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第六章

――六章――


 ルルカではないが適度な振動が眠気を誘う。積み荷の合間に生じた隙間に体を押し込み膝を抱えるようにして座っているため、定期的に立ち上がり凝りをほぐす必要がある以外は今のところ快適だ。

 シュラットは屈伸を終え定位置となった場所に腰を落とす。馬車での移動は初めてなので内心少し楽しみにしていたのだが、幌を捲って外を眺めるわけにもいかないので早々に飽きてしまった。一層のことルルカのように睡魔に身を委ねてしまおうかとも考えたが、何か異変が起きた場合に対処が遅れるので思い留まった。

 そうなるともう積み荷ぐらいしか見る物はないのだが、それはそれで問題だ。これまでシュラットが一度として口にしたことのない色とりどりの果物や干し肉、塩漬けの魚に琥珀色の酒まで積まれている。どれも美味そうで油断していると涎が垂れてくる。シュラットは一つぐらいばれやしないさと囁く悪魔をシンクロアに渡された干し葡萄を齧ることで黙らすと、これ以上誘惑されぬようルルカに視線を転じた。

「起きてたのか」

 いつの間にかルルカは目を覚ましこちらを注視していた。

「食べるか?」

 干し葡萄を差し出すも首を横に振る。

「なら喉は乾いていないか?」

「だいじょうぶ」

「そうか……」

 沈黙を避けるため無理に話題を探そうとしている自分を発見しシュラットは苦笑する。今からこれでは先が思いやられる。

「別に耳を隠す必要もないだろ。俺しかいないんだ」

 被っていたフードを取るとルルカの肩が跳ねた。

「でも……だめだって……」

「シンクロアが?」

「うぅん、おかぁさん」

 ルルカに関してはシンクロアの言葉を借りれば『秘石以上に何もわかっていない』のだ。本人に尋ねても、物心ついてからずっと母親と二人で森で暮らしていたこと以外ははっきりとしない。他に覚えていることといえば、時たま母親が街に出て買ってくるお菓子を楽しみにしていたことぐらいだ。

『そしていつもと同じように出掛けた母親は二度と戻ってこず、留守を狙った奴隷商人が彼女を連れ去ったの』

 確証はないが、シンクロアが匂わせたように母親が娘を売ったと見るのが自然だ。ルルカの話では母親は普通の人間だったようなので、人目を忍んで生きることに耐えられなくなったとしても不思議ではない。

「お母さんはなんて言ったんだ?」

「しらない人の前ではお耳をかくしなさいって」

 柄にもないことをしようとしている。その気恥ずかしさからシュラットはぼりぼりと頭を掻きながら一気呵成に捲し立てた。

「シュラット、十八、無等級だから苗字はない。親に捨てられて十五まで孤児院で育った。趣味は剣術の修行。特技は剣を振うこと。好物は噛み砕けるなら何でも。他に何が知りたい?」

 ルルカが驚いたようにポカンと口を開ける。

「これから長い付き合いになる。いつまでも『知らない人』だと困るからな」

 ぶっきらぼうに付け足すシュラットの様子にルルカはくしゅっと笑った。

「なんだ笑えるじゃないか。その調子で何が心配なのか話してくれるか? 酔ったならシンクロアが煎じた丸薬があるぞ」

 先ほどからルルカが何か言いたそうにしているのは気付いていた。それが何であるにせよ話してくれなければわからない。

「どうした? 言いにくいことか?」

 もしかして催したとかか? それならもじもじとしているのも納得がいく。

「ちょっと馬車を止めてもらうか」

 シュラットが早合点し腰を浮かしかけると服の裾を引っ張られた。座り直すとルルカが耳元に口を寄せてきた。

「あのね、いやな臭いがするの」

「嫌な臭い?」

 反射的にシュラットは鼻をひくつかせるも特段なにも臭わない。

「とぉっても、いやな臭い。あの時にかいだのといっしょ」

 そう言ってルルカは震えを止めるように己の肩を抱く。

 その様子から心底怯えているのは疑いもない。しかし恐怖を誘うような臭いなど記憶にない。もし獣人の鋭敏な嗅覚だけが捉える悪臭でもあるならお手上げだ。

 そこまで考え唐突に閃いた。シュラットは立ち上がり手近な樽の蓋を開け塩漬けの魚を取り出す。そこには僅かに血が付着している。

「それってこの臭いか?」

  自信があった。だが案に反してルルカは小さく首を横に振った。

「違う?」

「ううん、血のにおい。でも、お魚さんじゃない」

「なら肉か?」

 干し肉も積まれている。それに残り香が付着しているのだろうか? しかし、それもルルカは否定した。

 魚でも肉でもない。そうなると残る可能性は――

「まさか!」

 シュラットが咄嗟に剣を掴み前方に身を投げ出すと、幌を突き破って刺し込まれた穂先がわき腹を掠った。

「ちぃ外したか! やれ!」

「ルルカ! いけるな!」

 シュラットは敵が殺到してくる前に打って出ると、幌を撥ね上げ乗り込もうとしていた相手を出会い頭に斬り伏せた。血しぶきを上げて転げ落ちる男には目もくれず敵勢を確認する。

 こちらと並走するようにして馬を駆っている者が四名。いずれも長槍や弓で武装を固めており、油断なくこちらを窺う姿勢に隙はない。仲間が斃れたのを目の当たりにしても怯んだ様子はなく、手綱さばきも安定している。なによりも既にルルカの能力の影響下にあるにもかかわらず足並みを乱していない。

 それの意味することは一つだ。商人を狙う野党などではなく計画的な襲撃ということだ。

 馬車の速度が一段と上がる。これではルルカを抱えて飛び降りることもままならない。

こちらを絶対に逃がさないとの強い意志を感じる。

「ちっ」

 シュラットは飛んできた矢を薙ぎ払いつつ身を翻し幌の陰に隠れる。ルルカの身柄が目的であるからには無暗に矢を射こんでは来ないだろう。だが、このままではじり貧だ。なんとかしてルルカの能力が切れる前に勝負をつけなければならないが、飛び道具がないので打って出られない。こうなっては御者を排し馬車を奪うしかないが、当然それは読まれている。顔を出した瞬間に矢の餌食だ。いくらシュラットが反射神経に優れていようとも左右から迫りくる矢を払い除けられはしない。

 助けを求めるように積み荷の間を彷徨っていたシュラットの視線が一ヶ所に止まった。

 出たところ勝負になる。それでもこれしかない。

 酒瓶のコルクを抜きリンゴの箱に敷き詰められていた瓦版に酒を浸して瓶の口に詰める。それを出来るだけ多く作ると、転がっていたマッチをルルカに渡した。

「いいか、俺が合図したら火を着けるんだ」

「こわいこと、する?」

「ああ、だけど生き延びるためには避けて通れない」

 ルルカの揺れていた視線が定まると震えながらもマッチを摘まみ出した。その覚悟に応えるべくシュラットは剣を構え呼吸を整える。失敗したら二度目はない。その緊張感が集中を極限まで高める。

「よし、今だ!」

 シュラットが下辺を除く三辺を切り裂くと窓を開け放ったように幌がぺろりと捲れた。手渡された即席の火炎瓶が襲撃者に襲いかかり馬の嘶きと断末魔が重なる。落馬した男に後続の馬が躓き、投げ出された騎手が沿道の岩に激突する。

 異変に気付き反対側が騒がしくなる。シュラットは相手に態勢を整える余裕を与えず同じ要領で残りの手勢も片付けると、馬車が急激に速度を落とした。逃げ出そうとしていた御者を難なく捕え、荷物を縛っていた荒縄で捕縛する。

「た、助けてくれ、俺は何も知らないんだ」

 シュラットはわめく男の頬を張ると胸ぐらを掴んだ。

「ならなんでおまえから血の臭いがするんだ?」

「俺は何もしてない! あいつ等が――」

 再び殴りつけると男の唇が切れた。

「クルトの指示はなんだ? この後どうすることになっている?」

「そ、それは……」

 シュラットは短刀の切っ先を男の眼球に突き付ける。

「嘘や隠しごと一つにつき対となっている片方を抉る。まずは目だ。次いで耳。そこまで来たら後はもう肺ぐらいしか残ってないな」

「は、はなすから。頼むから止めてくれ」

 シュラットの脅しに震え上がり男がつっかえつっかえ話した内容を纏めると、今頃ロアナニジンでは革命の狼煙が派手に上がっていることになる。

「俺の言葉を忘れたのか? 抉るぞ」

「なにも隠してなんかない! 全部話した! 本当だ! 信じてくれ! 同じ無等級じゃないか」

「ならシンクロアがクルトとの会合に向かったのはどう説明するんだ? ルルカを手に入れてからテロに踏み切るならまだわかるが、なぜ先走った? まさか正面からぶつかって勝てるとでも思っているのか?」

「し、知らない。ただ……」

「ただ、なんだ?」

「秘策があるとは聞いた。三等級なんて目じゃない」

 でたらめだと反射的に殴りそうになるも、シンクロアに勝てる人物が一人だけ思い当たり拳が虚空で止まった。だが、まさか、そんな――

「……最悪だ」

 もし想像通りならロアナニジンは戦場となる。戻るのは得策ではない。しかし、このまま進んでも関所は抜けられずお縄だ。

「くそっ! どうする……」

 心に浮かんだヘイトナに助けを求めるとの案を握り潰す。これぐらいの窮地も切り抜けられないのかと嘲笑われるのが目に見えている。それにヘイトナが協力者だということはシンクロアしか知らない。奴の立場を考えると軽率に巻き込むべきではない。

「おねぇちゃんピンチなの?」

「……ああ」

「たすけなくちゃ!」

 どうやって? との言葉を寸前で呑み込む。条件が同じなら誰にも負けないと無邪気に信じられていた頃が懐かしい。『大海の笹舟』一の腕利きと、シンクロアが『化物』と称する女を同時に相手にして勝てると思うほど自惚れてはいない。 

 それにルルカの力は月の満ち欠けに影響を受けると聞いた。満月はまだ先だ。二等級を完全に封じ込められる保証はない。仮に成功したとして数分程度では話にならない。

 考えれば考えるほど無茶だ。どこかに身を隠し嵐が過ぎ去るのを待つべきだ。それ以外の選択肢など最初から考慮するにも値しない。

「……どぉしたの?」

 シュラットはルルカに答えず縛った男を肩に担ぎ御者台に座らせると短刀で縄を切った。

「出せ」

「えっ?」

「おまえは見事に俺たちを捕まえた。だから凱旋だ」

 男が狂人を見るかのような目つきをシュラットに向ける。

「ああ、そうだ。俺は狂ったんだよ。だから刺されたくなければさっさと出したらどうだ?」

 シュラットが短刀を弄ぶと男が慌てふためき馬に鞭をくれた。

「どうかしてるな、ほんと……」

 ゆっくりと動き出す馬車にシュラットは我知れず深いため息をつくのだった。


 運命論者ではない。それでも因縁を感じずにはいられない。

 シュラットは徐々に大きくなる見慣れた円形の建造物を眺めながら何者かが自分の死に場所として用意したのではと益体もなく考える。

 負けるつもりはないが、勝てるとも思っていない。こんな気持ちで闘いの場に赴くなどかつてなかった。どんな強敵が相手だとしても最後に立っているのは自分だと傲岸に構えていたのが嘘のようだ。

 正面の闘技場から視線を外し、少し離れた場所で立ち上る白煙に目をやる。特徴的な外観の治安維持部隊庁舎の最上階の一室から胃炎の竜が炎を吐き出すのを失敗したかのように細い白煙が上っている。

 爆破現場はその一ヶ所ではない。遠目に棚引く煙が散見される。

「派手にやったな」

 まさに宣戦布告の狼煙だ。この惨状を見れば誰の目にも事故などではないと明らかだ。

 シュラットはこれまで通り過ぎてきた街中の様子を思い返す。軒先や店頭で一塊となり心配そうに額を寄せ合ってはいたが、取り乱したりはしていなかった。比較的落ち着いているのは騒動から時間が経っているのもあるが、この街の実質の支配者に絶対の信頼を寄せているからだ。より正確に言えばその力に。だからこそ、頼みとしている人物が事件の背後にいると知れ渡れば一気に恐慌をきたすだろう。

「ここまでで勘弁してください」

 闘技場の目と鼻の先で馬車が止まる。周囲に人影がなく閑散としているのは中心地のためテロの標的になるのではと警戒してだろう。

「冗談抜きで殺されちまいます。見逃してください。二度と関わらないと神に誓います」

 平伏する男をシュラットは冷たく見下ろす。歳は倍近く離れているだろう。長い無等級の生活でしみついた労苦が白髪混じりの髪に集約されている。あり得たかもしれない己の姿を見たような気がして目を逸らすと、シュラットはぶっきらぼうに「好きにしろ」と言い捨てた。

「ありがとうございます! ありがとうございます!」

 シュラットは男の大仰な礼に取り合わず御者台から飛び降りると馬車の後ろに回り込みルルカを抱え降ろした。

「どこか遠くに行け。食料には困らないだろ」

「は、はい! 御恩は一生忘れません」

「さっさと消えろ」

 シュラットは男のことを念頭から追い出しルルカに向き直る。いくら幼くとも負ければどうなるかは想像がついているだろう。それでも念のためシュラットは言葉にする。

「俺が負ければおまえは戦争の道具として利用される。生きてはいられるだろうが自由はない。絶対に勝つと約束してやれればいいが、そんなものは気休めだ。どうする? 今ならまだ引き返せるぞ」

 ルルカのきょとんとした表情に言い回しが難しすぎたかとシュラットが平易な言葉を探していると予想もしなかった問いかけを受けた。

「かてないのぉ? どうして?」

「どうしてって、そりゃあ……色々あるさ」

 最大の不安はルルカの能力だ。しかし、それを口にするわけにもいかず言葉を濁す。

「……あたしのせぃ?」

 子供ながら勘の鋭さに舌を巻く。どう答えるべきかわからずシュラットは表情を隠すため目深にフードを被った。

「ごめんなさぃ」

「やめろ、俺が弱いだけだ。謝るな」

「でもぉ……」

 シュラットはもはや癖となりつつある仕草で荒っぽく頭を掻く。

「だぁー! わかった。絶対に勝ってやる。だからおまえも頼むぞ」

 手荒にルルカの髪を撫でくしゃくしゃにする。

「うん!」

「ちっ、なにが嬉しいんだか」

 ルルカの笑顔の眩しさを避けるようにシュラットはフードを目深に被り直すと、小さな手を引き、通い慣れた道を、まだ名前のついていない感情を胸に歩むのだった。


 舞台へと続く花道の変わらぬ湿っぽさにざわついていた心が落ち着きを取り戻す。

 ほんの一月ほど前だ。それが何年も前に思える。

 ウルミルはこの場に佇み一体なにを思っていたのだろうか? 一度似たような尋ねたことがある。その際の答えは確か――

「まぶしぃ」

 花道を抜けるとルルカが顔の前に手を翳し庇を作った。

 日差しが降り注ぐ舞台に三つの人影がある。

 両側を挟まれるようにして立っているシンクロアがこちらを認め身じろぎした。拘束もされていなければ、怪我を負っている様子もない。それにも関わらず無抵抗なのは人質を取られているとの可能性を除外すれば一つしかない。

 シュラットはシンクロアに比べ頭一つ小柄な人物を注視する。

 子供だ。ルルカよりは少し大きい程度の女児だ。それが子供に相応しくないやけに胸元が深く切れ込んだ紫色のセーターを着ている。明らかにサイズが合っておらず袖が余り指先まで隠れている。セーターの下には何も穿いていないのか素足が晒されており、特定の趣味の人間には扇情的な格好に映るのだろうが、生憎シュラットには子供が無理に背伸びをしているようにしか見えない。

 だが実際のところシュラットは相手の服装など気にも留めていなかった。

 ゴクリと唾を飲み込む。全身が粟立つ。細胞までもが逃げ出せと悲鳴を上げている。視線を合わせればそれだけで意識を持っていかれそうだ。

 シンクロアやクルトの話は決して大げさではなかったのだ。

 あれが、あれこそが二等級。一等級が神そのものだとするならば、そのかいなに抱かれし者達だ。普通であればシュラットなど遠くから目にすることすら適わぬ。それが何を間違って相対する羽目になったのか自分でも不思議だ。

 シュラットは怪しまれないようゆっくりと三人に近付いていく。まだルルカに能力は発動させていない。だからクルトかニファナがこちらを訝しみ先制されたらそれでお終いだ。奴らの姿が消えたことすら知覚する前に殺されるだろう。

 一歩一歩が死への接吻だ。重圧に耐えられず剣の柄に手をかけたくなる。それを合図にルルカは能力を発動する手筈となっている。だが、出来ない。少しでも勝率を上げるにはどうしても片方を早い段階で無力化する必要がある。そのためには戦いの火蓋が切られる前に隙を突くしかないのだ。

 もう少し。もう少しだ。

 円形の舞台に上がり、不自然ではない程度の早足で中央の人影に近付く。

「それぐらいでいいだろ」

 後数歩で剣が届くとの距離でクルトから声が掛かった。シュラットはうつむきがちに歩を止める。

「よく連れて来たな。苦戦はしなかったか?」

「……いえ」

 言葉少なに答える。

「そうか、それは――悪かったな」

「……」

「くくくっ、そう警戒するな。殺すならとっくにそうしている。なにしろ方々を爆破するのに忙しくてな。あれでも選りすぐりの人選だったんだ。それなりには楽しめただろ?」

 シュラットはフードを取り素顔を露わにするとクルトを睨み付けた。

「俺がここに来るとわかっていたのか」

「袋小路に追い込まれた鼠のすることなどお見通しだ。それにここは謂わばおまえの拠点ではないか。死に場所に相応しいだろ?」

 こいつも少し前の俺と同じだ。己の腕に絶対の自信を持っている。ならばまだつけ入る隙はある。

「そうかよ、大層な自信だな。まさかそれだけ大見得切って俺とさしで戦うのが怖いとかはないよな?」

「安っぽい挑発はやめろ。不愉快だ。もとよりそのつもりだ。あの時の言葉に嘘はないと証明してやろう」

 そう言ってクルトは熱っぽい眼差しをシンクロアに向ける。

「まだそんなことを言ってるのね。本当に成長しない人。結果は見えているというのに」

「見えていないのがどちらか教えてやる。その曇った眼が晴れればわかるはずだ。誰が正しいかな!」

 シンクロアは何も言い返さずただ瞳にこもる憐れみの色を濃くしただけだ。

「手出しするなよ」

「心配しなくてもォしないわァ。だからァ楽しませてねェ」

 どこか作ったような甘ったるい調子でニファナがひらひらと手を振る。

「それは無理な相談だ。俺の剣閃を素の状態で追えるはずないからな」

 過剰な演技指導を受けた俳優のようにクルトがもったいぶった仕草で剣を抜くと正眼に構えた。普通の得物よりも長く幅広だ。それだけに扱うには技量が必要となる。慣れていない無等級の状態で十分に使いこなせるとは思えないが、自信に満ちたクルトの様子から油断は出来ぬとシュラットは慎重に間合いを測る。

 木枯らしが吹き抜けシンクロアの髪をいたずらに巻き上げる。その下の揺るがぬ決意を秘めた瞳にシュラットは背中を押され、剣の柄に手をかけた。

「くっ!」

「ふん!」

 秘石の効果を打ち消されたクルトが苦悶の呻きを上げる。その機を逃さずシュラットは渾身の一撃を打ち込むも、刃はクルトに届くことなく弾かれ、そのまま鍔迫り合いへともつれ込む。

「唯一の勝機を逃した気分はどうだ?」

「……」

「はっ、言葉もないか! この前よりも体が軽いぞ。満月じゃないのが残念だったな」

「後悔するぞ。俺に斬られていればよかったと」

「世迷言を! このまま押しきってやろ、がっ」

 吐血。そして支点を失ったてこのように均衡が崩れる。シュラットは流れに逆らうことなく距離を取った。

「な、んだ、これは……」

 胸を貫いた切っ先にクルトが声にならぬ声を上げる。

「詫びるつもりはないわ。だってこれはあなたが望んだ結末なんですから」

 背後からの冷たい声にクルトが振り返ろうとするも、支えを失った体は言うことを聞かず倒れ伏す。口の端にたまった血が泡となり弾け、広がっていく赤い海を泳ぐように腕をばたつかせる。だが、その手は何も掴むことなく力尽きた。

「中々にィ面白かったァ」

 けたけたと笑い手を叩くニファナにシンクロアが血でぬめった切っ先を突きつける。

「目的は何?」

「目的ィ? そんなの決まッてるじャなィ」

 仮面に罅が生じた。だが剥がれ落ちる刹那、人を小馬鹿にした笑みが全てを糊塗する。

「あたしィ退屈なのォ。一人よりィ二人の方がァ楽しめるでしョ」

 寸鉄も帯びていない人物の台詞ではない。これが通常時ならば二等級との圧倒的な暴力で蹂躙すればいいだけだ。しかし、今は違う。

 その自信がどこから来るのかわからず惑う。クルトが言ったようにルルカの力の影響が満月時程ではないとしても手足をもがれているのには変わらない。

「どうしたのォ? 遊ばないのォ?」

「いいぜ、遊んでやるよ!」

 軽い。装備の重要性は理解しているつもりだった。しかし、それが十分ではなかったと痛感する。ここまで何もかも違うと馬鹿らしくなってくるほどだ。等級であれば確実に一つは上がっている。今なら九、いや八等級まで届くかもしれない。

 だが――

「あはッ、こわァい」

 見かけの幼さに惑わされ剣先が鈍ったわけではない。全力の一撃だ。それが空を切る。

「ちっ」

 シュラットは息つく暇も与えぬ猛攻を繰り出す。呼吸が荒くなっているルルカの様子からそう長くは保たない。

「シンクロア!」

「わかってる!」

 シンクロアがニファナの後ろに回り込み斬り付ける。こちらの呼吸を読んだかのような攻撃は流石の一言だ。これで討ち取れないなら勝ち目など最初からない。

 刃が止まる。衝撃が柄を通じて掌に伝わる。感覚としては斬ったよりも殴りつけたに近い。その違和感が目前の光景を否定できぬ事実として突きつけてくる。

「嘘……」

 あろうことかニファナは前後から迫った刃を指と指の間で止めた。それもシンクロアの方は見もしないで。

「あははは、必死すぎィ。もっと楽しまなきャ」

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ」

 刀身を青い光がなめるように走ったかと思ったらシンクロアが後方に大きく吹き飛んだ。

「あれェ? その剣、普通の金属じャないねェ。ちョッと興味でたかもォ」

 ニファナがしげしげとシュラットの赤剣を眺める。いくら引こうとも万力で締めつけられているかのようにびくともしない。シュラットが空いている手で短剣を抜き斬りかかるとようやく解放された。

「思い出したぜ。確か自在に雷を扱えるんだったな」

 戦術兵器として戦局をひっくり返す力を秘めた二等級の能力は秘匿されている。だから公になっているニファナが異例なのだ。本人が自制せずにことある毎に落雷を落とすのだから隠しようがなかったのだろう。今では雷雨はニファナの怒りだと囁かれるほどだ。

「大分抑え込まれてるけどねェ。その子にィ」

「ルルカ、大丈夫か?」

「う、うん、ぜんぜん、へ、いき」

 息も絶え絶えだ。限界は近い。それでも踏ん張ってもらわねばならない。

「もう少しだ。すぐに片付けてやるからな」

「二人がかりでも無理だッたのにィ、どうやッてェ?」

 小憎たらしいニファナの態度にシュラットは歯噛みする。

 シンクロアは気を失っている。目覚めたとしても戦線復帰できるかは未知数だ。そもそも彼女の回復を待っていられるほどの猶予はない。

 一人でやるしかない。それも時間をかけずに。無理難題に目の前が暗くなりかける。

「なにィ? 諦めちャうのォ?」

「馬鹿言うな。やっと面白くなってきたところだろうが」

 斬る、薙ぐ、刺す、突く。ありとあらゆる角度から考え付く限りの方法で攻撃を繰り出すも、いずれも見切られる。これが大きく飛び下がって避けられているのならばまだわかる。だがニファナは最小限の動きで避けている。

 まるでグアナを相手にしているかのようだ。しかし、ルルカの影響下で三等級と同等の動きなど出来るはずがない。ニファナ本人が認めたように相当力を抑え込まれているのだから。そうでなければ落雷一つでとっくに勝負はついている。

 そもそもなぜだ? なぜ雷の力を使わない? 先ほどシンクロアを害したように攻撃に転じればそれで済む。なにも好き好んで防戦に徹する必要などないのだ。

 そこまで考えある可能性に辿り着く。

 能力を使わないのではない。今現在使っているのだ。何らかの方法により身体能力を向上させている。攻撃してこないのは単純に防御と攻撃を両立できないからだ。

「やッと気付いたァ? 人間の体は脳を含めて電気信号のやりとりでしかないのォ。だからね、流してあげればいいでしョ。自分で」

 ニファナが何を言っているのか全く理解できない。ただ、それがこの上なく危険であることだけは何となくわかる。

 涼しい顔をして命を削っている。シュラットの中にはじめてニファナを敵として認める気持ちが芽生えた。ルルカのことを考えれば一刻も早く決着をつけなければならない。なのに、この状況を楽しいと思う自分を否定できなくなる。

 口角が上がるにつれ打ち込みの速度が上昇する。やがて自分でも笑っているとはっきりと感じられるようになった。それに反してニファナの面上から笑みが薄れていく。

「……ッ」

 ニファナが退いた分シュラットは距離を詰める。

「このッ! 調子に乗んなァ!」

 ニファナの手から放たれた電撃に膝を撃たれる。痛みよりもひり付く感覚が強い。それぐらいで済んでいるのはローブのお蔭だろう。シュラットは攻撃の手を休めることなくニファナに迫り剣を真一文字に払った。

 真っ白な紙を汚すように朱が滴る。ニファナはセーターが裂け露わとなった肩に走る一筋の傷に指を這わしヒステリックに笑った。

「アハハハッ、ちょっとした遊びのつもりだッたのにィ。このままじャだめェ! 本気になちャうゥゥゥゥゥ」

 ニファナの周囲の空気が放電しパチパチと爆ぜる。

 シュラットは目を覚ましたシンクロアを抱えルルカの傍らに横たえる。

「ごめん、な、さい」

「後は任せろ。ルルカを頼む」

 ルルカは限界をとっくに超えている。ニファナの能力が急激に高まったのもルルカの力が弱まっているからだ。いつ意識が途切れたとしてもおかしくはない。

 シュラットは二人から距離を取り髪が逆立ったニファナと相対する。

「ああァ、やッちャッたァ。あの糞女引きずり出すまではなるべく温存しておきたかッたのにィ。責任取ッてくれるゥ?」

 唇に人差し指を当て可愛らしく小首を傾げる。艶やかな仕草と外見の未熟さが化学反応を起こし匂い立つばかりの色香だ。

「なァにィ? やりたくなッちャッたァ。いいわよォ。でもォ、すぐにいかないでねッ」

 シュラットとニファナが同時に踏み込む。刃がニファナの毛先を削ぎ、雷撃を帯びた掌底がシュラットの脇腹に吸い込まれる。

「がはっ!」

 先程の比ではない衝撃にシュラットはよろめく。這い登ってくる痛いとも熱いとも違う感覚に一瞬意識を奪われかけるも、舌を噛み正気を保つと、懐に潜り込んできたニファナに向かって膝蹴りを放つ。膝と掌底が激突し互いに数間弾き飛ばされ再び睨み合う形となった。

「あはッ、あはは、ねェ楽しィ? でも、だめ、体が疼くのォ。もッとォ! もッとてェ! ダ、カ、ラァ 最後まで音を上げないでね」

 こちらの事情などお構いなしにニファナが突っ込んで来る。右手だけに纏っていた雷光がいつの間にか反対にも及んでいる。

 手数が倍となり押し込まれる。対応するために腰の短剣に手が伸びるも、『あなたに二刀流はまだ早いです』とのグアナの忠告に思い留まる。それに普通の金属ではシンクロアが吹き飛ばされたように電気を通してしまう。

 その事実がシュラットの中で弾ける。己の装備で唯一雷に対して弱い。だからこそ――使える。

 閃いた思考に捉われたのは瞬きの間だ。しかし、その一瞬が隙に繋がり、シュラットはニファナの全体重を乗せた肘打ちをまともに喰らい吹き飛ばされた。

「がはっ! げぇぇぇぇ」

 シュラットは四つん這いになり血が混じった胃液をぶちまける。喉に絡み付いた酸っぱい胃酸に涙が滲む。我ながらすぐ傍に転がっているクルトの死体に吐瀉物が飛び散らぬよう気を使う余裕が残っていたことが奇跡に思える。

「なァにィ、もう限界なのォ? がッかり。これじャあ全然足りなァい」

 シュラットはよろよろと剣をつっかえ棒に立ち上がる。

「ぺっ、だからこんな茶番にまで手を貸して王女様に喧嘩売ろうってか? はっ、見かけ通りまるっきり餓鬼だな」

 シュラットは痰を吐くついでに暴言を投げつける。

「あん?」

「聞こえなかったのか? クソ餓鬼だって言ったんだよ。大体、俺を始末するのに苦労している奴がどの面さげて一等級と闘おうってんだ? 相手にならないから袖にされたんだろ。気付けよ。天才だなんだって持て囃されて頭が茹っちまったか?」

 ルルカのすぐ近くに落雷が落ち舞台が抉れる。

「わかッてんのか? おまえ。あたしが本気を出せばそのガキを殺して終わりなんだよ。遊んでやッてんだ。感謝しろよ。糞虫が」

「それが地か。そっちの方が好きだぜ。むき出しな感じで」

「けッ、もういい。興醒め。死ね。虫みたいに」

 ニファナの言葉が終わらぬうちにシュラットは腰の短剣を天高く放り投げる。それと同時に剣先を地面に擦るようにして駈ける。

 賭けだ。それも極めて分の悪い。なのに心が踊る。

 死ね! 死んでいい!

 活路を見出すために死地へ飛び込む。きっとウルミルも最後はこんな気持ちだったのだろう。だから笑って逝った。

 結果など行動に付随するものでしかない。走った距離よりも駆けたとの事実の方が重い。

 体が一段と軽くなる。まるで肩の荷がおりたかのようだ。

 シュラットは指呼の間に捉えたニファナに向かって掬い上げるようにして剣を振った。


 ここにきて鋭さを増した相手の動きにニファナは目を見張る。

 ほんの遊びのつもりだった。それがいつの間にか無視できぬ敵として立ちはだかっている。

 鼓動が早くなる。

 こんな気持ちはじめてだ。

 これまで何かに苦労した覚えはない。運動も、勉強も、秘石の制御だってそうだ。なぜ皆がこんなものに手こずるのか理解できなかった。脳に欠陥があるのではと疑ったほどだ。

 だが、おかしいのは自分だった。

 同じ二等級ですら秘石の制御には苦労し習熟するまでに半年近く要している。

 話にならない。その時点でニファナの興味の対象から外れた。

 他人は羨む。天才であることを。そして当たり前のように受け入れる。凡人の何倍も早く命の灯が燃え尽きることを。

 だけど、誰も理解しようとしない。何の手応えも得られず残された短い時間を無為に食い潰していくことがどれ程の苦痛なのか。

 このまま何の実感も掴めぬまま死ぬのではと考えると気が狂いそうになる。

 成長しない外見に合わせ言葉遣いを退行させるとほんの少しだけ恐怖が和らいだ。

 それでも乾きまでは止められない。砂漠の植物のように心はかさかさだ。いくら雨を望もうとも太陽が照り付けるばかりだ。

 そんな時、先代の王が崩御し、王女の戴冠式に出席することとなった。

 神妙な顔をした貴族連中が宰相に取り入ろうと水面下でお互いの足を引っ張っている様は笑えたが、式自体は堅苦しくて退屈なだけだった。

 それが一変したのは、式典の最後に王宮から近くの平原へと場所を移して行われた、『継承の儀』によってだ。正当たる継承者であることを証明するため、能力の一端を披露するのがならわしとなっている。

 そして目の当たりにした。己を超える力を。

 まるで地底からマグマが吹き上がったかのような火柱に目標として組まれていた土台は溶け大地すら融解した。一目王女の威光に触れようと集まった民衆はあまりの光景に言葉を失い、臣下は勘気をこうむった際に文字通り火だるまとなる己を想像し震えた。

 ニファナも震えた。押し寄せて来る感情の波に『歓喜』との名がついていると知ったのは後になってからだ。その場ではただ体の芯から這い登ってくる喜びに無抵抗に揺さぶられ続けるだけだった。

 覇気がなくいつも青白い顔をしていた先代の王からは力の波動を感じなかった。だから侮っていた。一等級とはいえ所詮敵ではないと。だけど、それは大きな間違いだった。王女は文字通り化物だ。後に王女が穿った穴に立ちその気持ちを強くした。自分が全力を出したとしても同じだけの爪痕を残せるか心許ない。

 それから寝ても覚めても王女のことを考えた。それはもはや恋だ。実際、王女と相対する自分を想像し眠れぬ夜を過ごしたものだ。

 だが、その思いが通じることはなかった。

 煩い蝿を追い払うように王都から最も遠く離れたロアナニジンへと左遷された。

 その勅命を受け取った際に暴れなかったのは、同級の騎士が王女に張り付くようにして護っているのもあったが、なによりも本人から一切熱を感じなかったからだ。どれだけ挑発しようとも一度として王女の瞳に火が灯ったことはない 。死人よりもなお冷たく、まるで何者をも拒否する絶対零度の氷で覆われているかのようだ。

 自分ではその氷を溶かせぬ。そう悟ると何もかもがどうでもよくなった。忘れられた土地で干からびるのがお似合いなのだと自棄になり、王女の力を知ってからは温存していた能力も奔放に使うようになった。

 少しでも早く空っぽになればいい。どうせ最初から何も入っていないのだから。

 そうやって消極的な自殺を試みているところに、『大海の笹舟』を罠にかけるとの話を小耳にはさんだ。力を使う理由になるならなんでもよかった。まさかそうして参加した作戦で事態を打開する手札を得るとは夢想だにしていなかった。

 革命組織ならば必ず少女の力を利用すると踏んだ。あとは挙兵に合わせ協力を申し出るだけだ。ロアナニジンが落ちたとなれば王女自らが陣頭指揮に立つ。腰巾着は『大海の笹舟』に任せればいい。雑兵でも少女の影響下でならば二等級や三等級の精鋭と互角に闘える。

 唯一の誤算は向こうから声を掛けてきたことだけだ。後は全て思うように運んだ。

 そう、目の前に迫った男が落雷を避けるまでは。

 驚き、焦り、賞賛、そして仄かな喜び。ニファナの面上に浮かんだのは複雑な心境に相応しく込み入ったものだった。

 必勝だと思い力の大半を攻撃に割いた。そのため能力の向上に回せるほど残っていない。少女の影響が弱まっているとはいえ素の状態では八等級程度だ。

 それでもまだ余裕があった。初撃さえ躱せば力も戻る。そうなれば接近戦で一気に片を付けられる。

 地を這うようなシュラットの剣に意識を集中させる。体勢から下半身を狙ってるのは明らかだ。問題はどっちの足かだけだ。

 だが、シュラットはニファナが予測していたよりも僅かに早く掬い上げるようにして剣を振った。

 ここにきて目測を見誤った。相手のつまらないしくじりに怒りすら覚える。期待した分だけ落胆も大きい。

 ニファナは憤りを拳にのせ殴りかかろうとして飛び散った液体に眼を潰された。

「くっ!」

 それが剣先に付着していたクルトの血だと理解すると同時に胸を熱波が吹き抜けた。あまりの熱さにこれまでに凝り固まっていた負の感情がドロドロと溶けていくほどだ。

「かはっ」

 体中から力が抜けていく。それでも倒れまいと虚空に伸ばした手が温かい感触に包まれ地面に横たえられた。

「……きれィ」

 吸い込まれそうな群青に素直に賛嘆が漏れた。自分の知っている空はいつだってくすんでいた。こんな青空を見たのはいつ以来だろうか。

 避雷針の役目を果たし黒ずんだ短剣を拾い上げたシュラットが見下ろしてくる。

「楽にしてやろうか?」

「いいィ、このままで」

「そうか……」

 どのみちこれだけ力を使ってしまったのだ。傷がなくとも王女が重たい腰を上げるまでは保たなかっただろう。

 シンクロアがシュラットに肩を並べる。

「終わったのね」

「ああ、終わった」

 そう、終われたのだ。

 温かい。命が抜け出ているのに胸を温もりが満たす。

 空っぽじゃなくなったからだ。

 本気を出した。掛け値なしに。それでも届かなかった。眩しいのは空ではない。

「うッ」

 ニファナは痛みに顔をしかめながら腕を伸ばす。その手を掴んだのは自分のよりもさらに小さな掌だ。

「ルルカ! 何してるの!」

 ルルカを引き離そうとするシンクロアをシュラットが制止する。

「ちょっと!」

「心配ない」

 落ち着き払ったシュラットの様子にシンクロアが不承不承との態で引き下がる。

「くるしい?」

 ニファナは首を小さく横に振る。

「でも、ひめい上げてる]

「……」

「くるしいって、まだ終わりたくない、助けてほしいって」

 誰が? そう聞き返そうとし、声の主に思い当たった。

「……聞こえるの?」

「うん」

「救える?」

「……わかんなぃ」

 不安そうに俯いたルルカの肩にシュラットが手を置く。

「出来ることがあるならやればいい」

「でも……」

 迷っているルルカの背中を押すようにニファナが手を握り返した。

「いい加減、独りになりたいの」

 嘘ではない。でも、真実とも少し違う。自分の影を気にしないように、あまりにも身近なゆえに意識することもなくなっていた。こうして他人から言葉にされようやく思い至ったぐらいだ。そいえば、何かいたなと。

 秘石を取り込んだ時から常に気配は感じていた。声が聞こえるわけでもなければ、触れられるわけでもない。それでも誰かに見られている感じは拭えなかった。それが極めて高い同調率に起因しているのかは定かではないが、特段不快でもなければ、別段支障もないので気にせずにいたらいつの間にか慣れてしまった。

 秘石が意思を有しているなど聞いたこともない。だけど、仮にそうだとしても驚きはしない。文明の基盤となり、もはやそれなしでは生活が成り立たないにも関わらず、人類は自分たちが何に拠って立っているのかも知らないのだから。シダール教の教え通りに、獣人の支配に苦しむ人類に神からもたらされた福音だと無邪気に信じられるほど思考を放棄はしていない。

 ニファナは握っている手にありったけの力を込めた。

「お願い」

 ニファナの視線を受けルルカがシュラットとシンクロアを顧みる。

 一人は力強く、もう一方は渋々と頷いた。


 上手くいくと楽観しているわけではない。ルルカが行動を起こそうとしているならその背中を押すべきだと思っただけだ。

「自信はあるのですか?」

 シンクロアの問いかけにシュラットは正直に「わからない」と答えた。

「感心しません。戻って来たこともです。勝てたから良かったものの一歩間違えれば取り返しのつかない事態になっていました。軽率です。そもそも――」

 シュラットは小言に相槌を打ちつつニファナの傍らに跪いたルルカを見守る。

 ニファナにルルカを害する意思はないだろう。だがらといって気を抜いていいわけではない。不測の事態に備え剣の柄に手をかけ注視する。

 神官が危篤の患者の患部に手をあてがうようにルルカがニファナの傷口に掌をかざす。奇跡を謳いながらも前者が単なる気休めでしかないのに比べ、ルルカの方は掌に光が集中し始める。

 シンクロアが息をのむ気持ちもわかる。単にそれは超常現象を目の当たりにしたからではない。もしシュラットに絵心があればキャンバスに塗り込めたいと願わずにはいられなかっただろう。ルルカとニファナの姿は澄んだ湖面に映る虚像のように儚く、それでいて侵し難いほどに厳かだ。

 時が止まったかのように固まっていたルルカがおもむろに前のめりになると、ニファナの傷口に掌を押し付けた。闇が光を吸い込むように手首から先が埋まっていく。

「あッ、ぐゥ」

 歯を食いしばっていてなおニファナの口から苦悶の呻きが漏れる。

 その様子にルルカは一瞬怯むも、すぐに気を取り直すと眦を決し集中する。額から伝った汗が目に入っても瞬きすらせぬほどだ。

「あッ、あァ、うゥ、うッ」

 聞きようによっては艶めかしい声にシュラットは居心地の悪さを覚え徒に立ち位置を変えるとシンクロアにどやされた。

「ちょっと! 何を考えているのですか!」

 そう言ってシンクロアがのたうつニファナの足首を固定したので、弾かれるようにシュラットは反対へと回り肩を押えた。

 ゆとりのあるセーターの裾から覗いた下着に赤面するほど初心ではないが、かといってすぐに振り払えるほど紳士でもない。シュラットはもやもやとした気持ちを抑え込むように肩にかけた腕に力を込めた。

 陸に打ち上げられた魚のようにニファナの体が跳ねる。小柄な体躯のどこにこんな力が秘められているのか不思議だが、本来の等級差を考えれば吹き飛ばされていておかしくないのだ。シンクロアの様子からルルカが能力を発動させているとは考えにくいので別の形で秘石を抑えているのだろう。

 今やルルカの右手は手首どころか二の腕近くまで埋まっている。傍目には傷口に手を突っ込んでいるように見えるが、そうではない。その証拠にルルカの腕には一切ニファナの血が付着していない。

 異変はそれだけに留まらない。ルルカの掌に集まっていた光が体内で拡散したかのようにニファナが淡く発光する。

「どうなってるのですか?」

「俺に訊くな」

 わかるわけがない。わかるわけはないが、佳境を迎えようとしていることだけは肌で感じ取れる。

 不意に腕を通して伝わってくる抵抗が弱まった。憑依していた悪霊が退散したかのように鎮まったニファナの様子に心臓が跳ねるも、か細いながら息をしているとわかり胸を撫でおろす。

 この女に死なれては困ると思っている自分を発見しシュラットは戸惑う。別に情が移ったわけではない。ルルカの努力が無駄になるのが忍びないだけだ。しかし、よくよく考えてみれば、これがニファナを助けることに繋がるのかすら不透明だ。

 ルルカは一体何をやろうとしているのだ?

 シンクロアに詰られたように軽率だったかもしれない。

 シュラットの葛藤をよそに、ルルカが体内に埋没した腕をそろそろと引き上げていく。まるで積み木で組み上げられた家を倒壊させぬよう細心の注意を払って不要な柱を抜き取ろうとしているかのようだ。

 ルルカの腕の空気に触れる範囲が広がっていくほどにニファナが放つ光が眩しくなっていく。

「っつ」

 光度を増していくニファナの様子にシュラットは目を細める。

「止めるべきでした。無理にでも」

「今更だな」

「ええ、本当に」

 やがて直視できぬ程まばゆい輝きに包まれ視界が白一色に染まる。光の中で何もかもが溶けていくような感覚に襲われ自分の立ち位置すらあやふやとなる。

 足が地面から離れ揺蕩っているかのような浮遊感にいつの間にか掴んでいたニファナの肩を離してしまった。

 拠り所をなくした幼子みたいに不安な気持ちに駆られ呼びかける。

「ルルカ! シンクロア!」

 声が届かない距離ではない。なのに返事がない。シュラットはにじり寄るようにしてシンクロアがいたと思われる方角へ向かうもいつまで経っても行き当らない。

「くそっ! どうなってんだ?」

 突然なにもない空間に放り出されたかのようだ。

 こうなっては聴覚だけが頼りだ。息を止め耳を澄ますと地を這うように低く流れる祝詞が鼓膜を震わせた。

 それは歌だ。愛らしい声で独特な節をつけ吟じられている。はじめて耳にする言葉のため内容は一切わからないが、哀愁を誘う物悲しい調子から推測するに鎮魂歌のようだ。

 これがルルカにだけ届いていた助けを求める声なのだろうか?

 状況的にはその可能性が高い。問題はなぜそれが聞こえるようになったかだ。せめて歌われている内容がわかれば考えようもあるが現状は単なる耳触りのよい旋律に過ぎない。

「おい!」

 思い切って声を掛けるとぴたりと歌が止んだ。立ち去られることを恐れ慌ただしく踏み出すとぐにゃりと足元が崩れた。

 落ちていく。どこまでも深く。

 否応なしに思い出す。無等級と告げられたあの日を。

 親に捨てられただけでなく、天にも見放された。不良品の烙印を押され社会から爪はじきにされた者になんの価値がある? これでは早々に我が子の将来性を見限った両親が正しかったことになる。

「ふざけるな!」

 腹の底から湧き上がってきた怒りに吼える、

「間違ってるのは奴らだ! 俺じゃない!」

 石ごときに己の可能性を決められてたまるか。

 十等級を、九等級を、八等級を、七等級を、その上すらも倒して見せる。そうして勇名が鳴り響けばいずれ俺を捨てた連中の耳にも届くかもしれない。その日を夢見て来る日も来る日も自分を追い込んできた。その努力がようやく実ろうとしているのだ。

「だからこんな所で躓けるかよっ!」

 わかっている。殺人犯として指名手配された時点で夢が潰えたということは。だが、認めたくなかった。一夜にして己が積み上げてきたものが無に帰したことを。

 もう剣を握る理由がないことを。

 なのに、何故――


「――死んだ?」

 シュラットは見開いた目を眩しさに細める。明るさに慣れてくるとこちらを覗きこんでいる黒い影の輪郭が徐々に像を結んだ。

「シンクロアか?」

 身を起こすと見覚えのない女と目が合った。正確には一糸纏わぬその姿に度肝を抜かれ散々視線が彷徨った挙句に相手の顔に固定したのだ。

「なに? 今度こそ欲情した?」

 女が小ぶりながらも形の良い胸を見せつけるように反らすと腰まである髪が乳房を隠した。

「馬鹿言ってないで着なさい」

 女のむき出しの肩に柔らかな布が掛けられる。それでようやく人心地がつき状況を整理する余裕が生まれた。

 変わらず闘技場だ。日は未だに高く、クルトの死体や雷に穿たれた跡も変わらず残っている。殆ど時間は経過していないようだ。

 シュラットは事情を知っているであろう人物に視線を向けた。

「何が起ったんだ?」

 女に自分の上衣を渡したシンクロアに説明を求める。彼女は肌着よりはましと判断したのか、地面に落ちていた襤褸切れを拾い上げ胸元の血痕に顔をしかめつつ袖を通した。すっかり色が変わっているがニファナが着用していたセーターだ。

「それはこちらの科白です。突然意識を失ったので驚きました」

「眩しかったからな」

「はい?」

「眩しかっただろ? それで手足の感覚があやふやになって……」

 シンクロアの面上に浮かんだ怪訝そうな表情にシュラットはそれ以上言葉を続けることが躊躇われた。

「確かに秘石が取り出された瞬間は光りまし たけど、そのことではないのですか?」

 秘石が取り出された? 話が見えてこず困惑する。

「順を追って説明してくれないか。まだ混乱してるみたいなんだ」

「わかりました」

 ルルカの掌がニファナの体内に埋没し、その体が淡く発光したところまでは共通した認識だ。しかし、そこから先は大きく異なっている。シンクロアによれば、ルルカがニファナの体内から秘石を摘出した際に一瞬強く光ったが、それ以外に眩い光など発生していないという。

「それで、ルルカは大丈夫なのか?」

 ルルカは秘石を取り出すと事切れたように倒れたという。今は正体不明の女の傍らですやすやと寝息を立てている。

「あの時と同じです。体力が底をついたんでしょう」

「そうか……」

 秘石の声について尋ねたかったがまたの機会にするしかない。

「そうだ、秘石だ! どこにある?」

「これです」

 シンクロアが包んでいた掌を開いた。

「これが……」

 言葉が続かない。それほどまでに初めて目の当たりにする高位の秘石は期待外れだった。

「消し炭じゃないのか?」

 手渡された石を矯めつ眇めつ眺める。どう見てもそこらに転がっている石ころだ。本当は摘出などしておらず担がれているのではと疑いたくなる。

「秘石は等級が高いほどに色を濃くします。ここまで黒々としたのを目にしたのは始めてです。さすがは二等級と言ったところでしょうか」

 陶然としたシンクロアの様子からどうやら本物のようだ。

「どんな低位の秘石でも芯は黒い。不純物が付着して色が薄まってるだけ。常識。教わらなかったはずがない」

 シンクロアの服に袖を通した女が偉そうに講釈を垂れてくる。

「なら十等級の秘石から芯だけ取り除けば一等級になるって言うのか?」

「耳垢詰まってんの? 不純物と言っただけで枕詞に余計なってあった? ないでしょ。なぜなら不純ではあるけど不要ではないから。ここまで言ってわからないならその脳みそに使い道なんてないわね」

 遠い記憶が甦る。そういえば園長が不純物を取り除くこと自体は可能だが、分離した瞬間に芯が崩れ去ると話していたのを思い出した。

「剣の腕ばかり磨いてないで少しは頭も鍛えたら? 戦術は思い付いても戦略は組み立てられない。だから馬鹿の一つ覚えみたいに突っ込んでくる。 猪だってもう少し知恵を働かせるでしょうに」

 呆れたとばかりにわざとらしく女がため息をつく。

「不自然な幼児言葉は止めたのかよ? どんな心境の変化だ?」

「あっ? ただでさえ小さな脳みそをつまらねぇことに使うなよ。さっさと忘れろ。それとも無理矢理記憶を飛ばしてやろうか?」

 間違いない。この口の悪さ。こいつはニファナ・ゴールディーだ。

 栗毛色の髪に涼しい目元。通った鼻筋を完璧な均衡で支える唇から顎にかけての線。確かに面影は残っているも、幼さが消え印象が鋭くなっていたのですぐには気付けなかった。

 頑なだった蕾が一気に花開いたかのように少女から一足飛びに成長している。それが何によってもたらされたかは言うまでもない。

「それこそ不純物が取り除かれたことにより阻害されていた成長が一気に進んだのだと思います。確かなことは言えないですけど……」

「ちっ、なんでもありだな。それでこれを取り込めば二等級に戻るのか?」

 シュラットは指先で秘石を弄ぶ。

「何とも言えません。秘石を取り出した例など古今東西始めてでしょうから。通常は宿主の死と共に消滅しますので摘出することは不可能です」

「確か心臓だったな」

「そうです。私達等級者は心臓に秘石を取り込みます」

 だから殺さずに摘出するなど不可能なのだ。

 再びニファナに二等級に戻られては厄介だ。シンクロアがいるので心配ないだろうが奪われぬよう細心の注意を払わねばならない。

「そんな警戒しなくても取りゃしないっつうの。たぶん数分も保たずに死ぬし」

 心底興味なさそうな態度もこちらの油断を誘うためかもしれない。念のためシンクロアに秘石を返そうとしシュラットは固まる。いつの間にか舞台に一人役者が増えていた。

 一部の隙もなく撫でつけられた金髪に青空よりも澄んだ碧眼。絵に描いたような好青年だ。青年はシュラットの視線を受け人当たりの良い笑顔を浮かべ優雅に一礼した。

「はじめまして。私はジャン・ルギレと申します。とても興味深い催しでした。それだけに何もわからぬまま幕を引いては失礼に当たると思い参上しました」

 風を逆巻き肉薄したシンクロアの一撃をジャンは何事もなかったかのように受け流す。あまつさえ顔には笑みを浮かべたまま。

「これは結構なお手前で。確か空気を振動させる能力でしたね。それを応用し、刃を高速で震わせあり得ない切断力を得る。もし何も知らずに受けていれば紙のように斬られていたでしょうね。しかし、無駄ですよ。種がわかっていれば対処法はいくらでもあります」

 手負いとはいえ三等級のシンクロアの全力をあろうことか手紙の開封に使うような小刀で捌いた。そのことが如実にジャンの立ち位置を示している。だが、ルスレリア帝国の二等級にこんな優男はいなかったはずだ。

「何者!」

「ジャン・ルギレと名乗った覚えがあるのですが耳に入りませんでしたか?」

「そんな名前の二等級は帝国はおろか連邦にもおりません」

 ジャンが軽く肩を竦める。

「世間は貴女が思っているよりもずっと広いのです。それを認めたら楽になるのでは?」

「戯言を!」

 シンクロアが引きつけている隙に逃げるしかない。だが、その目論みはルルカを抱えた途端鼻先に投げ出された死体により脆くも崩れ去った。一瞬シンクロアかと思い肝を冷やすも似ても似つかぬ男だ。

「あなたが気に病む必要はありません」

 そう言われ死体が変わり果てた御者の姿だと気付いた。

「残念ですが秘密を知った者を野放しにはできませんので」

「俺たちも同じだと言いたいのか? だとしたら陳腐な脅し文句だな」

「脅すなんてとんでもない。己が運命を悟っている者に脅しなど無意味ではありませんか」

 何があっても生かして帰すつもりはない。そう悟るとシュラットはルルカを横たえ剣を抜いた。

「ちょっと! 正気? その子を起こしなさいよ」

 ルルカの眠りは深い。グアナとの訓練の際ですら一晩眠り続けた。あの時とは比にならぬほど疲労が蓄積されているはずだ。

「起きやしないよ」

「わからないでしょ」

 ニファナにペチペチと頬を叩かれガクガクと前後に揺さぶられようともルルカが目覚める気配はない。

「気は済んだか? それぐらいにしておけ」

「なら石を渡しなさい! こんな雑魚あたしが捻ってくれる」

 その手があったかと今更ながらに気付く。だが、シュラットはニファナを邪険に払いのけた。

「俺が死んだら好きにしろ」

「非常に興味深いので邪魔はいたしません」

「だとよ。良かったな」

 なおもニファナは食い下がろうとしたがシュラットの決意が固いのを見て取ると渋々と引き下がった。

「このあたしを退けといてこんな奴にやられたら許さないから」

 喉元まで出かかった「おまえよりも強いんじゃないか」との言葉を呑み下し、シュラットはジャンと対峙する。

 シンクロアはぼろ雑巾のように舞台の端に引っ掛かっている。僅かに肩が上下しているので息はあるようだ。

 シンクロアですら敵わぬ相手に何が出来ると言うのか。死んだことすら気づかぬまま首と胴体が泣き別れるだけだ。

 結果は見えている。それなのに立ち向かおうとしている自分をシュラットは他人事のように冷めた視点で眺める。

 これも一種の自棄なのだろうか? 剣を振う理由を失ったことに対する。

 過去うしろのある人間はいい。振り返れば辿ってきた道がわかるから。前を向いている人 間はいい。未来さきを照らす灯りが見えるから。今しかない人間は寂しい。足元ばかり気にしているから。

 ウルミル詩作の一部だ。妙に印象に残り何かにつけて思い出す。

 シュラットは寝息を立てるルルカの姿から目を上げると剣の柄を握り直した。

 剣を捨てない理由なら既に手にしている。だからこれは断じて自棄などではない。

「……どうやら本気でやらねば失礼にあたりますね」

 ジャンが手品のように小刀を手元から消しさり拳を固める。好青年然とした佇まいは消え獰猛な獣性が露わになった。

 息を吐き吸う。普段は意識をすることもなく何気なく行っている行為だ。その呼吸にシュラットは全神経を集中する。やがて世界から匂いが消え、音が消え、色が消え、自分の存在すらも無に帰る。その一瞬を切り取るようにして剣を振り下ろす。

 確かな手応え。だが、それは期待したようなものではなかった。ジャンは一歩も動いておらず、シュラットの剣は短躯な禿頭の中年男によって受け止められていた。

「見事な一振り。おそらく人が人のまま到達できる極点でしょう。あなたであれば彼女を託すに足ります」

 ジャンから殺気は霧散し忠臣のように小男の背後に控える。

「なに、演劇開催中とでも幟が立ってるわけ? なんであんたがここに居るのよ。慈愛のマルヌーク」

 ニファナにマルヌークと呼ばれた男が恵比須顔を綻ばせる。

「誰かと思えばこれはゴールディー様ではございませんか。軛から解き放たれたようでなによりです」

「ふん、白々しい。あたしはあんたのこと無害な三下貴族なんて思ってないわよ。だからその作り笑い止めたら」

 マルヌークが困ったように頬を掻く。

「と、申されましても、これ以外にどう表情を取り繕っていいかわからないのです。笑顔ならば相手に不快感を与えません」

 ニファナがマルヌークを相手にしている間にシュラットはシンクロアを助け起こす。

「大丈夫か?」

「なんとかね。これでも手を抜かれていたみたい」

 肩を貸し四人の所まで連れて行く。

「全員揃いましたので手短に説明します。ただ、もう幾ばくもなく治安部隊がなだれ込んで来ますので一から十まで全てをお話しするわけには参りません。要点はただ一つ、あなた達にはその少女を伴って私が用意した場所に落ち延びて欲しいのです」

「結局ルルカを利用したいだけなのね」

 マルヌークの提案にシンクロアが吐き捨てる。

「否定はしません。ただ誤解がないように申し上げておきますが個人的な野心のためではありません。彼女の力を使うのは現在の均衡が崩れた際の最終手段です。そうしなければルスレリア帝国は崩壊しますので」

 突然話が大きくなりシュラット達は顔を見合わせる。

「端的に申しあげましょう。現王女――」

「マルヌーク様。この者達をそこまで信用なさっていいものか私には判断が付きかねます」

 ジャンの横槍にマルヌークは鷹揚に頷く。

「考慮した上です。仮に彼らが真実を声高に主張した所で誰が信じますか? 王女が偽物だなどと」

「はぁ?」

「えっ?」

「あん?」

 三者三様の 驚きがハーモニーとなり重なる。

「ミランダ・ジ・イェール・ルスレリアは一等級ではありません。六等級です。すなわち王家の血を継いでいるとしても第一子ではないと言うことです」

 等級が引き継がれるのは第一子のみだ。そのためマルヌークの言っていることが真実だとするならばどこか別の場所に正当な継承者がいることになる。

「仮に本当だとして、なんでそんな国家機密をあんたみたいなぽっと出の新参が知ってるわけ?」

「この方の能力です。それによって私が等級を偽っていることも見抜かれました」

 ジャンの後を受けマルヌークが続ける。

「私は生まつき色彩を見分ける能力が弱く、今では世界は白と黒の二色に塗り潰されております。そんな中にあって、人が体内に宿した秘石だけは鮮やかに輝き続けています。もっとも、色鮮やかなのは低位の秘石であって、高位になるほど黒に近付きます。そのため、一等級と無等級では同じように真っ黒となり見分けがつきません」

 にわかに信じ難いがマルヌークが嘘をついているようにも思えない。

「手札を伏せてたってわけ」

「このような状況でなければ特段使い道のない取るに足らぬ精霊です。あえて申告する必要もないと配慮しただけです」

「狸が。よく言う」

 最も疑り深そうなニファナがあっさりと受け入れたことにシュラットは少なからず驚いた。

「信じるのか?」

「逆に疑う理由がある? タカ派の機嫌を損ねてまで頑なにデュラミノラ大連合に侵攻しない理由がこれではっきりした。そりゃ手を出せないわよね。となると、あのやる気のない態度も演技ってこと? だとしたら中々の曲者じゃない」

「それはどうでしょうか? 全てが偽りの中にあってあの虚無だけは本物のように思えますが」

 ニファナとマルヌークの話にシンクロアが割って入る。

「待ってください。では、あなたがルルカの力を使う場面として想定しているのは……」

「そうです。万一秘密が漏れた際の保険です」

 それによって引き起こされる混乱を想像したのかシンクロアが絶句する。

「ルスレリア帝国の基盤は王家による等級の継承性です。それが根底から覆っては国がもちません。すなわち世界の均衡が崩れます。デュラミノラ大連合が辛うじて同盟を維持しているのもルスレリアとの脅威があるからです。頭の上にある重石が実は張りぼてだったと気付けば多少の足並みの乱れはあるでしょうが必ず攻めてきます」

 マルヌークの想定は脅しでもなければ誇張でもない。秘密が漏れれば間違いなく起こることだ。

 帝国は崩壊し、戦勝国によって領土は割譲されるが、呉越同舟のデュラミノラ大連合が素直にお互いの言い分を聞くはずがない。紛糾し、最悪の場合、領地を巡り新たな戦火が燎原の火のごとく燃え広がる。

 それを水際で防ぐためにルルカの力を使う。そう説得されては頭から否定しにくい。そもそもマルヌークに野心があるのならジャンの力を背景に問答無用でルルカを奪い下剋上をなせばよいだけだ。それを実行しないのは言葉通り平和を望んでいるからに思える。

 シンクロアも同様の結論に達したのか、こちらに向き直った。

「ルルカ達をお願いできますか?」

「何を考えている?」

 シンクロアが透明な笑みを浮かべる。己の運命を悟った者のみが浮かべることの許される澄んだ笑顔に否応なくウルミルの最後を思い出した。

「クルトの暴走を止められなかった責任があります。それに私の身柄を押さえなければ納まりがつかないでしょう」

「意味のある死なんて幻想だぞ」

「勘違いしないでください。これだけ大きな事件になったのです。闇に葬り去ることは不可能。形だけとはいえ裁判が開かれます。そこで私は一人でも多くの人に理想を語って聞かせましょう。それこそが私の戦場です」

「言葉が重みをもつのは勝者が吐いた時だけ。刑場に引き立てられる負け犬の遠吠えに耳を貸す馬鹿なんていない」

 辛辣なニファナの意見にシンクロアが慈母のように微笑む。

「優しいのですね。わかっています。だとしても私の意思は変わりません。本来であれば最初から剣ではなく弁舌で変革を目指すべきだったのです。遅きに失したとしても最後くらいは『大海の笹舟』の代表として恥ずかしくない立ち振る舞いをしましょう」

 シンクロアの決意が固いと見て取り動こうとしたジャンをマルヌークが手を上げ制す。

「あなたを信用したことを後悔させないでください」

 力強く肯定するシンクロアにマルヌークは目礼を返す。その肩をジャンが叩き注意を喚起する。

「どうやらここまでのようです。彼に従い速やかに離れてください」

 シュラットはルルカを抱えシンクロアと視線を交わす。万の言葉でも足らぬ思いが溢れるも、口をついて出たのは「気を付けろよ」と実に素っ気ないものだった。

「そっちも」

「ああ」

 シュラットは先を急ぐジャンとニファナに小走りで追いつくと、振り返ることなく闘技場を後にした。


 遠ざかる背中から視線を外し、シンクロアは空気を独り占めするように胸いっぱいに深呼吸する。いつの間にかマルヌークの姿もない。誰にも気兼ねすることなく思う存分息を吐いて吸う。それだけのことが最高に贅沢に思える。

 見渡す限り観衆で埋まっていた闘技場も今は人っ子一人いない。シュラットの試合を観戦した際はまさか自分が舞台に立つことになるなど思いもしなかった。

 シンクロアは幾万の好奇の視線に晒されながら闘う自分を想像してみる。

「……独りだわ」

 間近で見守っている親友ですら救いの手を差し伸べられぬ場所。どれだけ多くの声援を受けようとも孤独だ。

 その孤絶がシュラットを鍛え上げた。あの歳で己しか頼むものがないと達観しているからこそあそこまで強くなれたのだ。

 シュラットの強さの源に触れシンクロアは憂いに柳眉をひそめる。純粋な鉄だけで打たれた刃が欠けやすいように、孤独によって鍛え上げられた強さもまた脆いのではないだろうか。

 それを変えられるとしたら――

 思考が潮騒のような喚声に中断される。

 他人ひとの心配もここまでだ。波が一握の砂を洗い流すように、押し寄せて来る喧騒にたちまち呑み込まれることだろう。

 シンクロアは足を引きずり転がっていた剣を拾い上げると、舞台の中央まで戻り両手で剣を支えに直立する。

 雲一つない青空があの海に重なり瞼の裏に一枚の絵が浮かぶ。

 それは画廊の隅に人目を避けるようにして飾られていた。

 広大な紺碧の大海に一艘の笹舟が揺蕩っている。空を切り取って貼りつけたかのようなどこまで深く澄んだ碧に吸い込まれそうになった。本来であれば同じ絵描きとしてその発色と構図に嫉妬を覚え臍を噛まなければならないのだろうが、あまりの才能の差にそんな気すら起きなかった。『新進気鋭』『才女』『鬼才』『百年に一人の天才』などと煽てられ天狗となっていたのが恥ずかしい。

 自分の目を見開いた絵描きに一目会いたい。

 そう願い、残酷な真実へと導かれた。

 絵を描いた老爺は数年前に殺害されていた。無等級ながらに高尚な趣味である絵画を嗜んでいるとの理由により貴族に手打ちとされたのだ。その者が自身の熱心な支援者パトロンであるとの事実が何重にもシンクロアを苦しめた。

 無邪気に信じていた。等級の優位性を。高位の等級者は神より選ばれた高潔な人物ばかりで無等級者は動物と同じように審美眼を備えていないと思い込んでいた。

 その信念が根底から崩れ去り、残ったのは疑念だけだ。

 等級の優位性を基盤に構築された社会の正当性は一体誰が保証してくれると言うのか?

 未だに答えは出ない。

 自分の手には余る問いだ。

 だからこそ、一人でも多くの者に投げかけなければならない。

 土煙が左右に割れ、己を取り囲む人垣が二重三重に形成される。

 シンクロアは築かれた包囲網の中心を占める銀髪の美麗な女性を見定めると、ゆっくりと両手を柄から放し胸を張った。

「問おう。等級の優位性に代わり社会の基盤となり得る概念を」

 戸惑ったような表情の女性が返答するよりも早く、支えを失った剣が地面に倒れ、小さな影は四方から殺到した人波に呑み込まれた。


――終幕【あるいは新たな幕開け】――


 シュラットは朝日を背負い小高い丘に登ると眼下に広がる寒村に目を転じた。

 周囲の森に溶け込もうと必死に努力しているかのように最低限しか木を伐採しておらず、数十に満たない茅葺き屋根の家屋が肩を寄せ合うように蝟集している。その姿は鬱蒼と茂る木々を隠れ蓑に世間の目を欺こうとしているかのようだ。

 村の中心に人が集まり額を寄せ合っているのは井戸から水を汲むついでに世間話に興じているのだろう。声が届くような距離でもなければ、読唇術の心得もない。それでも自分たちのことが話題に上っているのはわかる。閉鎖的な社会にあって新たな加入者はそれだけで大事件だ。それが奇妙な三人組ならなおさらだ。

 マルヌークの手配によりこの村に腰を落ち着けて一月近く経過した。まさかルスレリア帝国から越境しデュラミノラ大連合の領土に足を踏み入れることになるとは思いもしなかった。運輸大臣として輸送を取り仕切っているマルヌークだからこそ可能な荒業だ。

 ブシュケノール。デュラミノラ大連合の中でも特に影の薄い加盟国だ。実際、シュラットは行先として告げられても、地図上で位置を特定できなければ、どんな国かも知らなかった。まさに未知だ。

 一面その感想は正しい。土地は痩せ、産業もなく、国土の大半は手つかずの状態だ。ルスレリア帝国と国境を接していながら碌に軍備も整えていない。それにもかからわず占領されていないのは荒れ果てた国土に何の魅力もないからだ。むしろ、北に聳えるヒジン山脈には獣人の先祖とされる魔獣が生息しており、その被害を水際で食い止める費用を考えれば放置しておく方が得策なのだ。

 捨てられた土地。それだからこそ身を隠すには打ってつけだ。けして広くはない国土に、犯罪者、獣人、野盗、棄民など脛に傷を持つ者たちが息をひそめている。

 その中でシュラットたちが身を寄せることとなった集団はごく真っ当だ。ただ一点、秘石が人間性を歪めると頑なに信じている点以外は。

 彼らは『真の人間性の求道者』と称し、秘石の恩恵を一切受けずに生活している。もっとも、秘石からの決別を決めたのは何世代も前の先祖であり、現在暮らしている者たちはその子孫として教えを守っているに過ぎない。殆どの者がこの村から一歩も外に出たことがなく、牢に収容されていないだけで、ある意味囚人と変わらない。

 シュラットは瞳に憐憫が浮かぶ前に村から視線を外すと周囲をぐるりと見回した。

 北に雪化粧のヒジン山脈を臨む。雲を突き抜け聳える雄大な山容が圧し掛かってくるようであり圧倒される。目を楽しませるものはそれぐらいだ。後は森と平原が広がるばかりで取り立てて面白い景観ではない。

 シュラットは特段変わりがないことを見極めると、村に向かって手に持っていた白い旗を振った。もし異変や襲撃の気配がある場合は赤い旗を挙げることになっているが、未だかつて一度としてそのような事態に陥ったことはない。それでも油断はせず備えているのは過去に何度か魔獣の襲撃があったと聞かされているからだ。

 シュラットは旗をおろすと、舌の上で「今日も事もなし、か」と言葉を転がした。

 だが、神ならざる身であるシュラットは知る由もない。

 森の中を懸命に駆ける小さな影があることを。そしてそれが村を二分する騒動へと発展することを。

 シュラットは最後にもう一度村を見下ろし、 こちらに向かって手を振るルルカと、その横で皮肉な笑みを浮かべているニファナに頷き返した。

 丘を下りる足が心なしか軽いのは空腹のせいだと思うことにした。

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