今すぐ壊れたりはしません
水脈院の奥、川のせせらぎがかすかに響く石造りの一室。
壁には水脈を模した紋様が淡く光り、
まるで部屋そのものが水の上に浮かんでいるようだった。
三人はようやく腰を下ろし、深く息をついた。
「……部屋、広っ。
いや、水脈院って……こんな部屋まであるんだな」
甲州が布団をぽんぽん叩きながら感心する。
ベラは室内を一巡し、静かに告げた。
「特別待遇ではありません。
“一位階”──基礎習得者と同じ扱いだそうです。」
「基礎でこれ!?
でも一億もらったし……普通にいい宿屋泊まれたよな絶対……」
甲州が天井を見上げてぼやくと、
ベラは珍しく柔らかく言葉を添えた。
「あの方──シュルヴァン様は、とても良い方です。
本来、旅に大金は必要ありません。
“多すぎる額”をわざとお与えになりました。」
ピコは寝間着に着替えながら、
どこか気まずそうに頬をかいた。
「……あのさ。
実は……言い忘れてたんだけど……」
「なんだよ?」と甲州。
ピコはバッグを開け、
そっと布に包まれた“光る球”を取り出した。
「……あと四個あるんだよね……」
「はああああ!?!?」
甲州が布団から跳ね起きる。
「いや、あそこでさ……
木になってた実、結構たくさんあって……
とりあえず採っておくかって……たはは」
「“たはは”じゃねぇ!!
それ一個で一億だぞ!? 五億相当だぞ!?
お前、森ごと買えるんじゃねぇか!?」
ベラは淡々と袋の中を覗き込んだ。
「価値が高い理由は推測可能です。
森へ人間は入れません。
ユグラドシル周辺には生物が存在しませんでした。
つまり“あそこに近づける種族”は極端に限られていたのでしょう。もしくは...いない。」
ピコと甲州は息を呑んだ。
「……つまり……俺たちだけが“採れた”ってことか?」
「マナ──あるいはミストラ、イドラスと呼ばれる力が
身体に適応している可能性が高いと判断します。」
「……なんか……急に怖くなってきたな」
「とりあえず!」ピコが両手を広げて言う。
「大事に取っとこうぜ! ナイス俺!」
「いやお前、自分で言うなよ……でも……マジでナイスだわ……」
三人の顔に、ようやく少しだけ笑みが戻った。
その時、窓の外から──
水音と光が入り混じったような幻想的な気配が流れ込んできた。
ピコがカーテンを開ける。
「……うわ……」
大河ナハ=ルートの上に浮かぶ建造物群、
緑光を放つ苔光の灯り、
水車が夜の闇に静かに影を刻む。
川面に映る光が揺れ、
街そのものが呼吸しているようだった。
「すげぇ……なんか……絵本みたいだな……」
「……サガにも、すぐ会えるといいな」
三人はしばらく窓辺に立ち、
未知の街の夜景をただ見つめた。
迷いも、不安も、興奮も、
すべて水底の光に溶けていくようだった。
翌朝。
水脈院から与えられた部屋は、静かだった。
川のせせらぎが遠くで反響し、床に敷かれた石はひんやりと冷たい。
扉が、ノックもなく開く。
「おはよう」
入ってきたのは、シュルヴァンだった。
年齢を感じさせる白髪をまとめ、穏やかな微笑みを浮かべているが、目だけが妙に冴えている。
「今日は軽く、身体を見ましょう」
なぜか、軽くという言葉に説得力はなかった。
ベラが一歩前に出る。
「私は身の回りの補助役です。修練は不要かと」
「あら、ええ。あなたはそのままで」
シュルヴァンはベラを一瞥しただけで興味を失い、視線をピコと甲州に戻す。
「……では、あなたから」
逃げ道はなかった。
ピコが一歩前に出た瞬間、
シュルヴァンの手が、胸に触れる。
その瞬間。
胃の奥が、ひっくり返った。
「――っ」
痛みではない。
内側に、異物が入り込んだ感覚。
胃袋の壁をなぞるように、
細長い何かが、ぬるりと動く。
一匹じゃない。
胃から腸へ、
腸から背骨の内側へ。
身体の中を、虫が這い回る。
「……ぐ……っ」
喉が勝手に閉じる。
唾液が溢れ、視界が歪む。
逃げ場がない。
内臓という内臓が、
勝手に“起き上がる”。
胃の裏、肋の内側、
背骨の奥。
そこを、這う。
絡む。
広がる。
「おえっ……!!」
床に吐いた。
胃液の匂いが広がるが、
それでも、終わらない。
吐いても、
虫は消えない。
身体の奥で、
まだ動いている。
シュルヴァンの手は、
ただ置かれているだけなのに。
「……長いわね」
低く、楽しそうな声。
ようやく手が離れた瞬間、
ピコは膝から崩れ落ち、
床に手をついたまま、えずき続けた。
⸻
「次」
甲州が一歩下がろうとしたが、
もう遅い。
胸に触れられた瞬間、
今度は全身が固まった。
「……っ!!」
息が止まる。
筋肉が、勝手に縮む。
腕、肩、背中、太腿。
一本一本の筋が、
内側から杭を打たれたみたいに固定される。
動かそうとしても、
命令が届かない。
筋肉が、
自分の意思で拒否している。
関節の奥が、
ぎし、ぎし、と鳴る錯覚。
「……ぐ……ぁ……」
声を出そうとすると、
喉の筋まで硬直し、
音が潰れる。
全身が、
石像になる途中。
力を入れていないのに、
限界まで踏ん張った時の震えが来る。
視界の端が白くなり、
膝が折れて床に落ちた。
呼吸が、できない。
シュルヴァンは、その反応を確かめるように一瞬だけ触れ続け、
「……こちらは、圧が強い」
と、首を傾げた。
「溜め込み方が、実に不器用ね」
手が離れた瞬間、
筋肉が一斉に緩み、
甲州は床に倒れ込んだ。
肺に空気が戻り、
咳き込む。
⸻
シュルヴァンは二人から一歩下がり、
何事もなかったように言う。
「大丈夫」
穏やかな声。
「今すぐ壊れたりはしません」
ピコはまだ、
胃の奥にぞわぞわとした蠢きを残したまま、
甲州は自分の腕を見つめ、
微かに震える指を確かめていた。
甲州の呼吸が荒れる。
「……俺……死ぬ?」
「死なせません」
即答。
「ただし」
にこり、と笑う。
「放っておいたら、勝手に壊れます」
二人から手を離し、軽く手を払う。
「だから」
声は優しいまま。
「今日から、時間を置いてすぐやります」
ピコが震える声で言う。
「……すぐ……?」
「ええ」
楽しそうに。
「少しずつ“流す”の。
ほっとくと、死ぬから」
甲州が顔を上げる。
「それ、選択肢ある?」
「ありません」
即答。
「逃げ道は最初から無いのよ」
「安心なさい。
私が見ている間は、ね」
そう言って踵を返す。
扉の前で、振り返る。
「……ああ、そうそう」
「吐くのは構いません」
にこっ。
「慣れますから」
扉が閉じた。
部屋に残された三人。
水音だけが、静かに響いていた。




