それが私の姓
南端のゴブリン勢力は、壊滅した。
森を埋めていた轟音も、断末魔も消え、
残ったのは血の匂いと、焼けた草の焦げた色だけ。
しかし――
「なぜここまで統率されていたのか」
「なぜ繁殖が爆発的に増えたのか」
それだけが、薄い霧のように森へ居座った。
⸻
その頃。
森のさらに深い暗がりで。
ボダッハが、裂けた口の奥で笑った。
湿った風が、不吉な期待をはらんで揺れる。
まるで“誰かがどこかで扉を叩いた”ような気配が、森の奥へ染み込んでいた。
⸻
サガは大木の根元にもたれ、
泥と血の染みた服のまま、ひっそりと呼吸を整えていた。
軍所属ではない彼には、
戦後の手続きも報告も任務もない。
やることが“本当に何もない”。
だから余計に、
今しがた見た地獄の余韻だけが胸にまとわりつく。
⸻
吸血鬼たちは――
戦が終われば霧のように散る民族だった。
勝利も誇りも、仲間の死さえも、
乾いた夜風に流すように、各々がそれぞれの道へ消えていく。
彼らは本来、集団行動を好まない。
それでもカーミラは、帰らなかった。
彼女は援軍の依頼者として、
エルフの幕舎へ“勝利の報告と謝意”を届けに行かねばならなかった。
血まみれで、心身ボロボロのまま戦ったはずの彼女が――
堂々とした姿で幕舎を訪れ謝意を伝えた。
迎えた団長リュシアンと副官ナリスは、
その凛とした立ち姿に言葉を失った。
「カーミラ殿……」
「吸血鬼の皆様も、すでに撤収したのですか?」
「ええ。皆、勝手に散りますので……。
どうかお許しを。
それが……吸血鬼という種の流儀です」
静かな声。
だが、その背中には“折れたものを抱えて立つ”気配があった。
リュシアンは深く頭を下げた。
「あなたの働きは……この森を救いました。感謝します」
カーミラは軽く微笑んだだけで、
すぐに踵を返した。
⸻
サガはひとつ、深い呼吸をしたその時――
ふっと、空気が変わった。
草の擦れる音も、風の流れも、森のざわめきすら沈む。
夜がサガにまとわりつくみたいに静かになり、
その静寂の中心から、ひとりの影が歩いてくる。
カーミラだった。
彼女の歩幅はゆっくり。
けれど、そのひとつひとつが
“なにかを飲み込んで前に進む”ような重さを持っていた。
サガが顔を上げると、
月明かりに濡れたカーミラの頬が、きらりと光った。
涙の跡だった。
「……サガ」
呼ばれた名前は、震えていた。
普段の落ち着いた声音ではない。
強がりで隠した声でもない。
戦いの最後に、誰にも見せなかった“素”の声だった。
サガはゆっくり立ち上がろうとしたが、
痛みで膝が抜け、地面に手をつく。
それを見た瞬間、
カーミラは反射的に駆け寄って、腕を支えた。
その触れ方が――
とても、とても弱かった。
吸血鬼の冷たい指が、
ひどく震えながらサガの腕を握る。
「……止めてくれて、ありがとう」
言った途端、声がかすれた。
サガは問い返すことができなかった。
胸の奥を掻きむしられるような、痛いほどの悲しみが
彼女の目に渦巻いていたから。
カーミラは続けた。
「もし……あのまま誰も止めてくれなかったら……
私は……自分で自分を戻せなかった。」
カーミラの眉がわずかに震えた。
「……あなたは……怖くないの?」
「何が?」
「私が……あなたを殺しかけたこと。
あなたが……私の“暴走”を見たこと……」
サガは少しだけ笑った。
「怖くないよ。
……だって……悲しそうだったから」
その言葉に、カーミラの肩が小さく震えた。
涙がまた一筋、こぼれ落ちる。
彼女はサガの胸元に軽く額を寄せ、
囁くように呟いた。
「……エルジュビェタ。
それが……私の姓。
あなたに捧げるもの」
それを口にするカーミラの声は
涙で濡れ、温度を失いかけていた。
サガは言葉が出せなかった。
カーミラの身体は
震えていて、悲しいほど脆かった。
夜風がそよぎ、
木々が静かに鳴る。
それは吸血鬼の文化では――
命の貸しと恩義を超えた、“深い絆の宣言”だった。
サガにはその重さの意味が分からない。
それでも、胸の奥が温かく震えた。
姓を捧げるとは――
孤独を手放すという宣言でもある。
⸻
その少し離れた場所で、
レティアはサガたちを見守っていた。
風が頬を撫でても、体の芯まで冷えたような感覚が消えなかった。
胸の奥に沈むざわめき。
言葉にできない何かが、波のように押し寄せる。
レティアはただ立ち尽くしていた――




