完璧な人形令嬢の葬送:婚約破棄から始まる王家の弔い
水晶のシャンデリアが、千の光を王立夜会の会場に降り注いでいた。
その眩い光の下、アリシア・フォン・ヴィンターフェルトは、一分の隙もない姿勢で立っていた。
背筋はまっすぐに、顎は水平に、微笑みは唇の端から正確に一・五センチメートル。
十五年間、毎日鏡の前で測り続けた完璧な角度だ。
「アリシア様、本当にお美しい」
社交界の貴婦人たちが囁く。
彼女たちの賛辞を、アリシアは優雅に受け止める。
感謝の言葉は簡潔に、表情は柔らかく、しかし決して崩さない。
これが、彼女の人生だった。
七歳の誕生日、第一王子エドワード殿下との婚約が決まった日から、アリシアの時間は止まった。
いや、正確には「王妃としての時間」だけが、恐ろしい速度で流れ始めた。
「刺繍がお好きなのですか?
では、今日からは政治経済の書を読みなさい。
趣味は王妃には不要です」
「お友達とお喋り?
時間の無駄です。
その時間で外交文書を暗記しなさい」
「泣いてはいけません。
笑いすぎてもいけません。
感情は、必要なときに必要なだけ見せるものです」
母の、家庭教師の、執事の、そして父の声が、幼いアリシアの世界を塗り替えていった。
気づけば、彼女は「アリシア」ではなく、
「未来の王妃」になっていた。
「殿下」
隣に立つエドワード王子に、アリシアは完璧な笑みで語りかける。
「本日の夜会も、大変な盛況ですこと」
「……ああ」
エドワードの返事は、いつも通り素っ気ない。
それでも構わない。
王妃に求められるのは、会話の巧みさではなく、王家の威厳を保つことだから。
アリシアは、自分の役割を完璧に演じ続けた。
それが、正しいことだと信じて。
異変は、突然訪れた。
エドワード王子が、アリシアの手を離した。
「皆、聞いてくれ」
会場の中央へ、王子が歩み出る。
その手には、見慣れぬ少女の手が握られていた。
栗色の髪を無造作に結んだ、平民出身の特待生――ニナ。
アリシアの心臓が、初めて、不規則な音を立てた。
「私は本日、アリシア・フォン・ヴィンターフェルトとの婚約を破棄する」
ざわめきが、波のように広がった。
アリシアは動かなかった。
動けなかった。
十五年間の訓練が、彼女の身体を完璧な静止状態に保っていた。
「アリシア、君は完璧だ。完璧すぎる」
エドワードの声は、まるで欠陥品を説明するかのように冷淡だった。
「君は何一つ間違えない。
礼儀も、知識も、立ち居振る舞いも。
だが――」
王子は、ニナの肩を抱き寄せた。
「君には人間味がない。
まるで作られた人形だ。
私は隣にいても、心が休まらない。
いつも監視されているような、試されているような気分になる」
「殿下」
アリシアの声は、震えていなかった。
完璧に、冷静に、王妃としての責務を説こうとした。
「婚約は国家間の約束です。
個人の感情で破棄することは――」
「そういうところだ!」
エドワードが声を荒げた。
「そういう理屈っぽいところが、たまらなく嫌なんだ!
ニナを見ろ。
彼女は笑うときは心から笑い、泣くときは本当に泣く。
人間らしい温かさがある。
君にはそれがない!」
会場は静まり返っていた。
アリシアは、ゆっくりと視線をニナに向けた。
少女は、泣きそうな顔で王子の背後に隠れている。
か弱く、守られるべき存在として。
そして――
視線が合った瞬間、ニナの表情が変わった。
王子に見えない角度で、ニナはペロッと舌を出して、
勝ち誇ったように笑った。
その瞬間、アリシアの中で何かが音を立てて崩れた。
十五年間、一日も休まず積み上げてきた「正しさ」の塔が、
一瞬で瓦礫に変わった。
(ああ、そうか)
アリシアの唇が、かすかに動いた。
(この世界は、正しくある人間ではなく、
図太く汚く振る舞った人間が勝つようにできているのね)
何かが、彼女の瞳から抜け落ちた。
代わりに、底知れない暗い艶が宿った。
「――承知いたしました」
アリシアは、深く、優雅に、
まるで死者のような礼をした。
そして、誰にも何も言わせず、会場を去った。
その背中は、あまりにも美しく、あまりにも静かで、
誰も声をかけることができなかった。
翌日。
王宮の会議場には、昨夜の騒動の後始末に追われる重臣たちと、
勝ち誇った表情のエドワード、
そして怯えたふりをしたニナがいた。
「やはり、婚約破棄は国民感情を考えると時期尚早では――」
「構わん。
アリシアの家は理解してくれるはずだ。
彼らは王家に忠実だからな」
エドワードが傲慢に言い放った、その時。
扉が開いた。
現れたのは、アリシアだった。
だが――
彼女の纏う衣装に、誰もが息を呑んだ。
純白のドレスではない。
夜の闇を溶かし込んだような、漆黒の喪服ドレス。
レースのヴェールが、彼女の表情に影を落としている。
「アリシア……?」
エドワードが、かすかに眉をひそめた。
「何の真似だ。
そんな不吉な格好で――」
「喪服でございますわ」
アリシアの声は、静かだった。
「誰が死んだというのだ」
「ええ。
昨夜、二人ほど」
彼女は、ゆっくりとテーブルに近づいた。
「一人は、あなた方が愛した『王家』。
そしてもう一人は――」
アリシアは、自分の胸に手を当てた。
「七歳で死んだ、
アリシア・フォン・ヴィンターフェルトという名の少女です」
会議場に、冷たい沈黙が落ちた。
「これが私の、最後の王妃教育の成果です」
アリシアは、テーブルの上に、分厚い書類の束を置いた。
パラパラと、紙がめくれる音。
そこに記されていたのは――
エドワードがニナに貢ぐために横領した公金の記録。
王家が隠蔽してきた汚職の証拠。
諸外国との密約文書。
そして、数々の不正の動かぬ証拠。
「な、何だこれは……!」
重臣の一人が顔色を変えた。
「どこでこんなものを……!」
「どこで、ですって?」
アリシアは、初めて笑った。
それは、十五年間封じられていた、
人間らしい感情の爆発だった。
「私は『完璧な王妃』になるために、
王家のすべてを把握するよう教育されました。
財政も、外交も、裏の取引も。
すべて、知っておりましたわ」
彼女の指が、書類を優雅に撫でた。
「王妃とは、王家の秘密を守る存在。
ですから私は、これらをすべて密かに記録し、
保管していたのです。
王家のために――」
アリシアは、ヴェールを上げた。
その瞳には、狂気にも似た輝きがあった。
「――だと、思っていましたか?」
「貴様……!」
エドワードが立ち上がる。
だが、アリシアは既に扉へと歩み出していた。
彼女の手には、もう一通の封筒。
「この写しは、既に各国の大使館、
そして王国内の主要新聞社に届く手はずになっております。
一時間後には、王家の醜聞が王国中に知れ渡るでしょうね」
「狂ったのか!
こんなことをして、君の家だって無事では済まないぞ!」
エドワードの絶叫。
アリシアは、振り返った。
そして――
彼女は、これまで一度も見せたことがないほど、
瑞々しく、人間らしく、
狂おしい笑みを浮べた。
「ええ、狂いましたとも」
アリシアの声は、甘く、冷たく、
そして恐ろしいほど生き生きとしていた。
「十五年間、人形として生きてきた私が、
ようやく人間に戻れたのです。
嬉しくて、嬉しくて、どうにかなりそうですわ」
彼女は、エドワードに近づいた。
「殿下は仰いましたね。
私には人間味がない、と」
その指が、エドワードの頬を撫でた。
王子は、恐怖に顔を引きつらせた。
「でも、ご覧なさい。
今の私、どうかしら」
アリシアの瞳が、狂おしいほどの憎悪と、
解放感と、そして歓喜に満ちていた。
「憎しみ、怒り、復讐心、絶望、
そして――自由。
たっぷりと、人間味に溢れているでしょう?」
「……っ」
「共に地獄へ参りましょう、殿下」
アリシアは、優雅に礼をした。
それは、完璧な王妃の礼儀作法だった。
「あなたが望んだ『人間らしいアリシア』を、
とくとご覧ください」
その視線が、ニナへと向いた。
少女は、青ざめた顔で震えていた。
「ああ、そうそう」
アリシアの声が、
蜜のように甘く、毒のように冷たく響いた。
「ニナ様。
昨夜は、素晴らしい演技でしたわね」
「え……?」
ニナの顔が、さらに白くなった。
「あの、舌を出して笑った瞬間――」
アリシアは、ゆっくりと自分の舌を出してみせた。
まるでニナの仕草をなぞるように。
「とても、とても人間らしくて。
私、感動いたしましたの」
会議場の空気が凍りついた。
「あなたのおかげで、
私は目覚めることができました。
感謝しておりますわ」
アリシアの笑みが、深くなった。
「ですから、これは私からの贈り物です」
彼女は、もう一つの書類をテーブルに滑らせた。
それは、ニナが王子に近づくために仕組んだ策略の記録。
貴族の子息への毒の盛り方。
成績を上げるための不正。
そして、王子を籠絡するための計画書――
すべて、ニナ自身の筆跡で。
「これも、王妃として把握すべき情報でしたので」
アリシアは、崩れ落ちるニナを一瞥もせず、
扉へと向かった。
「ご安心なさい、ニナ様。
あなたも私たちと一緒に、
地獄へいらっしゃれますわ」
扉が開く。
外では既に、
衛兵たちの怒号と、混乱の足音が響いていた。
証拠書類が公開され、
王家の権威が失墜していく音。
アリシアは、崩壊が始まった王宮を、
軽やかな足取りで歩いていった。
黒いドレスの裾が、
まるで夜そのものを引き連れているように翻る。
廊下の窓から、朝日が差し込んでいた。
アリシアは、十五年ぶりに、心から笑った。
「ああ――」
彼女の呟きが、
誰もいない廊下に響く。
「自由って、こんなにも美しいのね」
ガラスの檻は、砕け散った。
王家という名の棺は、閉じられた。
そして、七歳で死んだ少女の葬儀は、
ようやく終わりを迎えた。
闇に堕ちた元王妃候補は、
新しい世界へと歩き出した。
もう二度と、
誰かのために生きることはない。
これからは、自分自身のために――
たとえそれが地獄への道だとしても。
漆黒の喪服は、
過去への弔いであり、
未来への宣戦布告だった。
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