午後九時:蓬莱山輝夜
午後九時。
夜空に欠けた月がのぼり、永遠亭の中庭に月明かりが差す頃。
因幡てゐと数匹の使い兎が、庭に車座になって、月を見上げながら小唄を歌っていた。てゐが歌に合わせて飛び跳ね、ふわふわの白い耳が揺れていた。
鈴仙は診察室の障子を少し開けて、中庭の様子を眺めていた。机に向かって書き物をしていた永琳が、鈴仙に言葉をかける。
「貴方も交ざってきたら?」
大丈夫です、と返す。
自分は名目上はてゐより偉いはずだが、地上の兎はてゐの言うことしか聞かない。輪に入ろうとしたら白けた顔をされたこともあるし、それに、結託して庭の落とし穴に落とされたこともある。
永琳は書き物を済ませて、庭の小唄に耳を傾けていたが、ふと口を開いた。
「姫はさっき出ていったわ。妹紅に会いに」
姫の不在を惜しむような響きがあった。
「魔理沙もよく寝ているようだし、どうかしら。今から一局打たない?」
「え……」
「騒がしい日だったから。月の夜に碁を打つのも良いものよ」
取り残された者同士の気晴らし、というところか。
師匠のなかでは、喧騒から離れて碁を打つのが息抜きになっている。夜に一人で碁盤に向かい、何語か分からない独り言を言いながら石を並べるのを見かけたことがあった。
誰かを誘うこともあったが、てゐや下っ端の兎には、五目並べが関の山で、対局するような集中力がない。姫は碁よりも弾を撃つのが楽しいらしい。
鈴仙はというと、仕事で疲れた夜に、月の賢者と向かい合って碁を打つのは気が重い。もう少し頭を使わない趣味はないものか。
「五目並べなら、付き合います」
「じゃあ、私の部屋に行きましょう」
二人が廊下に足を向けたとき。
「見て〜!」
廊下の向こうから、輝夜が衣を揺らして走ってきた。胸元に抱えた何かから、白い毛が垂れて姫の腕にかかっている。普段は畳や敷物に膝をついて過ごし、水の桶ひとつ運ばない姫が、このように駆け寄ってくるのは珍しい。
鈴仙は姫の腕を覗き込んで、顔をこわばらせて後ずさった。
「え、何、なんでそれが」
嬉しそうに抱えていたのは、蓬莱人──藤原妹紅の生首だった。
「見て見て〜、勝ったの! 首とった!」
姫は血の擦れた頬をして、自慢げに首を見せつけた。意識のない妹紅は静かに目をつぶり、輝夜の手におとなしく収まっている。
「ちょっと。なんで首なんか持ってきたの!」
「髪が白くて綺麗だったから。寝てれば可愛いのよね」
「持ってこないでって言ったでしょう。草むらに蹴り出しておきなさい」
火が出るから──と永琳が言いかけたとき。
首が爆ぜて、天井まで火柱が噴き上がった。
何度も繰り返されたリザレクション。炎の中から人の形が生まれ、手足が伸び、体を包むように服が再生する。鈴仙が叫んでも、一度始まった蘇生が止まることはなく。
火柱が収まった後、廊下の床板には灰が散り、天井は黒く焦げていた。
火の粉がちらほら漂う中、床にうずくまっていた妹紅は、体を起こして辺りを見回した。焦げた天井を見上げて、自分の居場所に気づいたらしい。
「あー、悪い悪い!」
妹紅が詫びるように手を合わせるのと同時。水桶を手にして駆け戻った鈴仙は、勢いをつけて妹紅の頭から水をぶっ掛けた。服が濡れ、腰までの髪から水が滴る。
「つめたっ」
「消火活動です」
妹紅が髪の水気を絞っている傍らで、永琳は兎に「火傷してない?」と問い掛けた。
「はい。なんとか」
月の姫──首を持ち込んだ張本人は、焼け落ちた袖を振って「手が焼ける子ね」と嘆いていた。
*
時間は少しだけ戻る。
魔理沙は寝台を下りて廊下に出ていた。幻覚茸の影響もほとんど抜けて、月明かりがわずかに滲んで見えるのみ。厠を出てきた魔理沙は、庭を見てみたくなって、兎の小唄が聞こえるほうに足を進めた。
小唄をかき消す勢いで、胸に何かを抱えて駆ける輝夜。
腕の中にちらりと見えたのは、生首だった。薬師の叱責する声と、使い兎の悲鳴、ばちばちと爆ぜる音が重なる。
「うげ。なんだあれ」
魔理沙は踵を返して寝台に戻り、脇に置いていた箒を手に取った。様子を見に行く必要はないだろう。
「帰るか。こんなところに居ると頭が変になるぜ」
そう言い残して障子を開け放つと、箒に乗って夜空に飛び去った。
*
部屋を覗いた鈴仙は、寝台に魔理沙の姿がないことに気がついた。当人が居ないだけではなく、立てかけてあった箒も消えている。
「師匠!」
縁側に立っていた永琳に駆け寄って、魔理沙の不在を伝えようとしたとき。
永琳は夜空を見上げて「あの子」と呟いた。視線の先には、遠くの空を箒で飛び去る影がある。
「あの! 患者が逃げてますよ!?」
「……仕方がないわ。撃ち落とすわけにもいかないし」
鈴仙はしばらく指鉄砲を作って、人差し指を魔理沙に向けていたが、諦めて手を下ろした。この射程では届かないし、師匠の言う通り、怪我人を増やすわけにもいかない。
────
鈴仙を帰らせた後、永琳は廊下に佇んだ。
片手を広げて眺める。手のひらに赤みが残っていたが、ひりつきはもうほとんどない。
火柱が上がったとき、焼けた木片が鈴仙の顔に向かって飛んできた。
思わず手を出して、片手で受け止めていた。木片の先は尖っていて、目に刺さったらおおごとだ。兎は不死ではないのだから。
「……手が焼ける子たちね」
騒がしい一日が終わる。
懐から木片を出して、縁側に放り投げると、永琳は静かに私室に戻った。