第一章
――序――
朝日は万物に平等に降り注ぐ。道端の石ころから、今日絞め殺される鶏に、運命の岐路に立たされた少年にまで。
シュラットは一日の始まりを告げるべく鶏が一声高く鳴いたのを潮に窓辺から離れた。飽きもせず外を眺めていたのは朝露に濡れた草木の美しさに魅入られたからではない。そもそもいくら案山子を飾り立てようと見栄えがしないように、雑草が伸び放題の庭では趣に欠ける。
寝癖の付いた髪を掻き上げ、部屋の隅にまとめられた荷物を一瞥する。数日分の着替えと木刀が一振り、それだけだ。この部屋で寝起きしてきた歳月を思えば驚くほど少ない。貧相な所持品に自分の人生が集約されているようで思わず目を逸らした。
元々は二人部屋だったが、三年前に同室の者が出て行って以来、一人で使っている。その特権が憐憫と同情により与えられたものだったとしても、他人の目を気にせず伸び伸びとできるのはありがたかった。
「……それも今日までか」
シュラットは名残惜しげに壁を撫でる。
隙間風が吹き込み、冬は寒く、夏は暑い。板の割れ目に藁を詰めるなどしてみたが焼け石に水だった。冬場などは頭から毛布をかぶってもガタガタと震えるほどだ。それすらも振り返ってみればいい思い出だ。
感傷的な性格ではない。それでも至る所に自分の匂いが沁み付いており、ともすると後ろ髪を引かれそうになる。
シュラットは絡み付いてくる思い出を振り払うように乱暴に寝間着を脱ぐと、予め用意していた一張羅の木綿のシャツに袖を通し、ボタンを留めるところで固まった。
暫時迷う。そして迷っている己を発見し舌打ちする。
昨年の検査時も第一ボタンが取れていた。服装が検査結果に影響を与えることは絶対にない。しかし、験を担ぐ園長のことだ。きっと顔をしかめるだろう。
荷物を解けば予備のボタンはある。多少面倒だが付け替えれば済む話だ。素直に手が伸びないのは、自分の中で藁にも縋ろうとする気持ちを否定しきれないからだ。
無等級と診断された日から頼む者は己しかいないと覚悟を決めた。だから白い目で見られるのも顧みず鍛錬を積んできた。それにもかかわらず心が揺れるのは思っていたよりもずっと自分が弱いからだ。
ルスレリア帝国の国民は満十二歳を迎えると例外なく適正等級検査を受けねばならない。そこでくだされた診断結果により文字通り人生が決まる。
まだ年端もいかない子供が過酷な運命と向き合うのは酷だと憐れんだのか、あるいは人類を獣人の手から解き放った英雄ミジェットの教訓に倣ったのか、無等級と診断された者に限り十五歳になるまで毎年追加で検査が実施される。中には次年度以降に取り込める秘石の等級が判明する者もいるが、それは極めて幸運な例だ。シュラットは自分が神に愛されているなどと自惚れてはいない。少なくともシャツの第一ボタンの有無で寵愛を受けられることはないだろう。
それにも関わらず荷物の奥から予備のボタンと裁縫道具を引っ張り出したのはシュラットなりの恩返しの気持ちだ。親の顔も知らぬ自分が曲がりなりにも生き永らえたのはひとえに園長のお蔭だ。しつけに厳しく狷介なところもあるが、私財をなげうってまで孤児院を営んでいるのには素直に頭が下がる。もし拾われていなかったら野犬の餌にでもなっていただろう。
シャツにボタンをつけたのを見計らったかのようにノックが響く。シュラットは窓に切り取られた雲一つない晴天を睨むと、諦めたように首を振り、扉を開けた。
――一章――
闘技場ほど明暗が分かれる場所もない。勝者を照らす光が敗者に影を落とし、興行の成否から、賭けの結果に一喜一憂する観客の懐まで、実に様々なものに影響を及ぼす。中でもウルミルが最も鮮烈だと感じるのは、闘いの場へと通じる花道に佇んだ際だ。燦々と陽光が降り注ぐ舞台に対して、通路は薄暗くじめじめとしている。無等級である己がどちらに属しているかなど考えるまでもない。だからこそ踏み出す際はいつも気後れを感じる。
それにしても今日は一段と足が重い。
理由ならわかっている。
頭の中で駆け巡っている言葉がまるで割れ鐘のように鳴り響いている。
(今ならまだ引き返せる)
それが現実的でないことは重々承知している。会場はかつてない熱気に包まれ、入りきらなかった観客が路上に溢れているほどだ。これだけの観衆を前に尻尾を巻いて逃げることなど許されるはずもない。なによりも当の本人が絶対に首を縦に振らないだろう。
地割れのような喚声に身を震わすと肩を叩かれた。
「――か?」
喧騒と喚声。両者を分かつのは指向性だ。喧騒はとりとめがなく散漫だが、喚声は一ヶ所に向かって集中的に降り注ぐ。万は下らぬ観衆からの喚声を一身に浴びているにも関わらず、こちらを覗き込むシュラットの表情は平時となんら変わらない。
「う、うん、大丈夫だよ」
付き添いである自分の方が浮ついていることを恥、ウルミルは胸を叩いて見せる。すると、その空元気をあざ笑うかのように暴力的にまで喚声が高まった。
声の方角を追い、円形の舞台を挟んだ対角線上に武装を固めた人影を認めた。
「お出ましか」
今度ははっきりとシュラットの言葉を捉えられた。
「勝てる……よね」
この二年間、シュラットの勝利を一度として疑ったことはない。相手が雲を衝くような巨漢であろうと、一芸に秀でた達人だろうと、心配などしなかった。なのに今回ばかりはどれだけ大丈夫だと言い聞かせても暗雲が晴れない。。
「……」
「……ごめん」
いくら不安に駆られたとはいえ、これから命をかけた試合に臨む者に対して口にすべきことではなかった。
唇を噛みしめたウルミルの肩をシュラットが小突く。
固い拳に反して柔らかい笑みに救われ、ウルミルは口元を綻ばすと、王者を先導すべく降り注ぐ光へと踏み出した。
かつては王都の中心にあり栄華を極めていた闘技場も、遷都により街から活気が失われると過去の遺物となり朽ちていった。それを興行主のダルナミアが買取り、無等級者同士の真剣勝負を見せる場として再生したのだ。それ以来、数多の血が流れてきた。そのいずれも無等級者のものだ。しかし、今日、その歴史が変わるかもしれない。
その重みにウルミルは足を取られ歩みが鈍くなる。途端に痺れを切らした観客から野次が飛ぶ。
「おい! 勿体付けるなよ」
「早くしろ! どっちが挑戦者かわからねぇぞ」
「逃げたんじゃねぇだろうな」
「深紅よ! 真っ赤に染め上げてちょうだい!」
ウルミルに続きシュラットが闘技場に姿を現すと怒号とも取れる声が降り注ぐ。その音圧に押され否応なしに挑戦者の元へと運ばれる。
遠目にもその威容は窺い知れたが、間近になると威風堂々とした体躯に圧倒される。分厚いプレートのフルアーマーは大剣の一撃すら撥ね返しそうだ。とてもではないがシュラットの剣で両断できるとは思えない。反対に、挑戦者が肩に担いでいる両刃の斧は容易くシュラットの薄い装甲を切り裂くことだろう。
そして何よりも目を引くのは兜の額に刻印されたⅩとの数字だ。
『等級者』
その言葉が改めて重く圧し掛かってくる。
『等級者』
――体内に秘石を取り込みし者。
『等級者』
――秘石の力により人の限界を超えし者。
『等級者』
――神に祝福されし者。
『無等級者』
――神に見放されし落伍者。
思わずウルミルは握り拳を固める。しかし、いくら力もうとも手の甲に捺された無等級の刻印が消えるわけではない。無等級である限り虫けらと変わらぬ扱いに甘んじ生きていくしかないのだ。中には無等級者の権利を求め等級闘争に身を投じる者もいるが、ウルミルには徒労にしか思えない。逆立ちしたって等級者には勝てないのだ。それが常識であり、普遍的な真理だ。
だから、本来ならシュラットが等級者と相まみえることなど有り得ないのだ。それが覆ったのもシュラットの強さゆえだ。王者となった当初こそ泥臭い試合運びで失笑を買ったが、我流ながらも実戦を想定した剣捌きで数多の挑戦者を血祭りに上げるともはや笑う者はいなかった。
他者を寄せ付けぬ圧倒的な強さから対戦相手に事欠くようになり、人の数倍の身体能力を有する獣人の奴隷を退けるに至って、挑戦者に名乗りを上げる者は皆無となった。
試合が決まらぬまま無為に月日が流れ、『無敗の王者』と揶揄されるようになった頃、興行主のダルナミアから等級者との対戦を持ち掛けられた。
当初この話がもたらされた時、ウルミルは激しく反対した。いくらシュラットが強いとはいえ、それは無等級という括りの中でだ。鳥籠から放たれた小鳥がたちまち捕食されてしまうように、等級者と相対して勝ち目などあるはずがない。
だが、当の本人が二つ返事で承諾してしまってはどうしようもない。翻意させようとあらゆる手を尽くしたがいずれも空振りに終わった。
シュラットは明言を避けたが、この事態を待ち望んでいた節がある。
無等級者が等級者を倒す。それは神の摂理に反するに等しい行為だ。少なくとも実現したならウルミルの常識は根底から覆る。身体能力だけでなく知性や感受性などあらゆる面で無等級者は等級者に劣っている。そう信じ込んで生きてきたのだから。
世界が覆る。その瞬間を目撃したい。だが同時に大地が割れるような不安も覚える。一転水を打ったように静まり返った会場に、相反する気持ちを抱いているのが自分だけではないと確信する。誰もが固唾を飲んで世紀の瞬間を見守っている。
「行ってくる」
シュラットは静かに告げると、鞘を払った剣を手に未知の領域に踏み出した。
一段と高くなった円形の舞台へとシュラットが上がり、中央で待ち構える挑戦者と対峙する。
鋭利な刃物を彷彿させるシュラットに比べ、横幅の広い挑戦者は肉厚な鈍器のようだ。これまでの試合ならどんなに挑戦者が体格的に勝っていようとも不安は覚えなかった。シュラットは変幻自在の剣技で相手を翻弄し、懐に潜り込めば持ち替えた短刀で掬うようにして急所を切り裂く。時にはそのまま組み付くこともある。野良犬剣法と陰口を叩かれる通り泥臭いが、勝ちは勝ちだ。しかし、同様の闘い方が等級者に通じるか未知数だ。そのため、シュラットは正眼に構え相手の出方を窺っている。
「どうした? 初夜じゃないんだ。もっと積極的にこいよ」
両手を広げ挑戦者が不敵に笑う。見え透いた挑発にシュラットが乗らぬと悟ると、今度は客席を煽り始めた。
「高い金払ってんだろ? すぐにこいつのド頭をかち割っちまったら面白くないだろうから先手を譲ってるってのに亀みたいに頭を引っ込めて動きゃしねぇ。まったく、あんた等には同情するぜ。こんな腑抜けを見るために大枚はたいちまったんだからな」
挑戦者に焚き付けられ痺れを切らした観客が騒ぎ立てる。
「おい! 早くしろ! てめぇが三分持たずに殺されるに全財産賭けてんだよ!」
「試合勘忘れちまったのか? まさかビビってんじゃねぇよな!」
「お見合いのために高い観覧料払ってなくてよ」
焦れた観客から盛んに野次が飛ぶ。その一つ一つがウルミルに刺さる。野次に煽られ自滅した例を嫌というほど見てきた。シュラットに限ってはと思うが不安が募る。
「落ち着いて! 出方を見よう!」
ろくに剣も握ったことない自分が百戦錬磨の戦士に助言を与えるなど天に唾する行為だ。それでも一度としてシュラットから止められたことはない。二年半の付き合いで無言の肯定は賛同であると学んだ。だから今回も喉が嗄れるまで声を張り上げるつもりだ。
「可愛らしい応援じゃないか。これか?」
挑戦者が斧を握った右手の小指を立てる。
「なっ! 僕は男だ!」
激高し思わず叫び返す。小柄で色白なため幼い頃からよく間違えられた。その度に男らしくありたいと願ったものだ。
苦い記憶に思わず過剰に反応してしまった。突破口を見つけたとばかりに挑戦者が突いてくる。
「はっ! てめぇら無等級はネジが外れてるからな。野郎同士で乳繰り合ってたって不思議じゃ――」
高い金属音が軽口を両断する。挑戦者の首筋へと迫った剣先が斧で弾かれ火花が散る。
一撃、二撃、三撃、回数を増すごとにシュラットの撃ち込みが勢いを増す。
「すごい……」
何百、何千、何万と剣を振えば到達できるのか想像もつかない。これまでの相手ならとっくに勝敗は決している。しかし、挑戦者はシュラットの猛攻を軽くいなしている。
腹の出た挑戦者の体型から鍛錬に励んでいるとは思えない。それにも関わらず蠅を叩くようにシュラットの攻撃を払う。
「お嬢さん私と踊ってくれませんか?」
おどけた様子でステップを刻む。フルアーマーの鎧を着込んでいるとは思えない軽やかな動作だ。それも全て秘石が可能とさせる業だ。
「ここまで……」
等級が開くごとに能力は倍の差がつくと言われている。単純な算数でないことは承知しているがシュラットなら手練れの無等級を同時に相手にしても勝てるだろう。だからいい勝負になると思っていた。しかし、目前の展開は計算式が間違っていたことを伝えてくる。
同様の感想が客席から漏れる。
「まるで子供と大人だな」
「もう少し健闘するかと思ったんですけどねぇ」
「所詮は無等級。こんなものでしょう」
「まったく、どこの誰ですか? いい線行くなんて言ったのは。危うく口車に乗って損するところでしたよ」
もはや勝敗は決したとばかりに雑談に興じている。
「シュラット! 踏ん張りどころだよ!」
攻守が逆転し、シュラットは防戦一方となる。斧が一閃する度に風切音がウルミルの元まで届いてくる。辛うじて軌道を逸らしているが綱渡りのような攻防だ。たまらずシュラットが後ろにさがり距離を取る。ここまで追い詰められた姿は記憶にない。
挑戦者は追撃の手を止めると大げさに肩を竦めた。
「無敗の王者とはいえ所詮は無等級。星に手が届くと思った愚かさを悔いるがいい!」
挑戦者が観客席に向かって芝居がかった身振りで見得を切ると湧くように拍手が生じた。この試合を観戦している者の大半が等級者だ。彼らにとって無等級に後れを取ることなど許されないのだ。
ここにきてウルミルにも闘技場を包む興奮の正体が掴めた。勝負の行方でも、賭け金の高でも、鮮血でもなく、等級者の優位性が彼らを酔わせているのだ。恵まれた天稟に驕ることなく鍛錬に励んでいる無等級者が、神の摂理の前に無残に膝を屈する瞬間を待ち侘びているのだ。それにより己の無聊を慰め、努力を怠る口実とする。全ては神の思し召しなのだと。
「ふざけるな!」
ウルミルは拳を振り上げるも、すぐに力なく垂れた。努力を放棄したとの点では自分も変わらない。無等級を言い訳にすべて捨て去ったのだ。今でも別れ際の姉の瞳が思い出せる。浮かんでいたのは非難でも同情でもなく、憐みだった。
無等級であることに甘んじたという意味では自分も同じだ。だから彼らを責める権利はない。それを有している者がいるとすれば――
正眼に構えたシュラットの剣先が振り子のように左右に揺れる。相手の攻撃を誘っているようでもあり、仕掛ける隙を窺っているようでもある。そのどっちつかずの態度を挑戦者が鼻で笑う。
「なんだそれ? トンボでも採ろうってのか?」
「蠅を落とすにはこれで十分だ」
シュラットの挑発に挑戦者が吠える。
「デカイ口を叩きやがって! 遊びは終わりだ! 死ね!」
シュラットの脳天を叩き割る一撃に思わず目を瞑る。観客のどよめきに恐る恐る目を開くと、先ほどと変わらぬ姿勢でシュラットが立っていた。そして、その足元に挑戦者が這いつくばっている。
「なんだ? なにをしやがった?」
狐につままれたように挑戦者がよろよろと立ち上がる。シュラットは答えることなく再び剣先を左右に揺らす。
「俺に何をした!」
挑戦者が吠え、上段へ振りかぶる。体勢を入れ替えるかのように僅かにシュラットが体を捻ると勢いよく挑戦者が地面に転がった。
狼狽を怒りで塗り潰すかのように挑戦者が闇雲に突っかかり、その度に見えない糸に操られるようにして地面に接吻する。
挑戦者の鎧が土で汚れ黒ずむと、シュラットが正眼の構えを解いた。
「身体能力だけで押しきるには等級が足りなかったな。打ち込みの癖さえ見抜けば見切るのに苦労はない。ここは研鑽を積んだ者が立つ場だ。おまえの血で汚しては散っていった者たちに示しがつかない。消えろ」
誰の目にも勝敗は明らかだ。後は敗者が現実を受け入れるのを待つばかりだ。
斧を支えに立ちあがった挑戦者の肩が震える。その意味するところを悟り観客席から呻きが漏れる。
「勝った……」
夢ではない証拠に抓った頬が痛い。一体どんな魔法を使ったのか見当もつかない。ただ自分が考えていたよりも遥か高みにシュラットはいる。それだけは確かだ。
彼我の差に顔が曇る前にウルミルは拳を振り上げ喜びを爆発させるも、こちらに向かうシュラットの足が止まったことにより中途半端な体勢となってしまった。
「くっくくくくっ」
叩きつけられた斧が舞台を抉り、飛散した欠片が降り注ぐ。
「いいだろう。見せてやる。貴様ら無等級との圧倒的な差を!」
得物を手放してなお不敵な笑みを浮かべる挑戦者の様子に悪寒が走る。身体能力でねじ伏せられないとわかった上で挑んでくるとすれば残された可能性は一つしかない。
「……精霊か」
ウルミルが辿り着いたのと同じ結論をシュラットが呟く。
一般的には秘石と呼ばれているが、正式名称は『地脈干渉力場において精霊が封印されし加護石』だ。地中深く圧縮された鉱石が地脈と精霊の加護を受け特別な力を宿す。鉱山の場所や地層などにより秘められた力の強さは異なるが、いずれにも精霊の加護が封じられている。だが、秘められた精霊の力を引き出せる者は極僅かだ。そのため、いつしか『秘石』が通り名となった。
挑戦者の周囲に浮かぶ拳大の氷塊に客席がざわめく。殆どの者が始めて精霊の力を目の当たりにしたはずだ。炎や風、水など出土先によって封じられている精霊の元素は異なる。
「俺にここまでさせたことを誇りに逝け!」
挑戦者の言葉が終わらぬうちに無数の氷塊がシュラットに襲いかかる。シュラットは剣を捨てると、腰に差した二刀の短刀を両手に構え氷塊を打ち砕く。尽きることのない攻撃に肩や腿を打たれるも、シュラットは一つも避けることなく氷塊を砕いていく。
氷塊の速度は早い。だが、ウルミルにはシュラットが避けられないほどではないように思える。それにも関わらず真正面から受けている理由に思い至り震えが走った。
ためしに己の立ち位置を右に動かすと、氷塊も同様に逸れた。シュラットがウルミルを庇うように回り込み、直線上に三者が並ぶ。
挑戦者は氷塊だけではシュラットを押えきれないと理解しているのだ。だからこそ自分を人質にとり、このままシュラットが消耗するのを待っている。
「ギリッ」
己の無力さに歯噛みする。シュラットの足手まといとなる日がいつか来るのではないかと恐れていた。それが現実となり、無意識の内に左肩を掴む。肌着を通して爛れた皮膚が触る。それがウルミルの迷いを断ち切った。
「シュラット!」
声を張り上げ右へと駆けだす。磁石に引っ張られるようにして氷塊が向かってくる。その勢いに怯懦する己を叱咤する。
(姉さんのに比べれば屁みたいなもんだ!)
頭を庇うも、腹にのめり込んだ氷塊により腕が下がった。目前に迫った氷の塊に死を確信する。だが、恐怖はない。なぜなら視界の端に放たれた矢のように一直線に挑戦者に躍りかかるシュラットの姿が映ったから。
目を瞑り運命を受け入れる。しかし、いつまで経っても衝撃は訪れず、代わりに割れんばかりの歓声に包まれた。
目を開けると、倒れるシュラットが飛び込んできた。
「シュラット!」
我を忘れ駆け寄る。シュラットに続き崩れ落ちた挑戦者の流す血が膝を濡らすのも構わずウルミルは屈み込むと、怒号から守るように親友を抱えた。
――幕間――
主役が去ってもなお興奮さめやらぬ観客が誰彼かまわず試合内容を声高に捲し立てる。その喧騒から距離を置くようにして三人は離れると、人目のつかぬ隅で一塊となった。
「噂に違わぬ腕ですな。感服しました」
身に着けている上質なビロードの肌触りを彷彿とさせる滑らかな声音だ。シンクロアは一度だってランジェスが声を荒げたのを聞いたことがない。まるで音量調整機能が付いているかのように常に一定だ。それでいて周囲の雑音に埋もれることなく届いてくる。
「あれで? 正気か? 刺し違えたようなものじゃないか」
ランジェスの寸評にクルトが噛みつく。
ランジェスに比べると見劣りはするもののクルトも仕立ての良い上着を羽織っている。だが悲しいかな服に着られており、ランジェスと並ぶと主人と小間使いのようだ。それがクルトの敵愾心に火を着け必要以上に舌鋒が鋭くなる。
「では、あなたは自身よりも高位の等級者を倒せますか?」
一瞬詰まるも、クルトは威嚇するように胸を反らし、「当然だ!」と吠えた。
四等級であるクルトの腕が同級の中で突出しているのは間違いない。だが、三等級に迫っているかといえばシンクロアは首を傾げずにはいられない。本人が豪語する二等級など夢のまた夢だ。もっとも二等級の片鱗を垣間見て以来、流石に口にはしなくなったが。
冷ややかな視線を受けクルトがランジェスに詰め寄る。
「その目は信じてないな? この間だって――」
シンクロアはわざとらしくため息をつくと、組織の知と武を担う両雄の諍いを止めるべく割って入った。
「あなたの腕には全幅の信頼を寄せています」
シンクロアが自分はリーダーに向いていないと痛感するのはこういう時だ。わざわざ『あなたの腕』と強調する必要などないのだ。鋭い者であれば裏に潜む棘に気付いてしまう。料理に香辛料が欠かせないように、人心掌握に嘘は不可欠だ。それでも人柄に信を置いていない者に対して『あなたに全幅の信頼』とは口が裂けても言えない。
「当然だ。俺ならあのガキと同じ条件で戦っても余裕でねじ伏せられる。なんならあの力を使って証明――」
ぐっとシンクロアはクルトと距離を詰めると、これまでとは比較にならぬほど低い声で注意を発する。
「迂闊なことを口走らないでください」
「っつ……わりぃ」
クルトはなぜだか頬を赤く染めながらばつが悪そうに詫びた。
「謝罪を受け入れます。それで、どうしますか?」
シンクロアの問い掛けにランジェスが顎を撫でる。
「調べた限り等級闘争に関心を抱いている様子はありませんでした。親しい者は付き添いの少年しかおらず仕事と鍛錬に明け暮れる日々です。この手の者に理想を語っても効果は薄いでしょう。回りくどいですが外堀から埋めるのが得策かと思います」
「はっ、無等級ごときにご苦労なことだ」
「今の発言は私たちの理念にもとります。気を付けてください」
シンクロアの叱責にクルトが形ばかり頭を下げる。
「そもそも彼が闘技場に参加している目的はなんですか?」
「金だろ。それ以外に何がある」
「意外に思われるでしょうが剣闘士に支払われる報酬は雀の涙です。名誉、力の証明、強さへの憧憬、あるいは単に血に飢えているにしろ、金銭目的で試合に出る者はおりません。推測ですが彼の場合は強さを求めてではないでしょうか」
「修行ということですか? 正直理解しかねます」
シンクロが柳眉をひそめる。今日だって一歩間違えれば死んでいた。そこまでして強さを求める気持ちが理解できない。強さとは何かを守るからこそ価値があるのだ。己のためだけに振うのであればそれは暴力と変わらない。
「まるで狂犬じゃないか。そんな奴を入れるってのか?」
すかさずクルトが噛みつく。
「彼は大きな戦力となります。個人的な感情で反対なさるのは些か大人気がないのでは?」
「反対しているのは必要がないからだ! 秘密を知っている者は少ないほどいい。無闇に露見する危険性を増やすのは馬鹿のやることだ。あれは国家、いやこの世を転覆させる可能性を秘めているのだぞ。俺だけで十分だ」
クルトの力はシンクロアも認めている。実際、剣の腕だけなら帝国でも有数だろう。本人もそれを自負している。だからこそ受け入れ難いのだ。それは理解できる。しかし、つまらない誇りに拘泥し判断を誤るべきではない。それこそクルトの言う通り『この世を転覆』させしめる力を有しているのだから。
シンクロアが道理を説く前にランジェスが口を開いた。
「あの時のように失敗するわけにはいかないのです。今度こそ万全を期さなければなりません。もう命からがら逃げ出すのはこりごりでしょ?」
「突然のことだった! 誰だって――」
「突然のことである精霊の力にも彼は見事対処しましたよ」
クルトが怒りに肩を震わす。シンクロアが執り成すよりも早く裾を翻すようにして背を向けると、「好きにしたらいい!」と吐き捨て人ごみに消えた。
ランジェスがシンクロアに向き直り慇懃に頭を下げる。
「お見苦しい所を失礼しました」
「あなたにしては強引なやり方ですね。それで何が訊きたいのですか?」
先回りされランジェスが苦笑を浮かべる。
「敵いませんね。別に彼がいてもよかったのですが話がややこしくなりそうでしたので」
「賢明な判断かと思います。好奇心を抑えられないのは感心しませんが」
「申し訳ありません。後学のため知っておくべきかと」
無意識の内にシンクロアは前髪を払う。ランジェス以外なら絹のように美しい金髪に見惚れたことだろう。しかし、ランジェスにとってそれは彼女が迷っていることを伝える記号でしかない。
「……氷塊は私が打ち消しました」
精霊の力は秘石の宿主が死ぬと同時に消える。しかし、シュラットが挑戦者の頸動脈を切り裂くのを待っていては間に合わなかった。
ランジェスは頷いただけで批判も肯定もしない。シンクロアが知恵を求めれば参謀に相応しく助言を惜しまないが、一度下された決断に対して意見を述べることはない。だからシンクロアも己の判断の正誤を問うたりはしない。
「彼の件はあなたに一任します」
シンクロアは短く告げると、纏わりついてくる熱気を振り払うかのように足早に闘技場を後にした。その手が前髪を弄っていることをランジェスは見逃さなかった。