言うなよ……そういうの
扉が開いた瞬間、三人は思わず息を呑んだ。
ユグラドシルの森は、まるで薄い光で編まれた帳のように広がっていた。
木々は透明な樹皮を通して柔らかな光を宿し、幹の奥では細い光の粒が泳いでは消えた。
ミストラと呼ばれるその微光は、ときに葉の裏で浮かび上がり、
ときに幹の中心を流れて、ひとしずくの溜息のように消えていく。
ピコは見惚れた顔のまま呟いた。
「……これ、森ってより……神殿じゃねぇか……?」
歩き出すと、足元の枝が不思議な“パリッ”という音を立てた。
乾いた木の音ではなく、何か極細の線を切ったような鋭い響き。
森全体が薄い膜で覆われていて、そこを歩くたび何かが反応しているようにも感じられた。
ベラはいつも通りの口調で言う。
「通常の森とは構造が異なります。お気をつけて。この周辺のみ一切生物がいません。」
「普通の森じゃねぇのは見りゃ分かる!」
甲州がぼやくが、その視線は木々から離れなかった。
出発前に、ピコは輝く木肌から小さな結晶をそっと摘んでいた。
手のひらほどの柔らかい石で、内部に灯の残り火のような光が揺れている。
「ほら、これ……綺麗だったから……」
「また変なもん拾って……」
甲州は呆れながらも、光を覗き込んで目を細めた。
森を抜けるにつれ、空気は澄みすぎていく。
光の粒が漂い、草木の匂いは薄く、代わりに“静寂そのもの”の気配が漂う。
そして――
湖に出た瞬間、世界が一度止まったように感じた。
湖面は凍結した鏡のように滑らかで、
ユグラドシルの大木がそこに映って揺れもしない。
風も音もなく、空気すら息を潜めている。
甲州が小さく呟く。
「……これ、息したら怒られそうな静けさだな……」
遠くの空を横切る影があった。
翼の形こそ鳥に似ているが、動きがあまりにも滑らかだ。
地球で見たものでは説明できない軌跡を描き、森の奥へ消えていく。
ピコと甲州は顔を見合わせる。
「……いねぇよな、あんなの」
「いねぇな。ぜんぶ初見だ」
二人の言葉を遮るように、ベラが振り返った。
「お二人。体力消耗の速度が想定以上です。
本日はこの湖周辺で野宿を推奨します」
ピコはその場にへたり込んだ。
「……五分だぞ……まだ五分しか歩いてねぇぞ……」
甲州は強がって背筋を伸ばすが、足は震えていた。
「俺は……別に……いける……。ただ……そうだな……
ピコがダメなら……その……仕方なく……」
「強がるなって……ひゅーひゅー言ってんぞ……」
「言ってねぇ!」
ベラは静かに荷を降ろし、寝具を並べ始めた。
ピコは弱々しく手を挙げる。
「ベラ……あの……ベッド持ってきて……」
「“ベッド”とはどの商品を指しますか?」
「ほら……俺らが千年寝てた……あの……棺桶みたいなやつ……」
甲州が吹き出した。
「お前さ……あれを“ベッド”って呼ぶ感覚どうなってんだよ!」
「じゃあなんて呼ぶんだよ!
死んでたけど、寝心地はよかったじゃん!」
ベラは淡々と言う。
「ご要望により、運搬を開始します」
しばらくして――
ベラが本当に150キロの棺桶ベッドを2つ両腕で持ち上げて戻ってきた。
まるで発泡スチロールを運ぶかのように軽々と。
ピコは口を開けたまま、ズシィィンと置かれるベットを見て固まっていた。
⬛︎⬛︎⬛︎
少し離れた大樹の傍らには、半ば埋もれたスペースシップの残骸が見えた。
千年の眠りの棺のように静かに横たわっている。
「……見える位置ってのが、また……複雑だな……」
三人は寝袋を整え、湖のそばに腰を下ろした。
背後にはスペースシップの残骸が見える。
静かな丘に横たわるその姿は、
“帰れぬ故郷”を象徴しているかのようだった。
夜が近づくにつれ、湖面は淡い光を返し始める。
木々の透明な幹にミストラがゆらぎ、
遠くの森には見知らぬ影が沈んでいく。
ピコは天を仰いだまま、ぽつりと呟いた。
「……なぁ甲州。
もう……地球には帰れないよな……。
どう考えても」
甲州は黙っていた。
その沈黙が、答えをすべて語っていた。
ピコの声が小さくなる。
「親も……知ってる人も……
みんな……いないんだよな……
千年だもんな……」
湖面が揺れない静寂の中で、
その言葉だけが重く沈んだ。
しばらくして、ピコが甲州の方へ横目を向ける。
「……お前がいてくれてよかったよ」
甲州の肩が小さく震える。
「……言うなよ……そういうの…………」
ベラは少し離れた場所で静かに見守っていた。
ミストラの光が三人をほんのり照らし、
湖はただ静かに、何も奪わず何も返さず、夜を抱きしめていた。
ユグラドシルの夜は、
その静けさのまま三人を包み込んでいった。




