第五章 ウサギと幻想④
頬に何かが触れた――冷たい――――
「ううっ……」
フェルトは目を開け周りを確認する。
まるで夜中に目を覚ましたみたいに周りの風景はボヤけて何があるのか分からない。
「いたぁ……」
身体を起こそうとするが、背中に痛みを感じて、思うように身体が動いてくれない。
それでも何とか上半身を持ち上げ近くにそびえ立つ壁に背中を付ける。
「私……そうか!」
何が自分に起こったのか思い出したフェルトは咄嗟に自分の腰に手を当てる。
しかし、そこには自分の腰骨が在るだけで、他に固いものの感触が無かった。
この時点で彼女は唯一の武器を無くしたことを理解するのであった。
焦る気持ちを抑えながらも、再度周りを見渡す。
目の前には広い空洞が広がっており、その所々に巨大なゴミの群衆が落ちている。
ここはどうやら昔のごみ処理場の跡地らしい。
辛うじで灯る非常灯は心細げに辺りを照らしだしている。
そんな彼女の眼に不意に映ったのは、白いモコモコである。
自分から数メートル先の地面に横たわった彼は動いていない。
「いぬくん! 大丈夫?」
叫ぶ声は暗いトンネル内に反響し、 何倍までにも拡張される。
だがそんな声にも彼はピクリとも動かない。
フェルトは彼に急いで近寄る。
足に絡みつくような細かいゴミを掻き分けながら。
「いぬくん、いぬくん!」
彼の身体を揺する。少し反応があった。
「よかった……いぬくん……」
彼を抱きしめ、その温もりを確かめる。
ペタペタ――――
足音が聞こえる。この軽い足音は人間のものではない。
おそらくはぬいぐるみのもの…………
暗闇の果てから聞こえてくるその音にフェルトは身体を縮める。
闇の中から影が出てくる。それは小さなウサギのぬいぐるみだった。
だがフェルトの予想は外れていた。血染め兎という名前から
彼女はもっと恐ろしい顔をしていると想像していたのだから…………
実際に目の前に居たのはどこにでも居るような可愛いぬいぐるみだったのだ。
頭には身体と同じ色の朱色のリボンが付けてあり、恐ろしさなど微塵も感じない。
「あなた……どうしてこんなことするの?」
恐怖を忘れ、フェルトは彼女の瞳を見つめてそんな質問を投げ掛ける。
「どうして……? あなたのためでしょ? オリビア」
「私の……? オリビアって?」
「あなたを傷つけるアーティファクトは私が排除してあげるの。
私以外はあなたには必要ないのだから」
彼女はフェルトに少しずつ近づいてくる。
彼女の目を見て、先ほどと違う恐怖がフェルトに襲いかかってくる。
彼女の顔に埋め込まれた黒い球体の奥にあるものは深淵。
どこまでも落ちていきそうな深い闇。
こんな表情をするぬいぐるみを見たことがなかった。
だからこそ、その瞳に見つめられた彼女は本質的な恐怖というものに対面するのであった。
「どうして、逃げるの? オリビア……いつもみたいに私を可愛がってよ」
後ずさるフェルトに対して、ウサギは近づく。それを見たフェルトはまた後ずさる。
「私、オリビアじゃないよ? ウサギさん……」
「うふふ。いつもの冗談ね。オリビア。あなたがオリビアじゃないはずはないでしょ?
だってオリビアなんだから」
「違うもん。私、フェルトだもん」
「フェルト――? ああ、そうね。オリビアはフェルト素材が大好きだったものね。
また私に小物入れとか作ってよ」
「ううっ……後でいくらでも作ってあげるよ――――きゃっ!」
一歩下がろうとしたところで背中に固いものが当たった。
どうやら夢中で下がっているうちに壁際まで来てしまったらしい。
言うまでもなくこれ以上、後ろには下がれない状況になってしまったのだ。
「あっ、その子…………」
ウサギの目が動いた。先ほどまではフェルトの顔を見ていた彼女だが、
今、その顔はフェルトの腕の中の物体に向けられている。
「オリビア……あなた。また他のぬいぐるみを……?
あの時みたいに私を置いて行ってしまうの?」
「あの時って――――」
「もういい……もう、待つのはウンザリ……私があなたを導いてあげる。
あなたは私だけのもの……」
そのセリフを言った彼女。その途端、複数の気配がフェルトの周りに展開する。
その気配の主はぬいぐるみ。
壊れかけの身体を引きずりながら彼らはフェルトの周りを取り囲んだ。
その手には様々なものが握られている。唯一の共通点といえば、
それが使い方次第では凶器になるということだろう。
「さあ、その子を渡して? でないとあなたを傷つけてしまうかもしれないわ」
ジリジリと距離を詰めるぬいぐるみたち。
もしウサギがその気になったのならば、フェルトは瞬時に八つ裂きにされてもおかしくはない。
しかし、この状況下でもフェルトは腕の中で眠っているパートナーを離そうとはしなかった。
むしろ固く固く、その手に力を込めるのだ。
「どうして? その子がそんなに大事なの? 私よりも?」
「あなたが誰のことを言っているのかは、分からない。
でも、いぬくんは私の大事なパートナーなの。渡せないよ!」
フェルトはそう言った。そのセリフは最後の方には叫びに変わっていたと思う。
「そう……やっぱりオリビアは私なんかどうでもいいんだ……」
ウサギの瞳に変化が現れた。先ほどは暗闇しかなかったその目から一筋の雫が零れ落ちたのだ。
泣いている――彼女は泣いているのだ。
「ウサギさん……」
フェルトは彼女の元に行き、抱きしめたいという衝動を抑え、その場になんとか留まった。
ウサギの動きと連動するかのように周りのぬいぐるみの動きは止まっている。
今なら逃げられたのかもしれない。
しかし、フェルトはウサギの泣く顔をジッと眺めていた。
それが何故だか分からないが、そうしてなければいけない気がしたのだ。
「フェルト!」
不意に自分を呼ぶ声が聞こえた。
そちらを向くと黒髪の少女がこちらに向かって走ってきているのだ。
だがその声に反応したのはフェルトだけではない。
先ほどまで動かなかったぬいぐるみたちは標的を見つけ、臨戦態勢に入ったのだ。
「コマチちゃん! 来ちゃダメ!」
フェルトが叫ぶと同時に一番近いぬいぐるみがコマチへと飛びかかる。
その手には布切り鋏。
あんなものが急所に当たったら人間なんてすぐに動けなくなってしまうだろう。
「百太郎、防壁!」
コマチの言葉で百太郎は手足を縮ませ、甲羅だけになる。
それをコマチは右手で装備する。
そのまま飛んでくるぬいぐるみを宙から地へと叩きつけ、至近距離でグルーガンを発射する。
一匹を撃退したコマチにも臆せず、ぬいぐるみたちは突撃を繰り返す。
コマチも負けじとグルーガンを連射するが、
標的が多すぎて正確に狙うことができず、百太郎を盾にして、
その場に留まることが精一杯である。
「くっ……」
防戦一方になる彼女にもぬいぐるみたちは容赦ない攻撃を仕掛ける。
それは一瞬の出来事であった。
リロードのため、グル―スティックに目をやった彼女の足目掛けて
一匹のぬいぐるみがタックルを仕掛けたのだ。
不意の一撃に足を取られた彼女は背中から地面へと倒れこんだ。
その隙を見逃すはずはなく狂気のぬいぐるみが彼女へと容赦なく飛び掛かる。
「だあああああああっ!」
遠くの方から声と共に誰かがやってきた。フリルだ。
彼女はグルーガンを抜くとひたすらそのトリガーを引き、コマチに群がるぬいぐるみを撃っていった。
「はぁはぁ……コマチ! 大丈夫ですの?」
「無事……。ただ、動けない」
粘着弾は彼女諸共、ぬいぐるみをひと固まりとしている。
顔も動かせないまま、恨めしそうにコマチはそんなことを言う。
「仕方がないですわ。急ぎだったんですから! それよりっ!」
フリルはウサギの方へとグルーガンを向ける。
「早くフェルトの傍を離れなさい! さもないと撃ちますわよ。ウサギさん!」
銃を構えられているにも関わらず紅いウサギは全く動じる様子を見せない。
「あなたも私を邪魔しに来たの?」
「本当に撃ちますわよ――――」
フリルは狙いを絞り、トリガーを引いた。
カチッ、カチッ……
「あれっ……あれっ?」
だが、そこからいつもの発射音はしなかった。
それはいわゆる弾切れというやつだ。
何もしない彼女に向ってウサギは手を振りかざす。
途端にまたぬいぐるみたちが飛び出してくる。
「うわっ! また出てきましたわ! ぐ、グリズ――――」
「ああっ、なんでアンタはいつもそうなのよ! 肝心な時に」
最初の一匹をグリズは飛び蹴りで撃ち落とす。ぬいぐるみといっても熊のパワーは強力だ。
「早く、リロードしなさい!」
「分かってますわ! わわっ……」
慌てたフリルの手からグルースティックが落ちる。
「ああ、もう何をやってるの――――うわっ!」
襲いかかってくるぬいぐるみによってグリズは地面へと抑え込まれてしまう。
「グリズ! きゃっ!」
続いてフリルも同じように地べたに這いつくばった形にされる。
「グリズ、フリル! もうやめて、ウサギさんっ!」
悲痛な叫びをあげ、フェルトは目の前のウサギを見る。
「オリビア……泣いているの? どうして?」
仲間を傷つけられたくないという強い気持ちは雫となり地面へと落ちる。
それを目撃したウサギは先ほどの態度とは一変し、フェルトの顔を不思議そうな目で見つめた。
「もう、止めて……お願い……」
「オリビア……」
ウサギは一歩、また一歩と泣く少女へと歩み寄る。
「フェルト、逃げる!」
コマチの叫びにもフェルトは動かない。ただただ涙を流し、その場に立っているだけ。
すぐそこにはウサギの手……最悪の結末が脳裏に過り、彼女は口を固く結んだ。
それでも目は最後の抵抗を試みようと、友に近づくウサギを睨んでいた。
ウサギが寄ってくる。その感覚は不思議なものであった。手が頬に触れた。
とても優しい温もりが彼女の手から伝わってくる。
フェルトは目を閉じる。
そして今まで体験したことがないような妙な感覚を味わうことになるのだ。