第24話:孔雀眼、開く
そして、翌日のお昼休み。
僕はいつも通り、屋上へ続く階段で昼食をとっていた。
来週の料理当番は僕だ。つまり――妹のご飯を、まるまる一週間食べられなくなる。だから今日くらいは、少しでも味を刻みつけたくて、箸をゆっくり運んでいるわけで。
「……はあ。おいひい……」
けれど天気は最悪だった。
屋上扉の小窓の向こうは灰色。雨粒がガラスを叩いて、視界をぼやけさせている。ここは屋内だから濡れないけれど、空気がひんやりしていて、コンクリの匂いが湿っていた。
そこへ――
タン、タン……と、足音。
僕は箸を止めて視線を落とす。
……この感じ、知ってる。嫌なデジャブが胸の奥をくすぐった。
「……今日もいる。なに、あんた。もしかしてまた苛めでもされてるの?」
一昨日、ここで僕に絡んできた、赤髪のヤンキーさん。
今日も片手に購買のビニール袋をぶら下げて、当然みたいに現れた。メロンパンの甘い匂いが、袋の隙間から漏れてくる。
「べ、別にそういうわけじゃなくて……人が……苦手で……」
言い訳にもならない言い訳を吐いたら、彼女は僕の横を通り過ぎて、数段上に腰かけた。
「だったら話しかけんな、で解決じゃない……」
「そ、そういうわけじゃなくて!?」
「声でかい……」
キッと睨まれる。めちゃくちゃ怖い。
僕は反射で背筋を伸ばし、箸も背筋もピーンとなった。
「ご、ごめんなさい……でも、その……一人は好きなんですけど……みんなといるのも好きで……でも、やっぱり一人の時間も必要で……」
自分で言ってて、めんどくさい。
分かってる。僕は面倒だ。
赤髪さんは、わざとらしいくらい大きくため息をついた。
「あんた……めちゃくちゃ面倒くさいわね……」
「そ、それは……はい。その通りでございます……」
そこから先は、お互い沈黙。
パンの袋を開ける音。弁当箱の底を箸が叩く小さな音。もさもさした咀嚼音だけが、狭い階段にこもった。
――プルルルル……プルルル……
静寂を割る着信音。
一瞬、自分のスマホかと思って胸ポケットを探ったけど、違う。赤髪さんが胸元からスマホを取り出して、短く出る。
「なに。要件は?」
電話越しでも態度が悪い。
……逆に気になる。誰だよ、その相手。
僕は箸を止めて、ちょっとだけ聞き耳を立てた。
「……ええ。分かった。ていうか最近多くない?」
よく聞こえない。
怖いけど、首だけ少し、そっと――
「なに?」
「っ……!」
一瞬でバレた。
僕は即座に正面を向き、箸を静かに動かす。“何もしてません”の顔を作る。
「……分かったわよ。すぐ行く」
ピッ。
通話が切れる音。ビニールをがさごそといじる音。
そろそろ振り返っても怒られないかも、と思って、恐る恐る顔を向けた。
「……え、えと……お友達、ですか?」
「なんであんたに言わなくちゃいけないわけ?」
「いや!? その、ちょっと気になっただけで……!」
――ドガアアアン!!
返事の代わりに、世界が割れた。
凄まじい轟音。
赤髪さんの背中側――屋上扉が、爆ぜるように砕け散った。雨と風が一気に吹き込み、破片が階段を跳ね、粉塵が白く舞う。
赤髪さんの体が、吹き飛ばされて――こっちへ。
「危ない!!」
反射で手を伸ばした。
小柄な体を抱え込む。けれど不安定な階段で踏ん張れるわけがない。勢いのまま、僕は彼女を抱えたまま転げ落ちた。
ゴロゴロ! ガツン!!
踊り場の壁に叩きつけられ、頭が白くなる。
後頭部が熱い。痛い。けど――
「……っ、だいじょうぶ……?」
胸の中の彼女を見る。
額から血がたらり。だけど噴き出すほどじゃない。瓦礫がかすっただけだ。……ただ、気絶している。体から力が抜けて、ぐったりしている。
であれば、問題は変わる。
僕は視線を上げた。
屋上扉には大きな風穴。雨音が、さっきより近い。階段が濡れていく。
そして粉塵が、ゆっくり晴れる、その向こう――
異様な影が、現れた。
ネクタイまで真っ黒なスーツ。細身の大男。
顔には白い布袋。首元を縄で縛って、袋の口をぎゅっと絞っている。
そして何より、右腕が――“うごめいていた”。
黒い流体。
うねうねと形を変え、膨らみ、縮み、蛇みたいに脈動する。まるで黒いスライムが、人の腕の形をしているみたいで。
「おっと……僕としたことが、仕留めそこないましたか……」
袋の中から声が響く。
同時に、肌に刺さる殺意。
(殺される……! 武器、武器は!?)
周囲を見回す。
でも階段に都合よく武器なんて落ちていない。
僕の手に残っていたのは――
「く、来るな!!」
箸、だった。
「……なんだい、それ?」
「そりゃそうだ、無理がある!!!」
僕は即座に戦うのを諦めた。
抱えた彼女を守って逃げる。そう決めて、階段を下りようとした――その瞬間。
ドゴン……ガラガラガラ。
黒い右腕が枝分かれし、進行方向に“檻”みたいに突き刺さる。
逃げ道が、塞がれた。
「そんな焦らなくて大丈夫だよ、君」
コツン……コツン……と、わざとらしく革靴の音。
男は手を広げ、階段を降りてくる。顔は袋で隠れているのに、その下で笑っているのが分かるのが、気持ち悪い。
「僕が用事があるのは、君が抱えているその赤髪の少女だ。その子を渡せば、君の命まで取ろうとはしないさ」
「僕の……命、まで……?」
「そう。その通り。だから安心していい……」
つまり、この子の命が目的。
だったら――絶対に渡せない。
「ごめんね……ちょっとだけ、待ってて……」
僕は赤髪の子を床にそっと寝かせ、自分のスマホを近くに置いた。
(お願い、ジンバルン……凛さんに……!)
落ちた箸を拾い直して、男の前に立つ。
「……く、くはははは!! それで! 箸で戦う気かい!?」
笑い声が階段に響く。
でも、やるしかない。やらないと、あの子が死ぬ。
「どんなわけがあるのか、僕には分からない。でも――あなたがあの子を殺すっていうなら、見逃せない」
「いいね! それ! まさしくヒーローだ! かっこいいね!!」
嘲るように大げさな拍手。
男は降り切って、僕の前に立った。――やれるものならやってみろ、と。
「クッソオ!!」
振りかぶって拳を叩き込む。
ポスン。
……硬い。腹筋の壁。
むしろ僕の手が痛い。
「さあ! ほら! ガンバレガンバレ!!」
ポスン! ポスン! ポスン!!
何度殴っても、まるで効かない。
大人と子どもだ。体格差がありすぎる。
――ドゴオオン!!
「……かはっ」
一瞬。世界が横に飛んだ。
男の左腕が“変形”して、僕を横から吹き飛ばしたのだ。壁に叩きつけられ、さらに黒い巨大な右腕が僕を押さえつける。
ぐり、ぐり、と。
骨が、簡単に折れていく音がした。
コキリ……ベキリ……
僕じゃなかったら死んでる。
「でもね……僕も暇じゃないんだ。あんまり時間をかけるわけには、いかなくてね」
男は僕を潰しながら、赤髪の子へ歩いていく。
「やめろ!!」
「コラコラ、かわいい女の子がそんな口、いけないよ」
ゴキュリ、と、さらに力。
内側が潰れて、口に鉄の味が溜まる。
(ふざけるな……いきなり現れたと思ったら……殺す?)
動けない。
その間に、男の腕が彼女へ伸びる。黒い流体が、巨大な鉤爪に形を変える。
「やめろ……やめろおおおお!!!!」
最後の力で、黒い巨腕から逃れようと腕に力を込めた、そのとき――
頭の中に、声が響いた。
聞いたことのない、少女の声。
『……殺せ……殺せ……殺せ……殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ』
「ころ……す……」
自分の口が、自分じゃないみたいに動いた。
男の動きが止まる。
袋の奥の視線が、僕へ向く。
(……助けたい……違う? これ、違う……)
「ころす……おまえを……ころしたい……」
男の額に汗が滲む。
「……死ぬのは君さ」
ゴキャッ!!
さらに力。内臓が押し潰され、赤い液体がだばだばと床へ落ちる。
なのに――
僕の口は止まらない。
思考が黒く染まっていく。嫌なのに、気持ちがいい。怖いのに、笑えてしまう。
(そうか……僕、殺したいんだ……あいつを)
「……ヒヒッ……殺す」
「なんで死なない!! 化け物かお前は!!」
男が叫ぶ。
黒い腕で、僕を地面に叩きつけ、壁に突き刺し、天井に打ち上げる。骨が砕け、視界が霞む。
それでも僕は、死ねない。
――いや。
“死にたくない”じゃない。
――殺したい。
胸の奥が、そう叫んだ瞬間。
耳の奥で、“通知音”みたいなものが鳴った気がした。
ピロン。
視界の端に、見えないはずの文字が滲む。
――【ギフト:《加虐の魔王》】
――【テュポーン。全てに死を与える、炎嵐。死の化身にして、怪物の王】
僕の瞳が、形を変える。
中心に、海の底みたいな深い青――吸い込まれるほど静かな色。
その周りを、夜空のように淡い青が薄く円を描いて重なり、さらにその外側を、太陽みたいな黄金の輪がきっぱりと縁取った。
そして――最後の層。
草原のようなエメラルドグリーンが、そのすべてを包む。
四つの色が同心円に並び、孔雀の羽の“目”みたいに完成する。
ぞくり、と。視線だけで皮膚の奥を撫でられるような光が走った。
男が腕に力を込める、その前に――僕の口が先に動いた。
「……《天禍暴嵐》」
指先から、小さな光の玉が生まれる。
シャボン玉みたいに軽くて、ふわふわ宙を漂い、ゆっくり男へ近づく。
男が戸惑う。避けることもできず――
男の眼前まで、光の玉がふわり、と漂った。
――その瞬間。
僕は右手の人差し指と親指を重ねる。
一見、指ハートにも見える仕草。けれど次の動作は、愛情なんかじゃない。
すり潰すみたいに。
こすり合わせて――
指先の乾いた音と同時に、シャボン玉が弾けた。
パンッ!
赤が渦を巻いた。
炎だ。炎の嵐が男の体を這い、覆い尽くす。
「くっ……がああああ! なんだ、これは!!」
「死ねよ……お前が!! 死ねよ!!」
汚い言葉が溢れる。
炎は勢いを増し、天井すら焦がした。
男は黒い流体を戻し、体を覆って消火しようとする。
――でも、消えない。閉じ込められた空気ごと、黒い流体が燃え続ける。
「なんなんだ!? これは!!」
同時に、僕の体が宙を舞い、硬い地面に叩きつけられた。
背骨が折れた感触。立てない。だけど目線だけは、男を睨み続けた。憎悪で。
……なのに。
炎が、弱まる。
僕の集中が揺らいだ瞬間、火は痩せていった。
そこへ――
「NDKよ! 大人しくお縄につきなさい!!」
爆ぜる音とともに、桃色の閃光が飛び込んできた。
目にも止まらない速度で僕の前に滑り込む。
黒いハーフツイン。ピンクの地雷ファッション。
――らいこさんだ。
「もう大丈夫よ、祈里君」
「らいこさん! 女の子が!!」
「ええ、それならここに♪」
らいこさんの腕の中に、赤髪の少女が抱えられていた。
いつの間に。速すぎる。彼女はまだ気絶していて、だらんと身を預けている。
「この子、任せていいかしら?」
「はい!」
らいこさんは赤髪の子を僕の隣に寝かせた。
……でも、まずい。僕の体が――戻らない。いつもなら折れた骨も、皮膚も、勝手に元に戻るのに。
「……祈里君?」
らいこさんの声が、少しだけ低くなる。
その瞬間、炎が完全に消えた。
男は、すすが頬についた程度。服が焦げただけで、平然としている。
「あなた……手配書で見たわね。確か……」
「おっと。NDKのナンバー4が来るとは……運が悪い」
二人の間に、緊張が走る。
でも、らいこさんは余裕そうだった。
「名前忘れちゃった。でも“ダンジョンの夜明け”の一人でしょ」
「ええ。お初にお目にかかります。ダンジョンの夜明け団の、万峯天と申します。以後お見知りおきを」
「わざわざどうも。――それじゃ、お縄についてもらうわ」
らいこさんの足元が、バチバチと小さく爆ぜる。
だけど、踏み込まない。踏み込めない。背後に僕たちがいるから。
――それを、相手も分かっている。
「守りながらでは、あなたのギフトは十分に振るえないでしょう? どうです、ここはいったんお開きに――」
ドッ……バンッ!!
言い終わる前に、らいこさんは足裏を地面に“踏み抜く”ように爆ぜさせた。
足は一歩も動かさない。ただ爆風だけが地面を舐め、砕けた小石がふわりと宙へ浮く。
――そこへ、二発目。
跳ね上がった石を狙って蹴りを叩き込み、同時にもう一度、爆発。
爆風は石を弾丸みたいに押し出し、一直線に撃ち放った。
弾丸みたいに飛んだ石が、男の頬をかすめる。
男のガードは間に合わない。
――けれど、首を傾けて直撃を避けた。
「これでもNDKで最速の称号を持つ女よ。舐めないでくれるかしら?」
らいこさんは石を足の甲でリフティングしながら笑う。
そして――連射。
バンッ! バンッ!
男は黒い流体を薄く広げ、盾みたいに受ける。石は穴を開けるが、勢いが削がれて床に落ちる。
でも、そこで終わらない。
らいこさんは砂利や瓦礫の欠片を爆風で浮かして、爆発で散弾みたいに撃ち込んだ。
小さな破片が、隙間から突き刺さる。
「ぐああああ!!」
男の悲鳴。
「くっ……だったら!!」
黒い壁がうねり、こちらへ飛ぶ。
僕たちを包み込むように広がって――
「らいこさん!!」
「……大丈夫」
らいこさんは一瞬だけ僕を見て、にこり。
そして――
クル……ドバン!!
地面に手をついて回転し、手をついたまま後ろへ蹴る。
足が黒い壁に“飲まれた”ように見えた、その瞬間。
ドゴオオオオン!!
爆発。
黒い流体が花火みたいに弾け飛び、雨の中に散っていった。
男が距離を取る。
屋上扉の前へ下がって、淡々と言う。
「……すみませんね。正直、あなた相手だと一人では勝ち目がありません。なので――逃げさせていただきます」
「待ちなさい!!」
男の背中に黒い流動体が集まり、翼みたいに羽ばたく。
そして、彼は雨の空へ飛び立った。
らいこさんは追うために地面を爆破しかけて――止めた。
「らいこさん! 追いかけないと!」
らいこさんは、ゆっくり振り返る。
「それは、ダメよ。怪我の確認と、君たちの身の安全の確保が優先」
「でも僕は――」
「コラッ」
ピシッ。
「あいた!?」
デコピン。地味に痛い。
「私たちNDKは、市民の安全を守るのが仕事なの。悪党退治は二の次」
そう言って、らいこさんは僕の頭を優しく撫でた。
……でもすぐ、眉を下げる。
「それより祈里君。本当に大丈夫? 傷、全然回復してない」
「分からないんです……いつもみたいに、治らなくて……」
「それ、大変じゃない!? すぐ手当てするから!」
背中の小さなピンクの鞄から、赤い箱――救急キットを取り出す。
次に、緑に光る軟膏みたいなもの。
冷たくて、気持ちいい。
「服、脱がせてもいい?」
「はい……ご迷惑おかけします……」
「……なによ。案外胸あるのね、あなた」
「あはは……こんな時にセクハラはよしてください……」
「あら。怪我してる時は笑うのも大事よ。笑顔は百薬の長」
軟膏を塗り、包帯をぐるぐる巻く。
すると――目に見えて、体が戻っていく。折れた関節が正しい位置に戻り、薄皮が傷を覆う。
痛みが、ない。
骨が動いているはずなのに。
「これで大丈夫!」
「それ、何なんですか……?」
「まきまきさんお手製のNDK用特殊軟膏。毒以外なら、だいたい何でも治る万能治療薬よ」
らいこさんは誇らしげに箱をひらひら揺らした。
その間に、先生と警察が上がってきた。
らいこさんが事情を説明し、学校側は「老朽化による崩落」として処理する方針になったらしい。
「……ごめんなさい。僕のせいで、取り逃しちゃった」
「えっ!? いいのよ、そんなこと。あなたたちが無事でよかった」
らいこさんは、裏のない笑顔で言う。
それだけで、胸の暗さが少しだけ薄くなる。
その時――
「なにより、問題はございません。敵、現在、マスターが追跡中です」
僕のスマホから、ジンバルンの声が響いた。
「……ごめん祈里君。スマホ、借りてもいいかしら?」
「はい! どうぞお願いします!」
「ありがとう助かるわ……ジンバルン。凛――マスターのところまで、ナビお願い!」」
「承知しました、らいこ様」
ドゴオオン!!
爆発音とともに、らいこさんは飛び立っていった。
雨の空へ。凛さんのところへ。
そこから、赤髪の少女は保健室へ。
僕は授業へ戻ることになった。
屋上階段での出来事は、学校では「天井崩落の事故」として片づけられた。
僕は、通路が塞がって遅れただけ。疑われることはなかった。
――その代わり。
鏑木さんや日香里さん、志暖さんには、めちゃくちゃ心配された。
でも、僕はそれ以上に――
(……さっきの声、なんだったんだろう……?)
雨音に紛れて、まだ耳の奥で、あの囁きが笑っている気がした。




