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午後四時:霧雨魔理沙

午後四時。

診療が一段落して、永琳は湯呑みと菓子を盆に載せて歩いていた。廊下を何度か曲がった先に輝夜の私室がある。


日によって少し遅れることもあるが、概ねこの頃にお茶を届けることになっていた。


永琳は輝夜の従者であり、診療所として使っている永遠亭も、そもそもは月の姫の屋敷なのだ。赤子や病人ではないとはいえ、姫を朝から晩まで放っておくのも具合が悪い。


診療で手が離せない日もあるし、使い兎に持って行かせようと提案したこともあったが──輝夜は「多少遅くなってもいいから、永琳のお茶がいい」と言って、我儘を通した。


給仕を済ませて戻った永琳は、ふと思いついて台所へ向かう。里に薬を売りに行った鈴仙がそろそろ戻る頃だし、自分たちの分もお茶を淹れて、一息つこうと思ったのだ。姫に供した羊羹がまだ残っている。


薬缶を手に取ったとき、誰かの声と、衣擦れの音が聞こえてきた。

何かを言い放つような響きと、争いの気配。


薬缶を置いて、足早にそちらに向かう。


行ってみると案の定だった。診察室に続く廊下で、鈴仙と魔理沙が相対している。

二人の距離は手を伸ばせば届くほど。魔理沙の帽子は斜めにずり落ちたままで、姿勢が安定しない。空飛ぶ箒を片手に握っているが、まるで体を支えるための杖のようだった。


本を盗みに飛んできたのかと一瞬思ったが、それにしては様子がおかしい。


「武器をこっちに渡して。両手を上げなさい」


鈴仙の指示を、魔理沙は拒んだ。


「誰が、そんなこと」


魔理沙は右手にミニ八卦炉を握りしめていた。

片手に収まる八角形の火炉。見た目からは想像しがたい火力を持つ、魔法使いの道具だった。空いた左手で、箒の柄をまっすぐ鈴仙に向けている。


「魔理沙」


永琳が呼びかけると、こちらを認識したようで、箒と炉を下ろしてゆっくりと視線を向けた。


闇夜でもないのに瞳孔が開いている。鈴仙の目を直視してしまった者も狂気に陥ることがあるが、そのときは瞳孔に変化は出ない。毒茸か、と永琳は思った。


──茸の時期になると、里の人間で毒にあたる者が出る。


たいていは腹を壊すのだが、茸によっては幻覚を起こすものがある。外の世界ではマジックマッシュルームと呼ばれるらしい。


「ちょっと……吐き気がして、体調が……」

「いつから調子が悪いの?」

「昼に、茸の炊き込みご飯と、吸い物を食べたんだよ。それから、なんか……ぐらぐらしてきて」


「それは家で? 誰かに食べさせてない?」

「ああ。霊夢に振る舞おうとしたんだけど、結局自分で全部食べたんだ。美味かったから」


他人を巻き込まずに済んだのは幸運というべきか。


「吐いたら落ち着いたと思ったんだけど。竹がぐにゃぐにゃに見えるんだよ」


魔理沙は顔の前に手をかざして、天井を見上げた。


「空と地面が溶けてどっちがどっちか分からないから、勘で飛んできた」

「よく墜ちなかったわね」

「へへ。すごいだろ」

「褒めてないわよ。抜けるまで休んでいきなさい」


口元を緩めた魔理沙を、診察室に誘導しようとした。鈴仙はその後ろをついていく。

武器は診察室の入り口で回収すればいい。そう判断したのが、甘かった。


廊下を数歩進んだとき。

魔理沙が急に息を呑んで、天井の角を凝視した。


「……いる」


かすれた声で呟く。


「いるんだよ。空に」

「ここは屋内よ。何もいないわ」


制止する声は届かない。


「マスタースパーク──」


屋敷の天井、その向こうに広がる幻影の空に、八卦炉を構える。


炉が光を帯びるより一瞬早く、永琳は魔理沙の腕を掴み、捻るように引き倒した。魔理沙が呻きながら膝をつき、手から転がり落ちた八卦炉を、鈴仙がすばやく拾い上げる。


炉を落とした魔理沙は、床に座り込んで動かなくなった。


「……まったく。天井に大穴が開くところでしたよ」


鈴仙は手の中で炉を転がしながら呟くと、しゃがんで魔理沙の目の前で手を振ってみせた。


「おーい、聞こえてます?」


反応はない。魔理沙は目を開けたまま、どこでもない場所を見つめていた。





火器を回収した後、魔理沙は障子で仕切られた静かな部屋に移された。横になろうとせず、寝台の上で膝を抱えてじっとしているのを見て、鈴仙は「大丈夫でしょうか」と師匠に訊ねた。


「大丈夫よ。今のあの子は、外の刺激を感じ取れても、どう反応すればいいか分からなくなっているだけ。心拍も呼吸も安定してるし、時間が経てば自然に戻ってこられるわ」


日が沈む頃。

魔理沙が深く息を吐いて、伸びをした。寝台の脇に立てかけた箒と、傍らの座布団に座っている鈴仙を順に見やって、唇を動かす。


「……ただいま」


遠くに行って帰ってきたような、疲れと懐かしさが滲んでいた。鈴仙はまばたきを一度して、魔理沙の向こうの壁に目をやった。


「おかえりなさい」


直視した者を狂わせるから、視線を合わせないように気をつける。説教のひとつもしたくなったが、また後でも良いだろう。


「日が暮れてから飛ぶのは危ないですよ。今夜は泊まっていってください。師匠も、そう言ってました」


魔理沙は布団に潜り、すぐに静かな寝息が聞こえてきた。





障子を閉めて部屋から出ると、永琳が台所から歩いてきた。手にした小皿には、ようじを挿した羊羹の欠片が並んでいる。


「糖分を取りなさい」


永琳は有無を言わせず、鈴仙の口に羊羹を一切れ押しつけた。


「んむっ」


いきなりのことに戸惑いつつ、差し出されるままに咀嚼する。口に広がる甘味に、しなびていた兎耳が重力に逆らって持ち上がった。薬売りから戻った後に、休む間もなく茸騒ぎがあって、頭と体のエネルギーが切れ気味だったのだ。


「……ああいう波長は、引きずられる感じがして。見てると、息が詰まるんです」


寝台で膝を抱える魔法使いの姿を思い出して、使い兎は本音をこぼした。


妖怪兎の鈴仙には、波長を操って人を狂わせる能力がある。波長を操る前段階として、半ば無意識のうちに相手の波長に共鳴することになる。


歩いている相手に足を掛けて転ばせようとすれば、隣を歩くことになる。相手が千鳥足だったり、ましてや異界を飛んでいたりすれば、隣を歩くことは難しいし、こちらの動きも乱されるのだ。


「相手の波長が逸脱していれば、共鳴そのものが危険になる、ということね。人を狂わせる兎なのに、狂ってる相手には弱いなんて、なるほど、面白い話だわ」


鈴仙は少し黙ってから「羊羹、あと三切れぐらい貰います」と返した。

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