エルフメシ
陽が森の端へ落ちる頃、
木々の影は深い藍色に沈み始めた。
空気はひんやりとして、
湿り気を帯びた風がひとつ深く吹き抜ける。
フィオレンが立ち止まり、
空を仰いで言った。
「今日はここで野営だな。
森の音が変わったろ? これ以上進むと獣が騒がしくなる」
ミュレルが周囲を見渡し、
小さな浮遊石をぽんぽんと置き始める。
石は地面の少し上でふわりと浮き、
触れもしないのに淡い光を灯した。
リアンが静かに言う。
「これで結界の下準備は完了です」
浮遊石の光が繋がって、
夜の空気と森の影の境界がゆっくり薄膜のように揺れる。
それだけで、外界のざらついた気配が遠ざかった気がした。
結界が静かに張られ、
浮遊石が淡く揺らぐと、
夜の森はまるで外側だけが闇に沈んだように感じられた。
ミュレルは鍋と鉄板を準備しながら、
袋の底から小さな木製の筒を取り出した。
「今日はちょっと贅沢するよ。
これ使うの久しぶり」
筒の蓋を開けると、
乾いた香りがふわりと広がった。
土の匂いでも木の匂いでもない。
わずかに甘く、
ほんの少しだけ柑橘に似た、
けれど地球には存在しない“角のある香り”。
ピコが眉を寄せる。
「……なんだ、この匂い……?」
フィオレンが胸を張る。
「霧花の粉。
森の深層で一晩だけ咲く花を乾燥させた香辛料。
鼻が慣れるまでちょっとくすぐったいけど、
肉に絡むと最高なんだ」
リアンが静かに付け加える。
「……貴重品なので、普段は使いません」
甲州は匂いを吸い込み、
思わず肩を震わせる。
「今日は特別ね、これ使うよ」
布に包まれていたのは、
うっすら赤い筋が走る、分厚い肉。
甲州が目を丸くした。
「……これ、肉? なんか光ってない?」
フィオレンが得意げに胸を張る。
「小龍の肩肉。
森に出る若いやつの肉は香りが良くてね。
煮ても焼いても旨いんだ」
リアンが静かに補う。
「……脂が香りを乗せるので、旅では重宝されます」
ミュレルは浮遊石のひとつを調整し、
その上に厚めの鉄板を置いた。
熱がじわりと鉄板に広がる。
次の瞬間――
“じゅわっ”と、肉が歌い出した。
甲州の喉が思わず鳴る。
ピコも言葉を失って鉄板を見つめた。
肉の表面で脂が弾け、
透明だった脂が金色に変わりながら周囲へ流れ出す。
焼けた香りは森の澄んだ空気をやすやすと溶かし、
漂うだけで腹が鳴りそうだった。
ミュレルは手際よく木べらで肉を返した。
その瞬間、立ちのぼる香りがひときわ深くなる。
ミュレルは霧花の粉を、
焼け始めた小龍の肩肉にふりかけた。
細かい粉が熱気に触れた瞬間、
“ふわっ”と香りが変わった。
甘さが鋭く、
柑橘のような清涼感がじわりと肉の脂に溶け込み、
鉄板から立つ煙が森の湿った空気を切り裂くような透明さを持ち始めた。
「やば……なんだこの香り……」
ピコの声が思わず漏れる。
次いでミュレルは、
琥珀色のバターを塊のまま鉄板へ落とした。
“じゅわあああああ……”
溶けたバターが肉の隙間へ流れ込み、
霧花の香りを抱き込んで泡立ち、
鉄板を黄金色に染めていく。
その香りは、
森の暗闇すら甘く酔わせるようだった。
バターの濃厚な香りが先に来て、
すぐあとに霧花の軽い刺激が鼻の奥をかすめる。
その二つが龍肉の力強い旨味を引き上げ、
たった今焼いているだけなのに、
口の中に味の予感が満ちる。
甲州はもう我慢できない。
「やべぇ、これ絶対うまいやつだろ……!!
焼けた匂いが“食べてる気”になるやつだろ……!」
ピコも目が離せない。
バターが焦げる直前の甘苦い香りと、
龍肉の脂が弾けて立つ濃厚な蒸気が、
森の夜を満たしていく。
リアンが静かに言う。
「……火を落とします」
鉄板の熱が少し下がり、
ミュレルが木べらで仕上げの返しをすると、
肉の断面から透き通った肉汁がじんわり溢れた。
塩を一振り。
霧花の粉を指先で少量。
それだけで仕上がりは完璧だった。
ピコの皿に一切れが乗る。
「どうぞ。熱いから気をつけて」
ピコは息を呑み、
恐る恐るかじった。
とろける、という表現では追いつかない。
肉は“歯が触れた瞬間に崩れる”。
霧花の香りは鋭いのに、
後味は驚くほどやわらかい清涼感。
バターは重くなく、
むしろ香りを広げるための魔法の膜みたいだった。
噛むごとに龍肉の甘い脂が溶け、
塩がその輪郭を際立たせ、
鼻へ抜ける香りは
今まで一度も体験したことのない深さ。
ピコは言葉をなくしたまま、
ただ呆然と皿を見つめた。
甲州も同じだった。
「……っ……やべぇ……
今日ここで死んでも悔いねぇ……」
「死ぬなよ」
フィオレンが笑い、
ミュレルは満足そうに腕を組んだ。
「霧花はね、
“食べたあとの記憶を鮮やかにする”って言われてるんだ。
いい夜になるよ」
リアンは静かに、
けれどどこか優しい声で言葉を添えた。
「……旅がつらい時ほど、食は支えになります」
ベラは味を確かめ、
いつもの淡々とした調子で言った。
「……修復値、過去最高です
……たんぱく質の変性による香りとは明らかに別物。
旨味成分の……倍化?」
「美味しいって言えよ……!ってかベラは食べなくても稼働できるよね…」
とピコ。
結界の光が揺れ、
森は静かに笑ったように見えた。
その夜、
焚き火も、戦いの予感も、孤独も、
すべてがしばし遠ざかった。
霧花の香りが漂う野営地は、
旅の途中で出会った“ひとつの奇跡”のようだった。




