午前五時半:魂魄妖夢
迷いの竹林の奥に、和風建築の屋敷があった。訪ねるのはちょっと骨が折れるが、人間も妖怪も分け隔てなく診察することで知られていた。
内科に外科、皮膚科まで──診療内容も幅広く、困ったときの駆け込み寺として名を馳せている。とはいえ、どれほどの腕利きでも、ときには手を焼くことがある。
これは、永遠亭の慌ただしい一日の話である。
──午前五時半──
竹林に朝もやが立つ頃。
使い兎の鈴仙は、眠い目をこすりながら、箒を持って門前に向かった。
門前には、銀髪の少女が立っていた。
二本の刀を携え、背後に白い霊魂が漂っている。何事かを呟きながら刀を抜き、真剣で素振りをしている姿は明らかに不審であった。使い兎の職務には門番も入っているから、こんな曲者を放ってはおけない。
鈴仙は光の波長を操って一瞬で背後に回り、箒の先で肩を突いた。
何をしているのかと耳元で問うと、相手は「ぎゃあぁあ!」と派手な声をあげて怯んでいた。
「お化けぇ!?」
「驚くのはこっちです。朝早くから何してるんですか」
「すみません。外来が開くまで時間を潰してました」
「開くまで、三時間はありますけど」
「早く来すぎたのはお詫びします。時間まで日課の素振りをしてお待ちしますので、お構いなく」
「ちょうど師匠に、“門の前に刀を振るう曲者がいるから連れてこい”って言われたところです」
鈴仙は溜め息をついて、白玉楼の庭師──魂魄妖夢を診察室へと連行した。
*
永遠亭の診察室。愛刀を手放した妖夢は、どこか落ち着かない様子で周りを見回した。
診察室では武器の持ち込みを禁じており、入り口で預けることになっている。庭師も剣士も兵士も診察室に入れば等しく「患者」であり、患者に武装は要らない、というのが永琳の方針だった。
反対側の椅子に永琳が座る。鈴仙は壁際に立って二人をぼんやり眺めていた。
「早く来すぎて、申し訳ございません」
頭を下げるその姿は礼儀正しいが、あまりに早く来すぎたことで、常識的なのか非常識なのか判じかねる。用件を聞くと、妖夢は自らの半身──白い霊魂を抱えて差し出した。
「先生。最近、半霊が萎びているんです」
永琳は椅子に腰かけたまま、差し出された半霊を見つめた。
確かに張りがない気はするが、霊体とはそういうものではないか、とも思える。野菜や果物とは違って、半霊が萎びているかどうかは判断材料に乏しい。妖夢のほうに自覚症状はなく元気そうなのが救いだった。
「言われてみれば……」
「やっぱり! 普段はもっと丸くて、もっちりしてるんですよ」
近くにいる者の観察眼は侮れない。当人がそう言うなら、と永琳は妖夢の話を聞くことにした。
「何か心当たりはある? 疲れてるとか、慣れない場所に行ったとか」
半人半霊の少女は、少し考えてから口を開いた。
「実は……幽々子様に、お餅の代わりにかじられたことがあります」
「かじられた?」
永琳と兎は、同時に半霊に目をやった。
「はい。お茶を淹れたとき、茶菓子を切らしていたんです。幽々子様はお餅が食べたいと仰って、私の半霊を捕まえて半分ほど……」
永琳は許可を取って、半霊に指を沈ませた。手触りはほのかに温かく、地上の物体で例えがたい奇妙なものだった。湯気だと思えば気体になり、餅だと思えば弾力が返ってくる。
「中に餡が入ってないのが残念って言ってました」
椅子を回して背もたれで視線を遮り、密かに指先を唇に当ててみる。指の先に甘味はない。確かめるまでもないが、確かめずにはいられなかった。
「最近はお米が値上がりしてますし……お米やお餅が大好きな幽々子様には、かなりこたえてるみたいです。おにぎりなら一食で十個は食べますから」
永琳は「それは大変ね」と返して、机の引き出しから薬包紙を出し、数種類の生薬を包んだ。
「気の流れを整える薬を出しておく。これを煮出して朝夕に一服。あと、水分を意識してよく取ることね。潤いは大切だし、あなたの喉が渇いていたら、半霊も水気が抜けるかもしれないわ」
そう口にしつつ、半霊に「水気」という言葉が相応しいのか疑問に思う。幸い、妖夢は深く問わずに薬を受け取って頭を下げた。
懐を探って財布を出そうとする妖夢を、永琳は片手で制した。
「こうして半霊を間近に観察できたし──まあ、観察料ということで」
「ありがとうございます!」
入り口で二本の刀を手に取って、少女は廊下を戻っていった。
*
妖夢が帰っていくと、診察室には薬師と助手が残された。
朝から面白いものが見られたと嬉しそうな永琳に、兎は「お人好しが過ぎます」と返した。いつもならまだ寝ている時間なのに、眠りを妨げられたうえ、薬代を払わず帰らせたのは釈然としない。
永琳は診察記録をつけながら呟いた。
「それにしても、白玉楼の主があんなに食べるとは知らなかったわ」
「本当に。師匠は大食いじゃなくて、助かってます」
そう同情したものの──新薬の実験台にされるのと、どちらがマシなのか。
鈴仙は考えるのをやめた。