第1話
風が、止んでいた。
少女は、花の前にいた。
白いワンピースを着ていた。汚れひとつない。周囲の瓦礫や焦げた土の中で、そこだけが場違いなほど清潔だった。
手を伸ばす。淡い紫の花を、一輪、丁寧に摘む。迷いがなかった。摘んだあと、何事もなかったように手を下ろした。
――それを摘まれた人は、もう二度と、何も感じなくなる。
瓦礫の平原が地平まで続いている。焼けた土、崩れた壁、かつて何かだったものの残骸。その中に、その村だけが残っている。色のない世界で、そこだけが不自然なほど満ちていた。
花だ。
赤、白、青、名も知らない色が地面を覆い尽くしている。どれも枯れていない。どれも崩れていない。
その中に、淡い紫が目についた。小さな花が、寄り添うようにいくつも咲いている。風がなくても、わずかに揺れているように見えた。
少女は少しだけ立ち止まり、それを見たあと、歩き出した。
男は、花の中に座っていた。
膝を抱えて、うつむいている。年は若い。ただ、その若さが痛々しく見えた。
少女は少し離れたところで、男を見た。
それから、近づいた。
「……ねえ」
男が顔を上げる。少女を見て、少しだけ戸惑った顔をした。
「ここ、よく来るの?」
「……初めて」
「そっか」
少女はその隣に、自然に座った。距離が近い。けれど、男は何も言わなかった。
「誰かのこと、考えてた?」
男は黙った。否定しなかった。
「……好きな人がいた」
「いた?」
「向こうから、終わった」
風のない空気の中に、声だけが落ちた。
「でも、忘れられなくて」
「どのくらい?」
「一年くらい」
少女は淡い紫の花を見た。寄り添うように、いくつも並んでいる。
「それ、よくないって言われてる」
「……誰に」
「そのままだと苦しいままだって」
男は少女を見た。誰に、という問いには答えが返ってこなかった。
「……そうかもしれない」
「終わらせたほうがいいよ」
少女は言った。責めているのではなかった。怒っているのでもなかった。
「そうしたほうがいいって」
男はしばらく黙っていた。
「……どうすればいい」
「思い出して」
少女は前を向いたまま言った。
「どんな人だったか。何が好きだったか。どうして忘れられないのか」
「それを、全部見る」
「見たら、終わる?」
「終わると思う」
迷いがなかった。
「もう十分だって思えるまで、見ていいって言われてるから」
男は目を閉じた。
少女は何も言わなかった。ただ、隣にいた。膝を揃えて、前を向いて、待っていた。待っているというより、そうするように決まっていたような、そういう座り方で。
風が、わずかに動いた。
男の肩から、ゆっくりと力が抜けた。
「……あれ」
目を開ける。
「なんか、ぼーっとしてた」
首を傾ける。さっきまでの重さが、どこかへ行ったように見えた。
「……ここ、どこだっけ」
「花が咲いてるとこ」
少女が答えた。
「そっか」
男は周りを見た。不思議そうに。迷子になった子どものように。
風が強くなった。
淡い紫の花が、まとめて崩れた。ひとつではない。いくつも、いくつも、一斉に。寄り添っていたものが、形を失っていく。色が抜けて、崩れて、地に還る。あとには何も残らない。土の色だけが、そこにある。
男は立ち上がった。
「……帰るかな」
少女を見る。
「ありがとう、えっと」
名前を聞こうとして、やめた。
「うん」
少女は小さく頷いた。
男は歩いていく。少しだけ、足取りが軽かった。
少女は土になった場所を見た。
周囲の花は変わらず咲いている。紫だけが、もうない。
「これでよかった」
呟く。誰かに確認するのではなく、そうするように決まっていたから、そう言った。そういう声だった。
それから、立ち上がった。
次の花を、探すように、歩き出した。




