第14話:渋谷区第3エリア、放課後監獄
抜き足、差し足、忍び足。
息まで殺して、つま先立ちで廊下を進む。
時刻は午後七時。リビングの方から、包丁がまな板を叩く小気味いい音と、油のはぜる匂いが流れてくる。――妹が夕飯を作っている。いつも通りの、平和な家の音。
だからこそ、今から自分がやろうとしていることが、異物みたいに重かった。
階段を二、三段――数歩だけ上ったところで、足が止まる。
「……お兄ちゃん?」
背中に声が刺さって、心臓が跳ねる。振り返ると、階段の下に香苗がいた。エプロン姿。片手には菜箸。上目遣いの心配そうな顔――次の瞬間、視線が鋭くなる。
「どうされたんです? こそこそと……」
一瞬、心配そうに揺れていた瞳が――すっと細くなる。
眉が寄り、口元から笑みが消えた。睨むような、厳しい目。こんな顔を見るのは数年ぶりだ。
「……お兄ちゃん。何か私に隠してますよね。大事なことを」
見透かされている。冷や汗が、首筋を伝った。
(友達を助けに、今からダンジョンに行ってくる)
その一言が言えたら、どれだけ楽だろう。
でも――言えない。言うなら、今じゃない。
「その……友達と、喧嘩しちゃってさ。だから……その……」
苦しい。言葉が、喉で絡まる。
「……はっきり言ってください。私に何を隠してるんですか」
逃げられない。僕は息を吸い込んで、半分だけの真実を差し出した。
「友達と仲直りしてくる。……もしかしたら、今日は戻れないかもしれない」
嘘だ。
いや、嘘“だけ”じゃない。――真実でもない。
半分の事実と、半分の嘘。
香苗は僕の目をじっと見て、唇を結んだ。納得したというより、飲み込んだという顔。けれど彼女は、それを表に出さない。
「……分かりました。明日には絶対、帰ってきてくださいよ?」
しぶしぶ。だけど、眉を下げて笑う。
その笑顔が、胸に刺さる。
香苗は踵を返し、キッチンへ戻ろうとする。――その背中に、思わず声が出た。
「香苗!」
彼女が振り返る。一瞬だけ、心配そうな素顔が覗いて――すぐにいつもの笑顔に戻った。
「どうされました?」
言いたいことは山ほどある。けど、出てきたのは幼いほど短い言葉だった。
「……いってきます」
香苗は大きくため息をついて、肩をすくめた。
「仕方のないお兄ちゃんです。いってらっしゃい」
笑顔のまま去っていく。あれがポーカーフェイスなのか、それとも本心なのか。恥ずかしいくらい、僕には判断がつかなかった。
――でも一つだけ、確かなことがある。
(何としても、この笑顔は守らなきゃ)
階段を上がり切り、僕は自分の部屋へ飛び込んだ。
戻ってきた理由は一つ。
凛さんにもらった関節プロテクターを、セーラーの上から装着する。少し不格好だ。でも、あるとないとじゃ、命の重さが違う。
大きなリュックを引き寄せて、荷物を詰め込む。
ホームセンターで買った手斧。胸に取り付けられるライト。ロープ、非常食、寝袋。使うか分からないものほど、捨てられない。――捨てた瞬間に後悔しそうで。
よし、と息を吐いて部屋を出ようとした、その時。
「何を……されているのでしょうか?」
ポケットの中から声がした。
スマホから。機械音声にしては、妙に滑らかで、人の体温がない声。
「この声……ジンバルン!? どうして僕のスマホに?」
「先日のアップデートにて、祈里様の端末にも搭載可能となりました」
冷たいのに、正確。……ジンバルンだ。
そういえば、前のダンジョンで壊れたスマホの修理は凛さんに任せた。まさか、そこから――。
「……あの時か」
「はい。その時です」
流石は凛さん。……いや、感心してる場合じゃない。
「それで、祈里様は一体なにを?」
言葉に詰まる。
一人でダンジョンへ行く――そんなことを言えば止められる。
「一人で……ダンジョンへ向かわれるからでしょうか?」
バレてる。
僕なんかの頭で、人工知能の目を誤魔化せるわけがない。半ば諦めて、聞いた。
「どこから聞いてたの?」
「祈里様がスマホを所持されている間の会話は、全て」
つまり、全部。
スマホを手放す時間なんて、ほとんどない。最初から丸裸だったわけだ。
「……そうだよ。でも、凛さんには言わないで」
「それは……どうして?」
喉が詰まる。言えば楽になるのに、言えない。
「……これは僕の問題なんだ。凛さんには関係がない」
「だとしても――」
「頼っちゃいけないんだ」
淡々と遮った。全部、本心だ。
理屈ならジンバルンに勝てない。だから本心を並べるしかない。
「ここで凛さんを頼れば、きっと問題は楽に解決する。……でもそうしたら、僕は一生、苦しくなる」
うまく言えない。けど、言わないと届かない。
沈黙が部屋に落ちた。ジンバルンが、初めて“考えている”みたいに静かになる。
「……承知しました。ですが、一つだけ条件があります」
「条件?」
「私を連れて行ってください。現在の端末状態では機能の大半が制限されていますが、ダンジョン知識の提供、ならびにライト代わりにはなります」
一瞬、迷う。
できるなら誰の力も借りたくない。でもそれは、ただのわがままだ。
僕が一人で突っ込むのは無謀だ。自殺と変わらない。
一条君を助けることを最優先にするなら――。
「分かった。……手を貸してくれ、ジンバルン」
返事の代わりに、スマホがぶるっと震えた。画面に表示されたのは渋谷区の地図。
「渋谷区のダンジョンは計三つ。一つ目はミノス。二つ目は凛さんと出会ったあそこ。……でもどっちも今は厳戒態勢で侵入は困難だったはず」
「その通りです。現在は戦闘後の修復、モンスターの解体・研究が進行中で、一般人の侵入は事実上不可能です」
ジンバルンは正確で、容赦がない。
でもそれが今はありがたい。僕の“逃げ”を許さず、考えさせてくれる。
「……一条君の性格なら、まず自分が被害にあったミノスダンジョンへ行く。でも入れない。だから次に“近い別のダンジョン”を調べる。ってことは……」
画面が隣の区まで広がり、ダンジョン位置にピンが刺さる。
「渋谷区第3エリア。現状、最寄りです」
経路検索。電車、徒歩。一時間もかからない。
時間をかければかけるほど、一条君に迫る危険は増える。
僕はスマホをポケットに戻し、リュックを背負って部屋を飛び出した。最後に、まきまきからもらった、もこもこの白いアウターを羽織る。……意味は薄い。けど、“戻ってこれる気”が少しだけ増える。
電車を乗り継ぎ、歩いて数十分。
渋谷区第3エリア。
渋谷にある三つのダンジョンの、最後の一つ。
目の前に佇むのは――廃校舎だった。
元は中学校。長年放置され、いつの間にか“ダンジョン化”したらしい。
ミノスの迷宮とは違う。
身近すぎるものが壊れている恐怖。
校庭の草は伸び放題で、窓ガラスは黒く濁り、夕闇の中で校舎だけが“待っている”みたいに立っていた。
「通称、放課後監獄。ダンジョンボスは討伐済みですが、それでもなおモンスターが溢れ、近隣住民に被害が出ています」
ジンバルンの声が、静かな住宅街に小さく響く。
僕はリュックの脇に固定した手斧を握り直した。小さい。頼りない。――でも、無いよりはずっとましだ。
封鎖された校門をよじ登り、指先に冷たい鉄の感触を感じながら中へ入る。黒い門は不気味なほど冷たく、ところどころ錆びていた。
よじ登って、跳ぶ。
校庭に着地した、その刹那。
キィーン、コォーン、カァーン、コォーン――
不気味に響く無機質なチャイム。
さっきまで、そんな音は一切なかったのに。僕が侵入した瞬間、校舎全体が“入室を検知した”みたいに鳴った。
重低音が骨まで響き、鼓動が跳ね上がる。
その震えと同期するように、ポケットの中で、スマホがぶるっと震えた。
反射的に取り出す。
画面が点灯する。――しかし、聞こえてきた声は、いつものジンバルンの“淡々”ではなかった。
焦ったような、どこか不思議そうな震えが混じっている。
「これは……いったい……」
僕は何も触っていない。
それなのに、いつの間にかYouTubeライブが開始されていた。画面の隅で、赤い「LIVE」が点滅している。
コメント欄が、ひとつだけ更新される。
【視聴者:???】『配信を始めよう』




