第三章
――三章――
ロアナニジンは王都だった頃の名残をそこかしこに色濃く残している。むしろ誇っていると言っていい。そのため、今では無用の長物と成り果てた城砦や、敵の襲来を知らせる半鐘などが撤去されずに残存している。建物も例外ではなく、かつての王宮の一部を移築した物が目につく。
警備兵の出入りが途絶えぬロアナニジン治安維持隊本部庁舎もその内の一つだ。表向きは歴史と伝統の再認識と謳われているが、くすんで剥落しかけた外壁を前にすれば誰もが予算節約のための苦し紛れの言い訳であると気付く。
クルトは無計画な増改築により迷路のように複雑となった内部を抜け、裏庭の訓練場へと出る。非番にもかかわらず足を運んだのは胸の内で鬱屈している塊を吐き出すためだ。鬱憤を晴らすにはくたくたになるまで剣を振うに限る。
「やぁ!」
「はぁ!」
数名が木で模った人形相手に打ち込みを行っているがいずれも腰が入っておらず、掛け声も腹の底から出していない。一目で訓練に身が入っていないとわかる。
それも無理はない。市中の安全を担う治安維持隊が相手にするのはせいぜいがこそ泥程度だ。過激派や凶悪犯を扱う、『不穏分子掃討並びに不適格者排除専門機関』と違い、武力を行使する機会は滅多にない。そのため、週一回義務で課せられた訓練時以外は木刀を握らぬ者が殆どだ。クルトのように暇を見付けては鍛錬を重ねている方が異常なのだ。
普段ならクルトも見過ごしただろう。だが腹の虫の居所が悪く看過する気にはなれなかった。打ち込みを行っている者に背後から近づくと、振りかぶられた木刀を奪い取った。
「なにをっ!」
気色ばんだ若い隊員に見覚えはない。クルトは隊長として第一班から五班までを管轄している。班にはそれぞれ二十名を超える隊員が所属しているので一人一人を覚えているわけではないが、それでも自分の部下ではないと断言できた。
「所属と名前」
クルトの視線に気圧されたのか、それとも胸につけている三ツ星の階級章に威圧されたのか、若い隊員は態度を軟化させると、「零班所属のケリム・シンザーです」と名乗った。
「零? 全員そうか?」
クルトは周囲で固唾を飲んで事の成り行きを見守っている者達に問いかける。
「は、はい。そうであります、クルト隊長」
輪の中から進み出た実直そうな若者が答える。
零班は六等級以上の者しか所属できない幹部候補を集めた精鋭だ。ここでふるいに掛けられ残った者は副班長へと昇進し、ゆくゆくは四つしかない隊長の座をかけて争うことになる。いわばクルトの将来のライバルだ。
「丁度いい。おまえ等に本来の稽古がどのようなものか教えてやる。全員でかかってこい」
無造作にケリムから奪った木刀を構えるクルトに対して零班に所属する若者たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
「あ、あの、クルト隊長、それはここに居る一人一人と手合わせを行うということでしょうか?」
零班の代表であるシナーがおずおずと問いかける。実直なだけでなく四等級と実力も申し分ない。後は自信さえつけばすぐにでも班長を務められるだけの力を有している。他にもケリムなど四等級者が複数いる。そのためいくらクルトとはいえ全員を同時に相手出来るわけないと考えての発言だ。
「はっ、発情期の犬の方がましな腰使いなのに随分と自惚れているじゃないか。おまえ等が束になっても俺には勝てん。現実を教えてやるからさっさと構えろ」
クルトの挑発にシナーは絶句する。十二名全員の力を合わせれば三等級にだって遅れは取らないだろう。それを己と同級であるクルトが纏めて相手にすると言っているのだ。狷介な性格だとは聞き及んでいたがこれではまるで狂人ではないか。
「面白い! やろうぜシナー!」
すっかりやる気になっているケリムが転がっている木刀を拾い上げる。ケリムに限らず他の者達も闘志を燃やしている。こうなってはシナーには止められない。いかに無難に事態を収束させられるか頭を切り替える。
「ケリム、僕、フードをリーダーに三チームに分ける。二チームが同時にかかり、残りは遊軍として補佐。攻め手のチームに疲労がみられたら速やかに遊軍と交代すること。相手は一人だからといって油断するな」
シナーの的確な指示にクルトは目を細める。手数で圧倒しつつこちらの疲労を待つとの作戦だ。無難で面白みに欠けるがそれだけに手堅く必勝の布陣だ。
「ちっ、一気に片を付けた方が早ぇのに」
ケリムが文句を言いながらも指示通りチームを纏め、フードと呼ばれた俊敏そうな若者に率いられた一団と共にクルトと対峙する。
統率のとれた無駄のない動きだ。ケリムが牽制しながらフード達に背後を取らせようとする連携も悪くない。ただ、そのいずれも相手に読まれては台無しだ。それにケリムは己の突きに絶対の自信があるのか多用しすぎている。前後の動きだけではすぐに目が慣れてしまう。
クルトは容易くケリムが突き出してきた木刀を掴むと相手の勢いを利用し鳩尾に肘を叩き込んだ。
「ぐぇ」
馬車に轢かれた蛙のような断末魔をあげケリムが遊軍に向かって吹き飛ぶ。その間に頭を失い統率が乱れたケリムのチームを撃破すると、慌てて肉薄してきたフードの一撃を受け流す。
「押せ! 押せ! まだこっちが有利なんだ!」
予期せぬ事態に浮き立ち冷静さを欠いた攻撃だ。本来であれば遊軍が立ち直るのを待ってから仕掛けるべきだった。クルトは間隙を縫い一人また一人と倒していき、たちまちフードを残すのみとなった。その頃になってようやくシナーの遊軍が参戦してくる。
「フード! 下がって!」
疲労の色が濃いフードを庇うようにシナーが割り込む。正面から打ち合っては不利と悟り二人一組で左右からかかるも、それでもクルトの手数についてこれず、一人また一人と脱落していく。
「化物か……」
いつの間にかシナーとフードだけになっていた。他は倒れ伏し死屍累々との有様だ。
クルトは右に左に変幻自在に木刀の軌道を変えながら己と同級である二人を翻弄する。既に勝敗は決している。もはや勝負ではなく彼我の実力差を知らしめるための見世物でしかない。
苦しみではなく苛立ちからクルトの表情が歪む。
昨夜観戦した闘技場の試合内容が脳裏にちらつく。
無等級でありながら精霊付きの等級者に勝ったことは確かに賞賛に値する。しかし、それだけをもってして諸手を挙げて仲間に迎え入れる気にはなれない。護衛が必要なら自分がいる。あんなどこの馬の骨ともわからぬ者に頼るなどクルトの矜持が許さない。ランジェスとシンクロアが己をないがしろにしているようで強い不快感を覚える。
クルトが『大海の笹舟』に加入したのは無等級者の窮状を憂いてでもなければ、人は平等であるとの義憤に駆られたからでもない。
クルトは高位の等級に奢ることなく誰よりも努力してきたと自負している。尻が青いひよことはいえ、こうして同級を手玉に取っているのが何よりもの証拠だ。それなのに、治安維持部隊の隊長止まりだ。流してきた汗が正当に評価されたなら今頃執政官にまで登り詰めていてもおかしくはないのだ。
「くそっ!」
怒りがクルトの手元を狂わせた。
シナーの木刀が折れもんどり打って倒れる。
「シナー!」
己の痛みを忘れたかのように駆け寄ってきたケリムに肩を借りシナーが立ち上がる。その右腕はあらぬ方向に曲がっている。
非難の視線がクルトに集まる。無言なだけに雄弁に語りかけてくる。
「……冷やしておけ」
それだけ言うとクルトは逃げるようにして庁舎へと戻り、やみくもに角を曲がり、人気のない廊下でようやく立ち止まった。
「くそっ!」
己が未だに木刀を持っていることに腹を立て廊下に叩きつけようとした刹那、後ろから肩を叩かれた。零班の連中が抗議に来たのかと思ったが、振り返ると予期せぬ顔があった。
「探したぞ。緊急招集だ」
同格の隊長に頷き、クルトは息を整えると、表面上は落ち着きを取り戻した足取りで自分を呼びつけることが可能な人物の元へと向かう。
「第一から第四までの各隊の代表者揃いました」
クルトを連れてきた第二隊隊長の報告に合わせ、執務室に揃った面々が一斉に敬礼を行う。
室内には窓を背にどっしりと黒檀の机が鎮座している。代々受け継がれてきたとあって黒光りする中々の逸品だ。ただ惜しむらくは、決済を待つ書類が堆く積まれており、殆ど木目を晒していないことだ。
書類に埋もれるようにして座っていた者がゆっくりと立ち上がると大儀そうに机を回り込んできた。
治安維持部隊統括のジブル・プレパラート男爵は大の恐妻家として知られ、街の治安が悪化するよりもかみさんの機嫌を損ねることを恐れると陰口を叩かれるほどだ。午睡を邪魔されたリスのように不機嫌な顔をしており常に眠そうだ。
うだつの上がらぬ六等級の男がクルトよりも高い地位を占めているのは爵位という下駄を履いているからに過ぎない。
血を分けた子息が七等級以下であった場合、養子を取るのが貴族の間で習わしとなっている。その点、ジブル男爵は辛うじて面目を保った形だ。そのためか等級よりも血統に重きを置き、クルトのように庶民の出を好ましく思っていない節がある。
ジブル男爵はしょぼしょぼとした目を擦ると各自に敬礼を解くように目顔で促した。
「集まってもらったのは他でもない。『大海の笹舟』についてだ」
予想していたのでクルトに驚きはない。いくら『掃除』の領分とはいえ、近郊であれだけ派手な騒ぎを起こしたのだ。少しはこちらにもお鉢は回ってくるだろうと思っていた。大方、貧民街の巡回強化か、党員の疑いのある人物への戸別訪問を言いつけられるのだろう。
問題はどのようなお題目で捜査協力がおりて来たかだ。
あれは帝国どころか世界を根底から覆す。当然、機密扱いだ。目の間のしょぼくれた男に真実が告げられているはずがない。
(あの場にいた連中は別として把握しているのは国事を担う者だけだ)
その事実にクルトは優越感を感じほくそ笑む。
「これは極秘事項だが、四日前にベンドリックの森で物資を運搬中の部隊が『大海の笹舟』と思われる組織に襲われた」
「目と鼻の先ではないですか!」
隊長たちから驚きの声が上がる。
「うむ、事前に我々に通達がなかったのは運んでいる物品の性質上とのことだ」
「公に出来ない何かってことですか?」
「私は自分の職分を超えたことを知ろうとは思わない。諸君にも同じ態度を期待する」
ジブル男爵の脅しにも似た口上にみな口を噤む。
再び己だけが答えを知っているとの優越感にクルトの頬が緩む。
(子供だよ。実験用の)
クルトは国が秘石の研究のため身寄りのない子供を実験に使っていると知っても何とも思わなかった。むしろ国家の安寧を考えるなら当然の行いだとすら考えた。しかし、己が少数派なのは自覚している。公になれば少なからぬ打撃を受ける。だからこそ帝国も秘密裏に子供を集め研究機関へと護送しているのだ。大海の笹舟ではしばらく前からその動きを追っており、やっとのことで輸送経路の一つを掴んだ。そして四日前に襲撃を行い、あの奇跡を目の当たりにしたのだ。
「話が逸れたな。問題は運ばれていた品物ではない。それを護っていた者達だ」
外聞を憚るようにジブル男爵が声を落とす。確かにあのニファナ・ゴールディーが護っていながら襲撃を許したとなれば問題だ。それを配慮しての処置だろう。それにしてはジブル男爵の顔色が優れない。
「『掃除』の連中が七名、中には隊長格もいたと聞いている。それが全員戦死だ」
部屋に静寂が舞い降りる。唾を飲み込んだのは己か、それとも隣の奴かクルトには判断がつかない。衝撃を伴って告げられた事実がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
(死亡? ばかな!)
死者は出た。しかし、それは全てこちらの手の者だ。向こうは擦り傷一つ負っていない。
「……奴らの仕業ってことですか?」
「他にもっともらしい答えを用意できるなら教えて欲しいものだな」
ジブル男爵の皮肉に問いかけた者が沈黙で答える。
「ほ、他に、襲った側の死体などはなかったのですか?」
怪しまれるのではないかと考える間もなく疑問が口をついて出た。
「ない。敵は無傷だ。余程の手練れだ」
(嘘だ!)
五名の仲間を見送ったばかりだ。中にはクルトが信頼する者もいた。彼らの死体は回収している暇がなかったので泣く泣く置いてきた。それが発見されないなど有り得ない。
「では、なぜ『大海の笹舟』の仕業だと?」
「さっきも言った通りだ。他にこんなことを仕出かす奴等はおらん。お前たちが何に引っかかっているかは予想がつく。手口が急激に凶悪化したと思っているのだろう。これまでも死者は出ていた。その数が増えたにすぎん。あるいは奴らの頭がすげ代わり方針転換したのかもしれん」
ジブル男爵の答えに納得したのか隊長たちが口を噤んだ。
「掃除の連中が弔い合戦として血眼になっているが未だに有力な手掛かりは掴めておらん。我々もこの状況で指を咥えて見ているわけにはいかん。怪しい場所は床板を全て引っぺ返してでも探るのだ」
「はっ!」
「これはクローウ執政官代表からも強く命じられている。普段の確執は忘れ協力して捜査に当たるようにと。横槍の入らないまたとない好機だ。なんとしても犯人に繋がる証拠を見付け出すのだ! いいな!」
「お任せください!」
皆から後れること少し、クルトも辛うじて敬礼する。
「特にクルト。奴らが潜んでいそうな区域は貴様の担当地区だ。捜査の陣頭指揮はおまえが取れ」
同格の隊長から嫉妬混じりの羨望の眼差しを向けられる。これだけ注目度の高い事件だ。犯人を検挙したとなればライバルを大きく引き離すことになる。普段のクルトなら一も二もなく諸手をあげて喜んだことだろう。
「どうした?」
「い、いえ、謹んで拝命いたします」
奔流のように渦巻く疑問を呑みほしそれだけ答えるのがやっとだった。
グラスを呷ると琥珀色の液体が喉を焼いた。いつもなら胸のつかえもこれで溶けだすのだが今日に限っては一層沈殿していく。
大通りから外れた酒場のため客は疎らかと思ったが、時間が経つにつれ店内は一日の労働の疲れを酒で洗い流そうとする者達で溢れかえり人いきれでむせ返るほどだ。カウンターの隅でちびちびと酒を舐めているクルトの周りでも仕事や上司の愚痴が花盛りだ。
あれから党員、もしくは組織の協力者と思われる人物を洗い出し、重点警戒区域を決めた。と言っても、クルトは殆ど上の空だったので、気づいた時には持ち場が割り振られていた。慌てて標的とされている者達を確認したが、いずれも捕まっても問題のない末端のため放置しておくことにした。今回ばかりは成果がなければ治まりがつかないであろうから態のいい犠牲として役立ってもらうつもりだ。
「皆殺し……か」
舌の上で転がした物騒な言葉が周囲の喧騒に埋もれる。しかし、いくら騒がしくともクルトの胸の内で鳴り響いている反響を掻き消してはくれない。
最初に考えたのは帝国が機密保持のため目撃者である護衛を始末したとの線だ。しかし、それなら現場に死体を残していく必要はない。秘密裏に処理し闇に葬れば済む話だ。そうすれば山菜採りに訪れた近隣の村人に一生忘れえぬ悪夢を背負わせる必要もなかったのだ。通報した第一発見者の夫婦は人の原型を留めていない凄惨な死体に暫くまともに言葉を発せなかったという。
殺し方も汚すぎる。口を噤ませるのが目的なら過剰な暴力は必要ない。まるで殺しそのものを楽しんでいるかのようだ。それが第三者の目には等級者に恨みを抱いている『大海の笹舟』の仕業と映る要因となっているのは何とも皮肉な話だ。
空になったグラスを目線の高さに掲げると新たな一杯が置かれた。流し込んだ液体が潤滑油となり思考が回り出す。
消えた死体は五体。残された死体は七体。当然のことながらいずれにもニファナ・ゴールディーは含まれていない。ならば誰の仕業かは明らかだ。問題は理由だ。しかし、それこそ考えるまでもない。あの奇跡を目の当たりにしクルトも全く同じことを考えたから。現実的ではないと諦めた自分と違い、ニファナ・ゴールディーは本気で実行するつもりなのだ。だから、己以外に秘密を知る人間を『大海の笹舟』の仕業に見せかけ始末したのだ。そして、余計な情報が渡らぬようこちら側の死体は目につかぬよう処理した。
(あの女なら文字通り死体を消滅させられたことだろうよ)
クルトは一息に酒を呷る。
酒精の力を借りることによりこれまで踏み込めないでいた考えの先へと至る。
(鍵を握っているのはこちらだ。それを利用し協力関係を築ければロアナニジンは制圧したも同然だ。討伐体が編成されようともあの女がこっちについてる限り問題ではない。過去の遺物であった城砦も籠城に大いに役立つ。そして解決が長引けば長引くほど待望論が巻き起こり、ついには重い腰を上げざるを得なくなる。それこそがこちらの狙い――)
「クルト! クルトじゃないか!」
思考を邪魔され不快気に視線を上げると満面の笑みとぶつかった。
「……ベリヘルム? ベリヘルムか?」
「なんだ? すぐにはわからなかったって顔だな。こっちは一目でわかったぞ」
ベリヘルムとは最終学年で机を並べただけだ。そのため一年の付き合いでしかない。それに卒業して優に十年は経っている。そこかしこに童顔の面影が残ってなければ思い出せなかっただろう。
ベリヘルムが酒瓶を手に移動してくると隣の客が詰めた席に座った。
「確かおまえはクリオーの方に養子に行ったんじゃなかったか?」
「なんだ、よく覚えてるな。実は子供が生まれたんだよ。それで義父が両親に孫の顔を見せて来いって暇をくれたのさ」
照れたように頭を掻きながら「俺の実家はこの裏なんだ」と付け足す。
ベリヘルムの進路が記憶の風化に耐えたのはなにも同じ四等級だからではない。クリオー地方の弱小貴族への養子との話が最初に舞い込んできたのが自分の元だったからだ。その話をクルトが断ったからこそベリヘルムに白羽の矢が立ったのだ。
『俺は自分の才覚を活かしてもっと大きな機会を掴む。そんな片田舎で逼塞している貴族の養子なんて冗談じゃない』
そう啖呵を切ったのを昨日のことのように思い出せる。今でもあの時の選択が間違っていたとは思わない。ただ、当時思い描いていた未来が治安維持部隊の隊長ではなかったことは確かだ。少なくともジブルが座っている椅子ぐらいは射とめている予定だった。それどころか執政官代表も夢ではないと考えていた。
クルトは過去の夢と現実の乖離を歯噛みして噛み砕くと、改めてベリヘルムを観察し、その貧乏貴族らしからぬ仕立ての良い上着に目を見張った。袖口をさりげなく飾る金ボタンには精巧な細工が施されており、ランジェス程ではないが相当服装に金がかかっている。
「羽振りがよさそうだな」
「えっ? ああぁ、もしそう見えるなら全てマルヌーク様のお蔭さ」
ベリヘルムの口から飛び出した意外な名前にクルトは傾けかけていた酒杯を戻した。
「運輸大臣の?」
「そう、義父の兄がマルヌーク様の妹君と結婚なさっているんだ。その縁でマルヌーク様の仕事を手伝ってるのだけど、各地の鉱山を回ったり、商人と打ち合わせしたりと何かと人と会う機会が多くてね。せめて恰好ぐらいは恥ずかしくないようにしなさいってかみさんが五月蠅くて」
学生時代クルトは一度としてベリヘルムを意識したことはなかった。同級とはいえ、競争相手と見做すにはあまりにもみすぼらしかったからだ。それが今では自信に満ち溢れている。
酒が回ったのかベリヘルムの頬は紅い。クルトは自分の顔も同じように赤くなっているだろうと思う。だが、それは酔いによるものではない。
(ふざけるな!)
歯軋りに奥歯が鳴る。そんな親戚がいることなど聞いていない。冷静に考えれば当時は運輸大臣ではなかったはずだ。だが、怒りと酒で沸騰した頭で分別のある考えなど浮かぶはずもない。
(くそ! くそ! くそ! くそが!)
こいつは俺が下種な犯罪者を追い回している間、商人から接待を受け、貴族風を吹かしているのだ。その証拠にベリヘルムの手は真っ白だ。剣だこだらけの自分と比べるべくもない。何の努力もせずただ運だけで今の地位を築いている。そのくせ本人は一端に仕事をこなしているつもりになっている。
(俺ならマルヌークを利用して更にのし上がってやる! こいつみたいに飼いならされて満足などしない!)
大臣との地位を利用すればそれこそ執政官代表も夢ではない。なのに隣で暢気にマルヌークを礼賛しているベリヘルムは一介の小間使いで満足しているのだ。
なぜ神はこんな矮小な奴に幸運を与え、俺のように努力を惜しまぬ男に辛く当たるのか?
(不公平じゃないか! 俺にも何かあっていいはずだ!)
その叫びが心の奥底で蓋をしていた可能性を開いた。
「マルヌーク様も何かと忙しい人で擦れ違いになることが多いから、今度家族で王都に引っ越そうかと話してるんだ。子供を育てるにしろ王都の方が教育機関も充実しているからね。等級がどうなるにしろ初等教育は重要だと思うんだ。幸い義父も賛成してくれていて領地のことは心配いらいし。そうだ、引っ越したらぜひ遊びに来てよ! ここで会ったのも何かの縁――」
クルトはベリヘルムの言葉を断ち切るように腰を浮かすと、ポケットから無造作に掴んだ硬貨をカウンターに叩きつけ、振り返ることなく立ち去る。背後から追いかけてくる声から一歩離れる毎に考えが纏まり、酒場の扉に手をかける頃には計画の全貌が描けていた。
新たな計画の前に怒りは霧散した。クルトは冷たく笑うと、全てを手中に収めるべく細部の検討に入るのだった。
クルトは濡れた髪を拭いたタオルを机に投げ出し、小脇に抱えた肌着に袖を通すと、ランジェスの対面に乱暴に腰掛けた。
「これで全員揃いましたね」
シンクロアの言葉通り部屋には『大海の笹舟』の最高幹部である三人が集まっている。
クルトは鼻を鳴らし本来であれば参加するはずのなかった部外者を睨み付ける。敵意に鼻白んだのか、あるいはこれから明かされる内容の重大さに勘付き怖気づいたのか、少年が腰を浮かしかけるも、シンクロアが先回りし一気呵成に捲し立てた。
「数週間前、私達は罠にはめられ絶体絶命の状況に追い詰められました。あのニファナ・ゴールディー率いる部隊に襲われたのです。正直、こちらの戦力では手も足も出なかったでしょう。なのにどうやって人間災害と恐れられる彼女から逃げ、あまつさえ生き延びられたのか? その奇跡こそが『大海の笹舟』があなたを必要としている理由です」
クルトはぶるりと身を震わす。濡れた体が冷えたのではない。
(あれは……化物だ)
遠くにシンクロアの説明を聞きながら脳裏に忘れたくとも忘れられぬ光景が鮮明に甦る。
二等級の秘石の作用により十二歳で成長が止まった幼い外見に騙されたつもりはない。こちらにはシンクロア以外にも腕利きの部下が五名揃っていたのだ。冷静に彼我の戦力差を見極め、当初の目的を達したうえで戦略的撤退は可能だと判断した。
だが、次元が違った。軽く、そう本当に軽く、肩慣らしにすらならないとの態度で瞬く間に仲間がひき肉に変えられた。
『あたしィ、ご馳走はァ、最後にィ食べるようにしてるのォ』
舌足らずな口調で己が生き残った理由を告げられ、クルトには後の展開が手に取るように読めた。主菜どころか前菜にすらならぬのだ。ニファナに貼り付いている薄笑いはすぐにでも失望に変わるだろう。その時が己の命運の尽きる時だ。
「嗜虐的に歪んだ口元に死は避けられぬと覚悟を決めました。それでも膝を屈するわけにはいきませんでした。子供たちを逃がさなければなりませんでしたので」
シンクロアが護送馬車の鍵を壊し扉を開け放つと子供たちが飛び出して来た。全部で四名、下は七歳から上は十歳程度、男児と女児が半々。いや、三人と一匹というべきか。
「事前の調査で獣人との混血児がいることはわかっていました。獣人の血が薄いのか、外見は殆ど人と変わらず、ざんばら髪から飛び出た獣耳ぐらいしか特徴はありませんでした」
獣人と一言に括られているが様々な種族がいる。正確にはいた。人の何倍もの優れた身体能力と鋭敏な五感から人類を支配していたが、秘石が発見されると立場は逆転し、秘石を取り込めない獣人は圧倒的な力を得た人類に駆逐されていった。積年の恨みから反撃は苛烈を極め、多くの種族が絶滅したと聞く。
人類が獣人の手から自由を勝ち取り数百年。それ以来彼等は息を潜めており交流はない。たまに目にするのも、見世物小屋で晒されている姿や、好事家が奴隷として使役しているぐらいだ。それゆえ混血は非常に珍しく奴隷市場で高値で取引されていると聞く。
「どのような経緯で彼女が捕まったのかは定かでありません。ただ一つ確かなことは、年かさの女児に手を引かれよたよたと逃げるその少女こそが私たちがこうして生き延びられた奇跡の担い手だとういうことです」
「その子供があんた達では手も足も出なかった二等級より強いとでも?」
「そうとも言えます。なにせこの世の理を根本から覆す力を秘めているのですから」
眉を上げた少年の表情が目まぐるしく変わっていく。それはまるでこれまで提示された一つ一つの情報が繋がっていくのを可視化したかのようだ。真実に行きついたのか驚愕に目が見開かれる。
「まさか!」
「そのまさかです。彼女は秘石を無力化できるのです」
ランジェスの言葉を補足するようにシンクロアが力強く頷くも、少年の顔に浮かんだ唖然とした表情は消えない。
「……冗談だろ?」
「私もこの目で見たわけではありません。ただ、悪名高いニファナ・ゴールディーに遭遇しながらも生き永らえた。そのことを考えれば可能性の一つとして考慮に値します」
「寝返ったからでは?」
「それはシンクロア・ラーゼンフォンという人物を知らない者の発想です。それに単に裏切るだけなら奇想天外な設定は蛇足です。命からがら逃げ出した。それで十分ではないですか」
クルトは机に足を投げ出しランジェスと少年のやり取りを静観する。
逆の立場なら腹を抱えて笑っただろう。その後で思いっきり机を蹴って立ち去る。それぐらい馬鹿げた話だ。あの魂までをも吸い尽くされたような虚脱感がなければ自分ですら夢だったと思ってしまう。
「二人によれば逃げ出した少女が転び夜空に浮かぶ満月を目にした途端状況が一変したとのことです。まるで水中のように体が重くなり子供たちに追いすがるのがやっとだったと」
ランジェスの後を引き取りシンクロアが続ける。
「子供たちを逃がそうと奮戦している最中でしたので最初は何が起きたかわかりませんでした。獣の遠吠えが聞こえた。そう思った時には体中の力が抜けていました」
クルトには掃除の連中を牽制しているシンクロアがひどく滑稽に映った。ニヤニヤと笑いながら傍観しているニファナが動けば一瞬で終わるのだ。抵抗することに一体なんの意味があるのだろうか。それでもクルトが手を貸したのは、万に一つでもシンクロアの力によりニファナを足止めできたなら自分が逃げ出す隙ぐらいは生じるかもしれないと期待してだ。いざとなったら盾代わりに利用しようと子供と併走していたので半獣人の少女が転んだ時もいち早く気付いた。
転んだ少女は満月を見上げると毛を逆立てるように反り返り月に向かって吠えた。その瞬間、鎖で絡め捕られたように手足が重くなり、逃げる子供たちに追いすがるのがやっとになった。
「私たち以上に相手は浮足立ちました。おそらく突然の異変をこちらの攻撃だと勘違いしたのでしょう。お蔭で子供たちを含めて無事に逃げおおせました。散華した同志を思うと胸が痛みますが、彼らの犠牲はけして無駄にはしません。そのためにも私たちは彼女を守る義務があるのです」
「だから俺か」
「はい、無等級であなたに並び立つ者はおりません」
クルトの舌打ちを掻き消すようにランジェスが割って入る。
「子供たちの様子から無等級であれば影響を受けることはありません。ニファナ・ゴールディーのように高位の等級者ほど普段との落差に苦しむことになるようです。だからこそ追ってこなかったのでしょう」
クルトも少し前まではランジェスと同じ考えだった。だが虐殺との事実を知った今となっては追ってこられなかったのか、追ってこなかったのか、どちらか正しいのか判断がつかない。あえて見逃し、秘密を知る者たちを片付けることを優先したのかもしれない。
「秘石の効果を打ち消す能力を保有する彼女の存在は帝国にとって相容れられぬものです。なんとしても探し出し抹殺しようとするでしょう。現に我々への締め付けは一段と厳しくなっております。今日の手入れもその一環と見て間違いないでしょう」
したり顔で語るランジェスをクルトは胸の内で嘲る。帝国は少女の存在すら知らない。捜査に熱が入っているのは虐殺によるためだ。それをランジェスは勘違いしているのだ。
(けっ、参謀だぁ策士だと偉そうなことをほざこうが俺が情報を渡さなければめくら同然じゃねぇか。せいぜい幻の追っ手におののいているがいい。本当の策ってものがどういうのか目に物見せてやる)
準備に余念はない。反旗を翻した際にこちら側につく人物の見極めは終わった。後は切り札を手中に収めるだけだ。
そこまで考えクルトは眉をしかめる。
少女の隠れ家はクルトやランジェスにすら秘匿されている。何度か人を使いシンクロアを尾行させたがことごとく失敗に終わった。
(ちっ、無駄に警戒させちまったな。突けば尻尾を出すかと思ったんだけどな)
こうなっては例え自分が直々に尾行したとしても撒かれてしまうだろう。正義感の強い世間知らずのお嬢様と侮っていたが、腐っても精霊付きの三等級だ。ニファナ・ゴールディーほどではないが厄介な相手だ。
(先に話をつけに行くか? いや、現物がなければ足元を見られる。せめて手に入る目途さえ立てば……)
もう少しで何か掴めそうだったが、クルトの思考を断ち切るようにシンクロアが本題を切り出した。
「どうか私たちに力を貸してください。同志ウルミルの願いでもあります」
シンクロアの申し出を吟味するように少年が目を瞑る。
「今夜の事件によって一段と追跡は厳しくなります。他の街に逃げようにも既に主要な関所は封鎖されているでしょう。さしあたって身を隠せる場所に心当たりはありますか?」
少年が渋々と首を横に振る。ランジェスの見立て通り少年は乗り気ではない。その説得のためにウルミルを仲間に引き入れ、更には今夜の手入れを仕組んだのだ。少年の性格から大人しく親友を司法の手に引き渡すはずがない。何かしらか抵抗するだろう。あとは頃合いを見計らいクルトが助けに入る。これにより、公権力に歯向かったとの負い目と恩義の両面から縛り加入させる。
(涼しい顔してえげつない手だぜ)
まさか熱心に自分を説得している男が密告者だとは夢にも思わないだろう。
ただ、この作戦に関してシンクロアは何も知らない。純粋にクルトが手入れの情報を直前に掴み助けに向かったと思っている。生真面目な彼女に知らせて反対されては面倒だとのランジェスの意見にクルトは一も二もなく同意した。
作戦自体難しい所は何もない。それにもかかわらず大きく狂ったのは、クルトが静観し動かなかったからだ。理由を問われれば雷雨で家の中の様子が掴めなかったからと答える。もちろん方便に過ぎない。真の狙いは少年を亡き者にすることだ。己の敵ではない。それでも万一ということがある。邪魔者は排除しておくに越したことはない。
それも結果的にはシンクロアの余計なお節介により失敗してしまった。
(くそっ、詰まらねぇ真似をしてくれるぜ)
別に小魚が一匹跳ねたところで潮流に影響を与えるわけではない。それでも自分が思い描いていた通りに物事が進まないのは業腹だ。
そこまで考え全く別の側面から今夜の出来事に光が当たった。
(もし、これが失敗じゃないとしたら?)
あの晩酒場で全てを手中に収める計画を立てた時からクルトは得もいえぬ全能感に包まれている。そんな自分が些細なこととはいえ失敗など犯すだろうか?
否! 断じて否!
(では、ガキが生き残った意味はなんだ? どう使える?)
その答えは瞬時に導き出された。
シンクロアは迷っているふりをしているが、半獣人の少女を革命に利用する気がないのは見え見えだ。どこに隠しているにしろ、このままずっと同じ場所に留めておくことは出来ない。捜査の網は日に日に狭まっているのだから。そうなると、別の場所に移すしかない。それもどこか遠くに。
少年が生き残ったことにより護衛は準備できた。後は足だが、これだけ街道が厳しく監視されているとなると自ずと移動方法は限られる。
そこまで考えクルトは会心の笑みを浮かべた。
(狩りと一緒だ。追うばかりが能じゃない)
もはやクルトには少年の答えなど耳に入っていなかった。
心は現実から離れていき、より美しく彫琢された計画を飽きることなく反芻し、己の努力を正当に評価しなかった連中が目を剥く瞬間を夢想し独り悦に入るのだった。
――幕間――
壁一面の本棚には歴史書から怪しげな魔道書に精緻な人体の断面図が記載された医学書まで古今東西あらゆる書物が並ぶ。床に乱雑に積み上げられた本と相俟ってマルヌーク以外の者が部屋に足を踏み入れたなら文字により窒息してしまうことだろう。
書斎に関しては主人から固く立ち入りを禁じられており家政婦もみだりに入室しないため本棚には薄く埃が積もっている。
マルヌークは指の腹で埃を払うと、今しがた手に取った本をパラパラと捲りつつ文机の前に戻る。
『バートン商会の成り立ちと成功要因』
長年番頭としてバートン商会を支えてきた人物が記しただけに内幕が活き活きと描写されている。だが、ざっと目を通した限り目的の情報については触れられていない。
次にマルヌークが手にしたのは一地方の豪族であったラーゼンフォン家の娘がその類まれな才能と高位の等級により新進気鋭の画家として頭角を表す話だ。そちらは出版された書物ではなく、マルヌークが人を使い個人的に調べさせた報告書との形式をとっている。更に治安維持部隊に所属している四等級の幹部職員の経歴書に目を通す。
最後にマルヌークは真新しい報告書に手を伸ばした。前の三つとは違い隅から隅まで丹念に読み進めていく。
それは数日前に起きた殺人事件に関する調査書だ。表向きは、『大海の笹舟』に所属する無等級者が同居人を人質にとり、無抵抗となった『不穏分子掃討並びに不適格者排除専門機関』に所属する隊員を殺害し、挙句の果てには人質まで手にかけ姿をくらましたことになっている。一地方の事件にも関わらず資料として付随していた瓦版では一面で取り上げられており、『犯人検挙に断固たる決意』との威勢のいい文句と共に、等級闘争の先鋭化を憂う論説が展開されている。
マルヌークは鼻で笑い瓦版を畳む。瓦版を発行しているのは宰相のフラムスト卿の腹心であるペロウド卿が所有する新聞社だ。そのため帝国に都合の悪い真実が紙面を飾ることは絶対にない。今回も予想通り逃亡中の元王者に全ての罪を被せている。
殆どの者はこの発表を鵜呑みにするだろう。だが、マルヌークは違う。そもそも被害者である同居人が無辜の市民でないことはマルヌークが一番よく知っている。
今はウルミルと名乗っている少年から『大海の笹舟』が闘技場の王者であるシュラットを仲間に引き入れたがっていると報告を受けた際はてっきり広告塔として利用するものだと思った。無等級ながらに等級者を倒したとの事実は絶大な宣伝材料となる。だがそれも卑怯にも人質を取って不意打ちにより人を殺めたと喧伝されては台無しだ。汚れた英雄ではなんの価値もない。
現場の責任者が瞬時にそこまで判断してウルミルを殺害したとは思わない。調査書も状況から鑑みて殺害は偶発的に起きた事故だと結論付けている。
『事故』との言葉にマルヌークは不快げに眉を寄せる。『大海の笹舟』に潜り込ませる人員を探すのは骨の折れる作業だ。ウルミルを見付けたのも偶然の副産物に過ぎない。マルヌーク以外であれば一度しか面識のない弱小貴族の長男の顔など記憶の片隅にも残っていなかっただろう。それも公式には死んだことになっている人物だ。
ウルミルことメザレス・ベルルは等級検査に赴く際に馬に蹴られ死亡したことになっている。世継ぎを亡くしたベルル家は姉と婚約関係にあったカイゼッヒ家の後押しにより養子を迎え無事に存続し今でも細々と領地を守っている。
死んだはずの貴族の長男が生きているとしたら理由は一つしかない。無等級であったために捨てられたのだ。特にベルル家は姉が高位の等級者であり遥かに格式の高いカイゼッヒ家との縁談が決まったばかりであった。身内から無等級を出したとあっては婚姻そのものが解消される危険性すらある。だから等級検査を受ける前に死んだことにしたのだ。
一つだけマルヌークが読み違えたのは、ウルミルが自らの意思で家を離れた点だ。十二歳の少年が家の安泰と己の将来を天秤にかけ冷静に秤の傾きを見極めたのは驚くべきことだ。だからこそ、ウルミルはマルヌークの脅しに屈し、密かに『大海の笹舟』の情報を流すことに同意したのだ。
短い間であったがウルミルのもたらした情報は無視できぬものであった。まさか入党したばかりで最高幹部にお目見えできるとは思っていなかった。『大海の笹舟』がそこまでウルミルを重く見たのもシュラットの無二の友であるとの事実によってだ。だからこそ本当に宣伝塔として利用するつもりなのかと疑問に思ったのだ。
マルヌークは調査書の後半部分を二度読み直し己の勘が外れていなかったことを確信する。
事の発端となった密告は匿名であり、密告者に支払われる懸賞金も未払いのままだ。金銭だけが一般市民の『不穏分子掃討並びに不適格者排除専門機関』への悪感情を和らげる。無等級者が寄り集まって住む地区で金も受け取らずに密告を行うなど考えにくい。余程当人への恨みが募っているなら別だが、調べた限りそのような様子もない。
「最初から仕組まれていた。しかし、何故そこまでして?」
マルヌークの呟きが部屋の隅の闇に吸い込まれる。
闘技場の王者とはいえ所詮は無等級だ。戦力になどなりはしない。
「不可解な」
これと同じ感想を最近別の事件でも抱いた。やはりそれにも『大海の笹舟』が関与していた。
マルヌークは考える時の癖で檻に閉じ込められた熊のように室内を歩き回る。何度目かの円を描くと肘が机の上に積み上げられた本に当たり山が崩れた。拾い上げることはせず思索を続けようとし、目に飛び込んできた一文に息を奪われた。
『秘石の力を得た人類に対して劣勢に立たされた獣人は起死回生の一手として密かに秘石を無効化する研究を続けたと言われている。それが結実していれば歴史は変わっていただろう。だが今日の我々の繁栄を見るに幸いにも研究は失敗したようだ』
己の記憶力には自信がある。それでもマルヌークは該当の資料を広げ逃げた四人の子供の中に獣人の混血児がいるのを確認した。
全てが繋がったと膝を打ちたくなる思いと、荒唐無稽だと笑い飛ばしたくなる気持ちが相反し、表情が抜け落ちたままマルヌークは呆然と立ち尽くす。
手にした本の題名は『共振による共鳴作用を利用した干渉力場の可能性(無等級空間は現実たりうるか?)』だ。著者は著名な鉱学者で、特定の鉱物の含有量により等級が決定されるとの極めて重要な事実を発見した人物だ。だが、それ以上に胡乱な研究で知られており、過去には一等級の秘石の練成に成功したと大々的に発表したが、すぐに真っ赤な嘘と発覚し嘲笑の的となったりしている。それだけに鵜呑みにすることは出来ない。
それでも――
「もし半獣人の少女が『無等級空間』を形成する能力を有しており、それが奪還時に発動したとしたら?」
「ニファナ・ゴールディーは秘密を守るために部下を皆殺しにするでしょうね」
マルヌークが下した結論と寸分たがわぬ答えが部屋の隅の闇から返ってくる。
「あの性格だ。玩具を手に入れて我慢できるはずない。となると――」
「少女の身柄は『大海の笹舟』の手にある。だからこそがなりふり構わず闘技場の王者を仲間に引き入れようとした」
土台である『無等級空間』との天地が引っくり返るような仮説に目を瞑れば納得できる筋書きだ。
「空想が現実によって凌駕される時、歴史は動き出す。誰の言葉か忘れましたが今こそ相応しいのではないですか?」
闇から分離するように一分の隙もなくタキシードを着込んだ青年が姿を現した。立ち入りを固く禁じている書斎に他者が踏み入って来たというのにマルヌークは反応を示さない。まるではじめから居るのがわかっていたかのように。
「激動の時代はとうに終わった。青い理想や頑是ない子供の我儘で眠れる獅子を揺り起こさせるわけにはいかん」
「仰る通りです。こうして平和が維持されているのは奇跡の産物に他なりません。それを乱す者はいかなる手段をもってしてでも排除するべきかと」
マルヌークは秘書であり、この世で唯一秘密を共有する相棒でもある青年を一瞥する。
ジャン・ルギレ、二十八歳、金髪碧眼、その爽やかな笑顔と折り目正しい所作により誰しもが好青年と認めるだろう。事実ジャンは日の打ち所のない紳士だ。物語の中の騎士のように弱きを助け強きを挫く。その悪を憎む心が誰よりも強いことはマルヌークが一番よく知っている。そして己の信じる正義を実行するためなら手段を選ばぬことも。だからこそ先に釘をさす。
「排除ではなく確保だ。万一あの件が表沙汰になった際に保険として使える。この平和が薄氷の上に築かれているのを忘れるな」
「薄氷だからこそ排除してしまった方がいいのでは? 強大な力は氷を砕きかねません。中立の立場を貫いている連中ですら欲するでしょう。特に『大海の笹舟』には奴らの息がかかった者が入り込んでいるのですから早めに手を打つべきかと」
ジャンの言い分にも一理あることを認めたうえでマルヌークは冷厳に命じる。
「駄目だ。確保を最優先に行動しろ。そのためならおまえの力を使うことも許す」
ジャンが恭しく返礼する。
ジャンの等級は七等級とけして高くない。だが、それはあくまでも表向きだ。ジャンの真の力を知る者はマルヌーク以外にいない。なぜなら、真実を知った者は悉く葬り去られているから。
ジャンは腐敗を噂される貴族の間を秘書として渡り歩き、不正の証拠を掴むと容赦なく抹殺してきた。一度として疑われたことがないのは証拠を一切残さない慎重さもあるが、なによりも殺された貴族が全て己よりも遥かに等級が高いからだ。
この世の常識では等級の差は絶対だ。それが覆るなど空が降ってくるようなものだ。ましてや好き好んで低い等級の人物に成り代わる者がいるなど夢にも思いもしない。
マルヌークはもし自分がジャンの思い描く正義から逸れたなら同じ運命を辿るだろうと覚悟している。それでも秘書として手元に置いているのは替えのきかない存在だからだ。自分だけなら今回の事態には対処できなかった。ニファナ・ゴールディーはおろか、大海の笹舟の精鋭ですら手に余る。いや、大貴族のように私設の武装兵団を抱えていてもそれは変わらない。ジャンだからこそ送り出せるのだ。
「では我々の正義をなすと致しましょう」
「確保だ。それだけは忘れるな」
「わかっていますとも」
ジャンの爽やかな笑顔に一抹の不安を覚えながらもマルヌークは闇に溶ける人影を見送った。