澱
入口の前で、二人は同時に足を止めた。
……いる。
さっきまで部屋にいなかったはずの場所に、
当たり前のような顔で、シュルヴァンが立っていた。
「…………」
言葉が出ない。
「ふふ」
口元だけで笑う。
「あら? もう三時間も経ちましたよ」
そう言って、
片手を胸の高さまで上げ、
手のひらを上に向ける。
指先が、くい、くい、と動いた。
「来なさい」
ピコの喉が、ひくりと鳴る。
甲州は反射的に一歩下がり、すぐに止まった。
逃げても意味がない。
それは、もう分かっている。
⸻
再び、手が触れる。
ピコの内側で、
あの感覚が即座に再起動した。
胃の底から、
ぬめりを帯びた違和感が湧き上がり、
背骨に沿って一気に広がる。
今度は、逃げる猶予すらない。
「――っ、う……っ!」
胃の中で、
何かが反転する。
虫が這う、では足りない。
巣が動く。
内臓の配置が、
勝手に組み替えられていく感覚。
腸が引き伸ばされ、
肺の裏を何かが撫で、
心臓の鼓動が一拍ずつズレる。
「おえっ……! ぐ、ぁ……っ!!」
床に吐き、
それでも止まらず、
喉の奥から空気ごと絞り出される。
視界の端で、
甲州が歯を食いしばるのが見えた。
次は、彼だ。
甲州の身体が、
一瞬で張り付いた。
筋肉が、
内側から“締め上げられる”。
鍛えたはずの筋が、
逆に抵抗になって、
硬直が深く食い込む。
肩から背中、腰、太腿。
すべてが同時に収縮し、
逃げ道を失う。
「……っ、く……っ!!」
声を出そうとすると、
喉の奥が固まり、
息が途中で止まる。
筋肉が悲鳴を上げる前に、
感覚そのものが鈍化していく。
力が入らないのに、
限界まで踏ん張っている錯覚。
身体が、
自分のものでなくなる。
膝が崩れ、
床に落ちる音だけが響いた。
⸻
ふたりとも、
息も整わないまま、
床に伏している。
シュルヴァンは、
それを見下ろしながら、静かに言った。
「……ええ。そう」
声は優しい。
「これが、あなた方の“滞り”」
指先が、
空をなぞる。
「マナは、本来――
流れているものです」
水が川になるように。
風が層を作るように。
「外に満ちるものを借り、
内を通し、
また外へ返す」
それが、この世界の生き方。
「でも、あなた方は違う」
ピコの背に、
ぞわりと残る不快感が脈打つ。
「千年」
その言葉だけで、
重さが落ちてくる。
「千年もの間、
流れないまま、
溜めた」
封じられていたわけではない。
止められていたわけでもない。
「ただ、動かなかった」
だから腐る。
だから詰まる。
だから、
一気に流そうとすれば、
身体が拒否する。
「今、あなた方の中にあるのは――
力ではありません」
にこり、と微笑む。
「**澱**です」
残酷なほど、穏やかに。
「道を作ります。
少しずつ、何度も」
逃げるという選択肢が、
最初から存在しないことを、
その笑顔がはっきり示していた。
「さあ。うふふ。」
指先が、また動く。
「休憩は終わりです。ふふふ」
何度か、
シュルヴァンは何事もなかったかのように部屋を出ていき、
そしてまた戻ってきた。
そのたびに、
同じ手の動き、
同じ距離、
同じ声。
回数だけが増えていった。
いつからか、時間の感覚は消えていた。
窓の外が赤く染まりはじめたとき、
ようやくそれに気づく。
空が、燃えている。
太陽はすでに輪郭を失い、
街と川と空の境界が、ゆっくり溶けていく。
その光が部屋に差し込んで、
床に伏した二人の影を、長く引き伸ばした。
ピコも甲州も、
一歩も動いていない。
なのに、
服は肌に貼りつき、
髪から雫が落ちる。
まるで、
バケツで何度も水を浴びせられたみたいだった。
呼吸のたびに、
内側が重く揺れる。
吐くほどではない。
だが、気持ち悪さが完全に消える瞬間が一度もなかった。
甲州が、床に額をつけたまま、かすれた声を出す。
「……寝よう……」
ピコは、返事もせず、
ただ小さく頷いた。
「……もう……ムリ……」
その言葉に、
反論する力すら残っていない。
シュルヴァンは、いつの間にかいなかった。
扉は閉じられ、
部屋には夕焼けの残光と、
重たい沈黙だけが残る。
長い一日だった。
始まったばかりのはずなのに、
身体も、意識も、
何年分も削られた気がした。
こうして、
ピコと甲州の――
長い初日の終わりは、あっけなく、早く訪れた。
眠りは深く、
夢を見る余裕すらなかった。




