第四章
――四章――
「しゅっ!」
降り注ぐ木漏れ日を断ち切るようにして白刃が煌めく。まるで実体のない日差しすら切り裂こうかという鋭い一振りだ。
「しゅっ!」
振り下ろす度に機械的に洩れる息だけが時を刻む。
「しゅっ!」
ここでは時間はまっすぐ進まない。曲がりくねり九十九に折れたかと思うと突如最短距離を歩む。
今がまさにそうだ。雑念に捉われている時は遅々として進まなかったくせに、無心にかえると矢の如く過ぎ去る。いつの間にか中天にあった太陽が傾き始めている。
「しゅっ!」
再び集中が切れ邪念が這い寄ってくる。払い除けようとするも、一度念頭に浮かんでしまうと中々去りはしない。
堂々巡りだ。自分でもわかっている。それでもまたぞろ同じ問いが繰り返される。
――どうすれば勝てた?
相手は六等級だ。勝てる見込みなど万に一つもなかった。だから前提条件が間違っているのだ。勝つのではなく負けない戦いをすればよかった。そうすれば救援が駆け付けるぐらいの時間は稼げた。
もちろんそれは全てを知った後での無責任な結果論に過ぎない。実際は相手の手勢を恐れ勝負を逸ってしまったのだから真逆だ。
一言でいえば情報が足らなかった。救援の存在もそうだが、中位の等級者であれば秘石により夜目がきくことすらシンクロアに教えられるまでは知らなかった。
勝負は剣を交える前に決していたのだ。
「くそっ」
苛立ちを叩きつけるようにして舞い散る木の葉を両断すると視界の端で何かが跳ねた。
シュラットはいつの間にか放っていた殺気を鎮めるべく大きく深呼吸し手の甲で汗を拭う。何か声をかけるべきか暫時迷うも、結局適切な言葉が浮かばず諦めた。
「……子守なんて柄じゃないんだ」
言い訳のように呟き再び剣を振るう。
シュラットが素振りを再開すると恐々との様子で小さな影が木の幹から半身を覗かせた。
浅黒い肌、伏し目がちな瞳、色の薄い唇、ゆったりとしたチェニックを羽織っていてもなお隠せぬ華奢な肩。おどおどとした態度と相まって今にも壊れてしまいそうだ。子供から無邪気さを取り除き繊細さだけを抽出したとしてもこれ程まで脆い造形とはならないのではないかと思う。何もかもが下を向いている中にあって、唯一、亜麻色の髪から飛び出た獣耳だけが自己主張するようにピンと立っている。
シンクロアに倣いシュラットも少女をルルカと呼んでいるが、それが本名なのかどうかは与り知らない。そもそもシン クロアだって偽名かもしれないのだ。名前など所詮個人を識別する記号でしかない。本人と周囲の間で合意が形成されていればそれで問題ない。
シュラットがそのように割り切って考えているのも、この奇妙な共同生活を長く続けるつもりはないからだ。他に選択肢がなかったため渋々承諾したに過ぎない。状況が落ち着けばすぐにでも発つつもりだ。
問題はいつその日が訪れるかだ。
森の木こり小屋に隠れ住むようになり一週間が経過した。孤児院で育ったため生活の中に他人がいることには慣れている。だが、四六時中つかず離れずの距離で観察されていてはさすがに息が詰まる。
「……何か用か?」
「ひっ!」
怖がらせぬよう柔らかく尋ねたつもりだ。それでもルルカは木の陰に隠れてしまった。自分が子供に好かれる性格だとは思っていないが、こうも露骨に避けられるとさすがに空風が吹き抜ける。
ルルカはシンクロアにしか懐いていない。もっとも、彼女が日常的に触れあっているのは三名しかいないので、シンクロアが特例なのかは現時点で判然としない。どちらかというと単に自分たちが怖がられているだけな気もする。
「あれと一緒にされるのは心外なんだけどな……」
「そうですか。では、このおやつはルルカ様だけに召し上がっていただきましょう」
背後からの氷のような冷たい声に後悔した時は遅かった。
木立に囲まれた場所に似つかわしくないメイド服の女性がティーセットとクッキーを載せた銀盆を片手に脇をすり抜けた。
「本日はルルカ様の好物です」
木こり小屋に面した切り株を食卓に見立て器用に空いた手で白いクロスを引くと、ティーポットから湯気の立つ紅茶を陶器に注いだ。
「遠慮はいりません。さぁ、お掛けください」
小屋から持ち出した背の低い椅子を即席の食卓まで運んでくるとルルカに座るように促す。当然のごとく一脚しか用意されていない。
シュラットは「俺の分は?」との言葉を呑み込み、竹の水筒に残っていた温くなった水でお茶を濁す。
「今日のおやつは自信作です。紅茶が冷めないうちにお召し上がりください」
躊躇いがちに腰掛けたルルカは罠を警戒する獣のように恐る恐るとの態でクッキーを摘まむもなかなか口へと運ばない。その態度を見かねシュラットは横からひょいと皿に盛られたクッキーに手を伸ばした。
「うん、今日のは大丈夫そうだな」
念のためもう何枚か食べるも、数日前のように口の中が痺れることもなければ、一昨日のように舌を焼く辛さに悶えることもなかった。
「……というかほとんど味がしないような」
ぱさぱさとした食感にただ口の中を水分を奪われていくだけだ。ルルカも心なしか微妙な表情をしている。
「何を言い出すのやら。ちゃんと味見をしたのだからそんなことはありません」
自信たっぷりに口に放り込むも、嚥下する頃には真顔となっていた。おおかた同僚に作ってもらった試作でも誤って試食したのだろう。
ルルカがその様子を気遣い口いっぱいにクッキーを頬張る。
「おぃぃ」
「無理するな。飲め」
口元にティーカップを持っていくと啜るようにして一口含んだ。その様子が孤児院で飼っていた兎を思い起こさせる。まめに世話をしていたわけでもないのに何故か懐かれた。小動物だと思えばそこまで気負わずに接することができるかもしれない。
「知らないのですか。王都では健康のために味を薄くするのが流行っているのですよ」
「……ヘイトナが薄味が好きだといいな」
「お坊ちゃまは関係がありません。しかし、このグアナ一生の不覚。次回こそは完璧なものを召し上がっていただきましょう」
グアナが胸を張ると重そうに胸元が揺れた。
シュラットは時たまシンクロアが彼我の差を比べるようにグアナの胸元を恨めし気に盗み見ているのに気づいている。もしこの場に彼女がいたなら嘆息したことだろう。だが幸いというべきか会合のため留守だ。
シンクロアが家を空けられるのもグアナがいるからに他ならない。メイドはあくまでも仮の姿であり本来の職務はヘイトナの護衛だ。
シュラットよりも頭半分ほど背丈が高い大柄でありながら、猫のようにしなやかな身のこなしで音もなく歩く。切れ長の目は勝ち気で、腰まで届きそうな黒髪を払う仕草には色気よりも覇気が溢れている。メイド服よりも甲冑の方が似合いそうだ。実際、三等級であれば殆どの者が軍や政務の要職に就く。いくらブロウスキー家が大貴族とはいえ、三等級が一介の護衛に甘んじているなど異例だ。はじめはヘイトナのことだから弱みでも握って脅しているのかと思ったが、 嬉々として仕えているグアナの様子からその可能性は低そうだ。
グアナの動機も謎なら、ヘイトナが『大海の笹舟』に手を貸す目的も不明だ。大貴族の子息が等級闘争に関わっているなど前代未聞だ。ブロウスキー家は四大貴族の一角として強大な権力を握っているからこそ敵も多いだろう。遊びで首を突っ込むにはあまりにも危険が大きい。
「あいつの目的はなんだ?」
「私ごときがお坊ちゃまの考えを述べる立場にはありません」
「述べないのではなく、知らないんじゃないのか?」
「同じことです」
余裕のある態度でグアナが受け流す。
「仕えている主君と違って安い挑発には乗らないってわけか」
「とんだ節穴ですね」
呆れたとばかりにグアナは鼻で笑うと一気に捲くし立てた。
「いいですか。お坊ちゃまはこの森に何人たりとも近づけたくないのです。ただ、貴族が領地を遊ばせておけばいやでも目立ってしまいます。そのため苦肉の策としてああいった態度をおとりになっているのです。性根の優しい方ですので胸の内でどれだけ苦しんでいるか計り知れません」
ヘイトナの様子を思い返してみるがどう考えても嬉々としてこちらに罵詈雑言を浴びせてきていた。あれが演技だとしたら王立劇場で主演を果たせる。もっとも、伝統と格式を重んじる劇団の団員は最低でも七等級以上でなければならないのでヘイトナが潜り込む余地はないだろうが 。
「それに気づいてないでしょうがあの態度にはもう一つ隠された目的があります」
「党員の勧誘だろ」
シュラットが即答するとグアナが鼻の頭に皺を寄せた。
「ヘイトナに食って掛かった末に護衛に消されたと噂になっている奴がいたが党員になって地下に潜ったんだろ。……まさか本当に殺したりはしてないよな?」
いくらヘイトナを敬愛していようともさすがにそこまではしないだろう。
……しないよな? グアナの溢れ出んばかりのヘイトナへの愛情に若干不安になる。
「私が力を振るうのはお坊ちゃまが望まれた時だけです」
「なるほど、それじゃ安心できないな」
「どういう意味ですか!」
シュラットは食って掛かってきたグアナに向かって肩を竦めると表情を引き締めた。
「それで変わりは?」
「特には。街中に貼られているあなたの手配書が増えたぐらいですか。買い物に出かけるたびに顔を合わせなければならないのでうんざりです」
「それは悪かったな」
容疑は国家紊乱罪に始まり特級殺人や第二種殺人など重罪ばかりだ。そのうち冤罪はウルミルの死だけなので抗弁するつもりはない。どのみち一つでも死罪に相当する。捕まれば弁解の余地もなく斬首刑に処されるだろう。むしろあっさり殺してくれれば御の字だ。取り調べと称して拷問が待っているのは火を見るよりも明らかだ。
「噂では懸賞金の額が増額されるとか。今や市民までもが目を皿にしています。もし街に潜んでいたなら今頃炙り出されていたでしょうね」
シュラットは言外に隠れ家を提供しているヘイトナへの感謝を強要してくるグアナを無視し考え込む。
このぶんでは全国津々浦々に手配書が回っているだろう。当然、関所が設けられている主要な街道は使えない。そうなると自ずと身を隠す場所は限られる。
「西の暗い森か、北のジュリアス山脈ですね。獣の餌になって土に還りたいなら西、冷凍保存されたいなら北といったところですか」
こちらの考えを読んだかのようにグアナが先回りする。
「そうだな。でも、一つ忘れている。ここで一層のことあんたが終わらせてくれても構わないんだぜ」
剣を構えたシュラットをグアナが冷たく見下ろす。ただでさえ大柄なグアナの体が何倍にも膨れ上がったかのようだ。そこには砂糖と唐辛子を入れ間違える間の抜けたメイドの姿はない。
「自棄ですか。お坊ちゃまが執心なさる相手としては些か不甲斐ない態度ですね」
「そんなものじゃないさ。鍛錬の一環だよ。いい加減空気を斬るのも飽きたんでね」
「蟻と虎が牙を交えて学ぶことがあると思いますか?」
「蟻にだって噛むぐらいできるさ。意外とチクリとするかもしれないぜ」
突如険悪となった空気にルルカが目を白黒させる。
「危ないから下がってろ」
シュラットの忠告に従ってルルカが慌てて定位置となった木の陰に隠れる。その手にしっかりとクッキーが握られているのを目にしてシュラットは綻びかけた口元を引き締めた。
「一太刀でも届いたなら蟻にたとえたことを謝罪しましょう」
「いいのか? あんたが美味いおやつを作るよりは可能性が高いぜ」
「それは――どうでしょう?」
視覚と聴覚どちらが先に認識しただろうか。姿が消えたことか? あるいは耳元で囁かれた言葉か? 脇の下を通すようにして背後に剣を突き立てるも手応えはなく、瞬きの間にグアナは何事もなかったかのように元の位置に戻っていた。まるで最初から一歩も動かなかったのではないかと錯覚するほどだ。だが、耳に残った息吹がそれを否定する。
「大口を叩いた割に大したことありませんね。それとも私ごとき本気を出すまでもありませんか?」
「はっ、丸腰だから遠慮したのさ」
冷汗が伝う。油断をしたつもりは一切ない。それどころか全神経を集中していた。それでも影すら捉えられなかった。
「その減らず口がいつまで叩けるか見物ですね」
来る!
シュラットは身を低くすると、右足を支点に突き出した剣の遠心力で一回転する。近づく者がいれば巻き込む必殺の一刀だ。しかも、普段は攻撃される機会の少ない下半身を狙った一撃のため避けるのは困難だ。
――しかし、それはあくまでも通常の相手ならばだ。
「知覚に頼らず研ぎ澄ました勘での一撃、流石は無敗の王者といったところでしょうか」
地面にめり込んだ剣先を持ち上げようと渾身の力を籠めるも、グアナに踏まれた切っ先は投錨されたかのようにびくともしない。
「今まさに確信したよ。やはり主従だ。皮肉の切れ味がそっくりだぜ」
「心外ですね。これでも素直に褒めたつもりなのですが」
グアナが固めた握り拳の間から突き出した漆黒の刃で己の髪を跳ね上げる。
かつて対戦した辺境の部族出身の闘士が似た武器を使っていた。矢じりの端に握りこむための突起が付いたような奇妙な形状の武器だ。暗殺に使われることが多く、普段は服の袖に隠して携行するという。狙いすました一撃で致命傷を与えることを目的にしているため、武器の耐久度自体は低い。つけ込めるとしたらそこしかない。
「どうしますか? 諦めますか?」
「まだ噛み付いた覚えはないぜ!」
シュラットは剣を手放すと素早く腰の短刀を引き抜き斬りかかるも、背中に羽が生えているかと思わせるような身軽さで宙返りしたグアナにあっさりと躱された。
「仕方ないですね。気が済むまでどうぞ」
まるで子供扱いだ。実際に大人と子供以上の差が開いているのだから仕方がない。それでもシュラトは遮二無二打ち込む。グアナならば目を瞑っていても躱せるのではないかと思うが今度は刃と刃が噛み合った。しかし、こちらの渾身の一撃を片手で軽くいなされる。
素手で大木を倒そうとしているようなものだ。無謀だとは百も承知している。にもかかわらず挑んでいるのは一体どうしてだろうか? グアナの言う通りここまで実力が離れていては得るものなど殆どないのに。
脳裏にウルミルの姿がちらつく。
わかっている。打ち砕かれたいのだ。完膚無きにまで。二度と立ち上がれなくなるほどに。
「雑念に囚われて勝てるとでも?」
「がっ」
天地がひっくり返り背中から地面に叩きつけられた。尻の痛みに投げ飛ばされたと遅れて理解する。
「本気で来ないなら終わらせますよ」
突きつけられた刃先の鋭さ以上にグアナの視線が刺さった。
「ぺっ」
シュラットは唾を吐き立ち上がると、心配そうに様子を窺っているルルカに「大丈夫だ」と伝える。投げ飛ばされた拍子に短刀が一刀不明なので、左手に残っていたのを持ち替え、体ごとぶつかるようにしてグアナへ突進する。
「後先考えない攻撃をしたいなら相手の足を止める工夫をしなさい。それでは猪と変わりがありません」
「くっ」
目標を見失いたたらを踏む。体が流れるに任せ声の方角に向け斬り込むと同時に、木の幹に刺さっていた短刀を回収しようと手を伸ばすも鼻先で掠め取られた。
「あなたに二刀流はまだ早いです。利き腕でない左はあくまでも誘い、右で致命傷を狙う。種がわかってしまえばあくびが出るほど単調です」
これまで一度として見破られたことはなかった。それをあっさりと看破された。
届かないのは等級者だからではない。積み上げてきた研鑽の差だ。
誰よりも剣を振るってきた。その自負が己の強さの源だ。それが根底から崩れかかる。
「違う!」
崩壊を食い止めようと躍起になって斬りつけるも、紙一重で全ての攻撃が見切られる。これまで感じたことのない徒労感が手足に絡みつき動きが鈍くなる。
「迷う暇があるなら手を動かしなさい」
グアナの反撃により節々を斬りつけられじわじわと体力と気力を削がれていく。
「くっ」
苦しい。息が、胸が、腕が、足が、少しでも気を抜けば膝から崩れてしまいそうだ。一層このまま全て投げ出してしまいたくなる。
「そのような弱い心で何を守れるというのですか?」
脳裏にウルミルの死に顔が浮かぶ。安らかであったからこそ心に消えぬ傷として刻みつけられた。
友すら守れなかった自分に期待などされても迷惑だ。それに――
「これは俺が望んだことじゃない!」
胸の内でくすぶっていた思いを吐き出すと空っぽになった。もう何も残っちゃいない。
「……どうやらお坊ちゃまの思い違いだったようですね。自らの矜持すら守れぬ人にルルカ様を預けることはできません。望み通り終わらせて差し上げます」
氷よりも冷たいグアナの眼差しに死を覚悟する。
恐怖は感じない。グアナを挑発した際に本気で死を望んでいたのかは自分でもわからない。それでもこれが己の運命なら甘んじて受け入れる。
シュラットは目を背けることなく迫りくる刃を見つめる。死を前にして極限まで神経が研ぎ澄まされているのか、三等級の動きが紙芝居を捲るようにはっきりと捉えられる。もしかしたら自分もそこまで捨てたものではなかったのかもしれない。そんな益体もない考えが浮かび苦笑する暇すらあるほどだ。
それにしてもあまりに長い。そのことに違和感を覚えると、反射的に目前に迫った刃を撥ね上げ半身を捻った。
「ルルカ様!」
グアナが水を掻くようにしてルルカへと駆け寄る。その動きには先ほどの精彩は微塵もない。
「だ、だいじょぉぶぅ」
「心配ありません。この通りぴんぴんしていますよ。シュラット様もご無事です」
身を投げ出すようにしてルルカを抱えたグアナが赤子をあやすようにやさしく言い聞かせる。
「よぉかたぁ」
「怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
グアナの謝罪にルルカは許すとも怒っているとも取れる曖昧な笑みを浮かべると、「けんか、だめぇ」とだけ言い瞼を閉じた。
「力を使い果たしたってわけか?」
シュラットの問いかけに背後から答えが返ってくる。
「いえ、おそらくは緊張に精神が消耗してしまったのでしょう。この程度しか持続しないのであれば私たちは逃げきれませんでした」
シンクロアがグアナの傍らに立ちルルカの寝顔を覗き込む。
「どこからだ?」
シュラットに応じることなくシンクロアはグアナにルルカを寝床に運ぶよう頼む。壊れ物を扱うようにそっとグアナがルルカを抱え小屋に姿を消すと、ようやく向き直った。
「確かにこの状況はあなたが望んだことではないでしょう。ですが、もはや他に選択肢はありません。改めて協力してはもらえませんか?」
最も聞かれたくなかったやり取りが耳に入っていたと知りシュラットは顔をしかめる。
「あれは……、いや、わかっているさ」
ずっと目を逸らしてきた。結局自分は何一つ受け入れられていない。強さを求めているのも無等級であることを直視できていないからだ。ここにきて己の弱さと直面しなければならない事態が立て続けに出来し地金が露わとなった。
行き場がなく路地裏で震えていた餓鬼の頃のまま何一つ変わっちゃいない。そう思うと情けなさにいっそう笑えてくる。
「俺は弱い。あんた等が思うより遥かに」
「人の強さとは可能性です。それは秘石なんかによって狭められるべきではありません。私はその人が持つ可能性を後押しする社会を実現したいのです。この理想が絵空事でないと思えるなら手を貸してもらえませんか?」
「そんなの――」
不可能だ、との言葉を呑み込む。
シンクロアが行おうとしていることは革命よりもはるかに困難だ。革命ならばルスレリア王家を打ち倒せば――それですら拳で岩山を穿つよりも難しいが――成就する。しかし、人の意識まで変えるとなるとまさに雲を掴むような話だ。
「不可能だと思いますか? 正直、私も半信半疑でした。あなたの試合を観戦するまでは」
「……」
「あの等級者の氷塊を打ち消した際に違和感を感じました。十等級にしてはこめられている精霊の力が強かったのです。確信は持てませんが、おそらく八か九等級だったのではないでしょうか」
シュラットは息を呑む。等級を謀られていたことにではない。人知れずシンクロアに助けられていたことに。
「二度もか……」
シュラットの呟きはシンクロアに届く前に溶けて消えた。
「あなたが成しえたことこそ人の可能性です。そしてルルカは世界の可能性です。私は二人の運命が交差したのは偶然ではなく必然だと思います。ルルカを守れるのはあなたしかいません」
シンクロアの背後から射す真っ赤な夕日以上に眩しい真っすぐな瞳にシュラットは視線を逸らした。
「……ずっと俺にここで子守をしてろってか?」
「あの子が自分で道を選択できるまで見守ってあげて欲しいのです。そのためにも別の場所で腰を落ち着けてもらおうと考えています」
「ヘイトナ様なら好きなだけ利用すればいいと仰っています」
ルルカを寝かしつけたグアナが会話に参加する。
「ありがとうございます。でも、これ以上好意に甘えるわけにはまいりません。捜査の厳しさは想像以上で既に準幹部級の者が何人か拘束されてしまいました。下手すれば私たちまで糸が辿られます。そのためクルトが一層激しく主戦を主張しております。このままでは暴発するのも時間の問題でしょう。その前にルルカを遠ざけたいのです」
「遠ざけるたって関所は押さえられてるんだぜ。どうやって?」
「その点は任せてください。考えがあります」
グアナの耳を気にしてかシンクロアは具体的な説明を避ける。シュラットもそれ以上追求せず「わかった」とだけ答えた。
「さて、体を動かしたしお腹が減りませんか? 差し入れでお野菜を頂きました」
シンクロアが肩にかけていたずた袋からじゃがいもを取り出す。
「そうか、では私も手つ――」
「いや! そこまでしてもらうのは悪いよ!」
シュラットは腕まくりをするグアナを慌てて制止する。
「え、ええぇ、台所は狭いですし本当に大丈夫ですから」
同調するシンクロアと目配せを交わす。グアナが純粋に善意から手伝ってくれようとしているのは理解している。それでもあのような惨劇を二度と繰り返してはならない。あれを文句も言わずに平らげると聞いた時、はじめてシュラットはヘイトナに対して畏怖の念を覚えた。
「そんなに遠慮なさらずともいいのですよ」
「いやいや、稽古、そう稽古までつけてもらったし、もう時間も時間だからヘイトナも待ってるんじゃないかな」
「むっ、確かに。では特性シチューを賞味いただくのは次の機会といたしましょう」
「あは、ははは」
去って行くグアナに手を振りつつ命拾いしたシュラットとシンクロアの乾いた笑いがいつまでも森に木霊した。
――幕間――
「奥様、灯りもつけずにどうなさいましたか?」
寝室の扉を開けた女中が不審げに尋ねるも返事はない。訝しげな表情を浮かべながら骨ばった手で照明のスイッチに触れると、低級の秘石の淡い光が室内を照らした。ヘリング家に勤めて日の浅い彼女は思わずため息を漏らす。
(なんてお美しいのかしら)
微動だにせず鏡台につく姿はまるで巨匠が丹精込め彫琢した女神像のようだ。
さらさらと流れる銀髪は触れずとも上質なビロードにも勝るであろうことは想像に難くない。胸から腰へと至るふくよかな曲線は昨今流行りのコルセットなどで成形したものではない自然な美しさが滲み出ている。雪原のように真っ白な中にあって鏡に映る紅の瞳だけが燃えるように爛々と輝いている。
その美しさはヘリング家の領地にとどまらず周辺にまで轟いている。いずれは王女のようにルスレリア帝国を代表する美女に数え上げられるのではと本気で思うほどだ。
同性の自分から見ても息を呑む美しさだ。ヘリング家が側用人や御用聞き、果ては庭師にいたるまで全て女性しか雇わないのも頷ける。これほどまで美しいと意図せずして男性を惑わしてしまうこともあるだろう。
(旦那様も気苦労が絶えないことで)
だが、それだけ気を配る価値は十分ある。美貌だけでなく、高位の等級者であり、なおかつ精霊まで使役できると聞いている。
(まさに雲上人ね)
女としても人としても歴然と差がある。ここまで来ると嫉妬など微塵も湧かない。
(奥様は人間的にも素晴らしい方だもの。嫉妬だなんてこっちが浅ましくなるだけだわ)
女中は自らに気合を入れるように頷くと再び声をかけた。
「お食事の用意が整いましたでございます」
だが、何の反応もない。高慢な貴族であれば使用人など言葉の理解できる猿程度にしか思っていないと耳にしたこともあるが、自身の主人に限ってそれはない。
「アネッサ様、おかげんが悪いのですか?」
女中が近づき顔を覗き込む刹那、アネッサ・ヘリングが面を上げた。
「えっ? ああぁ、ごめんなさい、少しぼぉっとしていたわ」
紅の瞳が普段よりも赤い。
(泣いてらした?)
ここまで美しいと流す涙すら一片の曇りもなく澄んでいるのではとの突拍子もない想像が浮かぶ。
「お疲れでしたらお食事をこちらにお運びいたしましょうか?」
「ありがとう。でも、心配ないわ。行きましょう」
雲が晴れたように微笑む主人の様子に特段変わった所は見受けられない。女中は曖昧に頷くと肩を並べぬよう注意を払いつつ後に従う。
もし彼女にもう少し観察力が備わっていたなら、鏡台の隅に折り畳んであった紙片に気付いただろう。そしてそれが同僚との井戸端会議で話題に挙げたある都市で起こった殺人事件を伝える瓦版だと見抜けたかもしれない。だが、そこまでだ。彼女には元王都で起こった事件が自身の主人とどう繋がるかなど想像もつかない。ましてや、この夜を境に美しい主人の姿を二度と目にすることがないなど思いも及ばなかった。