第二章
――二章――
「九百十一、九百十二、九百十三、九百十四」
木漏れ日が降り注ぐ森の中、もろ肌脱ぎのシュラットが一心不乱に木刀を振う。玉のような汗が滴り落ち乾いた大地を潤す。
「九百五十三、九百五十四、九百五十五、九百五十六」
くっついたばかりの肋骨が悲鳴を上げ、砕かれていた鎖骨が抗議し、ひびの入っていた左腕が不平を述べる。それでもシュラットは素振りを止めず、空白を埋めるかのように己の体を痛めつける。
「九百九十七、九百九十八、九百九十九、千」
シュラットは木刀を柔らかい草地に突き立てると手近な切株に腰をおろした。
「はぁはぁはぁはぁ」
竹の水筒からぬるくなった水を流し込む。病床に縛り付けられていたことを思えば無理もないが予想以上に体が鈍っている。
シュラットは息を整えると、木々の間から覗く空を見上げ、次いで傍らに積み上げられた薪に視線を移した。普段の八割程度の量だ。本調子に戻るにはもう少し時間がかりそうだ。
日が暮れるまでまだ猶予はあるが、薪を荷車に積み込む時間を考慮すると、これ以上の鍛錬は控えた方が無難だろう。医者からも無理は禁物だと釘を刺されている。頭では分かっている。それなのに火照った体が言うことを聞かず、冷静な計算とは裏腹に木刀を掴み再び一心不乱に振り始めた。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ」
呼吸の乱れは隙を生む。そのため常に一定の間隔で横隔膜を震わせる。この呼吸音が怖いのか、はたまた木刀が空気を切り裂く唸りが恐ろしいのか、野生動物は近付いてこない。だからこそ静寂を乱す気配には敏感になる。
「ふん、生きていたか。ゴキブリよりもしぶとい奴だ」
背後から悪意のある言葉をぶつけられてもシュラットは振り返りもせず素振りを続ける。
この場に足を踏み入れる人間など他にいない。足音は先ほどまで腰を落としていた切株の辺りで止まった。
「いくら血の巡りの悪い貴様でも勘違いはしていないだろう。でも万一ということもあるからな。この俺が直々に忠告しに来てやったぞ。なんだ? 恥ずかしがるな。感涙で咽び泣くところだぞ」
おそらくニヤニヤと笑いながら腰に手を当てていることだろう。シュラットは想像の中の像に向かって勢いよく木刀を振り下ろす。
「ふん、まぁいい。勝ったのはまぐれだ。次はないぞ」
胸の内で際どい勝負だったと認めつつも手は休めない。徐々に鋭くなっていく相手の舌鋒を断ち切るつもりで一太刀一太刀を打ち込むも、ともすれば口数に押されがちとなる。
「くっ」
見えぬ剣戟が火花を散らし、一進一退の攻防が続く。シュラットが手数を増やせばすかさず痛烈な嫌味が放たれる。
耳障りなだけで実害があるわけではない。取り合わなければいいだけだ。それなのに何をむきになっているのか自分でも不思議だ。
横目で相手を窺う。顔を真っ赤にして口汚く罵っている姿はとてもではないが名門貴族に連なる者とは思えない。だが、リヒンシャル・ヘイトナ・ブロウスキーはこの森の所有者にして、四大貴族の一角に数えられるブロウスキー家の三男だ。
薪に適した良質のクヌギが伐採できる上に街からもそう遠くない。普通であれば伐採権は争奪戦となる。それにも関わらず残っていたのはヘイトナの存在が嫌忌されてだ。舌鋒鋭いヘイトナの嫌味に耐えかね大抵が一週間で職場を放棄する。力ずくで口を閉ざそうとした男がヘイトナの護衛に襲われ行方不明になったとの噂が流れてからは一切借り手がつかなくなった。
シュラットにとって最も重要なことは一秒でも長く鍛錬の時間を確保することだ。他の森まで足を伸ばすとなると一刻は余計にかかる。それに薪もここほど上質ではない。身入りが減れば武具の手入れに回せる金額も少なくなる。それらと貴族のドラ息子が絡んでくることを天秤にかければ秤がどちらに傾くかなど自明だ。以来、シュラットはヘイトナと飽くなき勝負を続けている。
「貴様はそもそも等級間の力量差を正確に把握しているのか? 倍だぞ。一等級上がる毎に倍の差が開く。片手の指以上の数を計算できん貴様に代わって教えてやる。二等級開けば四倍、三等級なら八倍だ。これでわかったか? 自惚れて等級を上げれば今度こそ墓穴へ直行だ。貴様が自殺するのは勝手だが、後任が決まらなくて迷惑を蒙るのは俺なんだということを忘れるな」
次の試合に関しては何も決まっていないが、対戦相手の等級が上がることは十分考えられる。ヘイトナの言う通り無謀な挑戦だとは承知している。それでも断るつもりはない。
別に自殺願望があるわけではない。等級が上がればそれだけ注目度も増す。シュラットにとって重要なのはそこだけだ。そのために強敵を相手するのも吝かではない。
強敵との言葉に惹起され、シュラットは周囲を探る。どこかで噂の護衛が見張っているはずだ。しかし、ヘイトナ以外の気配は一切感じない。
「だめか……」
「ああ! そうだ! 貴様はダメだ。やっとわかったか!」
回り込んできたヘイトナが得意気に前髪を掻き上げる。そのまま振り抜いてしまいたい衝動を押し殺しシュラットは木刀を収めた。
これまでの人生で貴族と対面した経験などない。だからヘイトナの格好が一般的な上流階級の出で立ちなのか判断しかねる。シュラットの目から見れば華美な金糸で編まれた幾何学模様の上着や、マントを止める大振りな金のボタンも、貴族の間では普通の格好なのかもしれない。一つ確かなことは、泥が跳ねたとの理由でヘイトナが二度と履かないであろう真っ白なズボンだけで装備一式を新調できることだ。
「貴様が己が身を弁えるのであれば特別にこの森の伐採権を終身制にしてやらんこともないぞ。どうだ? 悪い話ではないだろ」
何かにつけてヘイトナはシュラットの牙を折らんと甘く囁いてくる。
シュラットはいつもと変わらず無言で頭を振った。
「馬鹿が! 正真正銘の馬鹿だ! 貴様のしていることはまったきの徒労だと何故わからん。無等級に何が出来る? いくら努力しようとも誰も認めてなどくれないのだ! それでも足掻くことに何の意味がある!」
暮らしぶりから何から何まで違う。それなのになぜヘイトナがこれほどまで無等級を目の敵にするのか理解できないでいた。しかし、ある噂を小耳に挟んでからは納得した。
四大貴族の一角を占めるブロウスキー家の三男が片田舎の領地で逼塞しているのも無等級だと考えれば辻褄が合う。手の甲に刻印がないのは大貴族ならではの特権だろう。この世が不公平であることなど秘石の存在を持ち出されるまでもない。
ヘイトナにぶつけたところで躍起になって否定するだけだ。もはや公然の秘密となっているが本人だけは隠し通せていると思っている。
シュラットは憐憫で目が曇る前に薪を荷車に積み込むと、喚き立てるヘイトナを残し街へと戻った。
薪を満載した荷車を倉庫の所定の位置にとめると、物憂げな態度で勘定人が積み荷を算定する。薪の産地とその卸価格を知っていれば誰にだって務まる仕事だ。しかし、この職務に就ける者は十等級から八等級までと決まっている。何度かシュラットは頭の中で勘定人と計算速度を競ってみたが、自分の方が遥かに早く諸経費を差し引いた取り分を算出できた。
だがそれを声高に主張することはない。等級の優劣や職業の自由など口に出そうものなら革命分子として職場を追われることになる。
そもそもシュラットは無等級者の権利や自由を求める運動に興味がない。シュラットにとって闘いとは個人的なものだ。無等級との大きな括りの中で剣を振う自分の姿は想像できない。
「おい! なにボケッとしてんだ! 今日の分だ」
シュラットが放物線を描く数枚の銅貨を腕の一振りで掴むと、落とすことを期待していた勘定人は鼻白み、すごすごと事務所に引き下がった。
掌を開き数えるまでもない。感触で三枚とわかる。シュラットはポケットに銅貨を突っ込むと、薄暗いランタンの灯りを頼りに、乱雑にとめられた荷車の間を縫うようにして出口へと向かう。
「よう、怪我はもういいみたいだな」
シュラットは片手を挙げ顔馴染みの倉庫番に挨拶を返す。
「お蔭さまで」
「それはなにより。いくらおまえさんが頑丈とはいえ今回ばかりは肝を冷やしたぞ」
赤ら顔の陽気な男だ。等級者にしては珍しく無等級にも分け隔てなく接し、敬遠されがちなシュラットにも気軽に話しかけてくる。
「ウル坊は一緒じゃないのか?」
シュラットが首を振ると倉庫番の男が眉をひそめた。
「最近やたらと忙しそうだな。コレでも出来たのか?」
小指を立てた男の仕草に対しシュラットは小首を傾げる。ウルミルとは一つ屋根の下で暮らしているがそういった話は聞いていない。
「ふ~ん、おまえさんがピンとこないんじゃ違うか。まぁいいか。次の試合もがんばれよ」
バシバシと肩を叩く手荒い激励に苦笑を浮かべつつシュラットは家路についた。
家とは本来雨風を凌ぐためのものだ。だから人は当初洞窟に住んでいた。しかし、文明が発達し暮らしが生活に昇華されると、家は権力と財力の象徴となり、人は不必要に大きな容器に住むようになった。今こそ原点に立ち返り洞窟に住むべきだ。
未だに玄関を開けるとあの時の演説が甦る。本当に男が洞窟に移り住んだかは知らないが、お蔭でシュラットは路頭に迷わずに済んだ。
無等級者の居住区は限られている。常にすえた臭いが立ち込めるどぶ川沿いのバラック地帯か、斜面にへばり付くようにしてあばら家が乱立する傾斜地だ。当初シュラットはどぶ川沿いに住んでいたが、悪臭に体調を崩してしまい、収入が途絶え、家を追い出されるはめとなった。
行くあてもなく彷徨っていると、街頭で熱弁をふるう男と出会った。足を止めたのはじっくりと今後のことを考えたかったからに過ぎない。結局、演説が終わるまでに何も思い浮かばなかったが、最後まで耳を傾けていたシュラットに男が感動し、一ヶ月分の家賃を先払いしている住居を明け渡してくれたのだ。それから暫く一人で住んでいたが、家賃の負担を少しでも軽くするため同僚に声をかけ、応じたウルミルと一緒に暮らすようになった。
空間の半分を壁際の二段ベッドが占拠し、残りをウルミルが持ち込んだ年季の入った文机と椅子が占める。シュラットにとって家とは寝るためだけのものだったので、家具が増え生活感が増すのは新鮮な驚きだった。
「家か……」
木刀を壁に立てかけ毛羽立ったベッドに身を投げ出す。ウルミルはまだ帰ってきておらず無人の家には孤独の気配が残り香のように漂っている。自分一人の熱では掻き消せそうにない。
目を瞑ると倉庫番の男の言葉が耳朶に反響した。ウルミルから異性の気配は感じないので、悪女に引っ掛かっている心配はない。だからといって安心できるわけではない。むしろ逆だ。
お互い干渉しない。それが二人の間で設けられた唯一の取り決めだ。そのため問い質す気はない。それでも気にならないと言えば嘘になる。
「借金……は違うか。色恋でもないとすると、他はなんだ?」
剣を交えれば相手の考えが手に取るようにわかる。視線や切っ先の震え、腰の入れ方などが雄弁に語りかけてくる。だから裏をかくのも流れに任せるのも自由自在だ。しかし、一たび武器を手放せば最も親しい者の考えすら皆目見当がつかない。
無意識の内にシュラットは木刀に手を伸ばし苦笑する。得物に触れたところで答えに辿り着けるわけではない。ため息をつくと睡魔を呼び込むため暗闇に身を委ねた。
仕事と鍛錬。それ以外のものがシュラットの生活に入り込む余地はない。荷車を曳き、薪を割り、木刀を振る。療養によって落ちていた体力は順調に回復している。後はダルナミアからの連絡を待つばかりだ。
次の相手が十等級なのか、はたまた九等級となるのかは不明だが、等級者であることは間違いないだろう。出来ることなら兵士など戦闘訓練を積んでいる者がいい。ただ、低級の軍人となると街の警備兵が関の山だ。それでは素人に毛が生えた程度だ。前の相手とさしてかわらない。
「と、その前にどうにかしなきゃな」
シュラットは胸の内で燃え上がる闘志を消化すると、早急に解決しなければならない問題に対処するべく仕事帰りに馴染みの鍛冶屋に顔を出す。
初老の男が一人で営んでいる小ぢんまりとした店舗だ。一歩店に踏み入れると、炉の熱気が容赦なく襲ってきた。シュラットは吹き出した汗を拭いながら無造作に並べられている武具を品定めする。
細身の槍や顔が映り込むほど磨かれた鎧など見ているだけで思わず頬が緩む。浮足立つ心を抑え一つ一つ手に取っていく。
素っ気ない店主の性格を反映してか、いずれの武具も装飾を排し、実用一本やりだ。宮廷での虚栄心を満足させたい貴族には向かないが、シュラットのように本来の使い方を心得ている者にはうってつけだ。ただ、どの武器も等級者を念頭に作られているため、シュラットが扱うには些か重い。
「おまえさんに合うのはない。欲しけりゃ前みたいにあつらえろ」
「簡単に言ってくれる」
一から作るとなると値段が出来合いの物の比ではなくなる。以前の剣も爪に火を灯すように切り詰めた生活の末に手に入れたのだ。それが先日の試合で折れてしまった。氷塊を受けた短刀も刃こぼれがして使い物にならない。ダルナミアに相談すれば用立ててくれるだろうが、あの男に借りを作るのは煮え立った鍋に飛び込むようなものだ。出来ることなら避けたい。
「これで作れる物があるなら教えてくれ」
店主がシュラットの全財産を鼻で笑う。
「ふん、なんの冗談だい。ガキの使いなら出直しとくれ」
予想通りの反応に苦笑する。
「どんな事情があろうと儂は自分の仕事を安くは売らん。わかったら帰った帰った。仕事の邪魔だ」
「また来る」
「ふん、勝手にせい」
憎まれ口を背に店を出るといつの間にか弱い雨が路上を叩いていた。
「ちっ」
シュラットは空を仰ぎ厚い雲に隠れた月に舌打ちする。通いなれた道だ。月明かりがなくとも迷いはしないが、道がぬかるんでるとなると少々厄介だ。
「これも鍛錬か」
シュラットは独りごち無理やり己を納得させ駆けだす。
雨に気をとられ、シュラットの鋭敏な感覚をもってしても、闇に溶ける背中を見届ける者がいることに気付かなかった。
シュラットが自宅に戻ると珍しくウルミルが先に帰っていた。
「今日は早いな」
「うん……」
机に向かっているウルミルが心ここにあらずとの態で生返事を返す。ロウソクの頼りない炎に照らされた横顔は青白く、思い詰めたように唇が引き結ばれている。シュラットがぼろきれで体を拭いている間もその姿勢は変わらない。
「根を詰め過ぎじゃないのか?」
「えっ? なに?」
「少し休め。そんなんじゃ碌な文章が思いつかないぞ」
シュラットが休むことを勧めるとウルミルは曖昧に頷いた。
「ありがとう。でもこれを終わらせないと」
シュラットや他の無等級者と異なりウルミルは基本文字だけでなく高等修辞から無形文字まであらゆる文語に通じている。そのため手紙の代筆を頼まれることが多い。大方また恋文でも依頼されたのだろう。詩や古典をふんだんに引用した文章は女性受けがいいともっぱらの評判だ。
ウルミルの才能は代筆だけにとどまらない。歴史や算術にも明るく、シュラットが勘定人よりも早く計算結果を求められたのもウルミルのお蔭だ。その広汎な知識から高貴な生まれではないかと囁かれているほどだ。
本人の口から過去が語られることはないので憶測が憶測を呼び、王族の落胤から、逃亡者、隣国の難民、はては無等級者の権利を主張し等級闘争を繰り広げている『大海の笹舟』の幹部まで、実に様々な説が流布されている。シュラットはいずれにも与していないが、ウルミルの出自が自分と異なることだけは肌で感じている。
シュラットは頭を振り余計な詮索を追い払うとベッドにひっくり返った。
いつもならパピルスの上を走るペンの音を子守唄に眠りに就くのだが、余程難産なのか一向に聞こえてこない。
「ねぇ、その、シュラットはなんで強くなりたいの?」
出し抜けに問われ戸惑う。
「なんでって、そりゃ……」
無等級だから。それが実感として一番近い。しかしそう答えたところでウルミルには理解できないだろう。むしろ無等級で強さを求めるなど正気の沙汰ではないのだ。どんなに鍛えたところでたかが知れている。
「……気に入らないんだよ。誰かに天井を決められるのは」
言葉は常に一方通行だ。本心の半分も伝えられない。だからシュラットは剣で語ることを好む。もしかしたら言葉への不信こそが己を闘争へと駆り立てているのかもしれない。
「……その気持ち、前ならわからなかっただろうな」
ウルミルは吐息のように吐き出すと、やおら立ち上がり、足元に隠すように置いていたずだ袋から一組の短刀を取り出した。
「よかったら使ってよ」
馬鹿みたいに何度も差し出された短刀とウルミルを見比べる。柄に掘られた滑り止めの溝は測ったかのように均一であり作り手の技量の高さが窺える。
「短刀なら剣ほど好みが分かれないと思ったんだ」
シュラットは姿勢を正すと何度も掌をズボンに擦り付け恐る恐る受け取った。
「どう?」
吸い付くような感触に持った瞬間から手に馴染んだ。肉厚な刀身は心持ち短く、斬ると言うよりは叩くとの感覚に近い。刃が空気を切り裂く風切音に知らず知らず笑みが零れる。
「気に入って貰えたみたいで良かった」
「……ああ」
シュラットの煮え切らない態度にウルミルの表情が曇る。
「どうしたの? やっぱりしっくりこない?」
「いや、そんなことはない。俺には勿体ないぐらいだ」
「なら――」
シュラットは短刀を鞘に納めると思案げに眉を寄せた。
「これでも武具には精通しているつもりだ。だから断言できる。これは俺たちに手が届く代物じゃない」
一年間飲まず食わずで過ごしたとしても鞘の代金にすらならないだろう。いくらウルミルが節約家だとはいえ、おいそれと買えるものではない。
シュラットの指摘にウルミルが口を閉ざし気まずい沈黙が流れる。
ウルミルの性格から犯罪に手を染めたとは考えにくい。しかし、他の手段で入手できる逸品でないことも確かだ。だからシュラットは根気強くウルミルの答えを待つ。
「……それについて話さなきゃいけないことがあるんだ」
位置を入れ替えるようにしてウルミルがベッドに腰を落としたので、シュラットは椅子に座った。
風もないのにロウソクの炎が揺らめき影が躍る。まるでどう切り出すべきか悩んでいるウルミルの心のようだ。柄にもない連想にシュラットは苦笑すると、親友が口を開くまで静かに見守る。
「……違法に手に入れたってことはないから安心して。譲って貰ったんだ」
「わかってるさ」
シュラットの返答に強張っていたウルミルの表情が和らぐ。
「うん、ごめん。シュラットはいつだって僕を信頼してくれてるのに、僕は……怖いんだ。君にこの決断をどう思われるのか」
お互い干渉しない。それが不文律だ。だからウルミルの行動にも極力関心を払わぬようにしてきた。しかし、それが間違っていたのではないかとの不安がよぎる。
「擦れ違いってわけじゃないけど、最近はあまり話せてなかったよね。本当ならもっと早く相談するべきだったと思う。でも、これは僕の戦いだから、シュラットの手を借りるのは――」
唐突に立ち上がったシュラットにウルミルが息を呑む。シュラットが短刀の鞘を払うと同時にドアが蹴破られ叩きつけるような風雨にロウソクが吹き消された。
「神妙にしろ! ここに不穏分子がいるのはわかっているのだ!」
闖入者の背後から射す灯りが特徴的な青銅の鎧と鍔の短い兜を浮かび上がらせるに至って躍りかかったシュラットの動きが止まる。
「……掃除?」
独特な形状の鎧を見間違うはずがない。『不穏分子掃討並びに不適格者排除専門機関』略して『掃除』だ。治安維持部隊では手に余る凶悪犯や思想犯の取り締まりを専門としており容赦のない捜査で知られている。文字通り悪人を掃除することを使命としているが、拷問や冤罪の噂が絶えず、一般市民にまで恐れられている。
両脇に部下を従えた責任者と思わしき中年の男が一歩進み出る。
「おまえが十等級を倒して調子に乗っているクズか。あと一歩踏み込んできていたならその首を刎ねてくれたものを。運がいいな」
ランタンの灯りを反射しギラリと光る切っ先がシュラットの頬を撫で、次いでウルミルへと向けられた。
「貴様を反逆罪のかどで拘束する。抵抗するならこの男が二度と剣を握れなくなるぞ」
風を感じた時には切っ先が目と鼻の先にあった。これまで反応できなかったことなどない。闘技場での勝負を逆恨みした夜襲ですら知覚する前に自然と体が動いた。なのに――
シュラットの生存本能が悲鳴を上げる。勝てる相手ではないと。
「引っ立てろ」
隊長の命を受けた部下がウルミルに迫る。
「ちょっと待ってくれ! こいつが反逆なんて……」
握りしめている短刀が続けるべき言葉を奪う。
「なんだ? 心当たりでもあるのか? どうやら貴様も夜会に招待せねばならぬようだな」
「違う! 僕だけだ」
両脇を兵士に拘束されながら憤然とウルミルが叫ぶ。
「ふん、心配するな。人数が増えたからといって貴様への歓待に手は抜かん。なにせ聞きたいことが山ほどあるからな。連れていけ」
「やめろ! シュラットは関係ない!」
先ほど感じた敗北感が枷になりウルミルが殴り倒されたにもかかわらず体が動かなかった。
「おい! 武器を捨てろ!」
喉元に切っ先を突きつけられようやく我にかえる。
「大人しく従わぬのであれば斬り捨てるぞ!」
抜刀した兵士の眼は血走っており今にも斬りかかってきそうだ。
シュラットは手元の短刀に視線を落とす。武器とは闘う意思を有する者の手にあるべきだ。今の自分には相応しくない。
「早くしろ! 殺されたいのか!」
シュラットが肩の力を抜くと兵士の警戒が緩んだ。掌から滑り落ちた短刀が床に突き刺さる刹那、シュラットは掬い上げるように掴み、兵士が腰に提げたランタンに投げつける。ガラスが砕け散り闇に包まれる。
「ぐはっ!」
「ぎゃっ!」
断末魔が重なり、返り血が撥ねる。立ち込める鉄さびの臭いに五感が研ぎ澄まされていく。
吹き込んでくる風を頼りに入口に向き直り、間一髪で急所へと迫る白刃を弾き返した。逸れた刃が頬を掠り刷いたように血が広がる。
「六等級であるこの俺に挑むとは、貴様は人生で最大の過ちを犯した。だが嘆くことはない。無等級である限り正解などどこにもないのだから」
六等級。その事実が重く圧し掛かる。暗闇と地の利、その二つだけでは覆しきれない差だ。生存本能が無謀な賭けを責め、戦士としての勘が敗北の予感に震える。だが、賽は投げられた。今さら後には引けない。
脳裏に相手の立ち位置を描きつつ死体に足を取られぬよう慎重に回り込み、踏み込むと同時に体を反転させ死角から一撃を見舞う。聴覚に頼らざるを得ない状況下で裏をかいた攻撃だ。いくら等級者とはいえ防げるはずがない。
殺った!
その確信を裏切るように高い金属音が響き火花が一瞬あたりを明るく染める。
「くっ!」
まぐれだ。そう己を励まし矢継ぎ早に攻撃を繰り出すも、まるで軌道を読まれているかのように阻まれる。
これだけ続けば認めざるを得ない。暗闇は己を不利としただけで相手には影響がないと。
「どうしたもう終わりか? 早くしないと私の部下がなだれ込んで来るぞ」
挑発だ。そうわかっていても今にも男の背後から援軍が現れるのではないかと気が急き単調な攻めとなる。
「ふん、九点五等級などと騒がれているからどんなものかと思えば所詮は劣等種か。準備運動にもならんな」
男がつまらなそうに呟く。その意味するところを悟りシュラットは咄嗟に急所を庇うように短刀を構えた。
「がはっ!」
横なぎの一閃に吹き飛ばされ机に背中を打ち付ける。防げたのは僥倖でしかない。二度目はないだろう。
「大丈夫!」
「に、げ、ろ」
駆け寄ってきたウルミルを突き放すと鼻先に刃を突きつけられた。
稲光に浮かび上がった男の形相はまるで悪鬼のようだ。等級者を倒したことに自惚れ、ウルミルが逃げ出す時間ぐらいは稼げると思っていた。まさかここまで手も足も出ないとは考えもしなかった。
「くっ!」
歯噛みする。ウルミルを逃がすどころではない。このままでは二人して犬死だ。
「ふん、無様だな。貴様を英雄などと持ち上げる連中にも見せてやりたいものだ。なにが人間の可能性だ。笑わせる。人間とは俺たち等級者のことを言うのだ! ゴミクズはクズらしく這いつくばって死ね!」
迫りくる死を受け入れるべくシュラットが目を閉じようとした刹那、不意に刃が逸れた。
「うおおおおおぉぉ!」
「小賢しい真似を!」
枕を胸に抱え果敢に体当たりしたウルミルが白刃に貫かれる。
「ぐふっ! ふふふふっ、今、だよ……シュラット!」
ウルミルが刃に沿って枕を引き裂くと辺り一面に綿が舞った。大粒の雪の結晶のように舞い散る綿を目くらましにシュラットは必殺の一撃を見舞う。
「ぐっ!」
手応えはあった。だが――
「浅い……」
鎧の隙間から覗く首筋を狙ったが僅かに刃先が逸れてしまった。
綿は溶けかかった雪のように無残に床に積もっている。
ウルミルが命がけでもぎ取った活路を無駄にした。そのことにシュラットは絶望し全身から力が抜けた。
「窮鼠猫を噛む。貴様等クズにも五分の魂といったところか」
刃を引き抜かれウルミルが人形のように崩れ落ちる。その様子に生命の息吹は感じない。
男は首筋に這わせた指先を染める血に残虐な笑みを浮かべた。
「この俺に血を流させたのだ。簡単に死ねると思うなよ。まずはその手癖の悪い腕を斬り飛ばしてくれようか? それとも足を切断し逃げられぬようにするのが先か? 悪態をつけぬよう舌を引っこ抜くのも悪くはないな。迷ってしまっ――」
まるでこれからの拷問を思い浮かべ絶頂したかのように男の体が傾ぎゆっくりと倒れる。
「……度し難いわね」
血の臭いが立ち込める場に似合わぬ涼やかな声音だ。倒れた男を跨ぐようにして人影が近づいてくる。華奢でありながら先ほどまで対峙していた男を遥かにしのぐ圧力を感じる。
女、それも若い。突然の闖入者に戸惑いながらもシュラットは相手の態度に敵意がないことを読み取り短刀を収めた。
女はシュラットに背を向けウルミルの傍らに膝をつく。
「ごめんなさい……遅くなったわね」
無理矢理感情を押し殺した声に深い哀悼が滲む。
「ウルミル……」
女の肩越しにウルミルを覗き込む。暗くてわからないがその死に顔は安らかなように見える。シュラットにはそれが信頼の証に思えて目を逸らした。
ウルミルは自分なら討ち漏らすことはないと確信していたのだ。だから己の命を投げ出してまで隙をつくった。なのに、俺は――
「今は嘆く時ではありません。ついて来てください」
感傷を断ち切る鋼のような声が下を向くことを許さない。
「場所を移して詳しく説明します。そこで決めてください。巻き込まれたと恨むか、運命だと立ち向かうか。どちらを選んだとしても貴方の身の安全は保証します」
迷いのない視線にたじろぐ。躊躇ったのは予感から。話しを聞けば逃れられないとの。だが、結局は女の有無を言わせぬ調子に頷くしかなかった。
シュラットは室内に一歩入り固まる。これまでの人生で豪華や華美との言葉とは無縁だった。だが、それでも断言できる。壁に掛けられた色彩豊かな風景画や、伝説の亜人を模ったサイクロプスの彫刻など、いずれも庶民には手の届かぬ逸品だと。備え付けられた重厚な家具も負けず劣らず値打ち物だ。まさに高級宿の最上位の一室に相応しい調度品だ。どこを探しても全身から水を滴らせた無等級に身の置き所などない。
「何を固まっているのですか? 楽にしてください。皆もうすぐ来ますので」
シンクロアと名乗った女に勧められるまま部屋の中央に鎮座する食卓におずおずと着く。
「風邪をひきます。どうぞ」
渡されたタオル一つとっても世界が違う。これまで体を拭いてきた布切れが一体なんだったのかと思うほど水分を吸収する。あっという間に雨で濡れた髪が乾いた。
低位の秘石を照明として利用しているため室内は昼間のように明るい。その灯りの下で改めてシンクロアを観察する。
肩まで届く髪は黄金のように輝き、肌は雪よりも白い。瞳は理知的な光を宿し、引き結ばれた唇は意見の衝突を恐れない意思の強さを感じさせる。それでいて落ち着いた態度は相手の言葉に耳を傾ける度量を有していると語りかけてくる。本来であればシュラットなど傍近くにも寄れない身分の隔たりを感じる。唯一親近感を覚えるのは身軽に動けることを重視し軽装の鎧を身に着けている点だ。しかし、それも手甲や急所を守る装甲に惜しみもなく貴重な鉱石である竜黒石が使われているのを発見し霧散した。
「温まりますよ」
シンクロアの給仕により湯気の立った茶が提供される。湯を沸かすのは贅沢なため久しく熱い茶など口にしていない。
シュラットは舌の上で礼を転がし、一口含むと、豊かな香りが口中に広がった。
「……くくく」
「口に合いませんでしたか?」
対面に腰掛けたシンクロアが問いかけてくるも、シュラットは答えることなく含み笑いを漏らす。
親友を失った。それも己の失策により。大人しくしていれば助かったのに、等級者を倒したことで増長し、ウルミルを逃がそうといらぬ行動を取った。その結果がこのざまだ。本来ならば打ちひしがれ茶を味わうどころではないはずだ。なのに舌にはしっかりと芳醇な香りが残っている。
「くくくっ、あははははっ」
「……」
そうだ、結局そういった人間なのだ。ウルミルの死を悼む気持ちに嘘はない。しかし、それは親友を失った悲しみからではない。己の強さが至らぬことに対する悔恨だ。守れなかったことを悔いてはいるが、失ったことを嘆いてはいない。
「度し難いな俺も……もう大丈夫です」
「無理をする必要ありません。いずれ時が癒してくれるでしょう」
その慰めを信じてはいないが、シュラットは形ばかり頷いて見せた。
シュラットが落ち着いたのを見計らいシンクロアが居住まいを正す。
「私たち『大海の笹舟』の活動についてどこまで知っていますか?」
問いかけられシュラットは肩を竦める。
「通り一遍のことしか」
「それは無等級者の権利を主張する過激派ってことでいいでしょうか?」
同意するシュラットにシンクロアが皮肉っぽく口辺を歪める。
「敵の宣伝活動を褒めるべきかしら。確かに時には力押しすることもあります。今夜のように。でも過激派と呼ばれるのは本意ではありません。少なくとも喧伝されているように等級者を目の敵にして無差別に襲うようなことは絶対にしません」
「信じますよ。そういった組織ならあいつが加入することもなかったでしょうから」
シンクロアが痛ましそうに目を伏せる。演技ではないとは思う。それでもシュラットは油断することなくシンクロアの様子を観察する。
ウルミルから渡された短刀を考え合わせれば話の方向性はなんとなく予想がつく。予想はつくが理解はできない。所詮は無等級だ。分不相応な贈り物を用意してまで仲間に引きこむ価値があるとは思えない。
「助けてもらったことに関しては礼を述べます。ただこれ以上関わるつもりはありません。お返しします」
鞘に収めた短刀をシンクロアに向かって滑らすと机の表面に水滴が尾を引いた。雨により血糊は洗い流されている。
「それには及びません。これはお礼です」
「彼女の言う通りです。それは私たちの感謝の気持ちです。人の可能性を見せてくれたあなたへのね」
新たに入室してきた男はそう言って握手を求めてきた。
「お目にかかれて光栄です。ランジェス・バートンです」
柔らかな物腰に反し揺るぎない意志を感じさる瞳には英知が煌めく。大雨にもかかわらず衣服は濡れておらずズボンに泥も跳ねていない。移動に馬車を使える身分の者は限られている。特権階級か余程の金持ちだ。
「バートン? バートン商会の?」
「何かある際はご贔屓に」
男が深々とお辞儀する。商人に相応しい腰の低い仕草であるにもかかわらず男がするとどこかちぐはぐに感じる。商人というよりは貴族のようだ。だが、あながちそれも的外れではない。バートン商会と言えば兵士の詰め所よりも多いと言われる日用品店だ。それ以外にも人足の口入れや建設など幅広い事業を手掛けている。シュラットが従事している薪の伐採もその内の一つだ。そこの関係者だとすれば貴族にも劣らぬ生活を送っていることだろう。
「ランジェスがこの宿を所有しているからこそ、こうして利用できるのです」
「従業員は全て党員でもあります。ですからここでの話が漏れることはありません」
バートン商会であれば宿の一つや二つ持っていても驚きではない。真に驚くべきはそんな大物が等級闘争に首を突っ込んでいることだ。
シュラットの疑問に答えるようにランジェスが補足する。
「私は九等級です。商売をするうえで不便はありませんが、生きていくには些か不都合を感じる場面があります」
商人は等級の制限が設けられていない数少ない職業だ。開店資金や顧客からの信用を得られないので現実的ではないが、その気になれば無等級でも店を開ける。
商人の扱いが極端に低いのは清貧を謳うシダール教の教えによるところが大きい。国教であるシダール教は喜捨の重要性と等級者の優位性を説き現在の価値観を形作ったと言っても過言ではない。
ランジェスが等級闘争により商人の不遇を解消しようとしているのだとしたら随分と気の長い話だ。
シュラットの感想をよそにランジェスが部屋を見回し疑問を発する。
「それで最後の一人はどうしたのですか?」
「せっかちな野郎だ。髪を乾かす間ぐらい待てないのか?」
洗面所へと続く廊下から半裸の男が現れる。ひょろ長い手足にしなやかな筋肉をまとい、六つに割れた腹筋には無駄な贅肉が一切ついていない。一目で鍛え抜かれていることが窺える。
「窓から入るのは些か感心しませんね」
「人目につかないよう配慮したんだ。文句を言われる筋合いはないな」
シュラットには何等級なら最上階の四階の客室に音もなく忍び込めるのか見当も付かない。少なくとも自分が手も足も出なかった六等級の男よりも強いことは間違いなさそうだ。
「何度も言ってますがここは私の息がかかっています。従業員に顔を見られても何ら問題ありません」
「ふん、それを信じられるほどお人好しじゃないんでね」
男は小脇に抱えていた肌着に袖を通しシュラットから見て右斜め前に座る。次いでランジェスが男の対面に腰掛け全員が食卓に着いた。
「これで揃いましたね」
シュラットから見て正面にシンクロア、その左にランジェス、反対に横柄な男が位置する。『大海の笹舟』がどの程度の規模か知らないが、活動内容から幹部が三人ということはないだろう。普通に考えるならば人数の少なさは相手を見くびってだ。しかし、それならシンクロアやランジェスなどの大物が出てくる必要はない。残る可能性は――
ここに留まるべきではない。そう判断し椅子から腰を浮かすよりも早くシンクロアが口を開いた。
「数週間前、私達は罠にはめられ絶体絶命の状況に追い詰められました。あのニファナ・ゴールディー率いる部隊に襲われたのです。正直、こちらの戦力では手も足も出なかったでしょう。なのにどうやって人間災害と恐れられる彼女から逃げ、あまつさえ生き延びられたのか? その奇跡こそが『大海の笹舟』があなたを必要としている理由です」
その言葉はシュラットの動きを止めるのに十分だった。
こうして歴史は転がり出す。まだ誰も見通せぬ方角へと……。
――幕間――
ロアナニジンより遷都され二百年。ルスレリア帝国の王都であるリフルームは正にわが世の春を謳歌していた。
元々は小高い丘の上に申し訳程度の集落しかなかった。それが北に面するアスリア山脈から純度の高い秘石が掘り起こされると状況は一変した。
一攫千金を夢見て入植した者達によって周囲の森が切り開かれ村となり、あぶく銭でふくれた懐を当て込んで盛り場が乱立し町となった。荒くれ者が最低限の礼儀を身に着ける頃には行政機関の出張場が設けられ都市と呼べるまで発展した。そして秘石の運搬費用を重くみた十四代国王である賢王ファナムにより遷都先として白羽の矢が立って以来、王都として栄華を極めている。
動脈のように走る街道は整備が行き渡り、砂塵が舞うこともなければ、くぼみに車輪を取られ馬車が脱輪することもない。広々とした石畳の道の両側には瀟洒な店舗や家屋が建ち並び兵士の詰め所までもが景観に溶け込むよう配慮されている。
街は細かく区画された区域ごとに商業や工業などの特色に分かれており、訪れた人々の目を楽しませる。特に商業地区は活気に溢れており夜になっても売り子の声が途切れぬほどだ。その繁栄をもたらしたルスレリア王家に国民が忠誠を誓うのは自然な成り行きだ。明日も太陽が昇ることを疑わぬように、ルスレリア王家の統治は盤石であると信じている。なぜなら彼の王家こそ神の寵愛を一身に受けた特別な血筋であるからだ。
両親が高位の等級者だからと言って生まれてくる子供もそうだとは限らない。その逆に無等級がもうけた子供が高い等級を示すこともある。
等級は遺伝しない。
あまねく知れ渡っている真理に唯一設けられた例外。それがルスレリア家だ。
第一子は必ず一等級として生を授かる。それにより六百年近くに亘って君主として君臨してきた。敵対するデュラミノラ大連合が綱渡りのようにして加盟する同盟国から一等級を探し出してきたのとは対照的に、ルスレリア帝国は王家が世継ぎさえもうければ安泰なのだ。
いつかデュラミノラ大連合の運が尽き一等級が途絶えればその瞬間にルスレリア帝国が東方の広大な大地を併呑する。国民の大半はそう信じ自国の繁栄をつゆほども疑っていない。その確信が発展の原動力となり、王都リフルームは歴史上類を見ないほど高らかに栄華を謳い上げる。
しかし、その喧騒も小高い丘の上に建つ白亜の城にまで届くことはない。下界から隔絶された空間には市井の熱気を寄せ付けぬ結界が張られているかのように静謐に包まれている。衛兵は鎧が鳴らぬように細心の注意を払い、侍女は己の足音を消すかのようにしずしずと歩み、端た女までもが洗濯を干す際に衣擦れの音を気にする。特に聖域にも等しい王城の最奥ともなればみだりにしわぶき一つ上げられない。
だが、城の奥の一室にて円卓を囲む面々は重苦しい雰囲気を打ち払ってくれるならば喜んで庶民の下世話な空気を呼び込んだことだろう。
「……以上がゴールディー様から聞き取った内容となります」
滝のような冷や汗を流しながらロアナニジンの執政官代表であるクローウが報告を終える。握りしめていたメモ用紙はすっかり湿っておりポケットに押し込むとくしゃりと丸まった。まるでそれが己の運命を暗示しているかのようで一層汗が噴き出る。
(どうしてこうなった……)
過去の栄光の残骸にしがみ付いていると揶揄されるとはいえ腐っても元王都だ。そこの最高権力者である代表執政官ともなればそれなりの顔だ。特に近年はコロシアムの隆盛により税収も増収し入ってくる袖の下も増えた。全ては順風満帆だった。そうあの女が特別監査官として赴任して来るまでは――
ニファナ・ゴールディー。帝国に三人しかいない二等級の一人であり、王女を除けば最も顔の売れている人物だ。幼い頃から神童として一部で知られる存在だったが、彼女が一躍名を馳せたのは二等級の秘石を取り込んですぐさま日常生活を送れたとの逸話による。
秘石に体が馴染む期間は同調率によって左右される。あいにく等級検査のように事前に同調率を測る手段はないため、こればかりは取り込んでみなければわからない。普通は過不足なく日常生活を送れるようになるのに一年は要する。高い同調率を示す者はその期間が半減することもあるが、それは極めて稀な礼だ。ましてやニファナのように秘石を取り込んだその日の内に椅子を壊すことなく食卓に付き、スプーンを曲げることなくスープを啜り、服を破くことなく着替えた例など前代未聞だ。
俄かには信じがたい話も、彼女の成長が十二歳で止まっていると知れば納得せざるを得ない。秘石の研究により、同調率が肉体の成長に影響を及ぼすことは判明していた。しかし、それは外見が変わらぬだけで、不老不死になったわけではない。むしろ反対に死は確実に忍び寄ってくる。それも通常とは比較にならぬ速度で。
ニファナ・ゴールディーの実年齢は十代の後半だと聞いている。力を温存していれば二十代中盤までは生きられるが、彼女のように奔放に使っていてはいつ何時寿命が尽きてもおかしくはない。だからクローウはその時が来るまで頭を低くして嵐をやり過ごすつもりだった。
(ああぁ、なのに……)
「――執政官代表。 クローウ執政官代表!」
「はっ、はい!」
宰相であるフラムスト卿の呼びかけにより現実に引き戻されクローウは直立不動の姿勢を取る。
「間違いなくニファナ・ゴールディー以外生き残りはいないのだな?」
「はい! 死体は全て回収し身元の確認も行いました。任務に就いた七名全員の死亡を確認しております」
「そうか……」
フラムスト卿が重いため息をつく。滅多に感情を表に出さぬだけに今回の件は余程こたえているようだ。
「まったく厄介な。虐殺など許しがたき蛮行ですぞ」
「現場はロアナニジンからそう離れていないと聞く。やはりコロシアムで等級者と闘わせたのがまずかったのではないか? あれで調子付かせてしまった」
「お言葉ですがそれはどうでしょう。圧倒的な差を見せつけ等級者の優位性を喧伝する。その狙いが間違っていたとは思いません。問題は相手の力量を見誤ったことです。調査不足との誹りは免れませんな」
「私のせいだと? どこの世界に九等級の精霊つきを倒す石なしがいると思いますか! あんな化物規格外だ。大体貴殿は八等級を用意すべきだとの私の意見を退けたじゃないですか。今さら何を言い出すのやら」
「さすがに八等級に十等級の振りをさせるのは酷でしょう。万一発覚しては元も子もありませんからね」
「今回の襲撃事件は闘技場での勝負の前の出来事です。切り離して考えた方がいいでしょう。それよりも問題は排除された七名がいずれも六等級以上ということですよ。中には四等級までいたとか」
「高位の等級者にもかかわらず道理の分からぬ連中が紛れているのでしょう。まったく嘆かわしいことですな」
沈黙を忌避するように参加者が一斉に喋り出す。しかし、口を開いているのはいずれも末席に連なる者達だ。議論の方向性に影響を与えられる四大貴族は静観を決め込み、議論そのものを左右できる二等級の幹部は我関せずとの態度を崩さない。そして、その全てを覆し我意を押し通せる人物は心ここにあらずとの態で虚空を見詰めている。
齢十五にして王女としてルスレリア帝国の頂点に立つミランダ・ジ・イェール・ルスレリアは二つの点で広く知られている。一つはその儚げな美貌により、もう一つは戴冠式にて披露した歴代最高と謳われる力によって。そして王女に謁見を許された者のみが三点目の共通認識を持つに至る。
絶対者として君臨する少女には人として大切な何かが欠落していると。
まるで魂の抜けおちた人形のように表情は動かず、その受け答えに温かみはなく、臣下を眺める視線に血は通っていない。なまじ所作が優雅なだけにいっそう不気味な印象を与える。
国の命運が心の壊れてしまった少女に託されていると知ればさすがに国民の間にも動揺が広がる。その懸念から誰もが胸に去来する感想を心の奥底にそっと仕舞う。それゆえ民衆は王女の華麗な外見と絶対的な力に酔い痴れ自国の安泰を疑うことなく暮らしていける。
王女は今も物憂げな視線を投げるだけで口を挿む様子はない。
代わりに全てを取り仕切るのは宰相のフラムスト卿である。先代の王が崩御した際の遺言により王女の後見人に指名されて以来ひとかたならぬ権勢を誇っている。
そのフラムスト卿は空咳で自らに注目を集めると重々しく口を開いた。
「クローウ執政官代表の報告により不透明であった状況も整理された。かねてより懸念事項となっていた『大海の笹舟』の活動がここにきて見過ごせなくなったことは明らか。抜本的な対策を考えねばなるまい。ただ、具体的な方策に関しては些末なことも含むので王女様の御耳を汚すまでもないであろう。改めて関係者のみで会合をもとうと考えている。よろしいか?」
フラムスト卿の視線の先には諜報活動を統括する腹心のペロウド卿と、事の発端となった秘石の研究所の所長を務めるマナミウラがいる。自分が含まれていないと知り、余計な厄介事を背負わず済むと安堵のため息を漏らす者と、媚を売る機会を逸したと臍を噛む者に二分される。
前者に含まれるクローウは人知れず胸を撫で下ろす。ニファナの失態の責任を追及されるのではないかとビクビクしていたのでこのまま終わってくれるなら言うことはない。
「では、今回の議題は尽きたので閉会とする」
フラムスト卿の宣言により王女が退室する。それを深々と腰を折り見送ると、次いでばらばらと参加者が席を立つ。
正念場を乗り切ったとの脱力感からクローウはぐったりと椅子に凭れかかった。半開きの口から今にも霊魂が抜け出しそうだ。
(とてもではないが部下には見せられないな)
頭の片隅で思うも召還されたのはクローウ単身のため威厳を取り繕う必要もない。そもそも本来であればニファナ本人が申し開きに来なければならないのだ。それをクローウに丸投げし当人は姿をくらましてしまった。参加者の共通認識として狂犬に首輪はつけられぬとの諦めがなければとてもではないが許されぬ態度だ。
(絶大な才能の代わりに人の半分もない寿命を与えられたとしたら自分も同じように振る舞うのだろうか?)
ふっとクローウの念頭に疑問が浮かぶ。
誰もが羨む才能だ。しかし、それが本人にとって幸せとは限らない。何かを成し遂げたとの実感を持てぬまま力だけが肥大化していく。それは己が胸の内で巨大な虚ろを育てているようなものではないだろうか。クローウにはニファナがその穴を塞ぐものを探しもがいているように映る。だから、ニファナが王女に勝負を挑んだかどにより特別監査官との名ばかりの閑職に追いやられたとの噂を笑い飛ばすことが出来ない。
「やれやれ、これ以上は勘弁して欲しいものだ」
我知らず独りごちると思わぬ所から返答があった。
「クローウ殿の心労には頭が下がります」
慌てて振り返り満面の笑顔を浮かべた恵比須顔を認め警戒心を解いた。
「これはマルヌーク殿。貴殿も参加されていましたか」
「はい、輸送中に襲われたとのことですので無関係を決め込むわけにもまいりませんから末席に連なっておりました」
そう言われクローウは挨拶を交わしている男の職務を思い出した。
「たしかマルヌーク殿は輸送全般を統括されておられましたな」
「統括などそんな大それたものでは。ただ右から左に物資を動かすだけです」
謙遜よりも卑下の色合いが濃い返答にクローウは苦笑を浮かべる。
戦争の勝敗が動員した兵士の数で決まった昔は補給が生命線だった。そのため物資の輸送を司る者は前線で指揮を執る将軍にも劣らぬ権威を誇ったと聞く。しかし、秘石により戦争の形態が大きく変わり、少数の高位等級者の力が勝敗を左右するようになると、補給の重要性は著しく低下し、今日では単に煩雑なだけでつまらぬ仕事と見做されている。それゆえマルヌークのように取り立てて特徴のない平凡な貴族でも運輸大臣の地位に就けるのだ。実際、主な仕事は各地の鉱山で取れた秘石の運搬管理であり、袖の下も期待できぬ地味な職務だと聞く。それでも文句も言わず実直に職務をこなしているマルヌークに対してクローウは好感を持っていた。
「しかし、今回の、その……物品が少し特殊ではないですか。あれもマルヌーク殿の管轄なのですか?」
「お恥ずかしい話ですがご賢察の通り私が知ったのは事後でした」
「知っていれば止めましたか?」
自分でも意地の悪い質問だと思う。だが、なにもこれはマルヌークを困らせるために発したのではない。宰相の肝いりで進められている秘石の研究に関してマルヌークの立ち位置を探るために問うたのだ。
クローウはじっとマルヌークを窺うも柔和な笑顔からはなにも読み取れない。
(正に慈愛との通り名にふさわしいな)
常に笑顔を絶やさぬため慈愛のマルヌークとの二つ名が冠されているほどだ。
その全てを包み込むような笑顔が一層深まったかと思うとマルヌークが口を開いた。
「……全ては王女様のご意向に沿った行動かと存じます。私ごときが口を挿むべきことではございません」
「正にその通りですね。つまらないことを訊きました。お忘れください」
含みのある笑顔をお互いに交わす。未婚のマルヌークには子供がいないので自分とは別の理由で実験に眉をひそめているのだろう。それが知れただけで十分だ。
クローウは会釈し鞄を手に立ち上がる。その背中をマルヌークの呟きが追いかけてくる。
「しかし、虐殺とは腑に落ちませんな。ましてやゴールディー様がいたというのに」
「ご存知の通り気紛れな方です。護衛を買って出たのも暇つぶしだったのでしょう。そして手持ち無沙汰になり途中で投げ出した。けして褒められた行為ではありませんが、あの方を知る者なれば誰もが納得します。その後、不幸にも護送団が『大海の笹舟』に襲われてしまった。向こうに四等級を超える者がいたのは大きな誤算でした」
「誤算はそれだけでしょうか? これまでも抗争で死人は出ました。ですが皆殺しはありません。どちらかと言うと無益な殺生を好まない集団だと思っていました」
マルヌークの指摘通り『大海の笹舟』はけして過剰な暴力を振るわなかった。それが突然牙を剥いたのだ。だからこそクローウも部下に一段と厳しい捜査を命じた。連中の全貌は掴めていないがロアナニジンに活動拠点があるのはほぼ間違いない。
「所詮は狂犬のような奴等です。これまではたまたま大人しくしていただけでしょう。あるいはこちらが手心を加えすぎていたのかもしれません」
クローウの言葉にマルヌークが禿頭をつるりと撫でる。
「確かにおっしゃる通りですね。躾をしなければ犬もつけあがるものです。足を止めてしまい申し訳ありませんでした」
マルヌークが深々と腰を折る。等級はクローウが上だが、爵位を持たぬため、公的にはマルヌークの方が目上となる。
クローウは相手の慇懃さにしどろもどろしながら今度こそ退室した。
遠ざかる背中を見送りながらマルヌークは沈思する。
明らかに不自然だ。しかし、その点に引っかかっている者は自分しかいないようだ。あるいは単に皆『人間災害』と関わり合いたくないため目を瞑っているだけかもしれない。
どちらにしろ――
(このまま放置するのは得策とは言えませんね)
情報こそ暗闇を照らす光だ。それを信念にマルヌークは権謀術数渦巻く伏魔殿で生き延びてきた。状況が大きく動く時はその背後に歯車となる人物なり出来事が存在する。そしてそれは渦中に飛び込まない限り見えてこない。
色彩を失った目に世界は白黒に映る。それでも誰よりも先を見通している自信がある。手持ちだけで足りなければ第三、第四の目を開眼すればよいだけだ。
脳裏に先日観戦した闘技場での試合が思い浮かぶ。等級者の優越性の証明として無等級の絶対王者を完膚なきまで倒す。その案は元をただせばマルヌークに辿り着く。ただ、用心を重ね、失敗した際の責任を回避するため発案は別の貴族に行わせた。自尊心ばかりが肥大した連中は実に扱いやすい。
それもこれも等級闘争が少しでも下火になればと考えた末の苦肉の策だ。しかし、想像もしなかった結末によりむしろ火に油を注いでしまった。目前で精霊付きの等級者が無等級の少年に倒された時はさすがに我が目を疑った。だが、それよりもマルヌークが注目したのは少年に従っていた付き人だ。
自分の記憶違いでなければまず間違いないだろう。そう確信しているが、それでも念のため調べさせた。今日中にはその報告が上がってくるはずだ。
室内に最後の一人となったマルヌークは先ほどまで王女が座っていた一際絢爛な椅子に視線を留める。白黒の世界にあって、彼女が残していった赤い残像だけがいつまで経ってもマルヌークの網膜から去らなかった。