第四章 フェルトと黒い針④
その日の夕食はカレーライス。
隠し味にヨーグルトを入れたマイルドなカレーはフェルトの大好物だが、
彼女の様子はどうもおかしい。
「フェルト、どうした。今日はやけに元気がないじゃないか?」
「パパ……お願いがあるの……」
「ん? おこづかいアップの交渉なら駄目だぞ。直接ママに――」
ブレンスはいつもの交渉だと思ったのか、そんな台詞を言う。
フェルトが父親にお願いすることなんてそのぐらいのことなのだから。
「そ、そうじゃなくて!」
「じゃあ何? もしかしてパパとお風呂にでも入りたいって言うんじゃないだろうな?
パパは嬉しいけど……」
「そうじゃないの! もう聞いてよ!」
「ああ、分かった、落ち着きなさい」
フェルトをなだめ、席に着かせるブレンス。やっと娘の真剣さが伝わったようだ。
「パパってぬいぐるみの修復のプロなんだよね?」
「ああ、まあそういうことになるな。別にそれを専門にしているわけじゃないが」
「どんなひどい状態のパートナーでも治せる?」
「状態を見なけりゃなんとも言えないが――――話が見えないな。詳しく話してみなさい」
フェルトはブレンスへと今日の出来事を話した。
「ん? ちょっと分からんな。キルト、どういうことだ?」
「多分、――――ってことじゃないかしら?」
フェルトの説明があれなので、キルトに一部翻訳を任せながら、
事情を飲み込んだブレンスだ。
「けれど、プロの針師に頼んで駄目ならば、相当酷い状態だと見る――――
パパですら治せないかもしれないぞ」
「もうっ! パパは世界一の針師なんでしょ?」
「いや……実際、世界一では――」
小さく呟くブレンスだ。小さい頃、フェルトに世界一という言葉を吹き込んだのが原因らしい。
純粋なフェルトは今でもその言葉を疑っていないようだ。
「いいじゃない? ブレンスさん。たまには難しい仕事をしてみないと腕が鈍るでしょ?
それに私もあなたのカッコいい所見たいもの」
「けれど、リースちゃん……」
「パパ……お願い!」
フェルトは潤んだ眼でブレンスを斜め下から見上げる。
「ほらっ、お姉ちゃんも頼んでよ!」
「えっ? 私も?」
「そうそう」
「はぁ、分かった。愛する家族に頼まれちゃ、断れないな」
結局、女性三人の押しに負けて、ブレンスはその仕事を請け負うことにしたのだった。
それから二日間、段取り通りことはスムーズに運んだ。
休日を利用して、マリアはブレンスへと顔合わせをする。
その場所はブレンスの職場の一角で彼がぬいぐるみを修復する時に使うスペースであった。
フェルトの付き添いでキルトも来ているのだが職場に入るのは二人とも始めて。
プロの仕事場を目の前にフェルトばかりではなく
キルトも珍しい物を見るかのようにキョロキョロと辺りを見渡していた。
そんな中、ブレンスはマリアが運んできたペロを抱えると、
職場の机の上に横たえる。
これから〝仕事〟が始まるのだろう。
「マリアちゃん。フェルト。すまないが出ていてくれないか? 狭い部屋なのでね」
「私は?」
「キルトは俺を手伝ってほしい。
お前ももうすぐ、一針師として自立しなきゃならないのだからな。
仕事を見せるのも悪くない」
「分かったわ」
家ではいつもおどけている父親が
職場に入った瞬間に職人の顔になっていることをそこの全員が気付いていた。
そんな彼を邪魔しないためにもフェルトもマリアもその場を出、
隣の休憩室へと移動する。
休憩室は簡易的なソファーと自販機があるだけの小さな部屋であった。
そのソファーに向かい合ってマリアとフェルトは座る。
「あれっ? ウルフィーも追い出されたんだ?」
「まあな。狭い部屋だからな」
ウルフィーはフェルトの足元に潜り込むと昼寝の体制に入った。
いぬくんも寝ていることからして犬には眠い時間なのだろうか?
正面を向くとマリアは真剣そうな目をしてタイルの一部を見つめていた。
そんな彼女の隣にウルフィーはいつの間にか移動する。そして小さな声で
「ブレンスの腕は確かだ。心配するな」
と言ったのが聞こえた。
ガチャ――――
ノブを回す音が聞こえる。その音でフェルトの頭は急覚醒。
時計の針を見る。
さっき見た時から短針が三つ分近くも進んでいる。
どうやら長い昼寝の時間になってしまったらしい。
ドアのほうを向くとそこには疲れきったキルトがトボトボと歩いてくる様子が目に入った。
「あのっ……ペロはどうですか?」
「うん。今のところ、順調みたいだよ。私にはなんとも言えないけど……」
キルトは自販機からコーヒーを買うと一気にその場で飲み干した。
「お疲れのようだな。キルト」
「ええ……これほど疲れたのは初めてよ……」
彼女はソファーにドット腰をかけると、その場に横になった。
どうやら寝る体制らしい。
「ごめん……少し寝かせて」
そう言い終わる頃にはキルトの目は完全に閉じていた。
優秀な姉がこんなになるなんてあの部屋の中はどのようなことになっているのだろうか?
不思議そうな顔をするフェルト。
「ブレンスは仕事になると神経質だからな。慣れていないと、こうなる」
ウルフィーは目の先の眠った少女を見る。
その疲れ具合で父がどんなに高度な仕事をしているのかが良く分かった。
それからブレンスが姿を現したのはそれから三十分ほどした後のことである。
その手には小さな犬のぬいぐるみが抱えられていた。
ぬいぐるみに動きはない――――
「やるだけのことはやった。結果は神のみぞ知ると言うところか……」
ペロをソファーの上に置くブレンス。
「さあマリアちゃん。ペロを起こしてやってくれ」
「は、はい……」
緊張した面持ちでマリアはペロの頭を撫でる。
目を覚まさないにしろその体に傷は一切見えない。
これはブレンスの修復技術が確かなことを顕著に示していた。
「ペロ……起きて……」
静かにマリアは語りかける。まるで小さな子供を起こすように優しく……
「ペロ……」
何度頭を撫でても彼は起き上がらない――――
けれども諦めずにマリアは語りかける。
何度その行為が続いただろうか?
「ごしゅじんさま……?」
信じられなかった。先ほどまで眠っていたペロの口が開いたのだ。
「ペロ? 分かる? 私。マリアだよ!」
「あれ? ペロは何を……?」
「ペロっ!」
マリアはそんな彼に抱きついた。力強く、精一杯。
「ふう、どうやら成功のようだな。キルトのアシストのおかげだな」
ブレンス安堵の表情を取り、ソファーへと座り込む。
その険しかった表情はそこでやっといつもの父親の顔に戻るのだ。
「そんな、私は何もしてないし……」
遠慮がちに父親の労いの言葉に赤くなるキルト。
それを隠すために彼女はウルフィーを顔の前で抱きしめた。
一方フェルトは、マリアの涙に感化される。
「ううっ……感動だよぉ! よかったね。いぬくん……」
「ん? 晩御飯の時間? 今日のおかずは、なあに?」
「もうっ! 感動の場面ぐらいしっかりしていてよ!」
感動混じりの涙を流しながらもいつもの調子でいぬくんを叱咤する。
その後、彼の背中をタオル代わりに使ったことは言うまでも無い。
「ありがとうございました」
涙の収まったマリアはそこに居た全員に深々と頭を下げる。
その時やっとフェルトは彼女の笑顔を拝むことができたのであった。
その笑顔はとても可憐な少女に見えた。