-1 《プロローグ》帰りたい場所
世界を救った救世主である聖女が、邪神を浄化した褒美として求めたもの。
それは、財産や権力などではなく……平凡な世界で生きていたひとりの人間としての切なる願いだった。
「私、帰りたい!」
この世界に召喚されたばかりの聖女の様子は、酷く憔悴していた。
まるで死を受け入れんばかりに暗く絶望的な表情をしていたはずだ。
けれどもいつしか、世界を救った彼女の表情は、明るく自信に満ちていた。
「元居た日本に、帰りたいの!」
こちらの世界に来たばかりの頃の自分の様子を、彼女は覚えていないのだろうか。
覚えていて、尚も元の世界に戻りたい思いがあるのだろうか。
「では、シノが戻りたい場所を思い浮かべて……」
わたくしの言葉に、魔法陣の中央に立った彼女がゆっくりと目を閉じて、祈りを捧げるように手を組んで呟く。
「私が、帰りたい場所」
彼女が願いを定めたことを確認すると、わたくしは呪文を唱え始めた。
地に描いた魔法陣が、鮮やかな光を放つ。
「私が帰りたい場所は――!」
彼女が高らかな声で宣言した直後、その足元に大きな影が走り寄る。
その直後、辺りが強い光に包まれ、わたくしは反射的に目を閉じた。
光が収まる気配を感じて目を開く。
「成功するかは疑い半分でしたが……成功しましたか」
すると、魔法陣も彼女の姿も、そしてそこに飛び込んだはずの大きな影の姿も、一切がこの世界から居なくなったことを見止めて、わたくしはほっと安堵の溜め息をついた。
わたくしの手元には、彼女の帰還のために必要だった一冊の本がある。
この本がなければ、彼女を無事に送り出すことが出来なかった。
ずっとこちらで暮らしてもらうか、転移した先で空間の狭間に取り残されていた可能性だってあっただろう。
何気なくページを開いてみると、何度も開いたかのように折り目に跡が残るページが目に入った。
――五月四日。
詩乃ちゃんが、消えた。
最後に彼女の行方が途絶えた場所は、駅だった。
ホームのカメラに、彼女の最後の姿が残っていたらしい。
カメラは彼女が電車に接触する寸前の光景を捕らえていた。
だが不思議なことに、それ以降の彼女の行方は不明だという。
生きているのかは、分からない。
分からないだけだ、と思いたい。
ただひとつ……いや、ふたつだけ、分かることがある。
それは、この世界と夢の世界のいずれからも、彼女の存在を感じないこと。
そして、彼女がもし別の世界へ転移しており、この世界に戻ってきた場合。
……おそらく、彼女の身は無事では済まされない、ということだ。
だから僕は、彼女が戻って来ることの出来る環境を、整えなくてはならない。
例えこの魂が消えてしまうとしても。
彼女が、帰りたいと願ってくれる限りは、必ずやり遂げてみせる。
そうしたら、彼女はちゃんと帰ってこれる。
大丈夫。彼女は生きた状態で帰ってこれるから。
帰る場所は僕が示してみせる。
だから、帰りたいと願ってほしい。
彼女にそう、告げてください。
――これを読んでいるであろう、異世界の魔法使いへ。
この本は恐らく日記だ。
ひとりの女性を失い、そして見つけ出そうとした男が記録した事実。
「帰る場所となる者が命を懸けてしまったら、今度こそシノの帰る場所がなくなってしまうではありませんか……」
わたくしは静かにその本を閉じた。
わたくしの手元にある日記には、新たな未来が綴られることはない。
けれども彼女が戻った先では、きっと新たな出来事が綴られるのだろう。
そう。
異世界から元の世界に帰還した元聖女が、帰るべき場所を取り戻すための物語が……。




