海の匂いと一杯の酒
港の夕暮れは、いつも潮の匂いとカモメの鳴き声で満ちていた。漁船のエンジン音が遠くで響き合い、波止場に打ち寄せる波の音が静かに重なる。健一は船を係留し、網を片付けた後、肩を軽く叩いて疲れをほぐした。五十歳を過ぎた彼の顔には、陽に焼けたシワと海の塩が刻まれていた。
健一は港からほど近い「浜の灯」という小さな食堂に向かった。木造の建物は年季が入り、看板の文字は潮風で薄れかけている。扉を開けると、カウンターの向こうから店主の幸子が顔を上げた。「お、健ちゃん。今日もお疲れさん。いつもの?」彼女の声は、どこか姉貴のような温かさがあった。
「いつもの。」健一は頷き、カウンターの端の定位置に腰を下ろした。ほどなくして、焼酎のお湯割りと焼き魚定食が目の前に並ぶ。湯気とともに立ち上る魚の香りが、健一の空腹をそっと刺激した。彼は箸を手に取り、まず一口。魚の身はほろりと崩れ、口の中で潮の味が広がる。「うまいな、幸子さん。今日のサバ、いいね。」
「でしょ?朝イチで仕入れたやつよ。」幸子は笑いながら、別の客の注文をさばき始めた。
健一は焼酎をちびりと飲み、目を細めた。この食堂は、まるで時間が止まったような場所だった。壁に貼られた色褪せたポスター、カウンターに並ぶ常連のグラス、そして幸子の笑い声。すべてが、健一にとって「家」の一部だった。
かつては違う家があった。美咲との家だ。美咲はいつも健一の帰りを待っていて、二人で食卓を囲んだ。彼女の手料理は、どんな高級な料理にも代えがたいものだった。だが、七年前、癌が美咲を奪った。あまりに早く、あまりに静かに。健一は看病の合間に漁に出て、帰れば美咲の笑顔に癒された。あの笑顔が消えた日、健一の時間もどこかで止まった気がした。
それ以来、家に帰るのが億劫になった。冷たいキッチン、誰もいない食卓。美咲の不在がそこに重くのしかかる。だから、健一は「浜の灯」に流れ着いた。ここには美咲はいないが、孤独を埋める何かがあった。幸子の声、常連たちの他愛もない話、焼酎の温かさ。それで十分だった。少なくとも、そう自分に言い聞かせていた。
この夜も、健一は常連の漁師仲間と軽く言葉を交わし、焼酎をもう一杯お代わりした。テレビでは地元のニュースが流れ、港の再開発計画について誰かが文句を言っている。健一は耳を傾けず、ただグラスを傾けた。海のことを考えていた。明日の天気、潮の流れ、魚の動き。海は変わらない。美咲がいなくなっても、港が開発されても、海だけはいつもそこにある。
「健ちゃん、最近どうよ。なんか元気ないみたいだけど。」幸子がカウンター越しに声をかけてきた。彼女の手は忙しく動いているのに、目は健一をしっかり捉えている。
「いや、別に。歳のせいだろ。」健一は笑って誤魔化した。だが、幸子の目は何かを見透かしているようだった。
「まぁ、なんでもいいけどさ。いつでも話聞くからね。ここ、健ちゃんの家みたいなもんでしょ?」幸子はそう言って、ニッと笑った。
健一は一瞬言葉に詰まり、グラスを握る手に力を込めた。「家、か…。」彼は小さく呟き、焼酎を飲み干した。胸の奥で、何かが小さく疼いた。美咲の笑顔、かつての食卓、そして今ここにある「浜の灯」。家とは何か、健一はまだ答えを見つけられずにいた。
外では、夜の海が静かに揺れていた。健一は立ち上がり、軽く手を挙げて店を出た。「また明日な、幸子さん。」
「気をつけて帰れよ、健ちゃん。」幸子の声が背中に届く。
港の風は冷たかったが、健一の胸には、焼酎の温もりと、どこか懐かしい家の匂いが残っていた。