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それを真実の愛というのなら

作者: 海野はな

 婚約が整ったのは、お互いが十歳の時のことだった。


「はじめまして、ギルバート殿下。クリスティーナと申します」


 綺麗な所作で挨拶を受けたとき、ギルバートの心が大きく揺れることはなかった。

 濃い栗色の長い髪に、緑の瞳。整った顔立ちの彼女は、作り込まれた微笑みを浮かべていた。たしかに美しい少女だ。だけど、強いて言うならばこの人が自分と結婚する人なのかと、そう思った程度だった。

 別に悪い印象があったわけじゃない。かといって感動するような何かがあったわけでもなかった。


 そしてそれはきっと、相手も同じだったはずだ。


「はじめまして、ギルバートだ。これからどうぞよろしく」


 彼女に呼応するように、貴族らしく挨拶をする。

 青みがかった銀髪に紫の瞳。薄く微笑みをたたえた顔はそれなりに整って見えることを、ギルバートは知っている。だけど彼女は特別に感情を揺らした様子もなく、変わらずに微笑んでいるだけだった。



 第一王子のギルバートと、筆頭公爵家の令嬢クリスティーナ。

 誰が見ても無難で、まあそうなるだろうなという政略的な組み合わせの婚約は、本人たちの意志とは関係なく決められたものだった。


 ◇


 恋とは、落ちるものだという。

 そんな話を聞いたことはあったけれど、ギルバートは自分の身に起こることを想像したことはなかった。なにせ決められた婚約者はすでにいて、自分の未来も決められたものであるのだから。



 婚約してから、ギルバートはクリスティーナと共に学ぶ時間が多くあった。いずれ王家の一員として、おそらく王と王妃になる者としての教育は多岐に渡り、例えば語学だとか、歴史だとか、二人に必要な教育は一緒に受けた。


 もちろん立場の違いによって学ぶべきことは違う。ずっと一緒にいるというわけではないけれど、共にいない間もそれぞれ勉学に励んでいることは知っていた。


 一緒に勉強したあとは、二人でお茶を飲むのがいつもの流れだった。婚約者の交流という名目ではあったけれど、二人にとってはお菓子を食べる休憩時間のような気分だった。

 そこで二人はいろんな話をした。それは別の時間に学んだことだったり、一緒に学んだけれどわからなかったことだったり、並べられたお菓子の中で好きなものを言い合ったり、嫌いな教師の悪口だったりもした。


 仲が悪いとはおそらくお互い思っていない。むしろどちらかといえばいいほうだと思っている。


 婚約当初は仕方のないことと理解はしつつ、勝手に相手を決められたことへの反発もあった。ギルバートはクリスティーナのあまり笑わず、いつもツンとすましているところが嫌だった。クリスティーナもギルバートの嫌なところはあっただろう。ささいなことで睨み合ったり、喧嘩もした。

 だけど共に厳しい教育を乗り越えることで、次第にお互いを理解しあうようにもなった。

 

 時には弱音を吐いて、時には愚痴を言い合い、時には慰め合った。

 そうして過ごしているうちに、二人の間に絆のようなものは芽生えた。

 だけどそれが恋になることはなかった。


 二人の関係を言葉で表すなら、戦友、同志、仲間、そんな感じだ。家族のような存在、というのもあるかもしれない。


 恋をするにはまだ幼かった時期から一緒にいすぎたのかもしれないし、それでいて忙しすぎたのかもしれない。



 ギルバートとクリスティーナは十五歳になり、三年制の王立学園にそろって入学した。この学園を卒業すると同時に成人とみなされ、そして準備期間を経て二人は結婚する。そう決められている。

 ギルバートたちに限らず、貴族の家に生まれた多くの者が決められた相手と結婚する。学園生活は独身最後の自由を得られる時間だと言ったのは誰だったか。



 そんな学園生活も二年目に入って半分ほど過ぎた頃のこと。


「あの、すみません」


 ギルバートはそうかけられた声が自分に向けられたものだと認識するまで、少しの時間を要した。なにせギルバートは第一王子。学園の中で一番身分が高い。


 この国では挨拶を除き、身分の高い者から声をかけるのが常識だ。特に初対面であれば、低い者から高い者へは基本的に声をかけない。事情があれば発言の許しを得てから口を開くものだ。

 学園の中ではそこまで厳しく言われることはないが、それでもギルバートは気軽に話しかけられることはほとんどなかった。


「あ、の! これ、落としましたよ」


 大声とまではいかないけれど張り上げた声に振り返ると、一人の女子生徒がハンカチを差し出している。そのハンカチはたしかにギルバートのものだ。


 小柄な体型にふわっとしたストロベリーブロンドの髪、クリッとした瞳は小動物を思わせる。まっすぐにギルバートの目を見てハンカチを差し出すその姿を見て、ギルバートはなぜか鼓動が速まるのを感じた。


 彼女の後ろから別の女子生徒が慌てた顔でやってきた。ぎりぎり走っていないが、相当急いでいるのがわかる速さだ。そして彼女と並び、勢いよく頭を下げる。


「どうした?」

「も、申し訳ございません」


 ギルバートが続きを促すと、女子生徒は説明を始めた。

 最初に声をかけてきた女子生徒は元平民であること。聖属性があったことから聖女候補として男爵家に引き取られ、急遽編入が決まって学園に来たばかりであること。謝罪の言葉を口にした女子生徒は男爵家と縁のある伯爵家の娘で、まだマナーのできていない聖女候補のお目付け役であること。


「聖女候補の編入生が来るという話は聞いていたが、君のことだったか。名は?」

「ダリアと申します。あなたは?」


 習ったのか平民流なのか、軽くだけ膝をまげて名乗ったあと、ダリアはごく自然にギルバートに名を聞いた。隣でお目付け役の伯爵令嬢がさっと顔を青くする。それもそうだろう。貴族の間であれば、王子の顔と名くらい覚えているのが常識だ。それを名乗らせるなど。


 慌ててダリアを窘めようとする伯爵令嬢を手で留め、ギルバートはクッと小さく笑った。


「これは失礼。僕はギルバートだ。僕のハンカチを拾ってくれたのだろう?」


 ダリアはハッと手元を見て、その手にあるハンカチを差し出した。少し気分を害したようで、ぶっきらぼうな様子に見える。

 ハンカチを受け取ると、一瞬だけ指が触れた。大した接触でもなかったはずなのになぜか心の中で動揺してしまう。それを隠すようにゆっくり呼吸して、ハンカチを服にしまった。


 ダリアはギルバートをまっすぐに、まるで睨んでいるかのように見上げてくる。その強い瞳が印象的だった。


「貴族の世界では、落とし物は放っておくのが正解のようですね。次は拾いません。失礼しました」


 ダリアはそれだけ言うと、くるっと踵を返して行ってしまった。

 まあたしかに、彼女はよかれと思って落とし物を拾い、よかれと思って返そうとしただけに過ぎないのだろう。平民だったら「ありがとう」「どういたしまして」と言って終わりだったはずだ。

 そういえば、拾ってもらったお礼を言っていなかったな、と思い至った。


 あとに残った伯爵令嬢が白い顔で謝罪の言葉を口にする。


「申し訳ございません。あとでよく言ってきかせますので、どうかお許しを」

「いい、気にするな。彼女に『拾ってくれてありがとう』とだけ伝えておいてくれ」


 ◇


 あとから思い返すと、あのときギルバートは一目惚れをしたのだ。


 ハンカチを拾ってもらった日から、なぜかギルバートの頭の中にはダリアがよく出てくるようになった。あの微笑んでいた顔、それから急にムッとしたような顔になって、睨むような目つきまでしていたこと。ギルバートにいきなりそんな目を向ける人はいままでほとんどいなかったし、そもそもギルバートと目が合った状態を続ける令嬢なんてほぼいない。


 きっと、なにもかもが新鮮だった。


 それから学園ですごす間、なぜかギルバートはよくダリアと遭遇した。

 ダリアは学年がひとつ下だ。学年が違うのだから当然クラスも違い、同じ講義を受けることもない。それにも関わらず、食堂や廊下などの共用部分でよく目が合うのだ。


 ギルバートは気がついていなかったけれど、たぶんそれはギルバートが自然と彼女の姿を探していたのだ。そして見つけると、遠い場所にいようとも目で追ってしまう。


 時には軽く言葉を交わすこともあった。本当に軽く、だ。目が合ってから「ごきげんよう」と言われて「マナーの勉強が進んでいるようだな」と返し、「努力はしております」とダリアが微笑む。その程度のわずかな会話。すれ違いざまの、ほんの一瞬の話だ。

 たったそれだけなのに、妙に胸が騒いだ。



 そんなことが続いたある日、ギルバートが校舎の奥にある庭に行くと、珍しく先客がいた。誰なのかはすぐにわかった。ダリアだ。

 王子であるギルバートの近くには、常に多くの人がいる。でもたまに静かな場所に身を置きたくなるときもある。そんなときに来るのが、人通りの少ないこの場所だった。


 ここまで一緒に来た側近を手で留め、一人でダリアの近くまで進む。ギルバートに気がついた彼女はベンチから立ち上がり、軽くお辞儀をした。


「ごきげんよう」


 そう一言かけられただけで、ギルバートの鼓動は跳ね上がった。それを隠し、平静を装う。


「初めて会ったときに比べて、だいぶ所作が洗練されたように見えるな」

「あのときは失礼しました」


 ギルバートは謝罪の言葉を口にするダリアにクッと笑ってベンチに腰掛ける。

 休んでいた彼女を追いやるつもりはないし、たまたま会っただけ。次の講義が始まるまでのわずかな休憩時間くらい、話をしてもいいだろう。そう自分に言い訳して、ダリアに座るようにとベンチの横を手で示した。

 ダリアは少し戸惑った様子を見せてから、一人分以上の間隔を空けてそこに座る。


「学園には馴染めたか?」


 ダリアはふっと肩の力を抜いて、困ったような顔をした。思っていることが顔に出てしまうところは貴族らしくないが、それが新鮮で可愛らしく見えた。これも教育が進めば貴族らしくなるのだろうか。そのままでいてほしいとも思ってしまうが、それを言ってはいけないのはわかっている。


「正直に言って、微妙なところです。貴族の世界って難しい。学園内では平等だというから話しかけたら常識がないと怒られてしまったり、普通にしているつもりなのに、これだから平民は……って言われてしまったりするんです」


 どうやらダリアなりに必死に馴染もうとしているらしい。だけど元は平民で、話によればほとんど準備期間がないまま学園に入ったようだ。多くが貴族であるこの学園では厳しいところもあるだろう。


「先日は、婚約者のいる男性にむやみに近づくな、って言われてしまいました。ちょっと話していただけなのに。必要な話だってあるし、いつも私から話しかけているわけじゃないんですよ」

「たしかに、必要な話までそう言われてしまうと辛いな」

「そうでしょう? 私は男女関係なく少し仲良くなれたらいいな、って思っている程度なんですけど、人の婚約者に色目を使うなって言われてしまうんです。そんなつもりないのに。そもそも婚約者がいるかどうかなんて知らないし」


 そこまで話して、ダリアは「あっ」とギルバートを見上げた。


「殿下は婚約者、いるんですか?」

「いるよ」

「えっ。それじゃあ、こうして話しているとまた怒られてしまいますね」

「クリスティーナはそのくらいで怒る人じゃないから大丈夫。それに、もし誰かに何か言われることがあったら、僕から話しかけられて断れなかった、って言えばいい」


 ダリアは目を丸くして、それからふんわりと笑った。



 それから何度か、この場所でダリアと会った。最初の二回は本当に偶然だった。ここに来たら、たまたまダリアがいたのだ。

 その後も偶然ではある。約束などしていないのだから。だけどもしかしたらここに来ているのではないかと少し期待して、いつもよりここに来る頻度が高くなっていたことは否めない。


「ごきげんよう」

「ああ。君はよくここにいるな」

「この場所は人が少なくて静かだから、落ち着きたいときに来るんです」

「僕と同じ理由だ」


 話をするのは講義の間とか、昼の休憩とか、ごくわずかな時間だけだ。それ以上はないし、他の人に聞かれたらまずいようなことは話していない。だけど少しだけ罪悪感がある。


「僕は王宮で生まれ育ったんだ。だから市井のことがよくわからない。嫌でなければ教えてほしい」


 会話に詰まったとき、そう聞いた。それは本心であり、言い訳でもある。平民について知りたいのは嘘ではないけれど、それを理由にダリアと会話することを正当化しているからだ。


「私でよければ、喜んで」


 ダリアは表情をコロコロと変えながら快く教えてくれる。それは王子として堅苦しく過ごす中での、ほんのひとときの癒しだった。


 平民の生活について教えてもらいつつ、そのお礼というわけでもないけれど、ダリアのちょっとした愚痴を聞く。それもまた貴族の悩みとは違って面白かった。


「また所作がなってないって怒られてしまったんです。それで、これだから平民は、って笑われるの。でも仕方がないじゃないですか。本当に平民なんだもの。小さいころから勉強してきた方たちと急に同じようにやれだなんて、無理がありますよ」

「そうかもしれないな」

「勉強もついていけないし、学園だけじゃなくて教会での修業も厳しいし。あーあ、私、聖女候補になりたくてなったわけじゃないのに」


 ダリアはそう言ってから、失言を悟ったように口に手を当てた。そして苦笑する。


「……なんて言ったらいけませんよね、ごめんなさい。口が滑りました。平民は学校にいける人も限られているから、恵まれてるんだってわかってもいるんです」


 聖女は教会に所属し、瘴気を払ったり怪我や病気を癒したりと幅広く活躍している。国としてもより多くの聖女に働いてほしいため、好待遇で迎えている。そのひとつが貴族との養子縁組であり、学園への入学だ。


 聖女となるためには聖属性をもっていないとそもそもなることができず、その聖属性を持つ人は限られる。だから教会はその属性を持っている者がいた時点で取り込もうとする。一応は同意の上で、ということになってはいるが、力のある教会からの提案を平民がどこまで退けられるかは微妙なところだ。


「聖女候補になるのは嫌だったのか?」

「どうでしょう、わかりません。なんだかあっという間だったんです。周りが大騒ぎしてて、気がついたら男爵家の娘になっていて、学園に入ることが決まっていて。喜んだり悲しんだりする時間もなかった感じです」

「そうか。それは大変だったな」


 本人の意志とは別に急に貴族にさせられて、その上で笑いものにされて。そりゃ愚痴のひとつふたつ言いたくもなるだろう。

 実際にダリアはかなり努力していると思う。所作もマナーもまだまだだと感じるけれど、言葉遣いはかなりよくなった。動きも気をつけているのだろうというのがよくわかる。


 それがわかるだけに、なんとも歯痒い気持ちになった。

 不慣れな環境に身を置きながら、健気に頑張るダリアを支えてあげたい。だけどギルバートにできることは、こうして少し耳を傾けることだけだ。


「あ、学園が嫌なわけじゃないんですよ。わたしを平民だといって蔑む人もいるけど、よくしてくださる方もいます。殿下みたいに気にかけてくれる方もいるから、もう少し頑張ってみます」

「そうだな」

「もう時間ですね。すみません、なんだか私ばかり話してしまって」

「いや、僕も楽しかったよ。じゃあ、また」


 二人でいる時間など、本当にすぐに過ぎてしまう。そして次の約束などするはずもなく、何事もなかったかのように離れていく。たったそれだけ。


 何度かそんなことがあるうちに、気づいてしまった。

 いや、もう気づいていたのだ。だけどなんとか見ないようにしていたのに、見ないふりもできないほどになってしまった。


 これがきっと恋なのだ。



 好きだと認識してしまったら、もう止まらなくなってしまった。

 恋とはまったくもって、不思議なものだ。

 少しでもダリアの姿を見たいし、言葉を交わしたい。そしてそれができた時には、なんだか天にも昇るような気持ちになるのだ。

 コロコロと変わる表情も、貴族らしからぬ物言いも、彼女の全てがよく見えた。たとえ貴族としてのマナーができていなくても、それすらいいと思えてしまった。


 ギルバートは完全に落ちていた。


 ◇


「ギル、真実の愛、って知ってる?」


 学園が休みの日。王宮でクリスティーナと共に王家のための教育を受けたあと、いつものように城の一室で二人でお茶をしている。婚約者が目の前にいるというのに頭の中にダリアの姿を浮かべていると、クリスティーナがそんなことを聞いてきた。


「聞いたことはあるが、ほとんど知らない」

「そう。わたしも真実の愛っていうそのものはわからないんだけどね」


 クリスティーナは目を伏せて、知っていることをぽつぽつと話す。

 どうやら隣国では「真実の愛を見つけた」などと言って婚約を破棄または解消し、好きになった人と共に生きる道を選ぶのがブームになっているのだとか。


「多くの貴族の子は、お互いに好きで婚約したわけではない。だから別の人を好きになるってことはありえると思うの。そしてその人と一緒になりたいって思ってしまうことは、きっと自然なことよね」


 それを聞いて、ギルバートはフッと笑う。


「どこかで聞いたことがあるセリフだな」

「ギルが言ったことだからね」

「何が言いたい?」


 十歳で婚約してからもう八年になる。それだけの期間共に過ごしていれば、些細な仕草や動きから、何かを意図しての発言だということくらいわかる。たとえ貴族令嬢らしく、周りから見ればあまり表情が変わらなかったとしても、だ。


 クリスティーナは優雅な所作でお茶を一口飲んで、肩を落とした。


「ギル、最近あの聖女候補さんといい仲になっているのでしょう」

「なってない」

「そうかしら?」


 聞き返されて、少し考える。


「ごめん、嘘かもしれない」

「嘘はつかない約束」

「わかってる。嘘のつもりじゃなかった」


 ずっと前、婚約者になったばかりのころにした約束。嘘は言わないこと。

 言いたくないことは言わなくてもいい。全部をさらけ出さなくてもいい。ただし相手を騙すことはしない。二人のルールだ。


 ギルバートは観念したかのように、大きく息を吐き出した。


「好きになってしまったんだ、彼女のこと。いい仲とは思っていないけど、あちらも少しは僕に心を許してくれていると感じることはある」

「……そう。それで?」

「それで、と言われても困ってしまうな。それ以上のことはなにもないさ。どうこうする気もない」


 ギルバートはお茶を口につけながら、クリスティーナの頬がわずかに緩んだのを見た。


「クリスという婚約者がいながらダリアを好きになったこと、君は責めるか?」

「わたしにそんな権利ないわ」

「だろうね」


 なにせ先に「別の人を好きになってしまった」と言ったのは、クリスティーナのほうだったのだから。


 クリスティーナの想い人は同じ学園の騎士科に通う生徒だ。男爵家次男なので家督を継ぐことはなく、まず身分が釣り合わない。それだけでなく彼にもまた婚約者がいる。クリスティーナの話からすると、お互いに好印象を持っているらしい。だからといって何かがあるわけでもないし、できることもない。


「今ならわかるよ。あのときの君がどれだけの勇気を持ってそれを僕に告白してくれたのか」


 確実に不利になるのはクリスティーナだった。なにせ半年ほど前のその時点では、ギルバートはまだダリアを想ってはいなかったし、瑕疵もなかった。

 自分はギルバートの婚約者に相応しくないと、悩みに悩んだ末のことだった。


「勇気じゃないわ。嘘をつけなかったのよ、あなたにだけは」

「信頼してもらえているようで」

「えぇ、そうね」


 当然のようにクリスティーナが応える。

 ギルバートもまた、クリスティーナを信頼している。だからこそ城の一室で、扉は開いているとはいえ二人きり。こうして気安い言葉で隠すことなく話しているのだ。


「わたしね、今、とても複雑な気分。わたしの気持ちを理解してもらえたっていう喜びが三割、わたしという婚約者がありながらギルが他の人を好きになったっていう悔しさと悲しみが三割、その他が四割」

「なに、その他って。しかも四割も」


 ギルバートは苦笑する。だけどその四割がわからないわけでもない。人のことを言えないけれど悲しい気持ちはある矛盾。そして罪悪感。やるせなさ。自分でもよくわからない気持ちがごちゃ混ぜになっている感覚。


「ギル、今の状態のあなたに言うのは気が引けるのだけど、その聖女候補のダリアさん、いろいろ話題になっているわ。特に男子との距離が近いっていう苦情が相次いでる」

「本人からも聞いたよ。平民だったころはそれが普通だったんだろう。気をつけているつもりのようだけど?」

「学園は市井ではないわ。入学当初ならともかく、もう半年は過ぎているもの。ずっと平民気分でいていい場所ではないでしょう」


 学年がひとつ上がり、ギルバートたちは最終学年の三年生に、ダリアは二年生になっている。


 ダリアが努力を続けていることは知っているけれど、たしかに平民気分が抜けていないところは心配していた。誰にでも気軽に話しかけ、コロコロと表情を変える。それが彼女のいいところでもあるけれど、場を弁えられていないときがよくあるのだ。


 平民であったダリアに急に貴族になれといっても無理があるのはわかるけれど、何かにつけて「平民だったらこうだから……」と言うところは、一部から反感を買っても仕方がないと思っている。

 ダリアが誘惑している気がなくても、一部の男子生徒は彼女に本気になっているとも聞く。


「もちろんダリアさんだけの責任じゃないのはわかってる。でも彼女側にも問題がないとは言えない。窘めても聞く耳を持たないそうなの。困っている側の意見もわたしは理解できるし……」


 クリスティーナはそこで言葉を切って小さく息を吐き、ギルバートを見た。


「悪い噂が多いのはダリアさんにとってもよくないと思うの。だからこれが続くならば、考えなくちゃいけない」


 ギルバートが学園の中でトップに立つ存在であるのと同様に、クリスティーナは全ての女子生徒の上に君臨している。身分、成績、品格、どれをとっても申し分なく、彼女に心酔する者も多い。それと同時に女子生徒を主導する立場であるため、問題があれば対処する必要もあるのだ。


「そうか。そこは君に任せるよ」

「任せてくれるのね。ダリアさんの肩を持つかしら、とも思ったのだけれど」


 クリスティーナがクスッと笑う。それから真面目ながらも切ない顔でギルを見た。


「ギル、あなたとのことも噂になってるわ。気をつけてね。それから」

「クリス」


 ギルバートはクリスティーナの言葉をそっと遮る。


「その先は言わなくていい。わかってる」


 クリスティーナが言おうとしたことは充分に理解しているつもりだ。やってはいけないことがいろいろあることも、やらなければいけないことも。それに間違っても「一線を越えるな」なんてことをクリスティーナの口から言わせるつもりはない。


 ギルバートは苦い気持ちをお茶と共に飲み干した。


 ◇


 恋とは恐ろしいものだ。

 ダリアに会う機会が減ると、彼女が恋しくなった。単純に会いたい。無意識に彼女を思い浮かべ、いるはずもない場所を探している。

 そんな自分に気がついて、ギルバートは大きく溜息を吐いた。


「重症だな」


 いけないと思いつつ、ダリアとよく会ういつもの校舎奥の庭にきてしまった。彼女がいないことに落胆している自分に内心で苦笑しながらベンチに腰掛ける。

 本を開いてみるものの、目は文字をなぞるだけ。内容がちっとも頭に入ってこない。


 はぁ、ともう一度大きく溜息を吐く。いったいどうしたものか、と本を閉じたとき、カサッと物音がした。

 そこにダリアを見つけ、ギルバートの鼓動は跳ね上がる。それを悟られないように、いつもの顔を作った。


「やあ。久しぶりだな」

「ごきげんよう、殿下」


 小さくお辞儀をすると、ダリアは一人分の間隔を空けてギルバートの隣に座った。

 それからいくつかの、なんでもないような会話をした。休日に平民の家族と会ったこと、その時の街の様子、試験で点数がよくなかったこと、代わりに教会での聖女候補の修行は上手くいったこと。ダリアの話は探り合いの多い貴族の会話と違って、純粋に楽しめる。


 ふと会話がとぎれ、ダリアが遠慮がちに覗いてきた。


「あの……」

「なんだ?」

「殿下はクリスティーナ様とどのような関係なのですか?」

「どのようなって?」


 婚約者であることを知らないはずはないので、たぶん仲がいいとか悪いとか、そういった類のことだろう。だけど質問の意味が抽象的すぎてどう応えるべきかわからない。


「先日お二人が並んでいるところを見たんです。ダンスされているところも」

「ああ、創立記念祭のときのことか」


 年に一度開かれる学園の創立記念祭。ギルバートは第一王子としてクリスティーナと共に壇上で挨拶をし、学園の創立を祝い、ダンスも踊った。各展示を二人で巡って声をかけたり、優秀な生徒の表彰をしたりと仕事はいろいろあり、その日はほとんどの時間をクリスティーナと共に行動していた。


「とても綺麗でした」


 言っている言葉とは違って表情が暗く、ギルバートはありがとうと言うべきなのか迷って苦笑した。


「それは褒めてくれてるの?」

「はい。だけど、なんていうか、本当に綺麗で。こうして話している殿下とは別の人みたいだったんです。クリスティーナ様と共に作られているような感じがしてしまって」


 鋭いな、とギルバートは思った。そう見えてしまったのならば失敗だし、王子としては反省すべきところだ。

 だけどあの日は仕方のないところもあったのだ。


「同じクラスの男子が言ってたんです。貴族は決められた相手と結婚しなくちゃいけないって。その人はそれが辛いって。だから殿下ももしかしたらそうなのかなって思ったんです。綺麗なのになんだか辛そうに見えたから、私……」


 ダリアが心配そうな目で見上げてくる。

 その瞳の中にギルバートと同じ想いがあるのが見えてしまって、ギルバートの心は大きく動揺した。外に聞こえてしまうのではないかというくらいに、自分の鼓動がうるさい。


 それからダリアはハッとした顔で目を逸らした。


「すみません、出過ぎたことを言いました」

「いや、……ああ」

「あ、私、次の講義、実習なんです。準備があるので、すみませんがお先に失礼します」


 ダリアは立ち上がって小さくお辞儀をし、逃げるように戻っていった。


 ギルバートは一人、呆然と首を垂れる。

 傲慢かもしれない。勘違いかもしれない。だけどダリアもまた、ギルバートを想ってくれているのではないか?

 先ほどダリアの瞳に浮かんだのは、こんな気持ちを抱いてはいけないと自分を留める色で、ギルバートと同じものではなかったか?


「はあぁぁぁ」


 確証があるわけでもないのに、顔がにやけそうになる。そんな自分が気持ち悪いと、どこかで冷静な自分が言っている。

 嬉しい気持ちで溢れているのに胸がぎゅっと締め付けられているように苦しい。上手く息ができない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。


 こうして時々話すうちに、ダリアがだいぶギルバートに心を許してくれていることには気がついていた。だけどそれ以上を望んではいなかった。

 望んではいけなかった。

 途方もない罪悪感と幸福感が合わさって押し寄せ、感情の波に溺れてしまいそうだ。

 ……溺れてしまいたい。


 ギルバートはただ目を閉じ、吸って、吐く、それだけに集中した。


 ◇


 そんなことがあってからも、進展と呼べるようなことはない。いつも通りに日々は流れていく。


 ギルバートはなるべくダリアとよく会う校舎奥には行かないようにしていた。あの場所は落ち着くので気に入っていたけれど、今は逆にそわそわしてしまって全く落ち着けないからだ。というのは言い訳で、なるべく避けるようにしていた。ともすれば足がそちらに向かいそうになるのを、ギルバートはなんとか堪えている。


 そんな中で、小さなトラブルがあったらしい。

 らしい、というのは、ギルバートは直接関与しておらず、報告を聞いたに過ぎないからだ。


 その報告によると、ダリアに本気になってしまった男子生徒がいて、その婚約者との関係が悪化。婚約を解消するかどうか、お互いの家で話し合う事態になったらしい。ちなみに婚約解消するかどうかは一旦保留となっており、関係が改善しなければいずれ解消する方向だということだ。


 貴族の婚約とは家同士の契約でもある。嫌だからやめましょう、と言ってすぐに変えられるものでもないのだ。


 ダリアはというと、一方的に男子生徒からは言い寄られ、その婚約者の女子生徒からは責められるといった具合。どちらかというと被害者側のようだ。だけど完全に非がないとは言えず、クリスティーナが話をすると言っていた。



 その日の夕方、ギルバートは久しぶりに校舎奥の庭に来ていた。用事があってこの近くを通ったので、少しだけ休憩してから帰ろうと寄ったのだ。ダリアとここでよく会うのは講義間の休憩か昼だから、この時間にはいないだろうと思ってのことだった。


 風で木がさらさらとなるのを心地よく感じながら、ギルバートは参考書を開く。この学園では、学業においては皆平等を理念としている。いくら身分が高いといっても、ギルバートもまた学生の一人。成績面において優遇などしてもらえない。こうして少しの時間でも頭に叩き込まねばならない。


 切りがいいところまで読んで本を閉じ、立ち上がった瞬間だった。

 ダリアが角から姿を見せた。

 思わず鼓動が跳ねたのは、ダリアを見て喜んだからだけではない。彼女が今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。


 ダリアにとってもギルバートがここにいたのは想定外のことだったらしい。ハッとした顔で一度戻ろうとし、だけど目が合ってしまったので留まって、礼儀としてギルバートに小さくお辞儀をした。


「殿下。ごきげんよう。ごめんなさい、ここなら誰もいないと思って……」

「待って、どうした?」


 踵を返そうとするダリアを呼び止める。さすがに放っておけなくてベンチに座らせ、ギルバートも間隔を空けて座りなおした。


「トラブルがあったって聞いたんだけど、もしかしたらその件?」

「知っていたんですか?」

「詳しくは知らないけれど、報告なら聞いた」


 ダリアが目を丸くしたので、知っていることを軽く話す。ダリアは俯いて、ぐすっと鼻をすすった。


「私、本当に彼とは何もないんです。話しかけられたから話したり、食堂で昼食をとっていたら隣に座ってきたりしたことはあったけど、別に二人きりだったわけじゃないんです」


 ギルバートが小さく相槌を打ち、ダリアはぽつぽつと状況を語っていく。話しているうちに抑えていたものが溢れ出したのか、感情を乗せて口調も滑らかになってきた。


「婚約者さんからは彼に近づくなって言われていたんですけど、私からは近づいていないんですよ。彼に特別な気持ちがあるわけでもないし、そういった話なんてしていない。それなのに私が誘惑したとか、彼を奪おうとしたとか言われてしまって……」


 なんとなく想像はできた。ダリアは人当たりがいいから、きっと話しかけられたことにニコニコと対応してしまったのだろう。急に隣に座られても嫌な顔をせず、相手に合わせて会話した。たぶんダリアに悪気はなかったし、むしろよかれと思ってそうしていたに違いない。

 だけど貴族の令嬢であれば、そういう対応はしない。


 コロコロと変わる表情と貴族に比べたら近い距離感。貴族という枠の中で過ごしてきた令息にとっては新鮮で、ダリアの笑顔に男子生徒は本気になってしまったのではないか。ギルバートがまさにそこに魅かれた当事者であるために、彼の気持ちが嫌というほどによくわかった。

 だからといってその男子生徒に肩入れするつもりは毛頭ないが。


「それで、クリスティーナ様に呼ばれたんです。状況を教えてって言われたから説明したんですけど、やっぱり彼と距離が近かったって、怒られてしまいました。でも平民だったらそのくらいが普通なんですよ」


 平民だったら男女関係なく話をするし、食事をすることだってある。時と場合によっては男女二人で出歩くことだってある、とダリアは言った。

 ダリアの言っていることは間違っていないのだろう。生まれも育ちも生粋の王子であるギルバートは想像するしかないが、実際にこれまで彼女に教わった平民の日常からすると、貴族と平民の感覚はだいぶ違うということはわかる。


「でもそれを言ったら……」


 ダリアはよほど辛かったのか、ぐっと拳を握って言い淀んだ。

 ギルバートは「言ったら?」と続きを促した。


「そんなに平民がよかったのなら、聖女候補をやめて平民に戻りなさい、って。そのための手助けならばしましょう、って言われました」


 聖属性をもっていたことで、ダリアは聖女候補として男爵家の養女となり、教会で修行しながら学園にも通っている。だけど聖女候補が確実に聖女になれるわけではないし、それ以前にどうしても嫌ならばやめることもできる。国としては聖女になってほしいけれど、本人の意思も尊重される制度にはなっている。ただしやめるのであれば養子縁組は解消されるだろうし、平民に戻れば学園に通うことは難しい。


「みんな私が悪いって言うんです。婚約者さんは『わたくしたちを仲違いさせて満足?』って言うし、彼のほうだって、私にもその気があったくせにふざけるな、って言うんです。その気なんてないのに」

「それは……、二人に問題があると思うな」


 ギルバートが二人に難色を示すと、ダリアは自分に味方してもらえたと思ったのか、パッと顔をあげた。


「そうですよね?」


 ギルバートがダリアを肯定したことに安心したのか、ダリアは泣きそうな顔をした。

 そして、きっと口が緩んだのだ。


「クリスティーナ様もひどいです。平民に戻れだなんて。きっと私が邪魔なんです。私が殿下とこうやって話をするから、あの二人みたいになるかもって思ってるんですよ。私が殿下のことを好きになってしまったから、誘惑するかもって!」


 そこまで言い切って、ダリアはハッと口を押さえた。


「ご、ごめんなさい、私っ」


 たぶん言うつもりはなかったのだろう。でも感情が高ぶってしまって、つい口が滑った。そんな感じだった。

 でも聞いてしまった。ギルバートの鼓動は跳ねあがって、震えそうになる。


 率直に嬉しいと思ってしまった。まず最初に嬉しいと思った自分に腹が立つ。だけど嬉しかったのだ。

 反論すべきところはあるけれど、それでもダリアがそう思ってくれていることで、胸がいっぱいになってしまいそうだ。

 だけど……。


 ギルバートはなるべくゆっくりと息を吐いて、鼓動を落ち着かせようと試みる。ダリアに見えないように、拳を痛いくらいにぎゅっと握った。

 そしてなるべく静かに、落ち着いた声を出す。


「ダリア、君にそう思ってもらえたなら嬉しいが……。まず、君が本当に誘惑してくるとは思わないけど、でもたとえ誘惑されたとしても、僕はそれには乗らないよ」

「わ、わかっています……」


 たぶんダリアもそんなことは理解していたのだろう。それでも少しだけ落胆している様子でだんだんと声が小さくなり、俯いていく。それにギルバートの心はざわついた。


 誘惑してくれるのならば乗ってしまいたい。僕も好きだ、と言ってしまいたい。心の一部がそう悲鳴をあげている。それを必死に隠して平静を装う。


「だから僕たちはその二人のようにはならないし、それはクリスティーナもわかっている。それから、クリスティーナがダリアを邪魔だと思っていることは絶対にない。そもそもクリスティーナと君は同じ次元にいない。実力が違いすぎる」

「……え?」

「考えてみるといい。学園内だけを見たとしても、クリスティーナは圧倒的な支持を得ている。多くの女子生徒がクリスティーナを慕い、彼女を見本にして勉学に励んでいる。違うか?」


 ダリアは少しだけ考える様子を見せてから、ぽつりと「違わないです」と言った。実際にクリスティーナを崇拝する女子生徒は多い。直接関わることがなかったとしても、周りにそういう人はいくらでもいるはずだ。


「一方でダリアは貴族の所作のひとつも満足にできず、学園になじむことすらできていない。品格、素養、知識……、どれをとってもおそらくダリアはクリスティーナに敵わない」


 もちろんダリアにはダリアの魅力があるのをギルバートは知っている。だけどそれは貴族社会においては通用しない。むしろ今回のように混乱を招くことも多い。


「要するに、ダリアを邪魔だと思う必要もないんだ。君が何をしようと、どう思おうと、クリスティーナの立場は揺るがない。たとえ僕が君に好意を抱いたとしても、だ」


 ダリアはカッと顔を赤くした。それはギルバートが好意をどうこうという話ではなく、自分には足りないものだらけなのだと気がついたかのようにギルバートには見えた。


「僕はクリスティーナを尊敬しているし、信頼している。彼女を『ひどい』と言うのなら、僕のことも『ひどい』と言ったのと同じだと、そう思ってほしい」

「そんなことっ……、いえ、すみませんでした」


 ダリアは素直に謝罪を口にする。貴族はなかなか自分の非を認めて謝るということをしないから、それを聞いて、やっぱり好きだな、なんてことを思う。


「それを踏まえて言うけれど、僕はクリスティーナと同じ意見だ。平民がよかったなら、戻ったらいい」

「……え?」


 ダリアの顔が驚きに染まる。ギルバートならば味方してくれると思ったのかもしれない。ギルバートも味方になってあげたい。ダリアは悪くないと言って慰めたい。だけどそれはできない。ギルバートの役目でもない。


「たしかに今回のトラブルは、どちらかといえばその男子生徒と婚約者が招いたことだろう。ダリアに責任を押し付けるのは違うと僕も思う。だけどダリアの対応は本当に何も問題がなかったのか?」


 距離が近いと注意されながら、そういうものだとしてダリアの基準で対応していたこと。貴族ではそうではないこと。ギルバートは平民流がいけないと思っているわけではないけれど、ここは学園だ。時と場所はわきまえなければいけない。

 それができているのか、と静かに聞くと、ダリアは黙って俯いた。


「聖女になるには、貴族社会の常識や様々な教養も必要だ。平民だったから仕方がない、というのは言い訳にならない」


 聖女としての能力的な部分はおそらく教会で修行をしている。だけど一人前の聖女となるには、実技だけできればいいというわけではない。

 聖女になれば貴族と接する機会は多い。そのときに平民だったから何もわかりません、では仕事にならない。だからこそこうして学園に入学して学んでいる。それが理解できないのであれば、聖属性の能力があったとしても聖女になる資格はない。


 国にとって聖女は貴重な存在ではあるけれど、だからといって代わりがいない絶対の存在というわけではないのだ。


「聖女になる気がないのなら、平民に戻るといい。平民として生きるほうが君にとって幸せな可能性もある」

「そんな……!」

「ダリア、僕もクリスティーナも、君に平民に戻ってほしいと言っているわけじゃないんだ。できることならば聖女になってもらいたい。ただ今のままでは足りないものが多すぎる」


 ギルバートは一度大きく息を吐いてから立ち上がった。そしてダリアを見下ろす。

 小さく見えた。手を伸ばして、大丈夫だよと言いたくなった。甘い言葉をかけて、僕は味方だと言ってあげたくなった。それをぐっと堪える。


「今すぐに決めろとは言わない。よく考えてみるといい」


 ◇


 ダリアに背を向け、その場から離れてすぐのこと。校舎の角を曲がったところに人影を見つけた。


「クリス?」


 小さく呼ぶと、一瞬のためらいののちにクリスティーナが姿を見せた。


「見つかってしまったわね」


 クリスティーナは角からもう一度ギルバートたちがいた場所をそっと見る。ギルバートも振り返ると、ダリアが俯いて座っていた。


「ダリアさんの様子が気になってきたのだけれど、今はそっとしておいたほうがよさそうかしら」


 二人で背を向け、校舎沿いをしばらく歩く。


「いつからあそこにいたんだ?」

「ダリアさんが、わたしに呼ばれて怒られた、って言ったあたり」

「ほとんど最初からじゃないか」


 ギルバートが苦笑すると、クリスティーナは心配そうな目をしながら肩を落とした。


「ごめんなさい、立ち聞きするつもりじゃなかったの。そっと様子を覗いたらわたしの名前が聞こえたから……」

「別にそれはかまわない」


 別のベンチを見つけ、ギルバートはそこに座る。


「わたし、いないほうがいい?」

「いや、いてほしい」


 ギルバートが手で示すと、クリスティーナは隣に座った。ダリアよりもやや近い距離が、今はなんだか安心する。

 少しの間、どちらも何も言わなかった。木がさらさらと揺れていて、ただ風が涼しい。


 ギルバートが俯いて深くため息を吐くと、クリスティーナがいつもより少し明るく、おどけたような声を出した。


「ギル、よかったの? あんな言い方をしたら、将来愛人にすることも叶わないわよ」

「将来っていつだよ」

「わからないけど、早くて十年後くらいかしら?」


 卒業して、結婚して、義務として跡継ぎを儲ける。そこまでしたら愛人の一人や二人置いたところで、文句は言われないかもしれない。

 だけどそれまで僕を待っていろだなんて、口が裂けても言えるはずがなかった。そもそもダリアを愛人にするつもりもない。


「傷ついているとわかっていたのに、さらに畳みかけるようなことをしてしまった」

「ダリアさん、何度周りが注意しても聞かなかったみたいなの。だからあのくらい言ってもらえてよかったと思う。それに意外としたたかだって評判よ。だからきっと大丈夫」

「でも、きっと嫌われたな」


 自嘲するように笑うと、クリスティーナは呆れたように息を吐いた。


「ギルは真面目ね。隣国のブームによれば、こういうときこそわたしとの婚約を破棄し、ダリアさんとの愛を貫くものらしいけれど」

「それが真実の愛?」

「さぁ。わたしにはよくわからないわ」


 クリスティーナはわずかに首を傾げる。


「僕にもわからないけどさ、この気持ちを真実の愛というのなら、なおさら突き放すべきだと思う。僕の感情ひとつで彼女を振り回し未来を奪うなんて、していいはずがない。それなら幸せを祈っているほうがいいだろ」

「そうね。わたしもそう思うわ」


 もしクリスティーナとの婚約をギルバートが破棄したとして。真実の愛だといってダリアと生きることにしたとして。

 ダリアとは身分が違う。立場も違えば、考え方も違うし、見ている景色も、向いている方向も違う。そんなダリアを無理やり妃にしたところで、破綻するのは目に見えている。ギルバートは王子としての務めを放棄するつもりはない。ダリアに妃が務められる実力もない。誰も納得しないし、誰も幸せにならない。


「なぁクリス、都合のいいことを言うけど、聞いてくれる?」

「なに?」

「僕、ダリアを好きになってしまったんだ。だから彼女ともっと話したいと思ったし、一緒にいたいとも思った」


 クリスティーナは自分にも思い当たるところがあるのか、静かに「そうね」と相槌を打つ。


「だけどダリアとの未来を考えてみたとき、彼女と並んでいる自分を想像できなかったんだ。いくら試してみても駄目だった。できたのは学園内で話をするところまでで、その先の未来に彼女はいなかった」


 不思議な感覚だった。学園生活で彼女の笑顔を思い浮かべることはできるのに、一歩外に出るとその姿が霞むのだ。

 王宮で彼女と並ぶ想像をしてみたら、彼女のところにもやがかかったかのようになった。正装で国民の前に姿を表す想像をすると、なぜか隣にいるはずの彼女は霞になって消えてしまった。それではっきりとした。ギルバートの未来に、ダリアはいないのだと。


「全部クリスだった。王宮でお茶を飲むのも、一緒に壇上に上がるのも、舞踏会でダンスをするのも。それから結婚式も。緩い服装で朝食を一緒にとっているのも、夜会で隣に並ぶのも、視察に出るのも……」


 未来の想像だから、風景まではっきり見えるわけじゃない。だけど隣にいる人の姿ははっきりと見えた。


「僕が思い描く未来で共にいるのは、全部クリスだった」


 バルコニーから集まった国民に向けて手を振る。隣にいるのはクリスティーナで、ギルバートも彼女も穏やかな気持ちで微笑んでいる。

 そんな姿が思い浮かんだ。それが当たり前のように、ごく自然に。


「クリス。僕の立場上、これから先楽しいことばかりじゃないと思う。むしろ大変なことのほうが多いと思う。僕は知っての通りの人間で、クリスが嫌だと思うことだってきっとある。だけど、これからもずっと、一緒にいてくれないか?」


 疑問形で聞いているけれど、クリスティーナが断るとは微塵も思っていない。傲慢と言われればそうかもしれない。だけどクリスティーナが自分と同じ気持ちを持っていると、なぜか確信できた。それはきっといろんな時を共にしてきたからだろう。


「苦労をかけるってわかってるのに卑怯だと思う。だけど一緒に歩いていけるのはクリスだけなんだ。クリスと一緒に歩いていきたいんだ」


 クリスティーナは目を見開いたあと、こらえきれないというようにフフッと笑みを漏らした。


「それはプロポーズのつもりなの? 少なくとも失恋直後に言うことではないわね」

「そうだな。それで、答えは?」


 クリスティーナはすぐに答えることはせずに、俯きがちに微笑んだ。


「わたし、ギルとは別の人を好きになってしまったとき、罪悪感でつぶされそうだったの。もうあなたの婚約者にはふさわしくないと思った。だけど立場と義務もあって、軽く脱ぎ捨てられるものでもなかった。それなのにやっぱり彼を好きな気持ちは止められなかった」

「……うん」

「そんな時にギルが『どうした、何があった?』って聞いてくれて、全部あふれてしまった。本当は隠し通さないといけなかったのにね、でもそれもできないくらい、心が壊れる寸前だったのよ」


 クリスティーナが恋に落ちてしまったとき、いつも通りに取り繕った顔をしながらも、危うい気配を漂わせていた。だから何があったのかと聞いたのだ。

 ギルバートはそのとき初めて、クリスティーナが泣きじゃくるのを見た。本当に限界だったのだと思う。


「あのときギルはわたしを責めることなく、そういうこともあるって言ってくれた」


 それに救われたの、とクリスティーナは微笑む。だけど実際は少しだけ違う。

 責めなかったのではなく、責められなかったのだ。


 そのときのギルバートはまだダリアと恋に落ちていなかったので、恋というものがわからなかった。どうして自分という婚約者がありながら、という気持ちは当然あったし、裏切られたような気持ちにもなった。一瞬カッと頭に血が上るような感覚もあった。それでも言えなかったのだ。


 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 クリスティーナは何度も何度も、そう繰り返した。泣きじゃくりながら、声にもならない嗚咽と共に。


 クリスティーナが真面目な性格であることはよく知っている。非常に真面目なのだ。だからこそ、義務とどうにもならない心の狭間で苦しんでいた。

 そんなクリスティーナを、どうして責めることができただろう。


 代わりにこれからどうするつもりなのかと聞いた。相手の騎士見習いとは身分差もあるし、婚約者もいた。一緒になりたいというのは無理がある。クリスティーナもそれは理解していて、彼とどうこうなることは考えていなかった。

 どうしようもなければ修道院に入ると、クリスティーナは言った。


「だけどギルは元々政略的な結びつきなのだから、義務を果たす気があるならばそれでいいと言ってくれた。それで、わたしの覚悟は決まったの」


 クリスティーナはギルバートを見上げる。こうしてまっすぐに目を合わせられる人は、ごくわずかしかいない。


「あなたに不要だと言われない限り、わたしは共にいるわ、ギル」


 その瞳の中にある決意に揺るぎがないのを見て、ギルバートは安心した。


「ありがとう。そう言ってくれると思ってた。嬉しい」

「嬉しいって顔をしていないわね」


 クリスティーナが苦笑する。それは次第に切ない表情に変わった。


「すまない。だけど今だけは許してほしい」

「わかってる。気にしないで。失恋直後だもの」

「……辛いなぁ。泣いてしまいそうだ」


 涙が出ないように、空を見上げる。夕日に染められた雲が、淡いオレンジの模様を描いている。


「存分に泣いていいわよ、って言ってあげたいけど、ここは学園だから無理があるわね」


 人通りが少ない場所ではあるけれど、誰もこないわけではない。王子が号泣しているとなれば、それなりに騒ぎになってしまうだろう。隣にいるクリスティーナが批難されることになるかもしれない。


「そうだ、明日の王宮での教育が終わってからのお茶の時間なんだけど」


 明日は学園が休みだ。その代わりに王宮での王家の者のための教育がある。それを一緒に受けたあとは、いつもの流れどおり二人でお茶を飲むだろう。


「思いっきり泣く会にしましょうよ」

「泣く会?」

「お菓子とお茶をたくさん用意して、やけ食いしながら気が済むまで泣くの」

「やけ食い」


 貴族令嬢らしからぬ単語に、思わずクッと笑いが漏れた。


「知っているでしょう、わたしも失恋したの。あぁそうだ、あの日はあなたとの約束が守れなくてごめんなさい」

「いや、仕方がないさ。今僕が同じことをやれと言われたら、できる自信がない」


 あの日とは創立記念祭の日のことだ。クリスティーナが想い人との区切りをつけたのが、その直前だった。


 そして約束は、想い人がいるとわかったときにしたものだ。心の中でどう思っていようとも、公の場ではお互いに愛しているふりをすること。周りに仲が悪いと思わせてはいけない。愛しています、という表情の仮面をつけるのだ。


 ほとんど一日中ギルバートと並んでいなければいけなかったあの日、クリスティーナは必死に仮面をつけていた。だけどどうしてもはがれる瞬間もあった。彼女はそれを反省しているが、ギルバートはどうしようもない時だってあると思っている。


「わたしも泣きたい気分なのよ。ギルとなら心ゆくまで泣けると思うの。付き合ってくれる?」


 疑問形で聞きながら、ギルバートが断らないことを確信した顔をしている。長く一緒にいると、表情まで似てくるのだろうか。


 そしてギルバートはククッと笑って、クリスティーナが思い描いただろう返事をした。


「いいね、それ。そうしよう」


 ◇


 それからしばらくして、ギルバートとクリスティーナは学園を卒業した。


「ギルバート殿下、クリスティーナ様。ご卒業おめでとうございます」


 卒業式のあと挨拶に来たダリアは、ご令嬢らしいお辞儀を綺麗にしてみせた。今までとは雰囲気が違うことがすぐにわかる。


「あの時は申し訳ありませんでした。でもおかげさまで目が覚めました。私はまだまだ未熟ですが、これから精一杯勉強して、立派な聖女になります」


 この短い期間でダリアは心を入れ替えたらしく、晴れ晴れとした顔をしている。その瞳にこれからの決意と希望を見て、ギルバートは大きくうなずいた。


「これからの活躍を期待している。それからダリア、いつだったか貴族らしくと言ったこととは矛盾しているかもしれないのだが……」


 ギルバートはクリスティーナをチラリと見てから、フッと笑ってダリアと目を合わせた。


「君らしさも忘れないで。それに魅かれた人だって、大勢いるのだから」


 ダリアはきょとんとした顔をしてから、無邪気な大きな笑顔を見せた。


「殿下とクリスティーナ様は私の憧れなんです。どうか、お幸せに!」


 もう一度にっこりと笑うと、ダリアは丁寧にお辞儀をして去っていった。

 その先を目で追うと、ダリアは友人たちの輪に入っていく。なんとなく学園で孤立していた彼女は、もう一人ではないようだ。


「ダリアさんなら、きっと素敵な聖女になるわね」

「ああ、そう思う」


 クリスティーナの想い人とも挨拶をした。彼もきっと、素晴らしい騎士になるだろう。



 ギルバートもクリスティーナも、落ちてしまった恋の沼から這い上がるにはそれなりの時間を要した。

 ようやく抜けられたか、というころ、当初の予定通り二人は結婚した。

 それは国中から祝われる、幸せな結婚だった。

 ……周りからはそう見えたし、少なくともギルバートとクリスティーナも心穏やかにその日を迎えられていた。



 それから約十年の月日が流れた。



 ギルバートとクリスティーナは王太子と王太子妃として、忙しい日々を過ごしている。

 二人の役割は同じではないから常に共にいるわけではないけれど、公の場に並んで姿を見せることも多く、国民からは仲のよい夫妻だと認識され、大きな支持を得ている。


 今日は建国記念祭。

 ギルバートとクリスティーナは長ったらしい式典に参加し、慌ただしく部屋に戻ってきたところだ。

 これから国民の前に姿を見せなければならないが、その前にほんのわずかな時間、休憩時間が得られた。二人で紅茶で喉を潤し、お菓子をつまむ。


「ギル、わたしたち、貴族……いいえ、王族ね。その大きな義務の一つは果たしたと思うの」

「うん? ええと、跡継ぎを儲けるってところ?」

「そう」


 軽く返事をして、クリスティーナは紅茶を口に運ぶ。

 二人の間には三人の子が生まれていて、下の娘は二歳になったところだ。非常に可愛い。とにかく可愛い。


「急にどうした?」

「もう十年になるんだなと思ったのよ。この立場にいれば何も言われないってことはないでしょうけれど、愛人を持ったとしてもきっとある程度は理解を得られるくらいにはなったわ」


 結婚する前、まだ恋の沼に落ちてから這い上がれていなかったころに、たしかにそんな話をしたことはあった。貴族、王族としての義務を果たした後ならば愛人も許される、と。実際に多くの貴族は子を儲けたあとに自由に恋愛を楽しむ人も多い。

 失恋真っただ中だったギルバートとクリスティーナは、そんな話をしつつもそのときは愛人を持つつもりなどお互いになかった。


 ギルバートはなんでもない様子を装いながらパウンドケーキをひとかけら食べ、紅茶で流し込む。


「それは僕を試してるの? それとも僕が愛人を作るのを許す代わりに、クリスにも許せって言いたい?」


 クリスティーナはそれには応えず、どうかしら、とでもいうように肩を小さく上下させた。公の場でよく見る感情を読ませない顔。たいていの人にはクリスティーナがなにを考えているのかわからないだろう。だけどギルバートには、その瞳の中に不安があるのがすぐに見て取れた。


 クリスティーナは悟られていないとでも思っているのだろうか。十歳で婚約してから、いったいどれだけの時を共に過ごしてきたと思っているのだ。


「ひとつ聞きたいんだけど、クリスにはそういう人がすでにいるの? 愛人とまではいかなくても、クリスが心を寄せる相手」

「いないわよ」

「本当に?」

「あなたに嘘は言わない」


 ギルバートはククッと不敵な笑みを浮かべる。


「それはよかった。少なくとも今の僕は、クリスに愛人を許すほど心が広くない。もしそんな相手ができたら、そっと遠ざけるくらいのことはしてしまうかもしれない。心を寄せる相手でも嫌だ」

「心の中は自由じゃなかったの?」

「建前はね」


 クリスティーナがふふっと笑う。いつのまにか仮面が剥がれて、表情が緩んでいた。


「僕は愛人を作る気はないし、そもそも知っての通りそんな時間もないのだけどさ。もし僕にそんな存在ができたらクリスはどうする?」


 不敵な笑みを浮かべたまま、内心少し緊張しながらギルバートは問いかける。クリスティーナは一度目を合わせてから、少し考える姿勢を見せた。


「そうね、もしギルに愛人や心を寄せる相手ができたなら」


 クリスティーナは美しい微笑みを貼り付ける。公の場で見せる、ギルバートからしたら表情が乗っていないと思う顔だ。その顔のまま背筋を伸ばして佇まいを整えた。


「わたくしは公私関係なく、常に敬語でギルバート殿下とお話しさせていただくことにいたしますわ」


 クリスティーナが笑みを深めると、ギルバートの背筋にさあっと冷たいものが走った。一気にギルバートの顔から笑みが消える。


「なにそれ、すごく怖い」


 公の場で見せる凛とした姿もかっこいいと思うし好きだけれど、それに惚れているのはそうでない顔も知っているからだ。ずっと繕ったクリスティーナと過ごすなんて耐えられない。


 ぶるりと体を震わせると、クリスティーナは体の力を抜いてふっと笑った。いつもの様子にギルバートは胸をなでおろす。


 クリスティーナは紅茶を一口飲み、「そういえば」と言ってカップを置いた。


「隣国から来た夫人に聞いたのだけど、真実の愛を語って強引に婚約をなくした人たち、ほとんどが上手くいっていないそうよ」

「まぁそうなるだろうさ。真実の愛、なんてものじゃなくて、一時の感情だったわけだ」

「そうね」


 その「一時の感情」はお互いよく知っている。たまに思い出して切ない気分になることはあっても、あのときと同じ思いはもうない。そして同じ思いになることも、もうない。


「隣国ではそのときの反省を生かして、真実の愛は育てるもの、って今は言われているらしいわ」

「なんとも都合のいいことだな」


 ギルバートは鼻で笑う。

 だけど間違ってもいないような気がした。


「僕たちの中にも育ったのかな?」

「さぁ、どうかしら。育ったような気もするけれど、途中のような気もするわ。まだこの先は、きっと長いもの」

「そうかもしれない」


 なにが真実の愛なのか、そんなものはわからない。

 だけどこうして共に乗り越え、共に笑い、お互いを思い合って大切にし、時には意見をぶつけ、時にはなんでもないことを話しながらお茶を飲み、二人で手を取り合って生きること。そしてきっと、これからも変わらないと思えること。


 それを真実の愛というのなら、なんだかとてもしっくりくる気がした。



 部屋がノックされ、そろそろ時間ですと声をかけられる。

 まだお菓子は残っているけれど仕方がないと微笑みあって、共に移動する。

 そして公の場に出るときの表情を顔に貼りつけ、バルコニーに出た。広場には大勢の民衆が集まって歓声を上げている。


 もしかしたらあの中に、ダリアがいるかもしれない。クリスティーナが想っていた騎士もいるかもしれない。

 ここからではそれは見えないけれど、笑っているといいと思う。


 所定の位置に並んで立つ。クリスティーナは微笑みをたたえ、優雅に手を振ってみせている。ギルバートにはそれが公の場に出るときの顔だとわかっているけれど、きっと周りからは自然に見えることだろう。王太子妃として堂々とした美しい姿だ。

 その隣でギルバートもまた、国民に向けて手を振る。


 かつて想像した未来にあった光景は、そのまま現実になった。


「クリス、君が伴侶でよかったと、心から思ってるよ」

「急にどうしたの?」


 小声で囁くと、クリスティーナはチラリとギルバートを見上げる。そしてふふっと小さく笑った。


「わたしもよ」


 ギルバートはクリスティーナの頭に口付けを落とす。その瞬間にわっと歓声が大きくなった。


 愛しているふりをする仮面は、もういらない。

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ギルバートは偉いなあ…。恋に落ちてる最中は、会いたくて、姿を見れたら嬉しくて、目が合えばドキドキで。 そんな最中に、よく恋を諦められましたよね。相当キツいでしょう。 クリスティーナだってボロボロ泣いた…
真っ当な話、真っ当な登場人物。 担々としているが、乙女ゲー、悪役令嬢、の知識があればそわそわしてしまう、この辺り二人の気の迷いとリンクしているようで面白い。 隣国もボロボロでしばらくは平和が続きそうだ…
本当の真実の愛ってこういう事だよなと思いました。素敵な作品に出会えて良かっです。
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