教えなきゃ
漆黒の空を、黒いカラスが円を描きながら旋回していた。
「カァー……カァー……」
その声は、血と死臭の漂う戦場に、妙に弾んだ響きを落としていた。
レティアは、大地に立つというより“立ち尽くして”いた。
ゴブリンは――全滅していた。
言葉の意味が、脳に定着するまで数秒かかった。
(……全滅?)
戦争においてそれは“神話の中だけの語彙”だ。
それが今、目の前の現実だった。
屍は積層し、地形を塗り替えていた。
死臭と蒸気で空気は重く湿り、
大地からは“ミストラの風”が完全に消えている。
森が喪に服しているようだった。
少し離れた場所で、サガは沈黙のまま目を閉じていた。
傷口が赤黒く裂け、肌の色も変わっているのに、
彼の体内ではミストラが絶え間なく流れ、
壊れた細胞を繋ぎ、肉を編み直し、血を温めていた。
立ち上がれる状態ではない。
それでも、サガは震える膝を押し出しながら起き上がった。
「……終わったって、教えなきゃ……」
その一言には、
戦士の強さと、子どもの弱さが共存していた。
サガは足を引きずりながら、カーミラの方へ向かった。
カーミラはまだ、グロムの死骸に爪を突き立てていた。
深紅の爪が、肉を何度も何度も抉っていた。
“グジュ……グリ……ビチャ”“ズチュ”
肉が潰れる音だけが、やけに鮮明に響いた。
「ぁ……あぁ……ああぁぁ……」
声は、もはや人の発するものではなかった。
近くで第1夜部隊の吸血鬼が踏みとどまる。
「カ……カーミラ……っ、やめ――」
その瞬間、
カーミラの爪が雷のように閃いた。
“ギィンッ!!”
吸血鬼は血刃を咄嗟に立てて防いだが、
防いだ衝撃で地面を滑り、恐怖で顔色を失った。
「ひっ……!!」
彼は逃げた。
英雄の背ではなく、ただの生物の背中で。
カーミラはもう“敵”も“味方”もなかった。
周囲はただ破壊すべき影に見えているのだ。
「サガ、行かないで!!」
レティアの叫びが、恐怖で震える。
それでもサガは前へ進む。
怖さよりも、
あの目に宿る絶望の深さが、見ていられなかった。
サガは糸を展開し、
暴走するカーミラの体を“縫い留める”ように絡めていく。
爪が頬を裂き、
黒い霧が皮膚を焼き、
胸に激痛が走る。
それでも一歩、また一歩。
(……痛い、でも……悲しい……)
この悲しみは、自分のものじゃない。
それでも胸が締めつけられる。
サガは、泣いている獣に触れるように糸を編んだ。
カーミラの動きは、次第に乱れはじめていた。
爪を振り抜いた直後、胸の奥から絞り出すような呼吸が漏れる。
「ぐ……っ、うぅ……っ、ふ……ふぅ……っ……!」
泣いているのか、叫んでいるのか、
それとも完全に獣へ堕ちかけているのか――
判別できない壊れた呼吸。
赤い蒸気が肩から立ちのぼり、
カーミラの瞳は涙と血の光でぐしゃぐしゃだった。
糸が優しく締められるたび、暴走の衝撃が吸収されていく。
そして――
サガは震えるカーミラをそっと抱きしめた。
「もう終わったんだよ……
……苦しまなくていい……もう、いいんだよ……全部終わったんだ……」
その言葉は、
終わった戦場で最も脆く、最も強い祈りだった。
最初は噛みつくように抵抗したカーミラの肩が、
やがて震え、崩れ落ちる。
「っ……ひ……っひ……ああ……ああああああああ!!」
喉の奥から絞り出される泣き声は、
怒号でも悲鳴でもなく――
壊れた子どもの泣き方だった。
血と涙がサガの首筋を濡らす。
泣くたび、身体から戦意が剥がれ落ちていく。
そして――
泣き疲れたカーミラは、
サガの胸にしがみついたまま、
目を開けたまま、微動だにしなくなった。




