午前十時:十六夜咲夜
午前十時。
銀髪の少女が、診察室を訪ねてきた。
紅魔館のメイド、十六夜咲夜。住み込みで働く唯一の人間だった。
椅子に座っていた永琳は、咲夜のほうに向き直った。
鈴仙は入り口の木箱を示して「お願いします」と言った。咲夜は何度か来ているから、入り口で武器を預かることも知っているだろう。
咲夜は慣れた様子で頷くと、衝立の陰で身をかがめ、太もものホルダーからナイフを外して木箱に入れた。スカートの裏地、袖の中、メイド服の胸元からもナイフが出てくる。
木箱にいっぱいのナイフを前に、咲夜は軽く指を折って本数を確かめる。鈴仙は今さら驚きもしないが、箱を覗いた下っ端の使い兎たちは、耳を震わせて小声で囁き合っていた。褒められた接遇ではない。
鈴仙は他の兎たちを廊下に追いやると、診察室の障子を閉めた。
「これで全部よ」
咲夜はそう答えて、永琳の手招きに従って一礼すると、向かいの椅子に腰かけた。鈴仙は相変わらず壁際に立っていた。助手が座る椅子はない。
*
「パチュリーの咳止め、受け取りに来ました。それと、レミリアが昨日の昼に外を出歩いて火傷しまして。軟膏をお願いできますか?」
喘息持ちの魔法使いに、日光で火傷する吸血鬼。魔境の住人も体調を崩すことはあるようで、従者の咲夜がたまに薬を受け取りに来る。鈴仙が里で薬を売っている最中に、買い出し中の咲夜とやり取りすることもあれば、今回のように咲夜が訪ねてくることもあった。
永琳は症状に変わりがないかを聞き取って、机の引き出しから瓶を取り出した。
「咳止めね……本人を診たほうがいいけれど、来ないんじゃ仕方ないわ」
「申し訳ございません」
「はい、いつもの薬。あの子は吸血鬼ではないのだし、息が苦しくない程度に外を歩いて、日の光を浴びることね。埃は喘息の誘因だから、こまめに掃除を。カーペットよりも板張りの床のほうがいいわ」
ごもっともな忠告に、咲夜はわずかに顔をしかめて「伝えておきます」と答えた。往々にして魔法使いは人の話を聞かないし、外を散歩する姿は想像しがたい。
「それで、火傷の具合はどうかしら」
「両腕です。手の甲から肘までまだらに焦げていました」
「動きはどう?」
「……いつも通りです。平気で紅茶を飲んでましたし」
咲夜はティーカップを持つ振りをしてみせた。
永琳は話を聞きながら、口の広い茶色の入れ物を取り出した。中には半透明の軟膏が入っている。
「人間だったら大騒ぎになるところだけれど……まあ、吸血鬼ならそのうち再生するでしょうね。治りかけには痒みが出るから、保湿は欠かさずに。軟膏は朝晩、薄く塗って」
咲夜は礼を述べて、軟膏を懐に入れた。
席を立とうとして、何かを言いかけて口をつぐんだ。視線が一旦永琳のほうに向き、傍らで立っている兎をちらりと見て、廊下の気配を探るように背後に注意を向ける。
聞かれたくない話があるらしい、と永琳には察しがついた。
「うどんげ。中庭の掃除を」
「え。今からですか?」
「手分けして頼むわ」
「……はい」
鈴仙が診察室を出ていくのを見て、永琳は息をついた。庭掃除には手がかかるから、噂好きな廊下の兎たちも連れていってくれるだろう。
診察室に二人きりになると、咲夜は重い口を開いた。
「その、少し個人的な相談なんですが」
「どうぞ」
「……最近、仕事が立て込んでいて、どうにも通じが悪いんです。手洗いの時間が取れなくて」
そう言いながら、片手を腹に添える。
「時を止めてゆっくり行けそうなものだけど」
永琳がふと疑問を口にすると、咲夜は「それが」と表情を曇らせた。
「上手くいかないんです。時を止めるとお腹の中も止まってしまうようで。その間は用は足せないし、物を食べても喉を通らない。味も感じません」
「そう。これは仮説だけど、交感神経が優位になるのかもしれないわね」
「……交感神経?」
馴染みのない言葉を繰り返す咲夜に、永琳は仕組みを話して聞かせた。
「人の体は二つの神経系で制御されている。交感神経は非常時に、副交感神経は休んでいるときに優位になる。交感神経が優位になると、心拍数が増え、瞳孔が開いて光を取り込みやすくなり、消化や排泄は抑えられる。要するに、時を止めると戦いの体制に入って、ものを食べたり厠に行ったりする場合じゃない、と体が認識してしまう」
仕事の忙しさに加えて、時間操作を多用すると自律神経が乱れやすくなり、通じが滞るのかもしれない。能力を使わずにのんびり過ごすのが一番だが、メイド長には無理な話だろう。
永琳は相手の体重をざっと推測すると、薬棚に向かって緩下剤を調合し始めた。瓶に匙を入れたところで、咲夜が椅子から腰を浮かせた。
「……あの。お手洗いをお借りしても?」
「どうぞ。廊下の突き当たりを左」
咲夜は診察室を出ていき、薬師が一人で残された。
*
調合を終えた永琳は、廊下のほうに目をやって「遅いわね」と呟いた。
気分が悪くなっていたり、屋敷のどこかで妖怪兎と揉めていたりしないか。
様子を見に行こうとしたとき、咲夜がちょうど帰ってきた。
「失礼しました」
先ほどまでの物憂げな顔が一変し、顔立ちは穏やかで、色白の頬に朱が差している。足取りが軽いのは、服に仕込んだナイフをまだ身につけていないからか、それとも。
「用は済みましたので。薬は、もう要らないかと」
真顔で話しているが、声の端がふわふわとしていて変化が分かりやすい。
「いいえ。今は要らなくても、そのうち必要になるかもしれないわ。持っておきなさい」
薬の包みを渡すと、咲夜は一礼して受け取った。
*
紅魔館のメイド長は、咳止めと軟膏と緩下剤、大量のナイフとともに診察室を出ていった。
それと入れ替わりに使い兎が帰ってくる。
「お疲れ様。助かったわ」
「いえ」
認められて嬉しそうな鈴仙に、薬師は別の話を振った。
「ところで。最近、お通じの具合はどうかしら」
「え、別に、困ってませんけど……」
「そう。ならいいの」
良かったと言いつつ、声音には惜しむような響きがあった。
「坐薬の試作品があるの。人間には作用が強すぎて使えないのだけど、妖怪兎にはちょうどいいはずよ」
「坐薬、ですか」
「困ったらいつでも言ってちょうだい。即効性は保証するわ」
そう言われた鈴仙は「快調です!」と食い気味に答えるのだった。