水底静室
シュルヴァンはひとり、水面の前に座し流視に沈んでいた。
流視とは、シャーマンのみが使える秘術。未来の輪郭が“水の理”に滲む瞬間を捉える術。
澄みわたることもあれば、霧のように曖昧なまま終わることもある。
だが──今日の水面は、鏡のような静寂の中ハッキリと見えた。
光が差し込んだ。
未来そのものが、深みから浮かび上がって向かってくる。
──二つの光。
大いなる光源が、こちらへ流れてくる。
「……導かれましたか」
水面に落ちたその囁きは、まるで部屋の奥へ沈んでいく。
「光が当たれば、影もまた生まれましょう。
光のみを歩んできた者には……あまりに酷な定め」
静かに呟いた声は、水面に吸い込まれていった。
その顔には、覚悟とも諦観ともつかぬ皺が浮かんでいる。
シュルヴァンはまぶたを閉じてひと息ついた。
その静寂のなか、遠くから案内の足音が近づいてくる。
◆
ピコ・甲州・ベラの三人は、水脈院の深部へ案内されていた。
廊下を進むたび、風景が“水”へ溶けていく。
水滴の柱が、天へ向けて細く伸びる通路。
天井へ向かって立ちのぼる無数の“水滴の柱”。
一粒も落ちず、ただ昇りつづける逆雨の回廊を通り過ぎる。
中庭に差し掛かると、
糸のように細い滝が、
庭園のそこここで白金の線を描いて落ちていく。
床は水鏡のように凪ぎ、歩くたびに足跡が光の輪となる。
三人はただ息を呑むしかなかった。
「……ここを歩いてるのは、夢じゃないよな?」
甲州の声が自然と小さくなる。
ベラだけが淡々と周囲を観測し続けていた。
やがて巨大な水門が静かに開き、
“水底静室”と呼ばれる面会の間へ通された。
◆
室内の中央──
水面をそのまま床に敷いたような円形の空間に、
シュルヴァン=リゼルは既に正座していた。
その姿は、沈む石のように揺るぎない。
目尻には深いしわが刻まれ、
その奥から届く憂いのある視線は、三人を“心の奥底ごと”覗き込むようだった。
「……お入りなさい」
声は静かだが、空間ごと圧を持って響く。
ピコたちが一歩踏み込むと、
床の水面がふわりと揺れ、
まるで自分たちが浮いているかのような錯覚に包まれた。
シュルヴァンはゆっくりと三人を見渡した。
「あなた方は──人間ですね」
背後に控えていたラドゥとイレナが息を飲む。
ラドゥは思わず声を漏らした。
「人間!? あり得ません!
森を抜けられるはずが──」
「ラドゥ」
シュルヴァンが穏やかに制する。
ただそれだけで、室内の空気が再び沈黙へ戻った。
シャーマンは三人に視線を戻し、
わずかに目を細めた。
「……導かれたのです。
それ以外に説明はありません」
神秘でも思弁でもなく、事実だけを述べる口調だった。
「あなた方には“力”が眠っています。
しかし今は、まだ覆われたまま……
水脈に触れてすらいない」
吸い込まれるような微笑が、胸をざわつかせる。
「このままスィル=ハイムを出てはいけません。
あなた方の“目”を開く者は──私なのです」
その言葉は確信であり、宣告であり、祝福のようでもあった。
ピコも甲州も言葉を失う。
ベラですら、一瞬だけ反応の遅れを見せた。
沈黙のあと、ピコが勇気を振り絞った。
「……あの。力って、なんですか」
シュルヴァンは静かに頷く。
「この世界の底を流れる理。
エルフはミストラ、人間はイドラスと呼び、
私たちはマナと呼びます。
名は違えど──水のように巡り、命を満たす力。
大地の息であり、心を映す鏡でもある」
三人は息を呑む。
シュルヴァンは言葉を続けた。
「我々はそのマナの流れを変え、その力を借ります。
しかし……あなた方は...
すでに体内に流れている。
本来ならば、絶対にあり得ない現象です」
甲州の手がかすかに震えた。
ピコの喉が固い音を立てる。
ベラはただ沈黙している。
「ゆえに──導かれたのでしょう。
水脈は、必要な者を必要な時に押し流す」
やがて──
ベラが空気を割るように口を開いた。
「売り物の確認の方はどうなっていますか。
我々は旅の途中です。留まる訳にはいきません。
大切な方を探しています。」
その声音は機械的で、しかしどこか切迫していた。
シュルヴァンはゆっくりと目を上げ、
優しげな皺を目尻に寄せた。
「……その光もまた、導かれています…
いずれ、光は引き寄せ合うでしょう。」
その “光” という言葉に
ピコと甲州は顔を見合わせる。
続けて、シュルヴァンは
ベラをまっすぐ見つめて言った。
「急いではいけません。
特にあなた……どこか“欠け”を抱えているように見えます。
怪我をされていますか?」
ベラは一瞬だけ沈黙し、
胸部の装甲に触れた。
「……軽微な損傷があります。稼働には支障ありません。」
「直さねばならぬところは、
身体だけとは限りませんよ。」
シュルヴァンはふわりと微笑んだ。
その笑みは深い井戸のように穏やかだった。
「では……物を見せていただけますか?」
ベラは慎重な動きで、
果実のように淡く光る“結晶”を取り出し、
静かに石台へ置いた。
水底静室が、わずかに色を変える。
淡い青だった光が、白金に揺らぐ。
シュルヴァンの眉が、ゆっくりと持ち上がった。
「……まぁ……なんて眩い……
これほどのもの、私は初めて見ましたわ。」
ラドゥとイレナが息を呑む。
アンコロールオーブを前にして、
二人の喉がごくりと鳴った。
ベラは静かに告げた。
「買い取りを希望します。」
ほんの一瞬──
シュルヴァンの肩が小さく揺れた。
次の瞬間、彼女はふふ、と頬を緩ませた。
「うふふ……ふふ......随分とはっきり言うのですね。ふふふふ
いいでしょう……一億シルではいかが?」
ピコと甲州は声にならない悲鳴を飲み込む。
シュルヴァンは、その反応にまた嬉しそうに笑った。
「そんなに驚く額ではありませんよ。
本物ですもの。うふふ……」
ベラは即答した。
「それで構いません。」
「決まりですね。」
シュルヴァンは満足げに頷き、
掌を軽く打ち鳴らした。
「まずは一千万を。
残りは旅立つ時にお渡ししましょう。
証文も作らせます。ご安心なさって。」
甲州が小声でピコに囁く。
「おい……これ絶対とんでもねぇ取引だって……」
そこへ高弟が駆け戻り、
重そうな革袋を差し出した。
シュルヴァンは袋をベラの前へ滑らせてから、
まるで可愛い孫に話しかけるような声で言った。
「うふふ……本当に、安い買い物をさせていただきました。
ふふ……ふふふふ……。
買えるとしても、エルフ相手なら“五億”は下りませんもの。」
ピコと甲州の背筋が固まる。
シュルヴァンはさらに、
嬉しい秘密を明かす子どものような声で続けた。
「この二百年……
一つたりとも市場に出てこなかったのです。
ふふ……ふふふふふ……」
ベラは無表情のまま、
しかしどこか負けた将棋のような沈黙で頷いた。
水底静室には、
シャーマンの柔らかな笑い声だけが溶けるように響いていた。




