彼女と斜陽に燃える空
高校二年の秋。人口五万人程度の田舎町で、殺人事件が起きた。
マンションの一室に何者かが押し入り、男性が刃物で切り殺された事件。
翌日から一週間。学校は放課後の部活動を禁止した。教師はホームルームや校内放送などを通じて、早く帰宅するよう生徒に呼び掛けていた。
「殺人事件だってよ」
「エグいよな。刃物でめった刺しだろ? まだ犯人は――」
学校には、いつもと違う空気が流れていた。
日常の中に突然、非日常が入り込んで来たような。静脈を通った人間の血液そのもののような、赤黒く、重たい瑞々しさが……。
そんな頃に、僕は生まれて初めてセックスをした。
町の中心地から二駅離れた、私鉄沿いにある田舎町らしいホテル。学生服でも入れると噂のホテルに、放課後、僕らは訪れた。
別のクラスの彼女と初めて会話をしてから、未だ二時間も経っていなかった。
「私は……出ていく必要があるの」
白濁液に人格を支配された一間。ぎこちないソレが終わった後、彼女は端正な顔を天井に向けたまま言った。高級なアンティークドールのような目で。
彼女に誘われ、困惑する儘に、僕は彼女を連れてホテルに来ていた。
全てが有るようで、その実なにも無い。中身のない、底が腐食したアルミ缶のような伽藍同。終わった後の内面の空虚さをじっと眺めながら、僕は尋ねた。
「出ていくって……何処に?」
途端に、冷静な自分が返ってくる。身の内には、夜の砂漠のように荒涼としたものが広がり、一途に冷え込んでいった。分からないことだらけだった。
そんな僕を前に、一呼吸の間を挟んだ後、彼女は静かに答えた。
「圧力の、向こう側に」と。
そして続けた――
一人が耐えられないから、沢山の人と手を繋ぐというのは嘘だから。一人で戦えないから、沢山の人と手を繋ぐというのは卑怯だから。
私は出て行くの、圧力の向こう側に。
私が支払った物を、ずっと以前の分まで取り返すために……。
――誰かの詩を朗読するようでありながら、自分に言い聞かせるような声で。
放課後。生徒の気配が消えた、斜陽に燃える校舎の屋上。
そこから里中が飛び降りて自殺したのは、それから五日後のことだった。
里中の存在は、僕の人生に大きな痕跡を残した。
初めての女性としての記憶と共に、不可解な人生そのものの象徴として。
僕は彼女のことを、殆ど知らなかった。
何度か見かけたことがある、優等生で問題の無さそうな彼女。あの日、普段は閉じられている筈の屋上の扉が開いているのを見つけ、そこで出会っただけだった。
夕陽が隙のない美しさに彼女を儚く飾り、泣きそうな、困ったような顔で彼女は振り返った。それから遠慮がちに口を開いた。
『ちょうど……人と触れたかったの』
『え……?』
クラスも違ったので、里中の葬儀には赴かなかった。
彼女と僕の繋がりを知る人もいない。
彼女が死んでも、僕は泣かなかった。困惑し、ただ途方に暮れた。
でも明確に、それから何かが変わった。訳の分からない人間という存在に、興味を覚えるようになった。それを探求したいとも思った。
大学は文学部に進学して、小説を書き始めた。
里中のことを在学中に書いた小説が、商業上における僕の処女作になった。
大学を卒業してからも、専業作家として小説を書き続けた。
そうやって人の存在を見つめ続けた。何処かで、里中の死を追いかけていた。
でも……それで何かが分かった訳じゃない。
小説を書き始めて十五年経っても、人の抱える苦悩の全ては相変わらず分からない。小説を書くことで、人の苦悩の肩代わりが出来ると思っている訳でもない。
ただ僕が出来るのは、読んでいる人が自分と見間違うような苦悩をさらけ出すこと。登場人物が苦悩にのた打ち回る姿を、読む人にさらけ出すこと。
そうやって小説を書いて、僕は生きてきた。
そして母校の講演会に呼ばれ、それが終わった今、屋上に一人で佇んでいる。
「昔、屋上から飛び降りて自殺した娘がいましてね」
厳重に封鎖されて久しい、屋上へと至る扉の鍵。訝しみながらも、それを借してくれた際、教頭はそう話していた。僕の知り合いですとは、言わなかった。
視界一面に、あの日、里中と初めて出会った時のような空が――言葉にならない物を引き連れて、襲い掛かってくるような夕焼け空が広がる。
『夕陽の光は優しい』
昔、彼女は言った。
『そんなことが書いてある、小説を読んだの。まだ物事をはっきりと照らすだけの光があるのに……濃い影があって、隠しておきたいこと、そっとしておきたいことを許してくれる。夕陽はそんな光だって』
フェンスも何も張り巡らされていない、屋上の縁へと向かった。
そこから見る景色は、昔と随分変っていた。時代の流れと、製造業が発達した土地柄。人口増加がもたらした変化だった。
それらを眼に収めながら、思う。
人の世界にあるものは、全て、人間の頭から生まれ、形になったものだ。あの建物も、家も、公園も。ここから見えるものだけじゃない、音楽も、絵も。
そして……小説も。
僕は彼女のことを、何もずっと考え続けていた訳じゃない。ただ小説を書く時には、いつも彼女の存在を、何処かで感じていた。
ある時から、出来るなら、彼女の死を自分の中で上手く位置づけたいと願うようになっていた。しかし仕事に押され、それが叶わず……。
『どうして人は、生きていかなくちゃいけないの?』
里中が自殺する二日前。彼女は僕にそう尋ねた。
僕はその時……何も答えることが出来なかった。
今の僕は、一人で生きていく分には困らない、食べていけるだけの言葉を、手ぶらで持ち歩くことが出来るようになっている。
その中で、彼女に返すべき言葉を探し続けていた。
でも残念ながら、その言葉は、僕の中には未だに無いのだ。
悲しい位に、僕の手には無かった。ないものは、どうしても、なかった。
都会でディスプレイされているような、本質を誤魔化す、飾った言葉なら幾らでもある。でもそれでは、何の答えにもならない。
頭の中で考えても、考えても、形にならなかったものは、どうなるのだろう?
夕日を見ながら、僕は屋上の縁に両足を載せ、漠然と考えた。
視線を地上に落とし、飛び込んでみようかと思考の実験をする。
大きな圧力を感じた。僕を飛び込ませまいとする、生命からの圧力を。
『悲しいの?』
彼女が自殺する一日前。セックスをした後に、彼女は泣いていた。
僕がそう尋ねると、
『いいえ……そう、じゃ、ないの……』
『じゃあ、なんで……』
哀しい祈りのように、彼女は答えた。
『安心……しているの』
里中が自殺した直後、僕は町で起こった殺人事件と、彼女の自殺を結びつけては考えなかった。そう努めた。
だが処女作を書く頃、どうしようもなくなって調べてみた。
殺されたのは、里中の親戚の男だった。中年の。そしてまた……里中は処女ではなかった。白く美しい体に幾つか、乱暴に扱われた跡があった。その跡は、彼女に随分昔から馴染んでいた印象を僕に与えた。
『どうして人は、生きていかなくちゃいけないの?』
大人になっても、僕は里中の質問に対する答えを持っていない。そして、体だけの関係と言いながらも、彼女に寄せていた想いも……告げることが……。
透明な空気の層。途方のない悲しみの底。
声に出して叫べれば、どれだけ楽になるだろう。
想い出に胸が詰まり、僕は生まれて初めて、彼女の名前を呼んだ。
「芽命……」
その時、心の奥で凝り固まっていたものが、形となって零れ落ちた。
小説としてでもなく、言葉としてでもなく。
『頭の中で考えても、考えても、形にならなかったものは、どうなるのだろう?』
それはひょっとして、僕がずっと待ち望んでいた形だったのかもしれない。
熱く燃える瞳の奥から……湧き出でる……。
見上げれば、そこには変わらず空が――
彼女が堕ちて行くのを見ていた、斜陽に燃える空が広がっていた。