水脈院
森を抜けた先、土が砂へと変わり、
やがて砂は水気を含んで重くなった。
ピコの靴底が沈むたび、吸い込むような音がした。
「……湿地、だな」
甲州が眉をひそめる。
草木は徐々に低くなり、代わりに白い靄が足元から立ち上がりはじめた。
遠くで、巨大な生き物が水面を跳ねるような音が響いた。
ベラは無機質な音を立てながら足を止めた。
「水流の振動、多数。生体反応……多数。危険度、未知」
その“未知”の一言がかえって胸をざわつかせた。
靄の向こう、湿地帯が唐突に開けた。
川幅は森のそれとは比べものにならず、
まるで湖のような広がりだった。
川幅が広がり、水深が急に深くなる"中流の盆地"に築かれた半水没都市。
何十本、何百本という太い杭が水面から突き出し、
その上に住居が立ち並んでいる。
それはまるで、水の上に森を逆さに植えたような光景だった。
苔光ランプが揺れ、川底から緑光が立ち上る。
「……スィル=ハイム、か」
ピコが息を呑む。
杭の下、半ば沈んだ影の中には、
光の筋がゆらめいている。
そこから漏れる青緑色の光が、
水面を通して街そのものを脈動させていた。
甲州が呆然とつぶやく。
「水の……街かよ……」
ピコは、その呼吸に吸い込まれるように見入った。
甲州は拳を握りしめ、何かに惹かれるような顔をしていた。
こうして三人は、
リザードマンの領土、スィル=ハイムへ足を踏み入れた。
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✦ 水脈院
街の中央、半ば水没した大広間では、
水車の軋む音が低く響いていた。
水脈院──スィルの若き戦士と学徒が集う場所だ。
広間の中央に満ちた水面が、不自然に盛り上がる。
ゆらゆらと形を取りながら、一人の影へと変わった。
シャーマン、シュルヴァン=リゼル。
深い湖底を思わせる瞳を持つ老練なリザードマンは、
集まった高弟たちをゆっくりと見渡した。
水が静かに腕に絡まり、
やがてその表面に別の景色が映りはじめる。
流視だ。
「……流れが揺らぐ。
大いなる変革をもたらす者……
水脈に触れんとす」
水面が、淡い光を散らしながら揺れる。
「兆しは一。
影は三。
森と水の境を越えし者、
スィルへ至らん。
水脈の鼓動、いよいよ跳ねるであろう……」
最後の語が落ちると、水面は元の川へと溶けた。
しばし、重い沈黙が降りる。
流視を聞いた十名の高弟たちは、
呼吸を整えながら顔を見合わせた。
水面が再び静けさを取り戻すと、
シャーマン・シュルヴァン=リゼルはゆっくりと腕を下ろした。
その所作ひとつひとつが、
流れそのものを鎮めるように静かだった。
広間に集った高弟たちは、
誰一人として身じろぎしない。
水脈院では、流視の余韻を乱すことは
“罪”に等しいとされている。
シュルヴァンは深い眼差しで弟子たちを一人ずつ見渡し、
最後に、落ち着いた声を残した。
「……水脈は揺らぎを覚えた。
流れは、我らが知らぬ方向を向いている。
おのおの、備えよ」
その言葉とともに、
シュルヴァンの身体は水へと還るように沈み、
跡形もなく消えた。
シュルヴァンが水へと還り、広間に再び静寂が落ちた。
水脈院では、流視の余韻が完全に消えるまで誰も動かない。
その静寂がほどけていくように、
ひとりの青年がゆっくり息を吐いた。
サイラ=ヴェルンが、
胸の奥に溜めていた息をようやく吐きだした。
「……“影”とは、未確定の形を示す語だ。
シュルヴァン様は未来を断定されなかった。
水脈の揺らぎを、そのまま告げられた……」
その声には、
シャーマンの言葉を深く理解しようとする慎重さと敬意があった。
イレナが静かにうなずく。
「つまり、まだ善悪も目的も見えない来訪者……」
サイラは水面を見つめたまま続ける。
「この時期に“影が三つ”。
水脈が形を変える兆しだ。
スパイラルコースト前の一ヶ月は、流れが最も脆く敏感な季……
シュルヴァン様の警告は、その揺らぎの深さを示している」
ラドゥ=シェイルは、
深刻な空気の中でなお水面をじっと見つめていたが、
やがて肩を落とした。
「……で、誰が来るんだ?
このスィル=ハイムに、今さらそんな大物が」
イレナが言う。
「エルフ……かもしれないわ」
ラドゥは顔をしかめる。
「エルフが?この時期に?
あいつら儀礼書簡出すの、妙に几帳面だぞ。
何も言わずに来るわけねぇ」
「じゃあオーク?」
イレナが冗談めかして言う。
ラドゥの顔色が一瞬で曇る。
「やめろ……悪い冗談だ。
オークが来たら街まるごと沈むわ」
イレナが小さく笑った。
その横で、サイラがわずかに苛立ったように言う。
「来訪者を決めつけるのは軽率だ。
“影”だぞ。
流れが示すのは姿ではなく兆しだ」
ラドゥは肩をすくめた。
「わーってるよ。たださ……
こんな時期に“変革の影”なんて……
誰だってちょっとは気になるだろ?」
イレナがしとやかに言葉を添える。
「……ええ。
でも
少なくとも“ただ者”ではないってことかしら。」
三人とも、
水車の軋む音を聞きながら、それぞれ思いをめぐらせた。
彼らはまだ知らない。
森と湿地の境を越え、
角を持つ奇妙な三人組が、
この街へとまさに歩み寄っていることを。
影は、すでに水脈へと触れはじめていた。




