母の惨殺クッキング♪
「ただいま、ママ」
小学校から帰った僕は玄関の扉を開けて、靴を脱ぎながら言った。
「あら、おかえりなさいしんちゃん♪」
母はキッチンで夕ご飯の支度をしながら、明るい声で応える。
母の声は柔らかで美しい、透き通るような声だ。
しかし、美しいのは声だけではない。
息子の僕が言うのもなんだが、母はかなりの美人だ。
その見た目は一端の女優と比べても決して劣らない。
それでいて、明るく優しい性格で上品さも併せ持っている。だから近所の人達からの信頼も厚い。
まさに、人の鏡であり、理想の母親……。
最近まで僕は、そう思っていた。
夕ご飯の支度をしている母の背中を、僕はじっと見つめる。
ぱっと母が振り返った。
「あら、どうしたのしんちゃん?ふふ。恥ずかしいじゃない。ひょっとして私の顔に何か付いてる?」
「い、いや別に……」
最近僕は母に対して、ある一つのどす黒い疑惑を持っている。
「夕ご飯ならもうすぐできるからね。しんちゃんは洗面所でお手てを洗ってきてちょうだい♪」
「あのさ、ママ。そのしんちゃんっての、いい加減止めてよ。僕もうすぐ中学生になるんだから!」
母はそれを聞いて、私の息子も立派に成長したのねえ、なんて言ってクスクス笑っている。
美人で、愛想が良く、優しい母親。
まさか、この人の裏の顔が残忍な殺人鬼だとは誰も思うまい……。
「もうすぐ出来るわよ、さあ、ご飯ご飯♪」
いつもの快活な笑顔で母はそう言った。
僕は一言、分かった、と言って、洗面所へ手を洗いに廊下へ走った。
◇
優しい母が、実は残忍な殺人鬼である。
僕がそう思い始めたのは、幼児のときに体験したある出来事がきっかけだ。
昔、母は悩みを抱えていた。
悩みの原因は、隣家に住むの田中さんという中年主婦にある。
田中さんは僕の母を異常な程妬んでおり、何かにつけてはよく突っかかってきた。
「ああ!ちょっとアンタ」
「何でしょうか、田中さん」
「またアンタんとこの子供が私の家の庭に勝手に入って遊んでいるのを見たんだけど?」
「はあ……」
「いい加減に勝手に入ってこないように、子供にきつく言ってくれるかしら?」
「すみません。でもそんなはずは……」
田中さんは脂肪の乗った瞼の下から垣間見える細い黒目で、僕をきつく睨みながら叫んだ。
「ふん!誤魔化したって無駄!確かなんだから……。ねえ君、お隣の庭に勝手に入って遊んでたわよねー?」
当時、まだ幼かった僕は田中さんの恐ろしい剣幕に圧され、ついやってもいないのに首をブンブンと縦に振ってしまった。
「ほーらねやっぱり!子供は正直だよ。
はん!いくらアンタが若くて綺麗とは言っても、子供の教育一つまともに出来ないってのは母親としていかがなもんかねぇ……」
この後も田中さんの陰湿な小言はしばらく続いた。
母は唇を噛み締めてそれに耐えていた。
僕の母親は人間としては完璧である。
だからこそ、田中さんは母を攻撃するとき、決まって子供である僕を出しとして使った。
「あ、逆恨みは辞めとくれよ。
何も私はアンタのことが憎くて言ってるんじゃないんだ。アンタと、そしてそこにいるアンタの馬鹿な子供の為を思ってわざわざ言ってやってるんだから……」
やがて田中さんはある程度話し終わると、朗らかな顔で住処へと帰って行った。
これが彼女独自のストレス発散法というわけだ。
当時の僕は、物凄い剣幕で母や僕を咎める田中さんに対して一種の恐れを感じていた。
だから田中さんが隣家に帰った後は母親に抱きつきながら、わんわんと咽び泣いた。
「ママ、あの人嫌だよお」
僕が泣きつくと、母は優しい笑顔でこう応えた。
「大丈夫よ、しんちゃん。あの人はもう少ししたら……居なくなるからね。ぱあっと魔法みたいに消えちゃうのよ」
「え!それってほんとお?」
「本当よ……ふふふ」
そう言って母は、口元を抑えて笑った。
あんなに悪意に満ちた母の表情を見たのは、生まれて初めてだった。
それからしばらくして、本当に田中さんは姿を消した。
消したといっても、引っ越しなどが理由ではない。
言葉通り、本当に忽然と消えてしまったのだ。
つまり、行方不明である。
当時、警察により捜索が行われたが、田中さんはついに見つからなかった。
現在になっても所在不明である。
僕は密かに、安堵していた。
これで僕は田中さんに苛められることはなくなる、と。
しかし、そういう思いと同時に、何か形の定まらない恐怖のようなものも僕の心中に生まれていた。
田中さんは姿を消した。
何処に行ってしまったのだろう。
迷子?事故?神隠し?
ひょっとして殺されたのでは。
だとすればその死体はどこに行ったんだろう……。
あのとき見た、母の悪意に満ちた表情。
もしかしたら、母は田中さんが行方不明になることを知っていたのか……。
◇
そして、母親への疑惑がさらに膨らむ事件が最近起こった。
僕が小学六年生に進級した頃の話である。
その頃の僕はクラス替えのせいもあって人間関係が上手くいっていなかった。
喧嘩を沢山して、かすり傷をいっぱい作った。
僕の喧嘩の相手はいつも決まっていた。
クラスメイトの山井君である。
彼とはそりが合わず、ちょっとしたことがきっかけで殴る蹴るの喧嘩をすることが多かった。
僕が最初に山井君の尻を思い切り蹴飛ばせば、山井君はグーで僕の頬を強く殴ってくる。
そう来たら、僕の方は殴ってきた山井君の指をきつく噛む。
そんな風にして、いつも傷だらけで帰ってくる僕が心配になったらしい。
ある日のこと、母は僕に質問してきた。
「しんちゃん……。ひょっとしてその傷、その山井君って子に虐められているんじゃないの?」
「ううん。ただの喧嘩だよ」
母は目を涙で潤ませながら、心苦しそうな表情で言った。
「どうか本当のことを言ってちょうだい、お母さんはしんちゃんの身が心配で心配でしょうがないのよお……」
「だから、ただの喧嘩だってば……」
そのとき、母の目が蝙蝠のように怪しく光った。
「しんちゃん、居なくなってほしい?」
「え……」
不気味な笑みを浮かべながら、母は言った。
「その、山井君って子よ……」
「……」
途端、母は豹変し、僕の肩を両手で掴みながら激しく身体を前後に揺さぶってきた。
「ねえ、居なくなって!その山井って子にい!居なくなってほしいのよねえ?しんちゃあん!ねえ!ねえ!」
僕は狼狽えながらも、こくこくと首を縦に振った。
そうしなければ自分の命が危ない、そんな気がしたから……。
◇
それからしばらくして、山井君も姿を消した。
噂によると、彼は公園で数人の友達と夕方まで遊んだ後、友達と別れてそれっきり行方知らずだという。
当然小学校は大騒ぎとなり、近所には捜索隊が駆り出され、地元警察が周辺の住民に情報の聴き取り調査を行った。
僕の家にも警察の人が来た。
自分の部屋で携帯ゲームをして遊んでいたときのこと。
騒がしさから何気なく玄関を覗いてみると、二人の厳ついおじさんが母と何か話しているのが見えた。
おじさん達が帰った後を見計らって、僕は母に話しかけた。
「ママ、あれってもしかして……」
「あら、しんちゃん。あの人達は刑事さんよ」
その言葉を聞いた途端、僕の背中に冷や汗が、つうと伝った。
「やっぱりあの事件のことを聴きに?」
「そう、山井君の件について聴きに来たのよ。それにしても、本当に悲しい事件よねぇ……」
母は悲劇のヒロインみたいな表情を浮かべながら言った。
「うん、本当。何処に行っちゃったんだろうね」
「でも……。しんちゃんにとっては嬉しい事よねぇ」
「え?」
「だって、これでもうしんちゃんの身体に傷をつける奴は居なくなったんですもの!良かったじゃない!」
僕は緊張で口がからからに渇いて、なにも言えなくなっていた……。
もしかしたら。
母が山井君を殺したのではないか。
田中さんを殺したのと同じ方法で。
だとすれば。
どんな方法で?
死体の行き先はどこだ……?
その日の夕ご飯はチキンカレーだった。
母の作るカレーライスはとろみが強くて味が濃く、僕の大好物である。
僕と母の二人きりで、夕ご飯を食べ始めた。
パパは仕事が忙しいらしく、滅多に帰ってこないのだ。
カレーをぱくぱくと口に入れながら、僕は何気なく呟いた。
「なんだか最近、ペソの世話をするのが面倒臭くなってきちゃった……」
「あら、そうなの。しんちゃん」
ペソというのは、三年前から僕の家で飼い始めた灰色の毛の雑種犬だ。
飼い始めた当初こそ楽しく世話をしていた僕だったが、最近世話が億劫になり始めていた。
「だって明日も朝に散歩に行かないとダメだし……」
僕はそう言いながら口にぱくぱくとカレーを運ぶ、そのときである。
がり、と妙な食感が歯に走った。
なんだか嫌な予感がする。
「お母さん、僕ちょっとトイレに行ってくるね!」
そう言って、僕はトイレに向かった。
母は僕の言うことなど気にも止めず、そう居なくなってほしいのねえ……。などとひとりごちていた。
トイレの個室に入り、ドアに鍵をかける。
そうして恐る恐る口にあったものを手のひらに戻した。
それは骨だった。
カレーに入っていた鶏肉の骨か……?それなら納得がいくが。
でも、本当に鳥の骨だろうか?
何処かで見たことがある形だ。
僕は骨を注意深く観察し、やがて思い出した。
これは人間の指の骨だ。
そうだ。確か、理科教室で観た人体模型の指骨がこれによく似ていた気がする。
しかし、それにしては少し小さい。
指骨だとすれば僕と同い年くらいの子供の骨だろうか……。
「まさか、この骨は山井君の……?」
行方不明になった隣家の田中さんに、クラスメイトの山井君。
もし仮に母がその二人を殺害したのだと仮定したら、二人の死体の行き先は……。
僕はゾッとして考えるのをやめた。
考えすぎだ、骨なんてみんな同じような形をしているじゃないか。
必死に自分にそう言い聞かせた。
これ以上はきっと考えない方がいい、そう思ったのだ……。
結局、その骨はトイレに流すことにした。
骨はからから、という小気味良い音と、しゃあという水流の音とが混ざり合う独特なミュージックを奏でながら配管の中へと姿を消した。
◇
「ただいま、ママ」
今日も小学校から帰った僕は、玄関の扉を開けて靴を脱ぎながら言う。
「あら、おかえりなさいしんちゃん♪」
母はキッチンで夕ご飯の支度をしながら、明るい声でそれに応える。
いつもの柔らかい、美しく透き通るような声で。
その声を聴くと、母が殺人鬼だとは信じられない。
やはり僕の杞憂なのだろうか。
そうだ、こんな優しい母が殺しをするなんてありえない。
時々怖いときもあるが、普段は優しい母なのだ。
こんな愚かな妄想は、さっさと忘れてしまうに限る。
僕は料理中の母の背中をちらっと垣間見た。
すると、母の方もこっちを振り返り、僕と母の視線が重なる。
「ふふふ、どうしたのしんちゃん。もしかして今日の夕御飯がそんなに楽しみ?」
「うん、ママ!今日の夕ご飯は?」
「今日の夕ご飯は、なんとシチューよ。楽しみでしょう。丁度良いお肉が手に入ったの♪」
血だらけの手で、楽しそうに灰色の毛を毟る母の後ろ姿が見える。