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明日見る夢

作者: きぜと

 初投稿になります。

 昔書いた短編です。

 続きものの外伝っぽいですが、特に連載の予定はありません。

 「・・・・・・・・」

 こんな景色は予想外だった。

 お呼びで無い。

 葵幹耶あおいみきやは覚醒一番嘆息し、世界の全てを諦観した哲人か限定グッズは徹夜で買うべきと覚悟した暇人にも似た複雑な、極めて難解な面持ちでいた。

 唖然とした、と簡潔に言った方がいいが、たとえ、どんなにこの幸薄き巻き込まれ系主人公葵幹耶が呆れようと驚愕しようと己の存在を疑おうと、結局、現実ってヤツは一個人の希望に逐一応えてくれるほど律儀ではないし、むしろ希望を裏切ってこそそのアイデンティティは確立しているような気がして、でもそんな話は今現在まったく関係がなく、確認しよう、今日は待ちに待った日曜日。

 そう、待望のハッピーサンデイ。

 幹耶にしてみれば予定の無い休日と言うのも久しぶりというわけで、昼まで寝ているつもりだったのだが、いや、実際、正午ジャストまで寝ていたのだが、

「あ、みーくん、おそよーさんだー」

 昨晩は間違いなく皐月館南二階の自室で《堕落論》を読みながら寝た筈だ。

「本当に、お昼丁度に起きるのねぇ。ナナミちゃんの言う通り!」

 そして、幹也の現在の自宅、皐月館は天地がひっくり返ったとしても、間違いなく、大山村桟蝉山(あさせみやま)山中に建っている。

「やっと起きたのね、幹耶。さっさと着替えなさい」

 その幹也は我が目を疑った。

 とりあえず、そこにいるのは金髪サイドポニーチビの夏木リオナ、鼻メガネのおっとりお姉さん冬里さやか、そして豊満な黒髪の巨大丸メガネ季崎ナナミ。言わずもがな、皐月館のメイドさん達である。まあ、メイドといっても、さやか以外は兼業みたいなものだから、“見習い”と冠した方がしっくりくる。後の二人は学生。今となっては大分見慣れた連中だ。毎日欠かさず顔を突き合わせていれば、否が応にも見間違えようの無い御尊顔どもである。

 ただし、三人が三人とも水着姿。

 突っ込んではいけない。

 幹耶は瞬いて、こめかみを叩いた。

 彼女らがいるということは、一応安全な状況なのだろう。夢であれば尚の事いいが、生憎にも幸いに、あろうことか現実らしい。というのも、何処からとも無く丸い影が降ってきて、幹也の顔面をリアルに直撃したのだ。この痛みは本物。頬をつねる必要はなかった。

ゴムの感触、砂のザラツキ、潮の香り、これでもかと燦然たる太陽。

「ここは、どこ?」

 白砂の野が、コバルトブルーの大海原が水平線の彼方まで続いていた。

 麗しのニュンファイが、水着姿で浜辺に戯れる。

 聴視触臭。四感が働いている以上、夢でないと断言するのが常識というものだろう。

 無造作に三色ビーチボールを投げ返しつつ、幹耶は頬を引きつらせる。すると、何故か紺色学校指定水着に身を包んだナナミが波打ち際から近づいてきた。誰に対する自己主張なのかは知れないが、胸には“季崎”と大きなゼッケンがある。

 そして、無言で、なにやら布切を投げて寄越す。どうやら、下着のような、手元に落ちて、トランクスタイプの水着だとわかった。

 で、その強烈にマニアックな格好はさておき、ナナミは相変わらず冗談みたいに長い髪を揺らしていた。後ろで結わえてはいいるものの、踝近くまであっては泳げないだろう。見た所、濡れてもいないし、砂もそんなについていないから、今の所は泳いでも遊んでもないようだった。

いろいろ、疑念は尽きないが、

 まあ、眼福眼福。

 幹也はいい感じに目が覚めて、置かれた状況を確認した。幹也がいるのは浜辺のビーチパラソルの下、ビニールシートの上。衣服は寝巻きのままだ。寝ている間に着替えさせられても困るが、起きてすぐに水着に着替えるのもどうかと思う。他に着る物は見当たらないし、起き抜けに海水パンツを渡されたという事は、これに着替えろという話なのだろう。流れ的にも。とはいえ、

「ナナ姉。これ、なに?」

 一応訊いておく。

「幹耶の水着でしょ?」 

 そういう事ではないのだが、確信犯にも見える。ナナミはそれだけ言って、自慢の黒髪をダイナミック靡かせ波打ち際へと向かっていった。彼女の肩越しに、さやかが手を振っている。幹也は何となく手を挙げて、半端に笑い返すと視線を落とした。

 ナナミが持ってきた海パン。確か、これは先日、リオナと(強制的に)買い物に出かけた折に、木見郷アウトレットモールで(否応無しに)買わされたモノだ。

 そういえば、洗濯に出していたのを忘れていた。

 そういう無駄な出費があった事を忘れようとしていた。

 幹耶は軽くなった財布を思い出して憂鬱になる。

(いろいろ買わされたもんなぁ)

 パンっ、と広げて陽にかざした。

(なんで、豹柄にしたかなぁ)



「みーくんは、うん、やっぱりタイガーだよタイガー」

「なんでだよ」

「だって“みーくん”って猫っぽいし、うん、ねこだよ、ねこねこコネコ! で、ライオンって柄じゃないし、でも、子猫って程かわいくないし、ってことで、コレに決まりぃ!」

「ライオンでも子猫でもないから虎、って理屈はどういう論理で成り立つんだろうな」

「神のみぞ知る、だよ――ハイ試着」

「あっそ。ておい、黄黒虎パンじゃ鬼だろーが。コレ見て誰が猫を連想するんだ、鬼じゃないにしても絶対、工事現場だぞ。それにさ、“みーくん”はお前が勝手に呼んでるだけじゃないか。まったく、幹耶って本名からすれば、むしろジャングル柄とかさ、緑っぽいって言うか、せめて樹っぽい方が――いや、まて、店の観葉植物の葉っぱ持ってきてどーするよ。おいこら、おもむろにサイズ合わせてるんじゃねぇ」

「うぅ、けちぃよ」

「ケチって言うな。俺は常識を語ってるんだ。いいか、まず、その店の備品を返して――」

「じゃあコレ!」

「いや、さ、確かに、豹柄は鬼でも工事でも無いけどさ、俺が着るにはさすがに抵抗が……って、リオナさん? ナニ右手に魔力を集中させてるんですか? ちょぉっとそれはまずいんじゃないかな? あれ、何かいつもより稲妻が激しくありませんか? ああ、なるほど、僕がレジに行くことを忘れていると、精算しないと万引きだよって教えてくれていると、なるほどなるほど、懇切丁寧にそりゃどーもー――てって店員さーんこれくださーい」

 以上、日常の一コマ。


(ほとんど、っていうか純粋に脅迫だったよな)

 思い出したところで碌なことが無い、芯からいって碌でもない思い出だ。このところ、リオナほど露骨ではないにしろ、皐月館の彼女らには振り回されっぱなしの幹耶である。

(俺がオモチャなのかオモチャが俺なのかはともかく、待遇改善を要求すべきだよな。メイド相 手になんだけど。立場逆だよなー、って別に俺が雇ってるわけじゃないし、誰が雇ってもいないのか)

 なんとまあ、自由勝手で奔放無法なメイドさんがいたものだ。しかも一人でない。更に言えば、まだたった三ヶ月の付き合いで、先はどうやら長そうなのである。

(うあ、頭いて)

 一度でいいから《ご主人様》と呼ばせてみたいものだ、と密かに思う幹也であった。


 というわけで手元の豹柄パンツ。まさか穿く機会がこようとは思わなかった。だから抵抗も程ほどにして(単に出来なかっただけの話)、これを買ったのだが、誤算だったようである。

別に狙ってたわけじゃないんだけどな、と幹耶は遠い目で豹柄を見つめた。

 燦々と降り注ぐ真夏の太陽。砂浜の背に日陰をつくる南国の緑。遠く海鳥の泣き声が、波に乗って聞こえてくる。彼女らの楽しげな笑い声は夢の続きであるようだった。いや、悪夢かもしれない。それでも夢のようであることに違いは無いし、覚めてくれと願えば願うほどに現実感は増していくのである。

 幹耶はぐるりと周囲を見回した。

 その限りでは、無人島とかそんな感じで、しかし葵家が南の島を所有しているなど聞いたことがない。まあ、持っていても不思議ではないが、いや、それより、何の因果でここにいるのか?

幹耶は改めて頭を押えた。

そして、立ち上がるといそいそと木陰へ向かった。手には豹柄パンツが握られている。一種諦観のようなものを頭の上に乗っけていた。

 足の裏に焼けた細かな砂粒。鉛直に向かい来る陽射しと、塩っぽい風。ロケーションは最高だ。

 悩んだところで始まらない。楽しめるうちに楽しんでおこう。どーせ、碌なことはないのだから。不愉快な出来事になる前に、今はパラダイスなこの状況で遊んでおくのが得策なのだ。

葵幹耶十七歳。学習能力はそこそこあった。

(さやかさんの水着姿なんて、そうそう拝む機会ないからなー。おお、ビキニとは大胆なコトで)

 なかなか健全な男子でもある。


 着替えるのに適当な木陰を探す内、今更ながら、嫌な予感がしてきた。

風景が、尋常でない。一から十まで。なにもかも。

 幹也が一歩木々の中へと踏み込むと、その先は鬱蒼とした林。いや、ジャングル。景色は梢に、木々の葉に見え隠れする闇で途切れている。そこから、ひしゃげた、壊れたトランペットのような得体の知れない鳴き声が聞こえてくる。極彩色の奇怪な花々。カメムシのようなてんとう虫のような、赤と緑でマーブルな昆虫。異常に嘴がでかい真っ青なキウイみたいな鳥が高木の枝から見下ろしてきて、十数メートル先の茂みが怪しく動いた。

 気のせいだと信じたい。

 しばらく、その南国風深濃緑の茂みを凝視して、安全と見切った幹也は、心を決めた。

(諦めよう)

 何を諦めたかといえば、今の状況に疑問を差し挟むことを、だ。

 とはいっても流石に躊躇われて、その怪しげな茂みから注意はそらさずに、すぐ脇のフェニックスと蝦夷松を足したような木の裏に隠れる。

 木陰はいきなり薄暗い。幹耶は早く着替えてしまおう、と寝巻きを脱ぎ始めた。先ずは上。地面に脱ぎ捨てると砂だらけになりそうだったから、丁度目の前にあった低木に引っ掛ける。

「幹耶―っ! 遅いっ!」

 背後にナナミの叫びが聞こえ、幹也は焦った。彼女が急かす以上、遅れた暁に、何が自分の身に降りかかるか知れたものではないのである。ナナミが不機嫌になるか、もしくは不愉快で危険な目に遭うか。どちらも御免。今回に限っては、余程の事でも無い限り前者に違いないだろうが……。しかし、断言は出来ない。余程のコトがあるかもしれない。

「待って、すぐ行く!」

 背中で返して、幹耶は下を脱ぎにかかった。あの三人はだいぶ離れているから、近くに人はいないだろう。大雑把に推測して、ズボンと下着、まとめて一気に下ろした。迷いの欠片も無い、清々しいまでの勢いで。

(さー、とっとと穿かなきゃな)

 この時、幹耶は基本的な所で勘違いしていた。まだ寝ぼけていたのかもしれない。そもそもにして、何故三人しかいないのか、を考える必要があった。夏木リオナがいるならば、もう一人、必要十分的に存在していなければならない人物がいたはずである。

 九割裸の幹耶の背後のその死角。控えめに歩み来る小さな影。

「幹耶さん。大丈夫ですか――っえ!?」

 聞き慣れた声がして、幹耶はうっかり、海パン穿きかけで振り向いた。刹那、己の失敗に気付く。かれこれ三ヶ月近い付き合いなのだから、まったく、失念していた幹也が悪い。

「あ゛」「あ゛」

 声が二つユニゾンして、一方の主、幹耶の間抜けな視線の先。おかっぱ頭の少女が、またしても学校指て(略)ことスク水姿で立ち尽くしていた。胸のゼッケンには大きく『ハルノ』とある。見開かれた玉の瞳。みるみる顔が赤くなって、

「い、いやぁぁぁーーーっ!!」

 そして幹耶は聞いた。空が裂かれるその音を。確かに感じた、右わき腹にめり込む、細くやわらかな凶器を。

「ふぐはぁっ!?」

 鮮やかな中段回し蹴り。幹耶の体が“く”の字に曲がって(錯覚ではなく)宙に浮く。そのまま隣木の幹に、猛烈なアタックをかました。なんというファンタジー! その木は音を立てて砂浜に倒れる。鈍く、枝を百本まとめてへし折ったかの轟音が砂煙を上げた。

 時に、幹耶は死んだ母を垣間見た。

 そして、お約束のように意識の向こう側から、闇の気配を感じた。

 幹耶の意識は速やかに沈む。

 悪い予感が脳裏を翳めた。



「うーん、いいタイミング! ほんっとオイシイわね、あの子達」

 浅瀬でビーチバレーに興じている三人が、その様子を観ていた。

「あ、悪趣味ですね、さやかさん。ああなるの分かっていて、ハルノちゃんに行かせましたよね? 幹耶でなかったら死んでますよ、あれ」

 ナナミが半ば呆れながら、トス。

「なんといっても海だもの。ハプニングはつきものじゃない。出会いの季節はまさに今、この時、この瞬間! 南国の陽に打たれ、解放されるうら若き男と女、少年少女のボーイミーツガールが刺激的でなくてどーするの?」

「どうもしませんよ。むしろ衝撃的ですしね、アレじゃあ。っていうか既に二人は友達ですよ? 今更、出会いもなにもありませんよ。そもそも、あの二人、初対面でアレだったし――と、結局同じことじゃないですか」

「だから、よ」

「何が、だから、です?」

「さぁて、なんでしょうね、そーよねー、あの二人はオトモダチよねー」

 さやかはボールを返しつつ意地悪くも無邪気に言うが、何とも強かな女性である。母性の塊のような外見とは裏腹に、中身はワルガキかオヤジだ。しかも小悪魔やら何やらがトッピングされるのだから、全くたまったものではない。小悪魔なアフロディテ。大地母神なメフィストフェレス。

「今回のホストは私だから、楽しみにしててね、ナナミちゃん」

「あたし、サスペンスとかパニックって嫌いなんですけどね。で、何か企画していたりするんですか?」

 すると、待っていましたと言わんばかりに、

「冬里さやかプロデュース! 《ドキドキ南国アバンチュールは恋のカタストロフィ危機一髪!!》」

 溜息はナナミのものだ。

「遊びも程々にお願いします。あと、私は巻き込まないで下さいよ。期待はしていませんけど」

さやかに返事は無く、意味深な笑顔だけがある。細目でにっこり、満面の笑顔。満開の笑顔。純粋でその裏には何の謀略もなさそうな笑み。だからこそ筆舌し難い怖ろしさというものがある。悪意はなくとも悪気に溢れる策謀家。それが冬里さやかであった。

(生きて返れたとしても、無事かしらね、あたし達)

 ナナミはナナミで、幹耶とは違った意味の、思わしく無い予感を抱いた。もう一度、小さく溜息。

 トス。

 軌跡を追いながら、後ろ髪をなでた。

 波は優しく穏やかだった。ナナミの足のすぐ脇に黒い貝殻が頭を出している。被った砂のかぶりをはがされて、しまいに沖へと転がった。

「さっすがハルハル! 今日もイイ切れ味だよ!」

 そして仰角60度、距離3メートルの玉めがけ、双眸を鋭利に光らせ、夏木リオナは跳躍する。白い飛沫が弧を描き、その振りかぶった右手が黄金色の風を纏い、

「スキありぃ!」

 スパイクよろしく盛大に、

「はぷっ?!」

 空振って海へ、頭から突っ込んだ。彼女の背よりも高い水柱が、さやかとナナミを濡らした。肩透かしを食ったボールが、波に落ちて、ぼんやり揺れる。

 ナナミは慌てて、流されていくビーチボールを追いかけた。その髪が海水に、陽に煌く。

(《自分の身は自分で守れ。守れるものは守れるだけ守れ。己の限り守れる剣となれ》、か・・・・・・うまいコト言うわね、ホント、お爺さんの言うとおり。幹也には悪いけど、あたしじゃ、太刀打ちできないからね。我が身一つで精一杯)

 ナナミはふと思案し、ついでに幹也を案じたが、やはりついでなので、すぐにさやかに警戒を向けた。

 殊さやかの悪企みに関して言えば、命に危険が無いことだけが救いだった。



 意識の中に気付けば、そこは暗黒。

(おいおい、やっぱりかよ)

 即座に、幹耶は理解した。これは、最近慣れ親しみつつある忌々しいシチュエーション。幹也の人生において、現在知りうる限りで最も思わしく無い事態が進行中、接近中だという全く以って嬉しく無い前兆。急かすような緊張感は僅かに拍動を加速させ、気づけば拳が固くなっている。

 気配。

 何かが、何者かが、“いる”。

 黒に包まれた意識は、奴らが来たという合図だ。コレばかりは間違いようが無い。まさか、あんな不意打ちのような出来事で、本当に、ここに来る羽目になるとは、よくよく平和な日常というヤツは幹耶が嫌いらしい。日曜日ぐらい偶には休ませろ、と心中毒づいたが後の祭りだったし、気休めにもならなかった。

 停止。

 時の静止。

 宿命の格子。

 虚空から堕ちて弾ける水滴の音が、輪廻を刻んでいる。閉じた世界。流れを留めた時が渦巻く、世界の狭間。何処までも続く、地平の無い闇に、幹耶と“誰か”がいた。

 混ざり合って、ドロドロで、歪んで歪な意識が止揚を繰り返し、闇の形をもって現れて、虚無を以って表れて、意志を持って圧倒的に顕れる。

 “誰か”は確実に幹耶の目の前。だが、距離は目測では正確にわからない。意識的に、二三歩で届く位置に在った。

 紅い靄が人型を為して、揺らめいている。

 細長く、一見して性別の判断はつかないが、おそらく男性型。成型されて、高さは頭一つ幹也を超えた。輪郭が生まれ、それは闇から確立する。紅い靄が淀んで、色彩を帯びる。黒と白と赤。足、胴、腕、頭。順に確かな存在となって、それは男の姿となった。燕尾服に白蝶ネクタイの初老の男。年月を刻んだ堅い褐色の皮膚とせり出た頬骨。手には白手袋。布越しにも、その樹皮の如き指が甲が見て取れる。まさに老練な狼を思わせた。

 その右手を胸に、深々と頭を垂れて幹耶を見上げた。

 紅い、辰砂の瞳。

 それは、血の色すら及ばぬ、絶対の紅。

「お初にお目にかかります」

 闇の中に紅眼を光らせる。顔を起こして、右手を差し出してきた。不気味なほど、静かに、滑らかに、ズームアップしたかのように迫る。眩暈に似た感覚。

「貴方様を、お迎えに参りました」

 幹耶は後ずさった。反射的に、その慇懃な態度に危険を感じたのだ。感情の無い笑みが、その鋭利な顔面に、強引に貼り付けられている。その態度は嵐の前の静けさ。いきなり襲い掛かってくるよりかは良いかもしれない。しかし、こちらの方が性質が悪い。今までの形振り構わぬ奴らとは、比較外の威圧感。恐怖なんて生易しいものではなかった。

 その背にあるもの。

 紅い絶望。

「お前……天紅か?」

 確かめる必要など無い筈だった。幹耶の《緋闇廻廊ひあんかいろう》に出現した以上、紅の瞳を持つ以上、この男は《天紅てんぐ》でしかありえない。

 天紅。それは世界を紅く染める者。別たれた世界を再び統合し、旧世を再製せんとする者ども。

 つまり、《蒼き空守からす》の、幹耶達の敵。

「いかにも。我名は夕霞せっか、字は老嶽ろうごく。第二天座が首座に御座います」

 不動の老木。声だけが響いて、その口唇は微動だにしていない。幹耶は唾を飲み込んだ。意識の中だというのに、嫌な汗を感じる。結局、こんな事に巻き込まれるなら、もっと早く起きればよかった。そうすれば、折角の海を楽しめただろうに。

 己が惰性への悔悟。

 水面を打つかの雫は、無関心に滴り落ちている。

 第二天座。先日現れた天紅、あの胸糞悪い灯裂ひれつが第四天座と称していた。ならば奴より、上位ということなのか? この男は。そもそも、ここまで明瞭に、能動的に幹耶に接触して来た者は初めてだった。しかし、

「俺を迎えに来たって、どういう意味だ?」

 恐ろしいが、幹耶が怖気づくことは無い。この世界は幹耶に優しい。幹耶以外でここに干渉できる値は極々限られているのだ。間違っても、幹耶に危害を及ぼせない。だから、毅然としている必要があった。少しでも多くの情報を、引き出さなければならないのだ。それが、幹耶の役目。

「その通りの意味に御座います。我らは貴方を欲している、正確には或るお方がですが、とにかく、貴方という存在が必要なのです。その緋徒としての力。何故、貴方の内に宿ったのか。大変に興味深い」

「俺は、こんな力必要ないんだけどな」

「まだ、自覚していないだけです」

 沈黙。その赤い視線を睨み返して、幹耶は認識した。この夕霞という天紅は、半端無く、強大だ。ナナミ達よりも、彼女らより数段強いどころか、次元がぶっ飛んでいる。絶望的なまでの歴然たる力の隔絶を、幹耶は一瞬で悟った。そんなことが可能なのは、力の御蔭。そして、奴はこの《緋闇廻廊》が欲しいと言う。本気で来たら、敵わない。

「狙いは、俺なのか?」

「いかにも」

 《従血じゅうけつ》なる魔術がある、と幹耶は祖父、葵翁の言葉を思い出していた。天紅の成り損ない、悪丹おにが人を襲う一つの理由。命を啜って、その内にある力を己がものとする術。力は血に宿っていて、それを直接取り込むことで奪うという。

 今、こんな奴に襲われたら、殺される。自分だけならまだいい。良くないけど、でも、皆が巻き込まれる。逃げろといっても、彼女達は絶対に戦うだろう。それが、彼女たちの意味なのだから。

「どうするつもりだ?」

 絞出した声色に恐怖が滲んだ。夕霞はそれを見て、手を退く。

「なに、ささやかな挨拶に伺っただけです。小手調べ、とでも言いましょうか? 軽い手土産です。葵家の空守が如何程のものか、少々興味がありましてね。貴方を貰い受ける以上、争いは避けられそうにありませんので。無礼を承知で、ここまでご足労願った次第です」

 ご安心を、と皮肉に付け加えた。

「御武運を、と彼女達にお伝えください。無論、貴方にも」


 そこで闇は終った。澄み渡った水の音が、幹耶の意識を現実に開く。

 漣が耳に届いた。


 

 「ああああみ、幹耶さん! ご、ごめんなさい、すいません、まことに、ほんとに、たいへん、もうしわけ、ああありませんでしたぁ!」

 降ってきたのは取り乱したハルノの声。その方を向くと、隣、頻りに恐縮しているハルノの潤んだ瞳。両手を膝に、ふかぶかーと上体を曲げて、幹耶を見つめている。あの天紅とはえらく印象が違う。当然だが。

「いや、いいから、別に」

 仰向けに寝ていたようで、幹耶は体を起こそうとした。

「っ!?」

 右脇腹に鈍痛。

「だ、大丈夫ですか?!」

 ハルノは駆け寄って、背と患部に手を当ててくる。なんともいえない、柔らかな感触。幹耶はつかの間、天に昇った。だが《緋闇廻廊》での出来事を思い出すのに大して時間はいらない。寄り添うハルノを優しく押し離した。

「敵が来る。皆を呼んで」

 驚くと同時に、ハルノはその幹耶の真剣な眼差しに頬を赤らめた。そして焦るように、皆を呼びに行く。

 三人娘は、まだ、ビーチボールで遊んでいた。飽きない連中である。


 で、

 それは違うだろう。

 幹耶は、その光景に違和感を覚えずにはいられなかった。

「敵さん、来なければいいんですけどね」

 ビーチパラソルの下、隣でハルノが体操座り。膝を抱えて、空を見上げていた。

「ああ、心底願うよ」

 幾らか離れた波打ち際に傾き始めた陽を浴びて、黒い球体が宙を舞う。水飛沫が光を乱反射していた。

「緊張感、ありませんね。皆さん」

「まったくだ」

 件の三人は、また玉遊びに舞い戻っていた。どういう神経をしているのか? ごん太な女性達。心強い事この上ない。

 単に楽観主義者でないことを切に願うばかりである。


 先刻。幹耶は《緋闇廻廊》での接触を説明した。臨場感を持って、いかに、敵が恐ろしく強大であるか、感じたままに伝えた。自画自賛したくなるくらいの名表現を駆使して。結果、ハルノだけは怯えた様子でいたのだが、問題は残りの三人。全く動じてはいなかった。それどころか一段落した時、さやかがこう言った。

「じゃ、続きをしましょう。リオナちゃんボールよろしく」

 アンタは何を聞いていたんだ、このヤロー! と眩しいナイズバディな水着姿に眼が眩みそうになりながら、果敢にも幹耶は「ちゃんと聞いてました?」ソフトに尋ねた。さやか答えて曰く、「だって、いつ来るのかわからないじゃない。来たら来たで、その時はそのときで何とかしましょう。幹也君がいる限り、もーまんたい! 問題無しよ」ということらしい。頼りにしていいのか、不安に身を縮めればいいのか。幹耶の反論を避けるように、彼女らは逃げていった。ナナミは一瞬躊躇した素振りを見せたが、向日葵のようなリオナの笑顔にぐいぐい曳かれていってしまった。

(そりゃないよ、ナナ姉ぇ……)

 幹耶の心の叫びは、届かなかった。


 南国(かどうかは定かでないが)の空は突き抜けるように青い。沸き立つ入道雲。巨大なソフトクリームのようだ。

 そういえば、朝から何も食べていない――などと言って、昼まで寝ていたのだから当たり前すぎる必然だった。

 腹が減っては戦もできぬ。

(ああ、そうか、それを言い訳にして戦わないのもありだよなー)

 不意に幹耶は思いついたが、そこに明らかな矛盾を見つけて、思い直した。

 腹が減っては逃亡もできぬ。

(……切実じゃねぇか!)

 すると、

「サンドイッチならありますけど?」

 ハルノには心の叫びが通じたようで、バスケットを手渡してきた。開けると、僅かに二きれレタスサンドが残っている。いや、食べ残されている。

「みんな、朝から騒ぎっぱなしで。ごめんなさい」

 ペコリと頭を下げられては責めるわけにもいかない。喰わぬよりはましだろうと、幹耶はぺろりと平らげた。全然足りなかった。

 しかし、元気な連中だ。幹耶は奇妙な軌跡を描くボールを眺めて疲れた眼。せめて、何をしにこの島に来たか説明してもらいたかった。問答無用は馴れっこだが、彼女らには反省して欲しいものである。敵が襲ってくるかもしれないのに、呑気すぎではないか。生憎、幹耶の戦闘能力は皆無である。今の所。戦闘になれば先ず戦うことは出来ないから、不安も一入だった。頼れるのは彼女達。

 遊んでるなよ、と心中ぼやいた。

「まあ、ハルノちゃんがいれば安心だけどね」

「そんな、そう言って貰えると、あの、嬉しいです」

 何時も健気な春野ハルノは幹耶と共に残っていた。遊ぶ気にはなれないのだろう。聞けば、彼女も無理やり連れてこられた口らしい。更に訊くと、幹耶を担いで運んだのも彼女だということだった。

 はにかむように笑う彼女の怪力には、毎度驚かされている。皐月館メイド組一番の力持ち。たとえば以前、ワゴン車ほどもある大岩を正拳一突きで粉砕していたし、何より、幹耶自身、小石かゴム鞠のように吹き飛ばされた覚えが多々ある。しかし、持ち前の豪腕を彼女はむしろ、いや当然の如く嫌がっているそうである。とはいえ、それは《女の子なのに》とか《はずかしいです》とかいう可愛げのあるものではなく、《あたしのような未熟者には、まだまだ鍛錬が必要な、あまりに分不相応なものなんです》といった感じの、なかなかに逞しい理由による。何でも、魔力を筋組織やら物理法則やらに干渉させる際の魔力供給量調節が難しく、しかも感情の高ぶりによって暴発するようで、時々さっきの様にうっかりしてしまうらしい。その悪意無き暴力の一番の被害者は明らかに、幹耶だった。じっとしていれば、可愛らしい、淑やかな女の子なのだが――いや、それだけでも十分にレアな存在だった。春野ハルノは、じっとしていてくれるのである。

 ハルノの皐月館での振舞いは、勤めている、という感が誰にも増して強い。

 おそらくそれは、ハルノもまた、理不尽な宿命に括られ、嘗ての日常から引き剥がされたからだろう。

 幹耶がハルノに共感を覚えるのは、彼女のその境遇に因るところが大きい。

「この島がどんな所か、ご存知ですか?」

 幼い横顔に影が差す。日が雲に隠れた。

「いや、知らないけど」

「戦場の跡なんです。この島は」

 瞳が遠く、幹耶に向けられてはいるが、定まる場所はそこにはない。

「空守と天紅の戦いがあったんです。もう、だいぶ昔の事になりますが」

「それって、“暁の闇”?」

 無言で彼女は頷いた。哀しげに、瞼が落ちる。

「あたしは、あまり、来たくなかったな。あの日、もちろん、あたしはこの場所にいたわけではないけれど、でも、ここは、やっぱり、」

 開かれた瞳は、その小さな掌をなぞり、

「    、     だから――」

 幹耶は、ハルノの声を聞き取ることができなかった。何を悲しげに、そんなに苦しげに、言ったのか、問うことは、できなかった。

「――あ、ううん、違う。ごめんなさい。暗いお話でした?」

「気にしてないよ。思いは人それぞれさ。俺は、その事殆ど知らないから何もいえないけど、ハルノちゃんが辛いとこを、無理に明るくしなくてもいいから。皆だって分かってるんだよ。リオナだって、いつもみたいに強引に誘ってこないだろ?」

 ハルノは少し黙って、

「優しいんですね、幹耶さんは」

 再び向けられた瞳は、笑っていた。屈託のある表情で。

「でも、ここっていいところですよね。ちょっと時空とか色々捻じ曲がってますけど、まだ今は安全そうだし、遊ばないと、損ですか? ひょっとして」

 そう言うとハルノは立ち上がって、幹耶の前に回りこんだ。覗き込むように、やや首を傾けて、髪が頬にかかっている。

「幹耶さんも行きませんか?」

「何されるか、分かったもんじゃないけどな。特に俺は」

 出でた陽光が肌を撫でて、風がそよぐ。幹耶は彼女の笑顔が隠した陰の深さを思いやれないことに腹立ちを感じていた。

 気を遣わせちゃ、だめだろ?

 ハルノの小さな背中を追って、ちっぽけな自分が嫌になった。

 幹耶が自嘲気味に大息したその時、

「幹耶さんっ! 危ないっ!」

 ハルノの警告が脳内を駆け巡るその最中、幹耶の視覚は金色に火花を散らす球体を捉えた。目と鼻の先に。

「ふごぉっ!」

 注意力に乏しい自分も嫌になった。軽く痺れる、脳髄。顔面がつぶれるかと思った。少なくとも、首はもげてもおかしくなかった。

 つくづく、運の無い日だ。

「いってーな、このヤロー!!」

 二度も昏倒する気は毛頭ない。鋼の精神力で、飛びかかった意識を掴み取り、幹耶は叫ぶ。野郎なんて彼以外にいないが、もう、野郎でいい。鼻っ柱を撞木でど衝かれた感じだった。常識的に、塩化ビニールでこの衝撃はありえない。非常識にも限度がある。今更いっても始まらないとは分かっていても、だからなんで、幹耶が狙われる必要があるのだ。

「スットラーイクッ! スキだらけだよっ、みーくん!」

「リオナ! お前、俺を殺す気か?!」

 無邪気に手を振る金髪チビ女。どうやらボールを返せと催促しているらしい。

(ビーチボール、お前も大変だな)

 何故かシンパシーを感じ、慈愛を持って幹耶は投げ返した。リオナはそれをジャンピングキャッチ。

「だいじょうぶ! みーくんはたくましいからっ!」

 左手で少し前傾に放り投げ、飛び上がって、右手が光る。その射線上にはさやかがいた。

「喰らえっ! さやかっ!」

 雷鳴轟き豪速球がぼんやりお姉さんに突貫する。なんか、青白い放電現象が見えた。殺人的なサーブ。しかし、

「えいやっ」

 さやかはおっとり、軽々とレシーブして見せた。綺麗な弧を描く。ボールの速度は落ちたが、不自然な残像と、危険な火花を纏っている。なんと丈夫な塩化ビニールだろう。

「甘いわよ、リオナ!」

 今度はナナミ。リオナに背を向け、飛び上がる。身体を大きく逸らせ、右足は高く天をつく。

(オーバーヘッド?)

 幹耶はあんぐり口を開けて、その後起こった小規模な津波を口内で賞味した。どうやらリオナが受けきれず、勝負(?)がついたようである。やり遂げた男の顔のさやかとナナミが終結を物語っていた。

 ナナミはどこで、こんなキャラになってしまったのか? 幹耶の頭痛は慢性的になりつつあった。

 

 


 さて、その後さやかの手による《ドキドキ南国アバンチュールは恋のカタストロフィ危機一髪!!》イベントがあれやこれやと催されたわけだが(その阿鼻叫喚の悲喜劇は言語を逸しているので省略)、その最終計画が終了するまで、天紅は気配すら見せなかった。

 狙い澄ましたかのように。

 凄惨なスイカ割り、空前絶後のビーチバレー、そして、悪夢のような密林探検。

 その全てが終わるまで、虎視眈々と、機会を狙っていたに違いない。

 その時を、敵は待望していたのだ。

 みなが疲弊し、油断しきったその時を。

 と、幹耶は思ったのだが、

「おぉーーーーーやつぅーーーーーーーっ!!」

 撤回した。突如、地中から現れたソイツを見て、なぜかクーラーボックスの上に鎮座している目覚まし時計を見て。一瞬で再生される過去。そして幹耶は戦慄した。


 最悪だ。


「おやつおやつおやつおやつぅ! やぁぁっと三時だよぉーー!!」

 どこぞのクソガキ、といった稚拙で幼稚な絶叫が、幹耶たちの眼前、波の退いた砂浜を大きく隆起させた。

 その砂山が、吹き飛ぶ。

 巨大な、裸の赤ん坊。ソイツの体躯はまるで肌色の手足が生えたコンボイのようだった。三白眼で、耳元まで避けた口からは剣のような牙が歪に並んで、唾液を光らせている。

 幹耶の歯の根が震えた。

 それは恐怖ゆえ。

 そして憎悪ゆえ。

 しかし憤怒ゆえ。

 コイツは、忘れもしない、四月の終わりを赤く染め上げた、

 あの、忌むべき《カニバルカーニバル一家》の父。

 天紅《具瑠目喰人(ぐるめ くらうど)》。

「いっただっっきまぁーーーーす!!!」

「幹耶っ!」

 疾風の俊敏さで、喰人は跳び上がった。標的は幹耶。距離は十メートル。ナナミの声は届いた が、幹耶は微動だにできなかった。

 過去が蘇る。

 巨大な影が、落ちて来る。

 太陽を背にした、真っ黒な死神が――、

「幹耶さんっ」

 死の寸前。幹耶の頬を風がかすめた。その体が、後方へ飛ぶ。

 と、幹耶は視界に爆発的な砂煙を捉えた。その砂煙の間隙から敵が、獲物を横取りされた狼のように、睨み付けてきた。

「退がって、幹耶君」

 幹耶は、さやかを背後に聞き、腹部に暖かな優しさのようなものを感じた。空色の柔らかな糸が、幹也の体を括っている。気づいたところで、それはスルスルと解け、さやかの手に戻る。

 さやかは、その五指の先端から空色に輝く糸を発生させていた。

 《空縛禁糸くうばくきんし》――有形無形森羅万象あらゆる存在という存在を縛り捕える、冬里さやか固有の具象系魔法。

 まるで意思を持つかのように波打つ無数の青き糸。

「お久しぶり、ってところかしらね。クソオヤジ」

 そして、幹耶の正面にナナミが、喰人と相対する。

 ナナミの手には、黒塗りのデッキブラシが握られていた。銀色に輝く毛先が、冷たく光る。ナナミは棒術のように、頭上でそれを回転させ、脇を締め、構える。

 《綴鬼てっきブラシ》――千の鬼を綴り合せて造られた、一切合切の穢れを例外なく浄化する、磨き落とす魔法具。

「ハルノちゃん、リオナ。幹耶をお願い」

 ナナミが言うと、無言でうなずく少女が二人、幹耶の脇を固めた。

 仕切りなおしだ。

 いつの間にかナナミの横に並んださやかの眼差しは、いつに無く鋭い。それは清冽な氷柱のようでもあった。

 半目で睨みつけるのは、ナナミ。

 彼女にとっても、喰人は因縁深い存在だった。

「生きていたのね、やっぱり、おかしいと思ったのよ。あんただけ、結晶化しなかったのは、あれは死んだ振りってことだったのね。すぐに夾界が閉じちゃったから、気づかなかったわ」

 その喰人は無邪気な笑みを浮かべた。

「だって、まだおなかがすいてたんだもん。まだまだぜんぜんぺこぺこだもん! 美食みい悪食あくじも美味しかったけど、でも、でも――」

 あやしい、幼く野獣のような笑み。

「お前らの方が、もっともっともっともっともぉぉっっっっと! 美味しそうなんだもん!」

 叫んで、飢えた野獣の如く躍りかかって来た。その巨大な、丸くも鋭い爪を持った右手が、ナナミに向けて振り下ろされる。

「――っ! ホント、あきれた食い意地ね!」

 その巨腕をナナミは頭上、綴鬼ブラシで受け止めた。その剥き出しのたおやかな脚が、砂浜にめり込む。

「よわいよわい! よわいよぉ! おとなしく、僕に食べられちゃいなよぉお前らなんかぁ!!」

 振り下ろされた腕にさらに力が加えられた。衝撃が、空気に断層を生み、突風となって弾ける。思わず駆け出そうとする幹耶を、ハルノが抑えた。

 静かに首を振る。

(喰人!! くそ、ナナ姉――!)

 幹耶は声にすらできない。歯痒いのは、己の無力だった。

 喰人は左右交互に腕を振り下ろす。巨人の槌の連打にも見えた。

 ひたすらに破壊的な暴力。

 ナナミはひたすら受け続けた。喰人の怪力を防ぎきることができるのは、最硬の綴鬼ブラシを持つナナミだけだ。ハルノでは力が勝っても肉体が持たない。そして、喰人に現象系魔法が効かないなど、嫌というほどわかっている。

「そーだよ! なんであの時とどめをささなかったのさぁ!! お前らと僕の間の力の差! 天と地ほど! 月と太陽ほど! 雑魚と鱶鰭ほどもにもあるってのにさぁぁ!!!」

 そうだった。あれは、奇跡としか言いようのない、まさしく僥倖を拾ったに相違ない勝利だった。もし、幹耶と彼女が出会っていなかったのなら、あの日、幹耶もハルノもさやかもリオナもナナミも、死んでいたとしておかしくなかった。

 不慮の邂逅があってこそ。

 尊い犠牲があってこそ。

 悲しみの上の今。

 実力による、勝利ではない。

 にもかかわらず、皆疲弊しきった状態にあって、しかも動揺していて、とてもカニバルカーニバル一家の全結晶化を確認することはできなかったのだ。

 明白すぎるほどに明らかで確かで歴然の差が、そこにはあった。

 だが、そう、《あった》のであって、《ある》わけではない。

 ナナミの唇から、ぐ、と呻き声が微かに洩れたが、しかし次の瞬間、逆に喰人が悲鳴を上げた。

 空いた左腕が背に、あらぬ方向に捻じ曲がり、みしり、と鈍い音を立てていた。

 喰人の意思の外で、独りでに、いや、違った。凝視すれば、そこには無数の糸が巻きつけられている。空色の力が、喰人の巨体を制していた。

「たしかにねぇ。これだけ優っていれば、負ける気がしないわねぇ」

 さやかが意地悪く言った。そのまま腕を天にかざし、捻る。

 バキリ、と生々しい音。

「ヒィぎゃぁぁあぁぁあえぇぁああぁあぇあああえぁあぁっ――!!?」

 と絶叫。

 喰人の左腕が、根元から千切れていた。

 断面からは血の代わりに、真っ赤な闇が噴き出す。落ちた腕は砂浜を赤く染めながらのた打ち回り、喰人は右手で以って肩を押えた。

「なに?! なんで?! どぉし――」

 言い終わらないうちに、その鳩尾が漆黒の槍に貫かれ、喰人の背からまたしても紅い闇が噴出する。

 バスケボールほどの穴が、肌色の肉体に穿たれた。

 ナナミの綴鬼ブラシが形状を変えて、銀の刃を持つ矛となっていた。

「気づかなかったかしら? ここ一帯には、さやか特製《どんなマッチョもナヨナヨ結界パート2 波の数だけ抱きしめてあ・げ・る♪》が張られているのよ? いくら、あなたが怪力の持ち主だって、この中じゃあせいぜい第四天座の最下級どまり! 残念でした」

 さやかが悪戯に言う。相変わらず理解に苦しまざるをえないネーミングの術ではあるが、

「そんな、いつ? 僕はずっとお前らをみてたのに……」

 苦悶の中で、喰人が歯軋りした。

「もっちろん! 《ドキドキ南国アバンチュールは恋のカタストロフィ危機一髪!!》の間に決まっているじゃない。ね、危機一髪だったでしょ? 万が一、あなたぐらいの強力な天紅が襲ってきた時のために準備していたのよ――こんなこともあろうかと! ってね」

 まったく、賢しらな女性である。すっかり幹耶は騙されていた。だが、その他の面々は、イベントの渦中で気づいていたようで、驚きはない。

(教えろよ)

 それが親切というものではないだろうか。

「ばかな、あの時は、こんな、遁陰魔法は、お前、使えなかった……!」

 ナナミがそれを聞いて吐き捨てた。

「ふざけないで。二ヶ月よ。それだけあって変われないのは、昔にしがみ付いてる天紅と努力できないバカだけよ! 人間をなめないでよねっ」

 思い返してみればいい。一年前のナナミは唯の人だった。魔法の《ま》の字も知らない普通の女の子だった。皐月館で最も魔力が低いボッチにも遠く及ばない、素人だった。それが今や、葵護陵四季家の四人に肩を並べるまでに成長した。

 季崎ナナミにとって二ヶ月という時間は、あまりに長い。

 勿論、それは他の皆にも言えることだ。

 人は変われる、強くなれる。

 幹耶とて例外ではない。

「いやだ。どおして? なんで? 僕が、負ける? 死ぬ?」

 平坦な声で、喰人は悲痛に歪む。

「お前みたいのでも、死ぬのは、いやか?」

 問うたのは、まさに幹耶だった。


 「まだ、おなかがすいてるんだよ! どうして、ダメなのさ! なんで、食べられてくれないのさ! 僕はこんなにおなかがすいてるのに! お前らだって、おなかはすくのに。どおして殺されてくれないんだよぉ! お前らだって、殺して、食ってるじゃないかぁ!! 僕だけ、なんでダメなんだよぉ! お前らは食われちゃダメなのかよぉ! 僕は殺して、喰って、生きてちゃダメかよぉ!!」

 白目を剥いて、ナナミに貫かれたままで、喰人は言った。

 誰も、答えない。

 答える気がないというのもある。

 だがしかし、答えてはいけない、と幹耶を除く全員が理解していた。

 幹耶だけが、答えを持っていた。

 あの日振り上げたまま、下ろされることなく虚空に残された拳。

 納得できない、悲しみ。

 幹耶が答えなければならない。他の誰も、答えてはならなかった。

「イイもダメもあるかよ」

 夕霞の不敵な笑みが幹耶の脳裏に過る。何が目的だったのだろう。力試し? それだけではないはずだ。あれ程の天紅が、あの一件を知らないはずがない。天目に記録された遍く事象の中から、彼女の存在を見出したからこそ、夕霞は喰人を差し向けた。

(最低だぜ。あの野郎)

 しかし、その真の目的が何であれ、幹耶は感謝もしていた。

 怒りは眼を曇らせ、憎悪は心を濁す。

 憤怒も悲哀もあらゆる感情も、人は飲み込んで乗り越えて行かねばならないのだけれど。

 でも、絶対に許せないものもある。

 看過できないもの。

 この機会を、逃すわけにはいかなかった。

「イイとかダメじゃない」

「じゃあ、なんだよぉ!」

 過る、面影。最期に見せた、笑顔。

「お前は、美食を殺した。忘れたなんて言わせねぇ。俺の友達を、てめえの娘を喰った。だから俺はお前を許すつもりはないし、忘れるつもりもまして放置するつもりもない。聖人君子じゃねぇんだ。憎いヤツはいつだって、いつまでだって憎い」

「美食は僕を! お父さんを! 裏切ったんだ!!」

「そして俺を助けた」

 《具瑠目美食ぐるめ みい》。最後まで天紅に成れなかった、しかし人でもなかった女の子。幹耶達とつかの間の人生を歩いた亡き友人。その最期まで、人に成りたくて成れなくて、人を好きで嫌えなくて、人と生きたくて生きられなくて、恋して愛して、故に砕けた、紅い氷のようだった少女。もう少し、一秒で良かった、一刹那でよかった。それだけあれば、幹耶は――。

 許せないのは、幹耶自身も同じだった。

 どうして、あの時、声が出なかったのか?

 でも、自分の弱さは、あの時点ではどうしようもなかった。

 けど、それはいい訳かもしれない。

 それでも、だから、いっそう憎い。

 奪ったヤツが、許せない。

「俺の友達をお前は殺した、喰った! それが全てだ。だから俺はお前を消す、滅ぼす。お前の生なんて願い下げだ――ナナ姉っ!!」

 幹耶が呼ぶと、ナナミは頷き、綴鬼ブラシを喰人から引き抜いた。

「ぐぇ……」

 その苦痛には目もくれず、横跳びして幹耶と喰人の間を空けた。

 ナナミの着地と同時に、幹耶は両掌を突き出した。指で三角形を作る。腰を落として、意識を集中した。

「懺やんで、悔やんで、赤き地獄で焼かれて悶えて苦しみ消えろ! 生無き無機物に成り下がれ!!」

 冷たく、あらん限りの悲憤を込めて幹耶は叫んだ。

 その三角形の空間の内部が、深紅に埋まる。深紅は揺らいで、瞬目、間欠泉のように噴出して、恐るべき速度で喰人に降り注いだ。

 声に成らない悲鳴を上げて、喰人は朱色に染まる。

 そして、断末魔の形相をそのままに、血塊の彫像と成った。

 葵幹耶は戦うことはできないが、それを終わらせることはできた。

 《緋闇廻廊》第二の力、《紅玉欠性こうぎょくけっしょう》。核体を失った天紅を、赤き結晶に変える、それは、天紅を滅ぼし尽くすことができる、唯一にして無二の魔法。先刻のナナミの一突きは、喰人の肉体と精神の根源たるその《核体かくたい》を破壊するものだった。

 幹耶は間を置いて、無表情に、嘗ての憎悪の対象を見た。

 ほんの一瞬の後、

「砕けろ」

 その怒りとも憎しみとも悲しみとも似付かぬ一言の鉄槌で、喰人であった巨大な赤子の彫像は霧散した。粉々に砕け、硝子を砕いたように煌いて、海風に乗って、何処へともなく消えていった。

 怒りとともに。

 憎しみとともに。

 悲しみとともに。

 帰らぬ過去は、ついに去った。

 全く気まぐれの偶然が、一つの過去にけりをつけた。



 結局、幹耶にして見れば平常通りどころの騒ぎではなく、いつも以上に迷惑なハッピーサンデイとなったわけだが、用意周到なさやかといい、人気のない都合のいい場所での敵の出現といい、今回の小旅行の発案者こそが非常に気になるところだった。しかし、幹耶が問い詰めるまでもなく、夕陽を引き剥がしてその発案者がお迎えに来た。

「ん、だいぶ、しんどそうだな」

 あっさりとした調子で、皐月館が誇る最強で最小の大魔女メイド――菊村セツが、まるで壁紙を剥がすかのように夕焼けの景色を捲って現れた。黒と白のエプロンドレスがまぶしい。相変わらず、巨大な鍔広の三角帽子も着用していた。箒も忘れてはいない。

「どうやら、私の予知が的中したようだな。ふむ、無事で何よりだ。それにしても具瑠目喰人、か、因縁深いな。まあ、報告は後で聞こう」

 つまりそういうことで、いつも通り、休日を使った天紅退治をさせられただけだった。

(単に、俺が不運だったってことか……)

 夕霞の接触も、喰人との再戦も、些細な誤差に過ぎなかった。偶然が重なったということなのだろう。たまたま、セツの予知に従って出向いた特異点で夕霞なる天紅が幹耶に接触し、最悪の因縁を持つ喰人を嗾けた。

 全てが必然だとしたら、あまりに世界は出来過ぎている。

 この一見小学生然とした菊村セツの恐るべき未来予知だって、100%的中するわけではない。未来のことなど、所詮は知れたことではないのだ。

「疲れただろう? ボッチと時郎が風呂の用意をしておいたから、よく休んでくれ。明日は、ん、ハルノとリオナとナナミと幹耶は学校があるだろう。疲れを残すなよ。ああ、それと葵翁が夕食を待ち焦がれて、終に夕飯に奉げる愛の詩を歌い始めているぞ。五月蝿いから早く戻って夕食の準備をしてやってくれ――当番はハルノとナナミだったか? 疲れているとは思うが、仕事だ、諦めてくれ」

「げ?!」

「……頑張りましょう、ナナミさん」

 先が知れないから、生きることは面白い。未知だからこそ未来で、故に未来は可能性とも同義だという。生きていれば、予想外の新世界も拓けてくるのだ。

 何にせよ、激しく疲れたことは進行形の事実である。

 ハルノ&ナナミ組の夕食に期待を膨らませつつ、一行は夕陽に染まった南国を後にした。

 波打つ海の声だけが、静かに残った。




 今日という日が終わろうとしていた。

 ドタバタとしてなんか収拾のつき切らない一日だったな、と幹耶は溜息をつく。

 あの日の因縁を清算できたことが収穫だったかもしれないとはいえ、それも喜んでいいのかどうかわからない。ただ、忘れたかった過去を、やっと忘れても許されるのかもしれない、と思うことはできた。あの無力であり、無力であることに甘えていた自分の罪。未だに幹耶は無力だが、しかし今ではもう強く前進している。諦めて絶望するのではなく、挑み苦しむ道を選んだのだ。人の足を止めるものが絶望ならば、幹耶はそれに背を向けて歩いている。

「生きてるって何が起こるかわからないけど、でも何か起こったときに、もう後悔だけはしたくなかったんだよ」

 就寝前に皐月館北棟のバルコニーで月を見上げることは、いつのまにか二人の日課になっていた。

「じゃあ、今日は後悔しなかった?」

「いや、言っといてなんだけど、それはどうだろう。まあ、きっと、後悔はしていないと思う。アイツを滅ぼし尽くせたことに何の蟠りもない。でも――」

「でも?」

 でも、なんだろう? 幹耶は沈黙した。

 喰人を倒したことで、記憶の底から美食の最期が蘇った。それは過去の後悔。あの時、ああしていれば、こうしていれば、せめてこう応えていれば、という廻るだけの自戒という名の甘え。桜の散り終わった四月のあの日。置かれた状況に文句を垂れ流してばかりだったあの自分の愚かしさと情けなさは消せるものではないのだろう。思い返せばいつだって惨めな気持ちになるけれど、それから逃げてしまっては、あの彼女に顔向けできない。

(いや、後悔じゃない、か。これは……)

「でも、どうしたの? 幹耶」

 首を傾げるその瞳と、幹耶の視線が交差した。

「ん、なんでもない。俺は後悔してないよ、ナナ姉」

 後悔しきったから、もう堕ちきったのだから、今歩みだしている幹耶だから、今日と言う日の後悔はない。ありはしない。あってはならない。

「明日に残る後悔は、ない」

 と、幹耶は結構、格好よく言ったつもりだったのだが、

「あっそう。じゃあ、明日の小テストの準備はバッチリね。幹耶の苦手な数学だったけど、大丈夫なんだ。へえ、いつの間に勉強したの?」

 後悔、ではない。忘却のかなたに置き忘れて、都合よく放置していただけだ。現実は厳しいという、至極当然のお話。

「う、ぐ。田尾野か沙希に、教えて、もらうよ」

「後悔のないようにね」

 ナナミは咲った。幹耶も苦笑する。

 月も優しく微笑んで、夏の夜風が木々を撫でて彼方へ消えた。


Fin.


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