第4話
▽長岡
「じゃあ、そろそろ午前の見回りに行ってきますかね」
作業に使っているパソコンの時計が10時を表示した頃、長岡が椅子を鳴らしながら立ち上がって言った。制服が未だに乾いていないため、上下に黒っぽいジャージを着用している。
「りょーかい。ついでにランニングでもしてくれば? ジャージだし」
蒔野が言うと、長岡は「確かに」とハッとする。「それなら、パトロールしながらダイエットが出来るな」
「見落としがないようにしろよ」
谷川は暇そうにしながら、偉そうな態度だ。
「わかってますよ」
長岡がタオルを首に引っ掛けて、部屋を出て行く。
彼は、無事にダイエットを成功できるのだろうか。
警察署を出た長岡は、国道沿いの道を上るように走っていく。走り始めたばかりということもあり、準備運動を兼ねたゆったりとしたペースだ。息も、まだ落ち着いたリズムを刻んでいる。
長岡の勤める警察署には、警官が三人しかいない。この街には警察署が一つしかなく、交番も存在していないので、実質、この街には警官が三人しかいないということになる。といっても、隣町の警察署が僅か十キロ程度のところに存在しているため、有事の際の対応に困る、ということはほぼ無いのだが。
それに、この街では事件らしい事件はほとんど起こらない。平和な田舎町なのだ。
ショッピングモールを通り過ぎ、再び道を横断すると、民家に挟まれた細道に出る。ショッピングモールは既に開いていて、客がまばらながらも出入りしているのが分かった。
長岡は走りながらも、目を凝らすようにして周囲の観察を並行する。汗が、首に浮かび始めている。
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◎田島
腹ごしらえを済ませた田島は、民家が立ち並ぶ通りを歩いていた。
10時をまわった時間帯と言うこともあり、老人や主婦くらいしか出歩いている人間はいない。田島とすれば、伸び伸びと歩き回ることが出来るので、気分が良かった。
この辺りは細い道が枝分かれしていて死角が多いので、もしもの時の逃走経路としては最適だな、などと考えながらも、田島は道を直進する。
田島が左右の細道を確認していると、百メートルほど先の右側から、ジャージ姿の男が出てくるのが目に入った。ゆっくりとしたペースだが、走っているように見える。
一方が走って向かってきているため、距離はすぐさま詰まってくる。田島からも、ジャージ男の顔がハッキリと見えるくらいになった。がっしりとした肩幅が、細身の田島とは対照的な男だ。
そこで田島は、ふと違和感に気付く。
基本的に田島の顔を見た人間は、なにかを感じ取ったように表情を変える。他人に無意識に警戒心を植え付けるのが、田島という男だ。
しかし、今すれ違おうとしている大男の視線は確実に田島を捉えていたのだが、特には引っかかりを覚えていない様子だ。
田島は超能力という存在を信じていない。しかし、自分と対面した人間がどのような反応を見せるかは、今までの経験から、把握できていた。大半の人間は、田島から距離を置く。田島に対して積極的に接してくるのは、どれも怪しい連中ばかりだ。
そして意外なのは、田島に嫌悪感を抱く人間よりは一層、後者のほうが危険度が高い、ということだ。
大男とすれ違う。
ガチリ。
「……ありゃ?」
突如、右の手首が重みを増したので、田島は反射的に視線を下げる。
その細い手首に鉄色の輪が、手錠が、かけられていた。
積極的過ぎるだろ、と田島は呆れる。
しっかしこれは、
……まいったなあ。
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▽長岡
細道から民家の立ち並ぶ通りに踏み入れたところで、百メートルほど先に男が歩いているのを、長岡は捉えた。
長岡が、ジョギングペースとはいえ走っているので、両者の距離はみるみるうちに縮まり、長岡から相手の顔が窺えるようになるまでには時間はかからなかった。
相手の、痩せ型の男の眼光を視界に捕らえた瞬間、ゾクリと、背筋を遡るような感覚が走った。長岡とすれば、いつもの感覚だ。いまさら顔色を変えるほどでもない。
長岡は、高校生くらいからだろうか、目を凝らして他人を見ると、その人が「犯人」であるかどうかが判別できるようになった。いや、その能力が自分にあるということに気付いた、と言った方がいいだろうか。
長岡が2年生の夏頃、生徒が万引きをしていたという知らせが届いた学校側が注意を行うという、今思えば珍しくもなんともないイベントが起きた。当然、教師は「正直に名乗り出ろよ」と呼びかけたが、こちらも当然、犯人が名乗り出ることはなかった。
そのとき長岡は、犯人に目星をつけていた。クラスの中でも有力なグループの数人が、そういう会話をしていたのを、偶然聞いたことがあったからだ。
教師の話が長引き、痺れを切らした長岡が、「もう名乗り出ろよ、早く帰りたい」と、そのグループの一員を睨みつけたときに、その感覚が初めて、長岡を襲った。
やっぱり、こいつが犯人かよ。何故かそう確信できた。
それからも、高校生という不安定な年代である以上は、多少の問題は起きた。当然、その犯人のことごとくを、長岡は見破っていたのだが、それを口にすることはなかった。
一人が正解を言ったところで、残りの全員が不正解を信じれば、結果は覆らない。それどころか、自分自身が悪者として晒し上げられる危険性があった。特に学生は、意思が固まっていないからかそういう傾向が強かった。
そして、そういう事件を起こす者の大半が、数を味方に付ける事が出来る人間であった。
そんな高校2年生からの1年半は、長岡にストレスを与え続けた。分かるのに言えないというもどかしさが、常にあった。
その期間が、長岡を警察官にしたといっても間違いはない。
長岡は、ただ単にランニング中にすれ違った風を装うことにした。
にも関わらず、眼前の痩せた男はどこか違和感を孕んだ顔色をしている。自分の演技に甘いところがあったかと、長岡は少しばかり自身の経験を疑った。
すれ違う寸前に、胸に入れておいた手錠をすかさず取り出す。首に巻いたタオルは、邪魔にならないようにと、丸めてポケットに仕舞った。
長岡は自身の特権に感謝しつつも、すれ違い様に若干スピードを落とし、手錠の輪を男の右手にかける。
「……ありゃ?」
男が間抜けな声を漏らすのが聞こえた。
「ちょ、ちょっとちょっと、とっ。なにこれ」
右手首にかかった手錠を左手で指差しながら、痩せ男が言う。もう片方は長岡が握っているため、満足に動くことができないようだった。
「なにって、手錠だよ手錠」
「そりゃあ分かる。でもさあ、普通一言くらい断ってからしょっぴくよね。最近のケーサツはどうなってんの」
まるで子供の愚痴のように痩せ男がいうので、長岡はガッチリと男の右腕を掴みながら答える。「俺は特殊刑事課だから、特権で」
「特権で。じゃないでしょう。これは職権乱用だぜ」
大丈夫だと言っているのに、痩せ男は職権乱用職権乱用と連呼する。
相手にしたくなかった長岡は、痩せ男の左腕を取り、手錠のもう一方をかけてしまうことにした。
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◎田島
田島は、右腕を拘束され身動きが取れない中、私服警官か、と相手の正体に予想をつけていた。
なにせ、自身の右手にはやけに鈍い輝きを放っている手錠がかかっているのだ。
これで現状を把握できない人間は少ないだろう。
しかし、いきなり手錠をかけてくる警官など、田島は今までに見たことがなかった。
と、会話に痺れを切らしたのか、私服警官の腕が、田島の左腕を目指して真っ直ぐに伸びてくる。左腕まで取られてしまっては、非常にまずい。
まずいので、右腕を取られたままではあるが、可能な限り体を動かしてかわそうと試みる。対応が功を奏したのか、私服警官の腕は田島の左腕に触れることが出来ない。そしてその勢いそのままに前のめりになってしまう。
その瞬間、田島は、右腕の力を急激に抜いた。
私服警官は前のめりの勢いを殺せず、地面に倒れこむ。その際、田島の右腕が手放される。
田島は、強い力で引っ張られた右腕に顔を顰めつつも、その場を離れようと動き出す。右腕に手錠がぶら下がったままだが、気にすることでもないだろうとそのまま駆け出した。
追いかけてはくるものの、大柄な私服警官と痩せ型の田島とでは、後者に分があるようで、距離は徐々に開いていく。
ある程度の距離をとったところで、田島は、手錠を引っ掛けられた仕返しに、私服警官を少しからかうことにした。振り返って、私服警官の少し後方を見る。
「俺なんかよりもよっぽど捕まえるべき奴が、世の中にはたくさんいるだろ!」
叫んで、丁度わき道から入ってきた男を指差す。そして、その姿をまともに見ることもせずに前を向き直し、また駆け出した。そして、走りながら、叫ぶ。「そこのそいつとかさあああああぁぁあああ!」
特になにを期待したわけでもなかったので、そのまま右往左往して逃げ去った。
「ええい、鬱陶しい!」
その際に、右腕から伸びた手錠がジャラジャラと揺れるので、田島はそのもう一方も右手首に引っかけてしまう。
右腕に手錠が二つ引っかかっているものの、先程よりは揺れが気にならなくなって、田島は一応は妥協する。
あまりにも効果を発揮しなかった手錠は、今や、少々ゴツいブレスレットへと成り下がっていた。
田島は走りながら、右手首を確認するように触る。「結構いいかも」
挙句の果てには、気に入られてしまったようだ。
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◎長岡
「そこのそいつとかさあああああぁぁあああ!」
いきなり後方を指差したかと思えば、なにやら叫んで再度駆け出した痩せ男につられて、長岡は一瞬、追いかける足を緩めて後方を確認してしまう。
細道から出てきた歩行者が見える。が、今はそれどころではない! 長岡はやせ男を追いかけようと、再び前を向く。
後方から前方へ動く長岡の視界に、歩行者のポカンと口を開けた顔が見える。いきなりこんな場面に出くわして、固まっているようだ。
ゾクッと、長岡の背筋が震える。そして思わず、後ろに向きなおしてしまう。
長岡の能力が、この若者は「犯人」であると告げている。なんの犯人かは分からないが、間違いはない。ならばとりあえずは取り調べをしておいたほうがいいだろう。
前方の痩せ男か、後方の若者か。どちらかを取ればどちらかは逃がすことになってしまう。
迷いが、長岡の体を硬直させる。
そして、振り向いたときには、既に痩せ男の姿は消えていた。
仕方がないとしか言いようがないので、ターゲットを若者へと変更する。
二人見逃すよりかは、幾分かマシだろうと長岡は考えた。
未だ固まっている若者に向かって、歩を進めて行く。
先程の痩せ男の顔を、頭に浮かべながら。
あ。
……あのヤロー、手錠持っていきやがった。