第10話
◎田島
あーあっつい。
塀を一つ超えるたびに、田島の頬を汗が伝う感触が撫でる。
一歩ごとに庭に敷き詰められた砂利に水玉が落ちて、それが雨を思い起こさせるようだった。
田島はジャンパーを恨んで、違うか、と思い直す。
そもそもの原因は手錠だった。それに気づいた途端にあの私服警官が恨めしく思えてくる。
殴ってやりたいと拳を固めて、でもあいつ強そうだしと拳を解いた。
田島が汗の粒を引き連れながら最後の塀を越え、ようやくまともな道に出てくる。
左右に目をやって周囲を確認し、人の気配がなかったことからそのまま道をなぞった。
犯罪者の方がよっぽど交通ルールを守ってるじゃねーか、と田島は口元を薄く伸ばす。今時ここまで身の安全に気をつけている者は却って珍しかった。
田島の考え方はどこか他人と違って、驚くほど曖昧な部分が目立つ。ルール、といったものに無頓着で、当然、それを守ろうという意識も、破ろうという意識も持ち合わせてはいない。
意識していないからこそ、ふと気がつけばルールを守っていることもあって、そういう瞬間の可笑しさが、田島は好きだった。
暑さから逃れるように道の隅によって、住宅街が作り出す影に埋まる。
「……ん?」
日陰に沿って歩いている最中、ズボンのポケットに手を突っ込んだところで、声が出る。
つまんで引っ張り出してみると、影の色を吸い込んでやや暗色に輝く銀の指輪があった。
そういえば、と田島は思い出す。
あまりに衝撃的な出来事があったせいで印象は薄れてしまったが、確かに、あの木造建築で入手した指輪だった。
ただ歩くのも退屈なので、同時に指輪の観賞を並行する。
銀色の輝きは今度は太陽の光を反射して見えたが、目に入ってくるのは涼しげなオレンジで、太陽とは似て非なるものだった。太陽から鬱陶しいエネルギーを奪えば、このように見えるのかもしれない。
そんな風にコロコロと指輪を手のひらで転がしながら、田島は進んだ。
進みながら少し気になって、指輪を目の前に掲げて何らかの刻印がないかと探す。
「うっひゃあぃ……!」
田島は大げさな反応で指輪を取り落としそうになって、大慌てで両手を重ね合わせて蓋を作った。
田島はいわゆる目利きというやつではないが、それでもそういう宝飾品を盗んで販売して資金を得ることは職業柄珍しくはない。
今回の指輪は、田島の知っているブランドのものだった。
といっても、取り扱ったことがあるというわけでもない。ただ単に、この指輪が誰でも知っているほどの有名ブランドの品であったというだけのことだ。
これまで触れたことのなかった品に、田島の手が多少の緊張を帯びる。これ売ればいくらになるんだろ、が最初の思考だった。
「とってもラッキー。ラッキークッキー」
指輪コロコロをやめて丁寧にポケットに戻し、田島は上機嫌に歌う。
ただ心配点が一つ。
銀って、汗で錆びたりしないよな?
〜〜
▽長岡
長岡は、未だに息が多少上がってはいるが、じっと座っているわけにもいかず、塀を越えて元の道に戻ろうと歩き出した。
あのまま庭に座り込んでいても、こちらが不審者扱いされる可能性もある。制服を着ているためにそのような不安は持つべき意味もなかったが、それでも長岡は即座に庭を出て行った。
何故なら、ルールだからだ。ずっと座っていれば迷惑する人がいるだろう、と長岡は思った。
長岡はルールといったものに忠実な男である。
子供が絡めばキャラが崩壊することもあるが、基本的にはそういう人間だった。
ただし、ルールというのは法律とか条例とかそういうものではない。
長岡は、自分の中にそれなりに整った決まりを設けていた。
人に迷惑をかけない。
人に迷惑をかけるものを許さない。
家族に危険をもたらすものはもっと許さない。
大まかにはこの3つだった。
大雑把ではあるが、それゆえに守りやすい。
長岡はこれを守ることで、結果的に法律を遵守しているに過ぎない。
適当で、法律を軽んじた考えにも思えるが、それが案外ルールというものの本質を突いているのかもしれなかった。
ルールを守るのではなく、ルールが守られる。
それを理想とするのが、長岡という男だった。
だからこそ、あのルールを悪い意味で意識していない男が頭にくる。
いや、あれは意識していないというより、もはや認識していなかった。
長岡は携帯をポケットの上から叩きながら署の連中とは別の脇道に入り、身を潜める。
痩せ男は逃げた気になっているかもしれないが、その方角にはまだ三人の警官が残っているのだった。
相手はルールを守らない。何をしてくるかわからない。
痩せ男の身のこなしを思い出して、長岡がゴクリと唾を飲んだ。
追い詰められた異常者は果たして、どんな行動に出るか。
そろそろ危険になってきたかもなと、長岡が両手で頬を叩き、気を引き締める。
〜〜
◎田島
「っ、と。あぶねえ」
道を直進し、三本に分かれた道を右手に進みしばらくのところで、制服の影を視線が捉えて塀に身を寄せる。
田島はそのままじりじりと気配を消して分かれ道まで戻った。
その途中に、二人目か、と私服警官を含めて田島が連想する。
津山の、『警官が三人しかいない街』という噂を信じるならば、この街の警官はあと一人。
そしてあと一人程度ならば、正直何の問題もないと田島は思っていた。
それは過信ではなく、確かな経験を持った確信で。
事実、あと一人増えた程度だったならば、問題なく切り抜けていたのだろう。
しかし。
身を潜めている分かれ道。
その左側と、中央。
そこから新たな影が迫っていることに、田島は。
〜〜




