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第1話:天使の翼を追いかけて

「は~いみなさーん!! 見てますか!? 見てますよね!!」

「どうも……だんじょ~ん!ちゃんねる♪へようこそーーーー!!」


 たったったっ、と硬い石畳を蹴る音が、狭い通路の壁に跳ね返って木霊した。

 湿った空気。土と鉄の匂い。やけに天井の高い回廊。ライトの届かない先は、黒く、冷たい。


 そんな場所を、ひとりの少女が走っている。


 艶のある黒のショートボブが、跳ねる毛先だけを残して首筋に沿い、走る視界を邪魔しない。可愛らしい丸みはあるのに、どこかスポーティ――戦うための髪だ。


 セーラー服。――いや、厳密には“それっぽい”格好だ。配信映えのためのコスチューム。

 ただしグローブや関節プロテクターは鉄板入りの軍用品、靴もゴツい軍靴。制服だけが学校帰りで、装備だけが戦場。ちぐはぐさが逆に目を引く。


 宙を浮いて、彼女の少し前を飛ぶスマホが、ジンバルみたいに顔を追う。配信用の自撮りドローン……の、超簡易版。

 視聴者に届いているのは、息の荒さと、足音と、彼女のテンションだけだ。


「今私は! はい、いつも通りダンジョンです!! 今から後ろにいるミノタウロスちゃんをボコっていきたいと……!」


 走りながら親指で背後を指した直後。


 彼女は踵で石畳を噛むように急ブレーキをかけ、砂埃を舞い上げて振り返った。

 視界に入る巨体。体長三メートル級。牛頭の怪物――ミノタウロス。鼻から白い息を噴き、斧を構えて迫ってくる。


 距離、数メートル。十分。彼女のレンジ。


 彼女は逃げない。むしろ踏み込んだ。

 ミノタウロスが反射で応じる。巨大な斧を横薙ぎに振り抜く。風を裂く音が通路を鳴らした。


 だが斧が切ったのは空気だけだった。


「……は?」


 答えは“下”。

 彼女は即座に身を低く落とし、石畳を滑るようにスライディング。斧の軌道の下をくぐり、巨体の股下をすり抜ける。


 斧が狭い壁に、がんっ、と突き刺さった。

 抜けない。引き抜こうとミノタウロスがもがき、背中が無防備になる。


 彼女はミノタウロスの角を両手で掴んだ。引くんじゃない――支点にする。

 一度、倒立。世界が反転した刹那、体幹をしならせて勢いを作り――


「死ねやゴラァ!!」


 膝を、脊椎の真上へ叩き込む。


 ガンッ、と骨に響く鈍音。

 反動で彼女の身体がふわりと浮く。着地するより早く、もう一発。


 ドスンッ。二度目の膝蹴りが背を穿ち、巨体がわずかに揺らいだ――それでも、まだ倒れない。


「……まだ立つかよ」


 彼女は左腕で角を押し込み、同時に背を蹴り上げる。重心が前へ崩れた瞬間――

 体重ごと、肘鉄を脳天に落とした。


 ガンッ。


 衝撃に耐えきれず、ミノタウロスの上体が“がくん”と落ちる。

 巨体が前のめりになり――両手が、石畳に叩きつけられた。


 彼女は、その背中を踏み台に跳ぶ。


 空中で一回転。

 制服の裾が翻り、黒髪が弧を描く。


 そして――落下。


 狙い澄ました踵が、後頭部へまっすぐ落ちた。


 ゴキャッ


 分厚い頭蓋が割れる鈍音。

 血しぶきが壁と床を赤く汚し、ミノタウロスはぴくりとも動かなくなった。


 少女は肩で息をしながら、ふわりと近づくスマホへ視線を向ける。


「はぁ……はぁ……ということでミノタウロス、素手でボコボコにしてみたでした~」


 指で画面をたぷたぷ。表示された数字を見て、表情が固まる。


「……同接……いち……?」


 一瞬、配信者の笑顔が抜け落ちた。


「ひ、と……り……?」


 ――そう。彼女は桐生凛(きりゅうりん)、20歳。大学三年生。

 ド底辺配信者なのである。


「くっそがああああああああああ!!!!」


 激情のまま、スマホを壁へ叩きつけた。乾いた衝撃音。画面に蜘蛛の巣みたいなヒビ。

 ……なのに、配信は切れていない。


「は? え、まだ生きてんの? ……いや生きてんのは良いけどさ……!」


 凛が拾い上げた瞬間、コメント欄に文字が流れた。


【視聴者:???】『見ている』


「そりゃ見てるだろ!! お前以外にリスナーいないんだからさ!!」


 ピロン、と通知音。追撃。


【視聴者:???】『桐生凛。現在:渋谷区二丁目 第2エリア 第3層・北回廊。出口まで1,247m。背後、右壁』


 凛の背筋がぞわりと冷えた。


「……は? 座標? 第三層って何で知って!? てか背後――」


 反射で右を見る。

 斧が突き刺さった壁の亀裂。その奥の暗がり。そこに、“いる”。目でも影でもないのに、呼吸の数を数えられているみたいな圧。


 そして――足音。


 どすん。どすん。

 石畳がわずかに震える。近づいてくる。少しずつ正体が露になる。


 ミノタウロス。

 だが先ほどの個体とは天と地ほどの差。同じ体長のはずなのに筋肉量が違う。肩幅が壁みたいで、首が短い。手に持つ斧も、さっきのものが玩具に見えるほど巨大。刃先には、乾いた黒がこびりついていた。


「……マジか」


 凛は口角を吊り上げた。怖い。もちろん怖い。

 でも、それ以上に胸の奥が熱い。強い。映える。バズる。そんな単語が脳内で踊る。


【視聴者:???】『続けろ。次は“それ”が来る』


「へえ……やってやろうじゃん!!」


 ミノタウロスが、にい、と笑った――ように見えた。

 次の瞬間、斧が持ち上がり、空気が重くなる。


「——うおおおおおッ!!」


 凛は正面から踏み込んだ。

 真正面からぶつかれば死ぬ。だからこそ、“正面に見せて”斜めにずらす。


 斧が落ちる。

 凛はギリギリで内側へ潜り、腕の外側を滑らせるように回り込む。風圧だけで髪が跳ね、頬が裂けそうになる。


「っ、重……!」


 その一撃で床が抉れ、石の破片が散った。

 凛は破片を踏み、滑りそうになる。それを体幹で捻じ伏せて、反撃――ではない。


 反撃は“今じゃない”。

 勝てない相手と殴り合うほど、凛は馬鹿じゃない。


【視聴者:???】『右壁。亀裂の奥。狭い』


 コメントが落ちた瞬間、凛は理解した。

 通路の右壁。先ほど斧が刺さって砕けた亀裂。そこに、人間一人が滑り込める“裂け目”がある。


「……誘導してんのかよ」


 凛は走る。

 ミノタウロスが追う。どすん、どすん、と震える足音。斧が振り上がり、通路の影が伸びる。


 凛は壁際へ寄り、わざと足音を大きくした。

 追いつける、と思わせる。叩き潰せる、と思わせる。相手は脳筋だ。思わせた瞬間、勝負になる。


 斧が振り下ろされる――。


 凛は、壁の亀裂へ身を投げるように滑り込んだ。

 背中が岩に擦れ、制服の布が裂ける。痛い。だが死ぬよりマシ。


 斧は亀裂の縁を叩き、岩盤が砕けて狭い空間に砂と石が雪崩れ込んだ。

 ミノタウロスが咆哮する。裂け目に入れない。巨体が邪魔で、腕だけが無理やり突っ込んでくる。


「――手、来た」


 凛は拳を握った。

 狭い空間は、凛のホームだ。間合いを殺せる。斧を殺せる。力を殺せる。


 突っ込んできた腕へ、肘を叩き込む。関節をずらす。

 次に、指。握るための筋。そこへ踵で踏み抜く。

 獣の腕が反射で引っ込む。痛みは、サイズに関係ない。


 ミノタウロスが苛立ち、壁を叩いた。岩が軋む。裂け目が揺れる。

 このままでは潰される。凛は歯を食いしばった。


【視聴者:???】『出口まで。走れ。今』


 ――逃げろ、ってことか。

 凛は笑った。自分でも驚くくらい、口角が上がった。


「指示厨マジでうざいんだけど」


 そう言いながら、凛は動いた。

 裂け目の奥へ。岩の隙間を這い、狭い抜け道を抜ける。出た先は別の回廊。空気が少し乾いている。


 背後で轟音。

 ミノタウロスが壁を壊し始めている。追ってくる。時間はない。


 凛は走る。肺が焼ける。脚が悲鳴を上げる。

 でも、道が分かる。コメントが、次々に落ちる。


【視聴者:???】『左。段差。飛べ』

【視聴者:???】『右。落盤注意』

【視聴者:???】『直進。風がある。出口近い』


 従うしかない。

 癪だ。でも命がかかっている。何より――この“誰か”は、ダンジョンの地形を知っている。


 遠くでミノタウロスの咆哮。近づいてくる。

 凛は最後の角を曲がり、見えた。階段。上へ続く、現代のコンクリ壁へ溶け込むような出口。


「っ……!」


 凛は階段を駆け上がり、地上の冷たい夜気に飛び出した。

 街灯の明かり。金属フェンス。監視カメラ。立ち入り禁止の札。

 ダンジョンは“現代”にある。その現実が、逆に気持ち悪い。


 背後で、地鳴りが止まった。

 境界から先へは出て来られない――らしい。フェンスの向こう側で影が揺れ、咆哮が夜に吸い込まれていく。


 凛は膝に手をつき、息を吐いた。スマホを見る。

 画面のヒビの向こうで、コメント欄だけがやけに静かに光っていた。


【視聴者:???】『よくやった』


「……なに者だよ、お前」


 返事はない。

 ただ、配信の数字は相変わらず“1”のままだった。


 凛は笑ってしまった。

 最低だ。怖い。気持ち悪い。なのに――胸の奥が妙に満たされている。


 夜道を歩き、ボロいアパートの扉の前に立つ。鍵を回し、ドアを閉め、薄い空気の部屋に戻る。


 女の子らしさは一切ない。

 作業机にゲーミングチェア。畳まれた布団。床のサンドバッグ。懸垂バー。重たいダンベル。

 “強くならないと死ぬ”部屋。


「……はぁ」


 凛はシャワーを浴び、傷を洗う。痛い。でも慣れている。

 髪を乱暴に拭いて部屋へ戻り、ひび割れたスマホを机に置いた瞬間――控えめな通知音。


 ピロン。


【新着メッセージ:???】『明日、ダンジョンに行け。運命が待つ』


「……は?」


 短い。命令口調。温度がない。

 でも――“知っている”感じがする。ダンジョン内のコメントと同じ匂い。


 凛は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「……運命、ねえ」


 怖い。気持ち悪い。

 それでも、行かないという選択肢が最初から無いみたいに思えてしまう。


 ――だから、八つ当たりが必要だった。


 凛は無言でサンドバッグの前に立つ。

 踏み込み、腰を回し、脚を振り抜く。


 ドンッ!!


 鈍い衝撃が部屋を揺らした。サンドバッグが大きく振れ、戻ってくる。

 戻ってきたところへ、もう一発。


 ドンッ!! ドンッ!! ドンッ!!


「……くそ……っ」


 痛いのは脚じゃない。

 悔しいのは数字じゃない。

 怖いのはダンジョンじゃない。


 “見られている”のに、“誰にも見られていない”この感じ。

 その矛盾が、胸の奥をじわじわ削っていく。


 最後に、思い切り蹴り込んで――凛は息を吐いた。


 そして布団に潜り込む。

 スマホのヒビは月明かりみたいに細く光り、やがて闇に溶けた。


「……明日も、潜るか」


 目を閉じる。

 初日は、そこで終わった。


    ◆


 翌日、朝。そして春だ。


 学ランを第一ボタンまでしっかり留め、大きなリュックサックを揺らしながら坂道を上る少年がいた。

 髪は眉よりも上で切られ、サイドは刈り上げ。頭髪検査にかからない、学校指定の完璧な髪型。

 春休み明けでそこまで律儀な僕は、どこか周りから浮いて見えた。


 そう……僕だ。


 名前は鈴木。17歳。高校二年生。

 甘ったるくも酸味のある青春の日々が始まる――わけもなく。


 二年生になって変わったのは教室が一階から二階に上がったことくらい。

 教室の空気は相変わらず騒がしく、誰かの笑い声と、誰かの居場所で満ちている。


 僕の席は変わらず一番前の真ん中。先生の目の前だ。


「というわけでお前ら~ 明日からは平常授業だからな。寝坊するなよ~」


「は~い! 俊介も寝坊すんなよ~」


「先生を呼び捨てにするな~」


 そんな他愛もないやりとりでホームルームは終わった。

 皆が一斉に立ち上がり、部活、図書室、遊び――それぞれの“誰か”へ向かう。


 ……僕を除いて。


「僕を除いては……」


「あれ? ずっきーなんか喋った?」


 呼ばれたのは、クラス一の陽キャ――鏑木かぶらぎさんだった。

 それだけで心臓が跳ねた。汗がにじむ。声が震えそうになる。


「い、いえいえ! 別になにも!!」


「そっか~」


「なにやってんの鏑木。早く部活行こ」


「ごめんごめん! すぐ行く!!」


「それじゃね!!」


 鏑木さんは笑って去っていく。

 その背中を見送るだけで、胸の奥がうるさくなる。


(で、でも新学期早々からクラス一の陽キャの鏑木さんと喋っちゃった! らっきー!!)


 ……なんてことは無かった。


 後ろから誰かに肩をポンと叩かれる。

 一瞬、鏑木さんかと思った。けれど――重い。大きい。女子の手じゃない。

 冷たい汗がつうっと頬を撫でた。


「な~に鼻の下を伸ばしてるのかな? 鈴木くん」


「うひっ!」


 恐る恐る振り向く。太く、丸太みたいな筋肉質の腕。

 見上げた先には坊主頭の骨ばった顔。知らないわけがない。

 野球部のエースにして、学園カースト最上位の男――一条。


「い、一条くん。ど、どど、どうしたの……?」


「春休み終わったしさ。大好きな鈴木くんにも会えたことだし。ちょ~っとお話ししたいなって思って」


 肩の手にぐっと力が入る。指が食い込み、骨が鳴きそうな痛み。

 周りには取り巻き。僕を囲い、笑い、逃げ道を塞ぐ。空気が薄くなる。


「ちょっと校舎裏来いよ……」


「え、いや、その……ここじゃだめ……かな?」


 一条は笑顔のまま僕の耳元へ顔を寄せ、囁いた。


「別にいいけどよ……みんなの前でボコボコにされるのと、裏でボコられんの……どっちがマシだよ」


 どっちも嫌だ。

 そう言えれば良かったのに、喉が詰まって声にならない。

 先生も見て見ぬふりをする。止めないんじゃない。止められないんだ。


 一条は脇の下から手を回し、そのまま僕を持ち上げた。足が地面に着かない。

 取り巻きの笑い声が、遠い。


「ああ! 俺ってばなんて優しいんだろうな! 相手のことをここまで思いやれるなんて!」


 そのまま僕は校舎裏へ連れていかれた。

 拳の痛みと、靴の痛みと、言葉の痛み。

 世界が遠のく中で、僕の口から出たのは――


「……ごめんなさい」


 何に対して謝っているのか自分でも分からない。

 自分が悪くないことくらい、頭では分かっている。

 それでも謝った。謝れば終わるかもしれないと、どこかで信じたかった。


 気付くと空は赤らんでいて、夕方のチャイムが鳴った。

 痛む身体に鞭を打って、上体を起こす。


 今日は運がいい。下着は無いが、制服は残っていた。

 砂まみれの学ランを拾い上げ、震える手で袖を通す。


「……帰ろ」


 叩いても砂埃は落ちきらず、肌にちくちく刺さる。

 それが、なぜだか異様につらかった。

 去年からずっと使っている制服でさえ、自分に棘を向けてくるみたいで。


 ――そんな帰り道だった。


 異様なものが目に入った。

 二メートルはある銀色の立ち入り防止柵を、軽々と飛び越える影。

 封鎖区域の中へ侵入するセーラー服。


 綺麗だった。


 赤い空を背景にたなびく漆黒の髪。前だけを見据える黒い瞳。

 一挙手一投足が、美しい。


「……綺麗」


 そう、僕は恋に落ちた。

 目の前を横切った、その漆黒の天使に。


 彼女は柵の向こうへ消えていく。

 僕はようやく現実に引き戻される。看板。封鎖。警告。


「ここって……ダンジョン……?」


 ダンジョン。現代に発生した異空間。中には化け物がいて、一般人の侵入は禁止。

 内部は一般公開されず、すべてが謎に包まれている。


 それでも――いや、むしろだからこそ。

 今の僕には、その“別世界”がやけに魅力的に見えてしまった。


 身体が勝手に動く。

 銀の柵に手をかけ、体を引き上げ、よじ登っていく。

 普段運動をしないせいでうまく登れない。途中で落ちそうになる。


 それでも、地獄に落とされた蜘蛛が糸にすがるみたいに、僕は柵に這いつくばった。


 天使が向かった先だ。

 そこが天国じゃないはずがない――そんな根拠のない確信が、僕の背中を押した。


 視界が開ける。向こう側は荒れて、汚れて、空気が違う。

 世界の継ぎ目みたいな場所。


 僕は一歩、手を差し伸べた。


 ――その時だった。


 全身に激痛が走った。

 さっきの痛みなんか比にならない。骨の内側から引き裂かれるみたいな熱と冷たさ。

 視界が揺らぐ。声が出ない。息の仕方すら分からない。


 そして――耳の奥で、なぜか“通知音”みたいなものが鳴った気がした。


 ピロン。


 誰かが、僕を見ている。

 その確信だけを残して、僕は痛みに身を任せ――柵から落ちた。

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