2-06 泣くほど辛いのなら、行かなくて良いから
ようやく、視線の先に踏切が見えて来た。
商店街は、線路と駅を跨って北と南に延びていて、私は南の商店街にいる。
ここから上りと下りの線路を挟んだ場所にある駅のホームに行くには、ふたつのルートがある。
北と南に繋がる地下道を通って行く地下改札ルートと、踏切の途中で線路の間にある小さい改札から入るルート。
地下から行った方が踏切待ちしなくて良いんだけど、動きの鈍くなった足では階段の上り下りをしたいと思えない。
だから私は、踏切を通るルートを選んだ。
「踏切渡ったら、やっと駅かぁ……」
目の前で、踏切の遮断機がゆっくりと下りていく。
私は足を止めると同時に、心を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸した……つもりだった。
それなのに、甲高い警告音によって、心臓の音が打ち鳴らされているようにも聞こえる。
バクバクと鳴る心臓に、何故か堪えきれない気持ちが零れた。
「…………」
本当は会社に行きたくなかった。
本当は……職場に行っても、休日だから誰もいない。
だから一日休んだところで、咎めるひともいない。
でも、私に任された仕事だけが終わっていなくて、それを終わらせるために必死に働いていた。
だけども、私は役立たずで、皆の足手まといになっていて、それでも新しい作業は次から次へと詰みあがっていく。
タスクを崩していくには、残業して、休日に出社して……。
こんなに頑張っていても終わらないんだから、連休明けに出て来た同僚や上司はきっと酷く落胆するんだろう。
たしか……あの日も、目の前で電車が通過するのをこうやって待ちながら、会社に行きたくないと思い続けていた。
そうしたら私は、白玉たちの世界に召喚されて……。
「やっぱり、行きたくない……」
なんで私、そう思っていたことを忘れていたんだろう。
きっと異世界での充実した生活が、辛い出来事を忘れさせてくれていたのかもしれない。
聖女としての使命を終えて、成すべきことを成し遂げて、異世界のみんなに褒めてもらえて。
私は役立たずなんかじゃないんだって、思うことが出来た。
でも、こっちの世界に戻ってきた私は、うずくまって自分の無力さにひとりで泣くしかない。
「……行きたく……ないよ……」
仕事に行かないと、と思うほどに……気持ちが悪くなって、吐き気がして、頭が痛くなって、足が動かなくなる。
あのときは異世界に飛ばされたことで心が救われた。
私が異世界を救ったんじゃなくて、異世界が私を救ってくれたんだ。
でも、帰ってきてしまった今は――。
「詩乃ちゃんっ!!」
異世界から戻ってきたことを後悔しかけた瞬間に、私を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、大家さんが……尚君が、白銀の光を放ってこちらに向かって走っていた。
「な、お君……?」
天使が走ってきたのかと思うような幻想的な光景に、私は思わず見とれてしまう。
彼は私の腕を掴んで引き寄せたかと思うと、思いっ切り抱きしめてきた。
「詩乃ちゃん! 無事で良かった!」
大げさだなあ……なんて返す心の余裕は、ない。
尚君の行動にしてはあまりにも強引で、でも彼の腕の中は暖かくて、安心出来て……。
思わず私の瞳からポロポロと涙がこぼれていく。
「尚君、どうして……」
「そんなに真っ青な顔をしているのに、どうして会社に行こうとするんですか!」
「……でも、私は役立たずだから、仕事が終わらなくて……」
「身体や心を壊してまで行く理由なんて、ありません!」
「……でも……」
「泣くほど辛いのなら、行かなくて良いんです! 僕が詩乃ちゃんを支えますから……!」
「……でも、それも尚君に負担が……」
「僕は負担だなんて思ってません! 詩乃ちゃんが好きだから! いつも笑っていて欲しいから……!」
「……でも」
「っ……!」
何も出来ない私には、尚君と一緒にいる資格なんてないんじゃないかって、良く思っていた。
尚君が「でも」しか言えない私の肩を掴んだかと思うと、私の目をじっと見つめた。
「詩乃ちゃんがそんな無理をしているのは、自立しないといけないと思っているからですよね?」
「……う、うん」
「詩乃ちゃんはちゃんと自立出来ています! それに異世界を救ったんですよね!? 役立たずなんてわけがありません!」
よく見たら、尚君まで泣きそうになっていた。
「だから、そんな風に無理をしないでください……!」
「…………尚君」
「あの日みたいに詩乃ちゃんがまたいなくなったら、僕はどうしたらいいか……」
私が心配されているはずなのに、尚君の悲しそうな様子を見ると、なんだか立場が逆になってしまった気がする。
私は尚君の手をぎゅっと握り締めた。
「心配してくれたのに、振り切ってごめんね……」
「……過保護だって言われても構いません。僕は心配だったから……」
「うん……」
「……今日は仕事休みますよね?」
「うん、今日は休む」
会社に行こうと思うだけで不安定になる状態じゃ、仕事になんてならないだろうし。
気付いたら遮断機は上がり切っていた。
商店街のど真ん中と言うのもあって、周囲からは生暖かい目で見守られている。
私は照れ隠しも兼ねて尚君から手を放すと、大きく伸びをした。
「……もういっそ、会社やめようかな!」
「良いですね。そうしましょう」
私が吹っ切れたように言うと、尚君は満足そうに頷いた。
「僕が詩乃ちゃんを養いますから、安心してください」
「いやそれはさすがに……」
「自立したいって言う願いは、僕と一緒に叶えれば良いと思いませんか? 料理も洗濯もお掃除やお散歩も、ふたりで一緒に分け合って楽しむんです」
私も尚君と一緒に過ごしたいと思っていたけれども、別れた一番の原因は彼が何でもやってしまうから。
その提案通りなら、尚君の負担にならないから、心苦しく感じることも少なくなると思う。
「でも尚君って、なんでもかんでも先にやっちゃうじゃない。そんなことになったら、分け合うも何もないよ?」
「……ぜ、善処します」
尚君が、目に涙を溜めつつも嬉しそうに微笑んで、私に手を差し出した。
「だから詩乃ちゃん、僕と付き合ってください」
「は、はい……。……こんな私でよければ、もう一度よろしくおねがいします……」
「詩乃ちゃんは『こんな私』なんかじゃありません。僕は詩乃ちゃんだから良いんですよ」
私も、尚君の手を握り締める。
彼の優しさに触れ合うと、照れくさくって、でも嬉しくて、ニヤニヤしてしまっているかもしれない。
「シノたち付き合うのか! めでたいな!」
そこでふと気づいたけど、通りすがりの買い物客が、小さく拍手して祝福していく姿が目に見えた。
恥ずかしくなって手を放そうと思ったけど、尚君が踏切の前から南の商店街へと私を優しく引っ張っていく。
「詩乃ちゃん、帰りましょう」
「……うん!」
不思議と悲しみから遠ざけてくれた気がして、苦しかった気持ちが一気に浄化される気分になった。
私は異世界では聖女だったけれども、この世界ではなんの力もない普通の女の子。
尚君にとって私は、どんな存在なんだろう。
私にとっての尚君は……優しくて暖かくて、天使みたいな存在だなあ。
なんてことを思いながら、穏やかな気分で優しく微笑む彼の隣を歩いた。




