第2話:僕が女神になっちゃった
目が覚めた。
――暗い。
視界が黒一色に塗り潰されていて、最初は自分がまだ気を失っているのかと思った。けれど、瞬きをした瞬間、黒の中に“街灯の輪郭”が滲む。遠くのビルの窓が、月明かりを薄く反射している。
気づけば辺りは夜だった。
あれからずっと――寝ていたのだ。
廃れたビル街。人っ子ひとりいない。春の夜風が肌をちくりと刺す。
さっきまで校舎裏で殴られて、蹴られて、砂と血にまみれて――その延長線にあるはずなのに。
「そうだ、ここって……ダンジョ……ん……?」
声を張った瞬間、喉の奥がひゅっと縮んだ。
――声が、おかしい。
高い。自分の声じゃないみたいに高い。
そして体も変だ。痛みがない。あれほど全身を支配していた鈍い痛みが、嘘みたいに消えている。
それだけじゃない。学生服が、妙にゆるい。ぶかぶかで、袖が余っている。
制服の内側に残っていたはずの砂粒のじゃりじゃりした不快感も、なぜか感じない。
「……なに、これ……」
息が白く揺れた。
そして、背後を振り返った瞬間――息が止まった。
ガラスだ。割れたショーウィンドウの残骸が、鏡みたいに反射している。
そこに映っていたのは――見知らぬ少女だった。
だるだるの薄汚れた学ラン。
腰まで流れる、雨の糸みたいに細い純白の髪。
星空みたいに深い青の瞳。
そして、僕が腰を落としているのと同じ姿勢で、地面に座り込んでいる。
「……え」
驚きで後ずさる。靴裏が砂利を蹴り、身体が反射的に距離を取った。
同じタイミングで、鏡の中の少女も後ずさった。
――僕が右腕を上げる。
――鏡の少女も右腕を上げる。
震える指で、恐る恐るピースを作る。
鏡の少女も、まったく同じようにピースを作った。
「……う、そ……」
喉が鳴った。
目が覚めたら――僕は、美少女になっていた。
自分の身体を見下ろすと、実感が遅れて押し寄せてくる。
細く、真っ白な腕。肌の色が“白い”というより、“光を含んでいる”みたいに見える。
胸元がはだけかけていて、反射で凝視しそうになった視線を慌てて逸らす。
――自分の身体だ。
なのに、なぜだか見てはいけない気がした。
「……そうだ。さっきの、セーラー服の……」
あの子。柵を越えた、漆黒の髪の“天使”。
赤い夕焼けの中を駆けていった、あの少女。
その瞬間だった。
――ドゴォン!!
轟音。
隣のビルの壁が、爆発でも起きたみたいに大きく抉れ、ガラス片が流れ星のように降り注いだ。
その破片の下を、ひとりの少女が走り抜けていく。
セーラー服。いや、“それっぽい”衣装。
けれど装備はおかしい。軍靴に、鉄板入りのグローブ。戦場みたいな格好だ。
――あの天使だ。
そして、その背後。
砂煙が晴れていく。
見えてくる影。大きすぎる影。
「……ドラ……ゴン……?」
ビルの二階ほどの背丈。四足歩行の爬虫類。赤い鱗、頭部の角、背中の巨大な翼。
誰もが頭に思い浮かべる“ドラゴン”そのものが、街を壊しながら迫ってきていた。
少女――桐生凛は、走りながら振り返り、何かを取り出した。
ドラゴンが口を開ける。咽奥が赤く光る。
凛は、迷いなくそれを投げ込んだ。
次の瞬間。
――ドカン!!
爆発。黒煙がドラゴンの顔を包む。
凛は踵で急ブレーキをかけ、引きちぎれた道路標識を拾い上げる。
走る。
地面に先端を突き立て、棒高跳びみたいに跳躍する。
空中で標識を手繰り寄せ、槍のように構える――そして落下の重量ごと、煙の中へ叩き込んだ。
ガキン。
硬い音。金属と金属がぶつかるような、嫌な手応え。
凛の身体が空中で止まった。
煙が薄れていく。
現れたドラゴンの顔――凛の突き立てた標識を、口で噛み締めている。
睨みつける双眸が、ぎらりと光った。
凛の額に汗が滲む。
そして――ドラゴンの咽奥が、もう一度赤く煌めいた。
まずい。
凛は逃げられない距離にいる。
次の瞬間、灼熱の炎が一直線に吐き出された。
――助けたい。
考えるより先に、胸の奥がそう叫んだ。
同時に、耳の奥で“通知音”みたいなものが鳴った気がした。
ピロン。
視界の端に、見えないはずの文字が滲む。
――【ギフト:《被虐の女神》】
――【庇いたいと思った対象へのダメージを、全て自身が肩代わりする】
――【付与:異常回復(高)】
――【注意:痛覚は遮断されない】
「……え?」
刹那。絶叫を上げる間もなく、灼熱の炎が凛を包んだ。
——なのに。
凛の輪郭は、炎の中で揺らがない。焦げる匂いもしない。制服の端すら燃え移らない。
まるで“燃えるはずの結末”だけが、彼女から消えている。
次の瞬間。
僕の全身が、燃えた。
制服が一瞬で黒く縮み、布が肌に貼りつく。
熱い。息を吸うだけで喉の奥が裂ける。肺の中まで焼かれていく。
白い煙が、肩や腕から噴き出した。
肉の焦げる匂い。髪が焼ける匂い。世界が黒く霞む。
視界の端で、自分の腕が見えた。
黒い。
そして、その黒が――ぽろり、と落ちた。
炭みたいに崩れた皮膚の下から赤いものが覗き、さらにその奥で、白く硬いものが一瞬光る。
骨――。
「っ……ぁ……!」
喉から、女の子みたいな高い声が漏れた。
痛みが、遅れてじゃない。痛みだけが先に、世界全部を塗り潰す。
熱い。熱い。熱い。熱い。
膝が折れかける。倒れたら終わる。
目の前の彼女が死ぬ。
その確信だけが、焼け付く痛みの中で冷たく残っていた。
――なのに。
次の拍で、熱が“引いた”。
引いたんじゃない。
身体が、勝手に“直っていく”。
焼け落ちた皮膚の縁が、濡れた膜みたいに盛り上がり、じわじわ伸びる。
煙が、湯気に変わる。
覗いていた骨が薄い肉に覆われ、その上から新しい皮膚が被さっていく。
速い。速すぎる。
数秒前に炭になった部分が、いまは“生きた肌”を取り戻していく。
――ただし。
痛みは消えない。
焼かれた記憶が神経に刺さったまま、皮膚だけが平然と繋がっていく。
治っているのに痛い。痛いのに立っている。
「……なに、それ……」
凛の声がした。
彼女は炎の直撃を受けたはずなのに、ほとんど無傷だった。
代わりに、僕が煙を吐いて、立っている。
ドラゴンが一瞬、動きを止めた。
理解できないものを見る目で、こちらを睨む。
凛が僕を見る。驚きと警戒、その奥に――判断の光。
「……おい、君。今の、全部――君が……?」
答えたい。
でも喉の奥が焼けついて、息をするだけで精一杯だった。
僕は震える指先で胸を押さえる。
生きてる。けど確かに燃えた。
それなのに、勝手に治った。
凛は一瞬だけ、目を細めた。
怒鳴るでもなく、笑うでもなく――確かめるみたいに、僕の顔を見て。
「……大丈夫。今はいい」
すぐに周囲へ視線を走らせ、ドラゴンの位置を測る。
背後で咆哮が落ちた。夜のビル街が震える。骨の奥まで響く獣の声。
凛が、僕に向き直る。
「走れるかな?」
返事は出ない。
僕は必死に息を吸って、でも声にならなくて――首を、横に振った。
一瞬、凛の眉がきゅっと寄った。
迷いじゃない。判断だ。
「……分かった。掴まって」
次の瞬間、凛は僕の身体に腕を回し、軽々と抱き上げた。
お姫様抱っこ、なんて言葉が浮かんで、頭のどこかが場違いに冷える。
でも現実は、あまりにも熱い。凛の腕は硬くて、揺れない。
引っ張られて動くんじゃない。
僕ごと、運ばれていく。
視界が揺れる。身体の奥がまだ熱い。痛い。
それでも――凛の体温が近い。呼吸が聞こえる。迷いのない足音が耳元で刻まれる。
ドラゴンが吠えた。
凛が走る。僕は抱えられたまま、夜の街を流れていく。
その顔を見上げながら、胸の奥で、別の感情が形になる。
――うれしい。
僕は臆病で、ただ耐えるだけの自分が何より嫌いだった。
何があっても我慢、我慢、我慢。そんな自分が大嫌いだった。
でも今は違う。我慢するだけで――目の前の天使を、助けられる。
いじめとは比べ物にならないほどの激痛。だというのに、なぜか僕の心には喜びが芽生えてしまった。
痛みが嬉しいんじゃない。
“助けられる”ことが、嬉しいんだ。
たったそれだけで、この激痛が全部嘘みたいに軽くなる。
痛みがあってもいい。焼けてもいい。
僕がここにいる理由が、ようやく出来た気がした。
「……来る」
凛が僕を庇うように、抱えたまま身体の向きを変える。
その瞬間、僕の中で《被虐の女神》が、もう一度――
――ピロン。
冷たい通知音が鳴った気がした。
そして、世界が灼熱に染まる。




