八卦炉の返却について
朝のこと。
診療所の外来が開く時間になって、箒に乗った魔法使い──魔理沙が飛んできた。
竹箒を片手に診察室に入っていき、帳簿に目を通す永琳の姿を認めると、前置きもなく口を開いた。
「八卦炉を返してくれ」
幻覚茸を誤食して屋敷に飛んできたとき、錯乱してマスタースパークを撃とうとしたので、安全のために診療所で預かっていたものだ。一晩静養させて、次の朝に帰るときに渡すつもりだったが、それを待たずに箒で逃げていった。
こちらを泥棒扱いするような言い草に、永琳の口調は冷たくなった。
「返して、じゃないでしょう。置いて帰ったのは貴方よ」
朝までおとなしくしていれば返すつもりだった、と告げると、魔理沙は納得いかない様子だった。
「廊下が火事になってるのに寝てられるか。命を守るために最善の判断をしただけだ」
「そう。天井を撃ち抜こうとしたのも、貴方にとっての“最善”だったのね」
「天井を? 私が……撃ったのか?」
何かを思い出そうとするように、魔理沙は斜め上に視線をやった。この様子だと、本当に記憶が抜けているらしい。
「撃つ寸前で止めたから、屋敷に被害はなかったわ」
「よかった。弁償って言われたらどうしようかと思ったぜ。じゃあ、屋敷も無事だったことだし、八卦炉、返してくれよ」
安心した様子の魔理沙に、永琳は釘を刺した。
「その前に、診療代を貰ってないのだけど」
「手持ちの金がないんだよ。あれは仕事道具だから、手元にないと煮炊きもできないし、妖怪退治にも行けない。診療代を支払うためにも、八卦炉を返してくれよ」
話し合っても埒が明かない、と永琳は溜め息をついた。
「つまり、手持ちもなくて、働きにも行けない、と」
「……まあ、そうなるな」
「今日の予定は空いてるかしら」
「ああ、空いてるけど」
永琳は笑みを浮かべて「診療代は身体で払ってもらうわ」と告げた。
*
屋敷の廊下で、永琳は竹箒を片手に、魔理沙にあれこれと指示を出していた。
「廊下の雑巾がけをお願い」
「……長い廊下だな」
「八卦炉を返してほしいんでしょう。雑用が溜まっていたから、早くしないと日が暮れてしまうわよ」
脱走防止のために、八卦炉に加えて箒まで薬師の手に渡ってしまい、魔理沙は歯嚙みをした。箒がなくても空は飛べるのだが、見張られていては逃げられないし、魔道具の箒は炉の次に大切だ。
雑巾がけを済ませると、永琳は「厠の掃除を頼むわ」と続けた。
「また厠か。さっき掃除したぞ」
「さっきのは客用の厠。北側は兎たちが使っているの」
魔理沙は雑巾を絞って干すと、しぶしぶ北の厠に足を進めた。床を掃除する魔法使いと、付きっきりで見張る永琳の姿は、すぐに兎たちの注目を集めた。
兎が溜まるのを見かけて近寄った鈴仙は、「なにしてるんですか」と目を丸くした。従者の立場で口を出すのは良くないが、ひとこと言わずにはいられない。
「あの。厠掃除は兎に任せておいて、師匠は診察室へ戻ったほうが──」
「まあね。でも、ときには無駄なことをしたくなるものよ」
「そうですか」
魔理沙が北の厠を掃除している間、永琳は箒を手にして興味深そうに眺めていた。
「柄から葉が生えているわね。持ち主の魔力が染みて、生きた竹の性質が備わったのかしら」
「終わったら返せよ」
「終わったら手を洗ってご飯にしましょう。お結びと煮しめ、笹の葉茶があるの」
「おお、食事がつくのか」
魔理沙は気をよくして、壁を磨く手を早めた。鈴仙が「師匠のお人好し」と呟く。
「昼から力仕事をして貰うから。それに、うちには兎がたくさん居るし、今さらお結びが一つ二つ増えても変わらないわ」
魔法使いの背中と竹箒の柄に交互に目をやりながら、永琳は口元を緩めた。
八意永琳の記録
午後四時二十分:魔理沙に八卦炉および竹箒を返却。診療費は、厠掃除・廊下の雑巾がけ・書庫の木箱運搬にて代替とする。
幻覚茸の影響下での記憶に一部欠損を訴えるも、受け答えおよび動作に明らかな異常なし。後遺症は他覚的には認められず。昼食(お結び、煮しめ、笹の葉茶)完食。
補足:竹箒の柄より葉が生じている。持ち主の魔力との関連を検討する(スケッチ添付)