第四章 フェルトと黒い針⑩
すこしホラー&グロいシーンがあります。
苦手な人は注意です。
暗い空間の中に彼女は居た。
だがいつもと違う違和感。そうだこれは夢なのだ。
自分で自分の姿を客観的に見ているらしい。
彼女の夢ではありきたりなことである。
どうせ夢ならば楽しい夢にしてもらいたい――――
そんな思いを馳せるのだが、そう上手くはいかないらしい。
景色はどんどん変化し――――ここは今日の裏路地。
私の先には紅い兎の後姿がいる。
目線の先の私はボーっとして、兎を見つめている。
現実であった通りの情景だ。
これが先ほどの回想ならば兎が消えて、おじいさんが来て、何事もなく終わる――はずだった。
だが、いくら経ってもその場面はやって来ない。
まるで時間が止まったように二人とも動かず、その場に磔になっている。
だが良く見れば兎は少しずつ私のほうを見ようとしている。
不鮮明な映像をスロー再生するように1コマ1コマ、カクカクと。
(逃げてっ! 私!)
叫んだつもりだが、声など出るはずもない。
夢の中の私は顔を引きつらせて、その場に留まっている。
(見ちゃだめっ!)
そんな願いも虚しく、兎はこちらへと顔を向ける。
ああ、なるほど――――血染め兎と呼ばれている理由が分かった。
兎の顔は紅く塗られており、古い塗料がボロボロと剥がれた壁のようにひび割れていた。
赤い目からは血の涙がスーッと頬にさらに紅い線をつける。
怖い顔のはずなのに――――私はその兎の姿に釘付けになっていた。
いつの間にか第三者目線だった私は主観として兎の姿を捉えていた。
兎は少しずつ距離を縮めてくる。足音もなく。一歩一歩、そして手の届く距離まで――――
兎は私に手を伸ばす。その腕は顔とは違って真っ白だ。
そのフワフワの羽毛を眺めていると――――
ブシュッ―――
自分の方で何か噴き出す音がした――――
お腹が熱い…………
顔を傾けてすぐ下を見ると、先ほどまで白かった兎の腕が赤く染まっている。
どうしたというのだろうか?
またまた、その部分を凝視する。
そこにあったのは自分が毎日使っている裁縫道具――――
なんだっけ……そうだ、鋏だ。
布きり用の一番大きいやつ――――
どうしてそれが自分のお腹に刺さっているのだろう? あれ? イタイ?
フェルトはその場で足を折るようにして倒れた。
地面には絵の具入りのバケツの水を零したように血の池が広がる。
ここでフェルトの生存本能はやっと自分自身の危機に気が付いたようであった。
這い蹲りながらも、兎から逃げようとフェルトは方向を変える。
目の前には明るい街路が見える。あそこまで行けば――――
だが後ろからは気配が消えない。
兎はまるで楽しむかのようにフェルトの距離を少しずつ詰めてくる。
逃げなきゃ! その思いだけで腹を引きずりながら通路を進む――――
その時、自分の前に誰かが通りかかった。
顔を上げ、それが誰なのか確認する。そこに居たのは少女だ。
自分以上に幼い面持ちで、驚いたことに、その服装は自分の学校の制服に酷似している。
少女は酷く悲しそうな顔をしている。
今にも泣き出しそうなその瞳には大粒の涙が溜まっている。
「ごめんなさい…………」
彼女はそう言うと、踵を返し、その場を走り去ってしまった――――
「ふぇると…………」
上のほうで声がした。誰の声だろう?
「フェルト…………」
誰でもいい。ここから逃げないと――――
「フェルト!」
三回目の呼び声――――そこでフェルトの意識は覚醒した。
目を覚ますと、そこは暗い部屋であった。
視線の先には心配そうに自分を揺する姉の姿がある。
なぜ、そんな顔をしているのだろう?
起き掛けの頭でも疑問に出来るほど、キルトの顔は不安で歪んでいた。
「フェルト、大丈夫? うなされてたけど?」
「わ、私…………」
夢を思い出し、すぐにお腹に手を当てる。
指に液体が付着するのを感じ、ゾクッとした悪寒が背中に走る。
「えっ……」
信じられなくて、もう一度確認する。
だがいくら探っても、鋏で刺されたような傷口は見当たらなかった。
先ほど指先に触れたのは自分の汗であったことに気が付き、安堵を覚えた。
「フェルト? どうしたの? 具合悪いの?」
姉だけではなくいぬくんまでもが心配そうな目でフェルトの顔を覗き込んでいた。
「いぬくん……」
彼をそっと抱き寄せる。
いつもの柔らかい、太陽の匂いが心地よい。
「うわぁ、フェルト。汗すごいよっ!」
「ごめん……でも……もう少しこうしてて、いい?」
「うん……いいけど……」
いぬくんはフェルトの表情から物事を察し、
自分が濡れるのを我慢して、その場で大人しくしていた。
「フェルト。怖い夢でも見たの?」
「うん……そうみたい……」
小さい頃から妹が怖い夢でうなされるのを何度も見てきたキルトだが、
今回は余程酷いほうであったのだろうと確信していた。
汗の量や寝顔の歪み具合からそれを感じたのだ。
「ほら、これで身体拭いて。そのまま寝たら風邪引いちゃうわ」
「ありがとう」
タオルで身体を拭いても身体の違和感までは拭い去れないらしい。
腹部を気にしながら、フェルトはまた布団に入った。
今度はキルトがちゃんと添い寝してあげる体制である。
「さあ、少し寝なさい。フェルト。今度はお姉ちゃんが付いているから、大丈夫よ」
もっと小さい頃、誰かと一緒に寝るのが当たり前の頃は、
母に、こうやってよく添い寝時に髪を撫でてもらった記憶がある。
その記憶が重なり、フェルトは安心をし、目を瞑る。
「お姉ちゃん」
「ん? 何?」
「ありがとね。お休み」
その台詞を言い終わるころにはフェルトの意識は再び眠りの中に落ちていった