一日付きっ切りで教えてやる。サボれると思うなよ」
にやり、と凛さんが笑う。
その顔が、やけに頼もしく見えてしまった。
正直、レポートなんて高校でもまともに書いたことがない。
何も分からないまま「とりあえず開いたワード」とにらめっこして固まっていたのが現状だ。
「ありがとうございます。がんばります!」
ぐうう〜……と、研究室に妙に響く音。
音の主は、凛さんのお腹だった。
「……先に昼食にしましょうか」
「そうだな。昼は空いてるはずだし、せっかくだから食堂に行こう。日曜は貸し切り状態で気分がいいぞ」
そう言い終えると、凛さんはデスクの端に置かれた財布を手に取り、研究室を出ていく。
僕も慌てて追いかけた。
廊下は静かで、窓の外の風の音が妙に大きく聞こえる。
少し歩けば食堂棟。ほかの施設は日曜だと閉まっているところが多いのに、ここだけは開いている。まさしく学生の味方だ。
「祈里は何が食べたい? あたしのおごりだ」
「うーん……」
悩む。カレー、うどん、からあげ丼……種類が豊富すぎて、逆に頭が真っ白になる。
「凛さんと同じの……じゃ、ダメですか?」
「構わんよ。それじゃあ先に席を取っておいてくれ」
「分かりました」
そう言って凛さんと別れる。
食堂はそこまで広いわけじゃないのに、今の僕の身長からすると、とてつもなく広く感じる。テーブルの脚が森みたいだ。
今日は人がいなくて視界が晴れているから迷子にはならない。
でも、前に一度凛さんに連れてきてもらった時は、学生の波に揉まれて食堂内で本気で迷子になった。今思い出しても恥ずかしい。
「やっぱり、どうせなら窓際だよね」
窓際、食堂の角っこの席に腰を下ろす。
今日は天気が良くて、ガラス越しに差し込む日光があたたかい。テーブルの木目に光が広がって、やさしい匂いがする気さえする。
目を閉じると、眠ってしまいそうだった。
「ふああ……凛さんが来るまで……ちょっと、寝よっか……」
気持ちがいい。
最近は非日常の中に入り浸っていたせいか、こういう「なにも起きない時間」がどれほど貴重か、身に染みて分かるようになってきた。
「待たせてしまって、すまない」
コトリ、とテーブルにトレーが置かれる音。
ゆっくり瞼を上げると、凛さんがもう席に来ていた。ほんの数分のつもりだったのに、寝てしまっていたらしい。
「ふああ……ありがとうございます」
トレーの上には、きつねうどん。
もう四月も終わりなのに、まだ少しだけ肌寒い。だからこそ、この時期の汁物は倍おいしそうに見える。
「いただきます」
「いただきます」
同時に手を合わせて、食事に手を伸ばした。
数口すすったところで、凛さんがふと口を開く。
「そういえば、聞いていなかった。一昨日、どうやってあたしたちの場所が分かったんだ? それに、あのバイク……」
「えーっと……話すと長くなるんですけど、いいですか?」
「ああ、聞きたい」
◆
時間をさかのぼること、屋上階段で例の“黒腕”の襲撃があった後。
授業中、僕はずっと上の空だった。
黒板の文字が視界を滑っていくのに、頭には入ってこない。ノートにペンを落としても、何を書いているのか分からない。
胸の奥で、ざわざわとしたものだけが、ずっと鳴っていた。
五限が終わっても、それは収まらない。
むしろ時間が経つほど、じわじわと焦りだけが増していく。
そんな僕を心配してか、鏑木さんが声をかけてくれた。
「ずっきー、授業中もずっとそわそわしてたけど、本当に大丈夫? 体調悪いんだったら、一緒に保健室行くよ」
机で頬杖をつく僕と視線を合わせるように、鏑木さんはしゃがんで顔を覗き込んでくる。
眉が下がっていて、とても心配そうだ。
正直、僕は嘘や強がりが苦手だ。
全部、顔に出てしまう。だから僕は観念した。
「……実は……」
鏑木さんに全部話した。屋上階段で起きたこと。黒腕のこと。らいこさんが追跡に行ったこと。凛さんもそれを追っていること。
そして、それがずっと心配でたまらないこと。
鏑木さんは少し悩んだあと、僕の目を真剣なまなざしで見返してきた。
「……追わなくて……いいの?」
「……あんまり危険なことをするなって……凛さんからも、まきまきっていう人からも言われてて……自分から痛みに飛び込むようなことはしないって……約束したから」
まきまきから怒られたばかりだ。約束もした。
それに追いかけたところで、僕にできるのは痛みの肩代わり程度。
——僕は弱い。自分を傷つけなきゃ、人の役に立てない。
言い切った途端、胸の奥がひゅっと縮む。
「正しいこと」を言ったはずなのに、言い訳みたいに聞こえてしまうのが嫌だった。
鏑木さんは、僕の顔をじっと見ていた。
すぐに返事はしない。眉を寄せて、唇をきゅっと結ぶ。考えるように、短く息を吸って——
「わたし、馬鹿だからこういう時、かっこいいこととか言えないけどさ……」
鏑木さんは僕の肩に両手をポン、と乗せて、優しく微笑んだ。
「どのみち、行っても行かなくても後悔するんだし。今、楽になれる方を選んだ方がいいんじゃない!」
「追わなかったら、ずっと苦しいまま。でも、追えば、追ってる間は苦しくないと、私は思うよ」
短絡的、刹那的。言ってしまえばその場しのぎの考え方だ。
だけど——それを言う彼女の目は、軽く笑っているのに澄んでいて、前だけを見ていた。
「とっても怒られても……」
「いいじゃん! 追わなかったら、自分で自分を責めることになるんだよ! 追えば人に怒られるだけ。申し訳なさそうな顔しておけば、喉元過ぎるって!」
ようやく気付いた。
鏑木さんは、僕の本心にもう気付いているんだ。
だからこそ、その本心に従って動けるように、慣れないなりに背中を押してくれている。
「……あはは……女の子に励ましてもらうって……ごめんね、情けなくて」
「情けなくていいんだよ!」
小さく、でも真剣に、鏑木さんが声を張った。
その一言だけで、僕の意識が彼女に全部持っていかれる。
「誰だって、きっと凛さんとか、らいこさんだって……誰かに背中を押してもらいたい時、守ってもらいたい時くらいあるでしょ。だから、情けなくてもいいんだよ」
いつもとは違う真面目な顔。
肩に置かれた手が少し震えている。僕の乾いた瞳に、潤いが戻る。視界に色が差すみたいな感覚。
「やっちゃえよ、ずっきー!」
にへら、と鏑木さんは笑った。
華やかで、でも芯の強い笑顔だった。
「……鏑木さん! スマホ、借りてもいいかな?」
「うん!」
思考がすっきりと晴れていく。
確か、前に一度、ジンバルンが鏑木さんのスマホをハッキングしていたはずだ。もしかしたら、まだ繋がるかもしれない。
「ジンバルン……ねえ、ジンバルン。聞こえてたら応答して。ジンバルン!」
何度も呼ぶ。
反応がなくて諦めかけた、その時。
「いかがされましたか、祈里様?」
鏑木さんのスマホから、なめらかな機械音声が響いた。
「え!? しゃ、喋った」
「今はそれどころじゃない! ジンバルン、凛さんたちの状況は?」
「……」
ジンバルンは黙る。
それもそのはずだ。僕が危険に身を投じようとしていることを、分かっているのだから。
「お願いだ、ジンバルン。嫌な予感がする。現場を見て、必要なければすぐ引き返す。だからお願い!」
スマホ相手だというのに、僕は深々と頭を下げる。
「……しょうがない方です」
パッと画面が明るくなり、地図アプリのようなマップが表示された。
「現在、マスターとらいこ様は共にバイクで通称“黒腕”を追跡中。このままいけば、高速道路に侵入する可能性が高いかと」
高速道路で逃げるつもり——。
だとしたら、問題は移動手段だ。
残念ながら、僕は免許を持っていない。
それにこの身体じゃ、バイクどころか自転車すら不安だ。
「鏑木さんって、免許持ってたりする?」
「ううん、ない!」
じゃあ、免許を持っているのは——。
「思い出した!」
勢いよく立ち上がる。椅子がきゅっと鳴って、教室中の視線が一斉に集まる。
でも気にしている暇はなかった。
僕は一直線に、廊下側の一番後ろ、固まっている席へ向かう。
一条君のグループがいる場所だ。
「……なんだてめえ、いきなり」
途中で止められる。
僕の財布から金を抜いたり、裸にして写真を撮ったり、虫を食わせてきたりした——金髪の、あいつ。
グループの中で、一番僕が苦手な相手。
でも、用事があるのはこいつじゃない。
「ごめん、君じゃないんだ。そこ、どいてくれないかな?」
金髪がずん、と背を曲げて顔を近づけてくる。
圧が強い。息が、喉に引っかかる。
「お前……最近、調子乗りすぎじゃね?」
横を通り抜けようとした瞬間、後ろから腕を掴まれ、グイッと引かれる。
力の差は歴然で、こけそうになる。なんとか踏ん張った。
「おいおい、無視はひどくね」
「ごめん、急いでるんだ。後で——うわ!?」
二の腕を掴む手を解こうとするが、無理やり引き寄せられ、顎を掴まれる。
周りの声がすっと遠のいた。空気が一気に冷える。
「……結構顔いいよなあ、お前。相手、後でじゃなくて……今、してもらいてえな」
言葉の端が、笑っている。
顎を掴んでいた手が落ちて――胸元へ滑る。制服の布が引かれ、ぞわりと背筋が粟立った。
声が出ない。呼吸が、浅い。
教室が静まり返る。
誰も止めない。止められない。——怖いから。
その中で、唯一動いた影があった。
「その手、放しなさいよ」
鏑木さんだった。
つかつかと歩み寄ってくると、ガンッ! と金髪の足を全力で踏みつけた。
「っ!? いってえこの!」
「あんたらから聞いてたずっきーの噂。あれが本当だとしても、どっちがクズかって言ったら、あんたらの方よ」
「てめえ……ボコす!」
金髪が拳を振り上げる。
鏑木さんもボクシングみたいに構える——その時。
ガラリ、と教室の扉が開いた。
そこに立っていたのは、学校の中でも飛び抜けて筋骨隆々な男子生徒。
一条君の親友で、前に僕に土下座をしてきた……えっと、名前は。
「おい、鈴木。その顔、もしかして俺の名前覚えてねえのかよ……」
呆れたように睨まれる。
仕方ないだろう。陰キャはクラスメイトの名前を覚える機会がない。誰とも喋らないんだから。
「小鳥遊だよ、小鳥遊。んで、こりゃ一体どういう状況だよ」
鏑木さんと金髪の一触即発を見て、大きなため息。
「すまん。多分、俺らが悪いんだよな」
「んな、なに言ってんだ小鳥遊! こいつが! 鈴木が舐めた態度取りやがったんだよ」
小鳥遊君が肩を回しながら二人の間に入る。
金髪は援軍が来たと笑い、鏑木さんは構えを崩さない。
……ドゴッ!!
小鳥遊君の、腰の入った拳が金髪の腹に深く突き刺さった。
金髪は声も出せず、そのまま崩れ落ちる。
「すまん、鏑木。こいつのやったことはこれで許してやってくれ。気が済まないなら、俺を殴れ」
「別にいいわよ。殴り合いがしたくて突っかかったわけじゃないし」
そう言って鏑木さんは、隣の僕の腕を掴んで抱き込む。守るみたいに。
「大丈夫?」と目が言っていた。
「えっと……実は、僕から小鳥遊君に……用事っていうか……頼みごとがあるっていうか……」
「……これまで俺たちが酷いことしてきたせい、なんだろうけど。そこまで怯えるなよ」
鏑木さんがキッと小鳥遊君を睨む。
子猫を守る母猫みたいだ。
僕は——日頃の癖のせいで、体がすくむ。
彼らを前にすると、どうしても。
「ああ、いや……そうだな。鈴木の頼みなら断らねえ。気兼ねなく言え」
小鳥遊君は胸をドン、と叩いて、微笑混じりに言った。
「それじゃあ……お願い……してもいいかな」
「ああ。それが少しでもお前のためになるなら、何でもする」
震える体を、必死で制する。
「小鳥遊君って、たしかバイク通学だよね。お願い、乗せてってくれないかな?」
「いいぜ」
間髪入れずに親指を立てる小鳥遊君。
「つっても、どこまで乗せてきゃいいんだ?」
鏑木さんがスマホを差し出してくれる。画面には地図。車のマーカーが点滅しながら、じりじりと進んでいた。
「ジンバルンが出してるこの位置まで、全力で頼む!」
「いいけどよ、ヘルメットはあんのか?」
言われて、僕は一瞬だけ詰まる。教室の視線が刺さった。
「……大丈夫! 法律上ないとダメってだけで、死ぬわけじゃないから!」
「いやダメだが!? 俺が免許剥奪になる!」
「それは……ごめん」
「わーったよ。俺の予備ヘルメットある。バイク持ってくっから校門で待ってろ」
呆れながら笑うのに、断るそぶりはない。
「うん! ありがとう、小鳥遊君!」
まさかこんなにすんなり手を貸してくれると思っていなかった。
嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。背を向けた小鳥遊君の耳が、ほんのり赤かった気がした。
短い足で校門まで急ごうとした時、後ろから鏑木さんの声。
「ずっきー!!」
振り返った瞬間、何かが投げ渡される。
あわあわしながらも、なんとかキャッチした。
鏑木さんのスマホだ。
「それ、あった方が便利なんでしょ! 貸し一ね!!」
ウインクして、親指を立てる鏑木さん。
「ほんとに……本当にありがとう!」
僕も親指を立て返す。
振り返ろうとした、その時。
鏑木さんの口元が、わずかに動いた気がした。
気になって、もう一度振り返る。
「でもさ! ……いや……な、なんでもないや!!」
一瞬だけ、彼女の表情がしゅんと沈んだように見えた。
でもすぐ笑顔に戻って、次はピースサイン。
その笑顔に背中を押されて、僕は走った。
◆
「とまあ、そんなこんなで、凛さんたちの元へとたどり着いたわけです」
話し終える頃には、どんぶりは空になっていた。
凛さんの方は汁まで飲み干している。
「そうか……有栖ちゃんにも、その小鳥遊君にも、お世話になってしまったな」
凛さんは申し訳なさそうに眉を下げる。
けれどどこか、嬉しそうにも見える。
「でも、あたしとらいこの命があるのは、ひとえにお前が——祈里が来てくれたからだ。だから……」
すっと、テーブル越しに凛さんの手が伸びる。
僕は反射的に、頭を少しだけ傾けた。
優しく、凛さんが頭を撫でてくれる。
指先が髪を梳くたび、胸の奥の固いものがほどけていくみたいに、落ち着いた。
「ありがとうな。祈里」
凛さんの微笑みを見て、何故だか僕も笑ってしまった。




