子育てはご褒美ではございませぬ!
光源氏かな?
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「サミュエルよ!よくぞ王城に迫るドラゴンを撃退してくれた!そなたに褒美として我が娘リナ第二王女との結婚を許そう!」
「無理です!!お断りいたします!!」
それなりに整っていると言えなくもない青年は王様からのご褒美を華麗に秒で蹴り飛ばした。
豪華絢爛でありながら荘厳な謁見の間が、非常に気まずい沈黙に包まれる。褒美を進呈した王様だけが不満げだ。
口を尖らせて可愛いのは乙女だけだと、誰もが教えてやりたかった。
沈黙は続く。この場で発言を許されるのは国王と、サミュエルと呼ばれた青年だけだから当然といえばそうだが、仮にそうでなくても誰も声を出さなかっただろう。
ほぼ全員が同情によるものであろうことは明白だ。
特に、子を持つ親としては同情を禁じ得なかった。
「何故だ?リナは美しく、若く、聡明だ。お主が所望した条件にはすべて合致しておる。我が国の未来を担う者への褒美としてこれ以上にはないではないか。何故に断る。」
「ええ、ええ、国王のおっしゃることはわかります!そのとおりでしょう、私もそう思います!しかし!」
しかし。
何故ならば。
「あーうー♪」
「子育てはご褒美ではございませぬ!!!」
リナ姫はまだ乳児だったのだ。
それも、もうすぐ2歳になるという、幼児一歩手前の。
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まだ銃ではなく魔法が主力だった頃のこと。
ガロン王城が新たな散歩ルートにでもなったのか、ここ数年不滅のドラゴンと呼ばれる非常に巨大なモンスターがたびたび城の横を通るようになった。
不滅などという大層な名前をつけてはいるが、別に不死身であることが確認できたからではない。あまりに巨大で倒すのも危ないから触るに触れないという理由からである。
「おー今日も飛んでるなアイツ。…げ、また壁を擦りながら通り抜けやがった。」
空を見上げるこの青年こそ、今回の立役者であるサミュエルである。彼は国営の学園で教鞭をとる新人の一人だった。
「うーん、気を逸らすだけならなんとか出来そうだけどなぁ…。」
「やめとけやめとけ!下手な提案して失敗でもしてみろ、えらいことになるぞ。」
同僚からもいつも馬鹿にされ…ているほどではなかったが、同期の中では最も年下なので少し軽んじられていた。
「あ!そっちに行ったぞ!そこから飛び降りろぉぉぉってこっちもきたぁぁぁ!?逃げろおおおおお!!」
ドラゴンは城下町に対して炎を吐いたり、人を食ったりするわけではないのだが、無遠慮に通り過ぎるたびに翼や角が城に当たり、その修繕費用はシャレにならない額へと膨らんでいった。
いつしか一部の修繕を諦めた事で、"パッチワークの城"などという蔑称まで生まれてしまった。
「"天井知らずの城"と呼ばれるまであとどれくらいだと思う?」
「明日かな。」
と言った会話がされるほど、城の体積は減少を続けていた。
「このままでは修繕だけでいずれは国庫破綻する!なんとかせよ!」
その日から、軍人や学者、果ては学園関係者までもを集めての対策会議が始まった。
国王によるザックリとした王命は、しかして尽く失敗し続けてしまった。
まず、ある勇気ある兵士が一番高い屋根に登り、肉を長い槍の先から吊るして気をそらそうとした。原始的ではあったが、すぐに実行できるということで試された。
だがそもそも人を襲わないということは腹が減っていないということであり、獣の肉を吊るしたくらいでは障害物にすらならなかった。
この時は翼がかすめ、壁の一部が削れた。槍を持っていた兵は風に煽られて屋根の上を転がりながらテラスに落下、脚を骨折した。ドラゴンがもう少し上を飛んでいたら屋根ごと落下し、即死していただろう。
学園の先輩達は、魔法による撃退を提案した。
まず厚い水壁で進行を妨害しようとしたが、ドラゴンは見事にこれを無視。弾かれた大量の水で数名が流された。一応全員は無事だったし、城下町の洗濯物や商品が水浸しになる程度で済んだが、あまりに大量の水を消費するため二度と行われなかった。
同じ理由で氷の壁作戦も没になった。固形である分、壊された時により危険ですらあった。提案者は学園長により退席させられた。
炎の壁を提案した者は「火を吹くドラゴンに火が効くものか!弾けたら火事になるだろう!」と当然の叱責を受けた。退席させられた。
風の壁を提案した者は「まじめに考えろ!」の一言で即退席させられた。
学園側で残っていたのは頭まで真っ赤にした学園長と、先輩から発言を許されていなかったサミュエルだけになっていた。
では積極的に討伐をという意見も少なくはなかった。しかしもし討伐に失敗した時、人間に対し強い敵意を持つのは明白であり、その後これまで以上の被害が出る恐れがあることから保留せざるを得なかった。何より、あの巨大なドラゴンを確実に討伐できる自信のある者はいなかった。
このように、ドラゴン自身は非常に大人しいものの、進路の邪魔をしようと危害を加えるだけしっぺ返しを食らい、討伐も危険とあり、積極的な対策の取りようが無くなってしまっていた。
「ええい、もう誰でもいい!上手く行ったらなんでも褒美をやるから、城を壊さずに済む良い案はないのか!」
国王の檄が、もはや悲鳴にしか聞こえなくなっていた。
誰もが沈痛な思いでいる中、しゃべるなと言った先輩がいなくなったサミュエルが、恐れ多くもその会議の中で率直な意見を述べたのが解決の糸口となった。
「ドラゴン相手に有効かはわかりませんが、人間相手であれば進路を変える方法ならあります。」
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その方法とは…なんの事はない。
廊下の中央に"姿見"を置くことだった。
前方から自分と同じ速度で障害物が迫ってくるとなれば、避けるしかない。廊下を歩く人々全てが姿見から少し離れた距離で逸れて避けていった。それは立て看板を置くよりも離れた距離で避けていた。
それを見た国王と重臣は、これしかないとすぐに実行を試みた。
決戦当日。
ドラゴンはいつもの方角からゆっくりと飛行し、今日も城に近付いてくる。
誰もが固唾を飲んで見守り、国王も一足先に"天井知らず"になった自室から見守っていた。
そして今日は城から少し離れた位置、ドラゴンの進行方向上に巨大な鏡が設置されており、進行方向から対向車ならぬ対抗龍が迫ってくるように見えた。鏡は反射魔法と水魔法を応用することで実現させた。
驚いたドラゴンは鏡から少し離れた位置で進路を右にずらし、なんと対策を開始して初めて被害ゼロでドラゴンをやり過ごすことに成功してしまったのだった。
この出来事は後に「散歩道の姿見」と呼ばれ、サミュエルの伝記の中に度々登場することになる。
しかし。
(や…やばかった…!成功してよかった…!!)
サミュエルは内心震えていた。
実はその後、鏡像認識の低い幼児…例えばリナ姫あたりは鏡に写った自分を認識できずに姿見を触り、カラスに至っては鏡を小突いてきたことが判明したからだ。そうでなくても粗暴な者なら鏡を破壊することは想像できた。下手すれば大惨事であった。
しゃべるなと言った先輩の偉大さを実感した。沈黙は金である。
「これは快挙だ!これまでかかった費用と今後の被害を考えれば、戦争に勝利した貢献に等しい!サミュエルよ、好きな褒美を述べよ!どのようなものでも用意しよう!」
意気揚々とした調子のいい国王の叫びに、周りの大臣たちも「おい、大丈夫か」と見守る。国王は時々、勢いのまま下賜することがある。
だが幸いなことにサミュエルは謙虚だった。
求めた報酬は、「美しく、若く、聡明な女性と結婚したい」。
少なくとも出世を望めたのに、彼が望んだのは結婚相手だった。
それが事件を生んだ。
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「お主の言うことは理屈に合わぬ。お主が言ったのではないか、あの不滅のドラゴンを撃退できた暁には結婚したいと。」
相も変わらず「ツーン」と言った具合で口を尖らせている国王。
自分の希望を他人から言われると非常に情けないが、確かにそう言った。
サミュエルは独身で、結婚というものに純粋に憧れていた。
学園の教師という仕事で知り合う人々は子供か既婚者が殆どで、独身である彼には職場での出会いは期待できなかった。そして教師たらんとしていた彼は、卒業生に手を出そうとしたことが一度も無かった。
だから、周りからしたらささやかだったとしても、本人にとっては重要な褒美だった。
それなのに。
「確かに言いました。ええ言いましたとも!美しく、若く、聡明な女性!ですが姫様のお歳では"愛らしく、幼く、親から見た天才女児"です!お考え直しください!」
あまりの正論にあの堅物の軍務大臣でさえ「うんうん」と首を振っていた。彼はどんな正論でもすぐには首肯しないことで有名だったが、幼い娘の父親でもあった。
だが、しかし。
「やだ。我が娘が褒美に不足だなどと認められるか、バカ者。」
この一言で、結婚が決まってしまったのだった。
サミュエル24歳、リナ姫、ちょうど2歳。文にするのも躊躇われる、親子レベルの年の差婚であった。
新郎がリナ姫のウェディングドレスの小ささに思わず呻いたのを、誰が非難できよう。
可愛いと喜んでいたのはあの国王ぐらいである。
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サミュエルの住まいは王城に移された。
幸いサミュエルは辺境伯の三男坊、つまり貴族だったため、平民と比べれば引っ越しのハードルは高くなかった。低くもなかったが。
というより、幼いリナ姫をサミュエルが住む独身寮に送るわけにはいかなかった。
新婚初夜がまた大変だった。
退屈な結婚式が終わったと思えば、初めて親以外の男性と一緒に寝るとなって、リナ姫は泣いた。
それこそ部屋の向かい側の部屋にまで聞こえるレベルの見事な号泣ぶりで、警備に当たった兵士二人が「まさか二歳児に手を出してはいないだろうな」と険しい顔をしたほどだった。
「おどうざまぁぁぁぁ!!あぁぁぁぁ!!」と泣き叫ぶリナ姫を抱き上げ、高い高いをしたり、優しくあやすサミュエルの姿は、よく言って献身的ではあったが、どうみてもシングルファーザーだった。
彼は結婚した初日からシングルファーザーを始めることになったことに、強い不安を覚えていた。
その翌日、彼は学園に休職を申し出て、代わりにリナ姫の教育係を買って出た。このあまりに幼い妻を一人留守番させることに、強い不安を覚えたからだった。
娘に対しては砂糖菓子より甘い国王がこれを許可し、サミュエルには僅かながら給金まで出してもらえた。
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結婚から半年。
あの日から少しずつ鏡によって進路をずらされた不滅のドラゴンは、王城からだいぶ離れたところを飛ぶようになっていた。
そして一方のリナ姫は新婚のうら若き身で、夫と毎日床を共にして夫婦仲を深めていた。というより、夫に寝かしつけられていた。
流石に夜泣きはしなくなったものの、リナ姫のおねしょ癖はなかなか治らなかった。
週に2回はシーツや夫の服への世界地図作りに勤しんでいる。リナ姫はその度にわんわん泣いた。夜中に2回トイレを促すのはサミュエルの役目だった。
さらにリナ姫はひたすら寝相が悪く、サミュエルの口や鼻につま先蹴りをかますことも多かった。日々少しずつ体が大きくなるにつれ、その威力も増していった。
これが育児疲れかとげっそりするサミュエルだったが、それは違う。「夫だから」という拗れたプライドで本来やらなくていいことを率先してやってるだけであり、ある意味自業自得であった。
しかし、それでも。
「さむえる!おさんぽいこ!」
天使のような笑顔で膝に乗っかってくるリナ姫に対し、深い愛情を抱いているのも確かだった。それは父性と母性の融合体であり、反面夫としての愛情は皆無になっていた。
それは同時に、サミュエルにとある決意をさせていた。
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結婚から3年。リナ姫は5歳になっていた。
リナ姫の貴族教育が始まる年齢になり、毎日お勉強をしている。
一般教養の担当はサミュエルがそのまま続けることになった。彼としてもそこに不満は無い。
が、何故かお茶会での作法といった淑女教育の一部まで担当させられてしまった。
「こ、国王!この人選は明らかに間違っています!私にカーテシーを教えろとおっしゃるのですか!?」
「そうだ。だってあのかわいいかわいいリナがカーテシーするところ早く見たいんだもん。一番長くいるんだし、お前が教育せよ。すぐにな。」
相変わらず口を尖らせる国王の顔は可愛くなかった。
(この国王、まじか!?)
残念、まじである。
だがこの人選には実際相当な無理があった。警備兵に「この国は大丈夫か」と思わせるほどには。
男性であるサミュエルは、リナ姫の前でスカートを穿いてカーテシーをすることになった。
「きゃははははは!!!」
リナ姫はその姿を見て床を転げながら大笑いしてしまい、まったく練習にならない。
「はしたないですよ姫様!」と窘めたところで、スカート姿である。変なところで完璧主義者な彼は、口紅までしていた。
「ふひひひひひ!!あっはははは!!や、やめてー!!おかおちかづけないでー!!あっはははは!!」
だがその完璧さはリナ姫の笑いを大きくするだけだった。
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結婚から4年。
リナ姫が珍しく、「いっしょにねよ?」とサミュエルを誘った。
言われなくても毎日寝かしつけているのだが、りな姫から誘うのは初めてだった。
「ごほんはいいから、おはなしさせて。」
普段なら寝かしつけるのに必要な本さえも求めない。
本当に珍しいなと首を傾げつつ、サミュエルはリナ姫と向かい合わせになってベッドに入る。
リナ姫の話の中に「木の上に卵があった」「こぶながつれた」「敵をけとばした」等、明らかに不穏な単語が混じっていたことに、この時は気付かなかった。彼も日々の子育てに疲れがたまっていたのである。
いつの間にか、リナ姫と抱き合いながら朝を迎えていた。
珍しくその日は、リナ姫のつま先蹴りも飛んでこなかったようだ。
この日から、リナ姫は寝かしつけてもらおうとはしなくなった。
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「サミュエル、ダンスのやり方を教えて。」
結婚から6年。リナ姫は8歳の誕生日を前に、夫にダンス指導を求めた。
「それは構いませんが、背丈が合いませんよ?」
「なら、やり方だけ教えて。背丈の方は、毎日頑張って伸ばすから。」
そういうリナの顔は、ほんの少しだけ大人びて見えた。
彼は一応、女性側のダンスについて予習はしていたので、基礎を教えることは可能だった。
文字通り手取り足取りダンスを教えたサミュエルは、その意外なほどの体幹の強さに驚いた。
「サミュエル。私とサミュエルって、夫婦なんだよね?親子じゃないよね?」
不意にそのような事を言われ、サミュエルは何も言えなかった。恐らくは王妃に似たのであろう整った顔立ちと大きな瞳は、ただ純粋な輝きを放っていた。
「答えてよ、サミュエル。」
その目はいつものからかう様な色ではなかった。
こういう目をしている時の彼女には、真面目に答えなきゃいけない。
「夫婦ですよ、姫様。あなたのウェディングドレス、出してきましょうか?」
「むぅぅーー!そんなのださなくていいからー!」
恥ずかしがる彼女はとても愛らしかった。
だが、もしかしたら聡いこの子は自分の気持ちに気付いているのではないかという、確信に近い疑問が残った。
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結婚から8年。リナ姫は10歳になった。
この時からリナ姫の雰囲気が変化しはじめ、子供らしさが少しずつ抜けつつあった。サミュエルにはまるで蛹から蝶になる、その瞬間に立ち会う様な、神聖なひと時に思えた。
体つきはまだ子供のそれだが、2歳の頃から夫を範とした彼女の態度は非常に落ち着いている。そのため、同年代の子供たちからは畏敬と憧憬の念を集めていた。
特に男子諸君からの人気が大きく、よくお茶会に誘われていた。
大抵の場合、その後既婚者であることに驚きすぎて、完全に固まるわけだが。
おねしょもしなくなり、寝かしつけるのに本を読む必要もなくなった。読書の面白さを覚え、最近は恋愛小説をよく読んだ。
だが、変化しつつあるリナ姫にも、いくつか未だに変化していないものもあった。
「………んぐおほぉ!?」
サミュエルの鼻につま先が刺さった。なかなかの角度と深さで、よくこれで鼻血が出ないものだと感心させられる。そう、彼女はベッドの中では相変わらずのじゃじゃ馬だった。
蹴りの頻度こそ減ったものの、彼女の寝相の悪さだけは、終ぞ治ることが無かった。
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結婚から10年。リナ姫は12歳になっていた。
いくつものお茶会と学園生活を経て、リナ姫は立派なレディとなっていた。
サミュエルに隠れて木登りや釣りをしたり、いたずら好きな男の子に蹴りを放つ少女はもういない。
堂々と木登りや釣りをし、拳闘の腕を磨いて同門の男どもを圧倒していた。
誠に立派なレディである。
それを補うように品行方正で勉学にも勤しみ、幼少の頃より磨き続けたダンスの巧みさは比類がない。
この完璧さと幼さが極端に同居するレディに対する"ご縁談"が、この時期大量に舞い込んできていた。
実際は縁談ではなく、リナ姫の成人後に彼女とその夫を中心とした学園を新規開校する話になっており、そこに一枚噛ませて貰おうという様々な事業からのお声掛けだった。
無論、その中には見目麗しい青年たちもたくさんいた。
むしろリナ姫の心を奪うため、そのような者を中心に送られていたようだった。
「ねえ、サミュエル。私、恋をしたかもしれないわ」
そう語るリナ姫の頬はうっすらと赤くなっており、目が潤んでいた。
「恋、ですか?」
「ええ。今まで私はサミュエルと結婚生活を送っていたけれど、こんなドキドキは初めてなの。ううん、きっともっと前からそうだったのかもしれないけど、気付いたのは最近だわ。」
その男性は、いつも誰かのことを考えてくれて、他人のためにその身を削ってくれているのだと言う。そして、まだ自分の名前を呼んでもらえてはいないし、自分を女として見てもらえていないけれど、その人と心から愛し合いたいと願っていると、そう語った。
「そうでしたか、姫様。私も嬉しく思います。」
口ではそう言いつつも、胸の中に激しい痛みが走っていた。
娘にも等しい彼女を育てて10年。彼ももう34歳だった。
その年月は、彼に様々な達観と諦観を与えるのに十分だった。
ついに彼女が自分の幸せを掴む時が来たかと、サミュエルは決意を新たにした。
そして彼女が成人した日に備え、自分のサインを入れた一枚の書類を用意した。
もう一人のサインは彼女が書く必要があった。
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ドラゴンが再び向かってきているという報告が国王にまで上がったのは、リナ姫とサミュエルが結婚してもうすぐ13年になろうかという年だった。
だがそのドラゴンは不滅のドラゴンではなかった。
不滅のドラゴンと比べてやや小ぶりではあったものの、その分知性は感じられず、「散歩道の姿見」が効果を持つかどうかは未知数だった。カラスが姿見を見ると小突くことは、既に多くの者が認知している。
緊急会議にはサミュエルも参加した。
前回の作戦の立役者であったからだ。
「サミュエル、お前はその龍をどう見る。」
「……恐らく、"不滅の"よりも知能は低いでしょう。斥候によれば、目の前を飛ぶ鳥にブレスを吹きかけたという話も聞きました。鏡を置いたところで、破壊されて終わりでしょう。」
残酷な事実であるが、まずは認めることから始めるしかない。
「軍務大臣、そなたの意見を聞きたい。」
「正面決戦では敵いませんな。王都を捨てて逃げるのが、一番被害が出ないでしょう。」
だが、王都の外には魔獣がいる。恐らくかなりの犠牲者が出るだろう。何より、逃げる先が周辺の村々か遠方の同盟国しか考えられず、その旅に何人が耐えられるのかは疑問だった。
そして軍務大臣は、それでもなお"一番被害が出ない"と断言した。つまり、留まればさらに大きな被害が見込まれた。
国王として、民衆が全滅することだけは避けなければならない。
「………やむを得ない…か。」
「いえ、お待ちください国王。一つだけ、僅かな可能性ですが、手があります。」
会議室にいる全員の目が、サミュエルに向かった。
「国の魔道士と、魔道士のための馬を集めてください。」
サミュエルは地図を広げて、作戦を説明していく。
それは作戦というのも憚られる代物だった。
だが成功すれば全員が助かる可能性もあった。
そしてその可能性は、サミュエルが言うほど低くもなさそうだった。
「……これが成功すれば、お前を軍務大臣に推薦することも考慮しても良いぞ。」
「いえ、私は軍務大臣とはパパ友でいたいので、それは遠慮しておきます。その代わり、一つだけご褒美をください。」
堅物の軍務大臣が、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
彼にはリナ姫のあやし方について、よく相談していた。
「ふっ…では、決戦はドラゴンの到達時刻である4時間後だ。速やかに魔道士と馬を集め、配置につけ!」
--------
サミュエルが部屋のドアを開けると、そこには美しい少女が剣と軍服を持って立っていた。どうやら、既にサミュエルも作戦指揮官の一人として出撃することを聞いていたらしい。
「サミュエル…どうかご無事で。」
「もちろんですよ、姫様。あなたをまだ未亡人にするつもりはありません。」
サミュエルは、この美しく育った娘を愛していた。
だが、恋する乙女となった娘を縛り付けるような男でもなかった。彼はリナ姫にとって、よき夫である以上に、よき父であろうとしている。
「………私、明日誕生日なの。」
「ええ、覚えております。とびっきりのケーキを用意します。」
「15歳になるわ。」
「………もう、大人ですね。」
感慨深くもあり、寂しくもあった。
「そうよ、サミュエル。私ももう、大人になるの。だからあなたとはもう一つ、記念のお祝いをしなくちゃいけないわ。……絶対に生きて帰ってきてね。絶対よ。」
そう語る彼女の頬は、赤く染まっている。
記念のお祝い。それが彼女が恋する男性と結ばれるために必要な離縁の儀であると、サミュエルは理解している。
彼はその頬に優しく触れた後、跪いて手の甲にキスをした。
それは忠誠を誓う騎士のようだった。
「仰せのままに、姫。」
その姿に、リナ姫は頬をさらに赤く染めつつも、激しい痛みに耐えるかのように目を細めていた。
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作戦開始から、数時間。
王は謁見の間のすぐそばにあるテラスから、敵がくる方角の山間を睨みつけていた。
間もなくドラゴンの到着予定時刻であったが、まだ姿は見えていない。
まさか、進路を変えてくれたのかとわずかな期待をした、その時だった。
「………来たか!」
それは、不滅のドラゴンと比べれば小ぶりだったが、飛び方に優雅さは無く、ギャーギャーと喚いていた。時折あらぬ方向に炎を飛ばしている。恐らく視界に入った鳥を炭に変えているのだろう。
「忌々しい化け物め…!サミュエル、来たぞ!」
「緑の炎を打ち上げてください!!」
サミュエルの指示のもと、上空に炎色反応を起こした火矢が打ち上がった。
それを合図に、森に木を隠した魔道士たちが一斉に巨大な"風の壁"を発動させた。
見えない暴風によってバランスを崩したドラゴンは、僅かに混乱し、上空に止まった。この程度で撃墜することはできない。そこを間髪入れず、騎士達が射掛けた。"不滅の"には通じないのが目に見えてた暴風も、このサイズなら有効たり得た。むしろ見えない分、撹乱には向いていた。
だが、小ぶりとはいえドラゴンだ。矢程度ではダメージにならず、逆上してあちらこちらにブレスを見舞った。数名が怪我をし、後退をやむなくされる。一部の勇気ある魔道士が氷魔法の槍を見舞ったが、あっさりと避けられた上に反撃を受けて倒れた。
魔道士たちは馬を使って後退と風の展開を繰り返した。騎士たちも効かないと分かっていながらも果敢に矢を射続けている。
ドラゴンの接近速度は大幅に遅くなっていた。だが、止まることはない。進路先から攻撃してきている存在を、そのドラゴンは許すつもりがなかった。
「サミュエル!このまま進路を曲げてもいいのではないか!」
「それでは囮になった者が犠牲になります!城からも援護射撃をしてください!大丈夫です、彼らを信じましょう!」
じりじりと近付いてきたドラゴンは、顔の輪郭が分かるまでになっていた。これ以上の接近は、もはや許されない。だが、ドラゴンの方が待ち切れなかったらしい。
ドラゴンの口腔に熱気が集まるのが見えた。
「あいつ、この距離からやる気か!?」
ドラゴンのブレスが、デタラメに放たれる。
明後日の方向に飛ぶものもあれば、庭の木に当たるブレスもあった。
そしてその中の一発が、リナ姫とサミュエルの寝室に直撃した。
寝室の窓からは黒煙が上がり、中に存在したもの全てを燃やし尽くす。リナ姫のドレスが黒ぐろと燃えていたのを、サミュエルは見てしまった。
「そ………そんなっ………!?リナぁーーー!!!」
「サミュエル!?待て!!」
顔面を蒼白させたサミュエルが、指揮も忘れて絶叫した。
その時だった。
横合いから、さらに巨大なドラゴンが飛来してきた。その姿は悠然としていて、凶暴さは感じられない。だが、巨体でありながらそのスピードは凄まじく、遠くからでも風を切る音が聞こえた。
それは別働隊による「散歩道の姿見」でこちらに誘導させられた、不滅のドラゴンだった。
小ぶりなドラゴンはブレスを吐くのに夢中になっていて、その接近に気付けなかった。寸前になってようやく気付いたようだが、既に出来ることはない。城に対しては何の危害も加えなかったそのドラゴンは、小ぶりなドラゴンにはがぶりと噛みつき、バキボキとその骨を粉砕した。
そして、絶命したドラゴンを口にくわえたまま、山の向こうへ消えて行った。
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燃える寝室に駆け込もうとするサミュエルを抑えるのに、騎士が3人必要だった。この細腕のどこにそのような力があるのかと、騎士たちも驚く。
「駄目ですサミュエル殿!まだ燃えています!まずは消火しましょう!落ち着いてください!」
「離せ!!リナが、リナが燃えている!!俺にリナを助けさせろぉ!!」
「サミュエル殿っ!」
「もうすぐリナの誕生日なんだ!こんな、こんなのって無いだろ!!リナ!!リナぁーーー!!」
13年間の彼女が脳裏を通り過ぎていく。
おとうさまと泣きながらベッドでグズっていた。
スカート姿のサミュエルを見て床を転げて笑っていた。
ダンスを習いながら夫婦であることを確かめてきた。
いくつになっても寝相が悪かった。
恋を、していた。
「落ち着いてサミュエル!!」
サミュエルの後ろから、一番聞きたかった声が聞こえてきた。
「ドラゴンが来てるのに、私が寝室でのんびり寝てるわけが無いでしょ!」
そこにいたのは、愛しい娘にして彼の妻である、リナだった。
--------
「どう?少しは落ち着いた?」
「………御見苦しいところをお見せしました。」
寝室は焼けてしまったので、先日嫁いで行ったばかりの姉の部屋で、二人は紅茶を飲んでいた。
「全く、サミュエルらしくない。何か大事な書類でも置いてあったわけ?」
「いいえ…姫のドレスが燃えていたのが見えて、気が動転していたんです。あなたが無事で本当に良かった。」
サミュエルは疲れていたのか、言葉を選ぶ余裕すらなかった。
リナ姫の言葉選びの不自然さにも気付かなかった。
「そう。じゃあもうこの書類は重要じゃないし、いらないわね?」
その手にあったのは、離縁状だった。"サミュエル"と書かれた横の彼女が書くべきサイン欄には、"リナ姫以外の女"と殴り書きしてある。
「そ、それは!?」
「なんかおかしいと思ってたのよ。遠回しにあなたの事が好きって伝えてきたはずなのに、サミュエルったらいつも一歩引いて、深刻な顔をして。絶対誤解されてるなって思ってたわ。」
彼女は何を言っているのだろうか。
だってあの時、恋をしたと言ったではないか。
「だって恋をしたって……。」
「あなたによ。」
リナ姫の頬がうっすらと赤くなった。
「ドキドキを感じないって…。」
「ちゃんと過去形で言ったじゃない。」
今度はサミュエルが赤くなった。
「で、でも私はもうすぐ37歳で…。」
「40年もしたら55歳と77歳で釣り合うわよ。」
こともなげに言う娘の顔が、もう子供には見えなかった。
「いつも私のことを考えてくれて、私のためにその身を削ってくれてた。女としては、未だに見てもらえてないかもしれないけど、愛し合いたいと思ってるのは本当よ。」
目を潤せて、父親のように唇を尖らせながら語る娘が可愛かった。同じ動きなのに親子でここまで違うのかと、場違いな思いが彼の頭をよぎる。
「でも、やっと名前は呼んでくれたね。…嬉しかった。」
その日、初めて笑顔を見せたリナ姫は、恋をする乙女そのものだった。
「サミュエル。私ね、あなたのことをちゃんと一人の男の人として見てるつもり。だからね、大人になる明日の誕生日に、必ずお祝いやりましょうね。」
「…そ、そうですね。姫…リナの誕生日パーティーを盛大に…。」
ドキドキというお互いの胸の音が、部屋中に響いているかのようだった。
「違うったら。」
不満そうに唇を尖らせた。
「私達の結婚記念日よ、あなた。」
--------
5歳になった娘が、とことこと母親の元へ駆けていく。
「おがあざまああああ!!!」
「あらあらどうしたの。そんな泣かないの。」
「だっでおどうざまがあああ!!」
するとしばらくすると、汗だくになりながら父親が入ってきた。
「ぜぇ…ぜぇ…リゼットぉ!お父さんがお手本見せてやると言ったろ!逃げるなぁ!」
「やあああああ!!ごわいよおおおお!!」
娘の方はといえば、まさに襲われているのではないかと言わんばかりの号泣だった。
「ぷっ……くっはははははは!!あっははははは!!」
彼女の夫の姿は珍妙で、スカートを履き、カツラを被った上で口紅までつけている。彼の拗れた完璧主義は、妻の笑いのツボを的確に刺激するが、その娘からは熊かおばけにしか見えない。
「駄目よパパ!その格好はリゼットには怖いだけよ!カーテシーは私から教えてあげるから、その化粧を落としてきて!」
笑い過ぎて涙さえ流している妻を見て、夫は何故か不満そうだった。
「だがリナは――」
「少しは体を動かさないと、生まれてくるこの子の弟にも良くないでしょう?ほらリゼット、よく見なさい。」
そう言って、少しだけ大きくなったお腹のまま、見事なカーテシーを見せる。
あれだけ泣いてた娘はその姿を見てキョトンとしている。
「きれい…。」
「リゼットにも出来るようになるわ。必ずね。」
「ほんとう!?」
「ええ、だって――」
サミュエルとリナの潤んだ目が交差した。
「私もあなたのお父さんに教わったんですもの。」
窓からは、大きな龍が悠然と飛んでいるのが見えた。
おばけにカーテシーされたリゼットかわいそう。