しょっぱい血
グロムは棍棒を振り回しながら、近くの吸血鬼たちを次々に叩き潰していた。
骨の砕ける音、血の飛沫。
夜の戦場に、悲鳴すら追いつかない。
カーミラは、もはや目の前の怪物の動きも視界に入っていなかった。
視界の中心にあるのは――ミレイユの倒れた身体だけ。
戦場のざわめきが遠のいていく。
耳鳴りのような低音だけが、カーミラの頭蓋の内側で響き続けていた。
ミレイユは倒れたまま動かず、カーミラは泥と血にまみれたその身体に膝をついた。
触れた指先に伝わるひんやりとした吸血鬼の体温。
ツルりとした手触りが崩れ落ちていくような、そんな感触だった。
「……ミレィュ……?」
声に出した瞬間、自分の声が震えているのがわかった。
呼びかけても返事はない。
まぶたが少し動いたような幻を見て、確かめるために顔を近づける。
胸は上下しない。
ただ、微かな呼気と血の匂いだけがカーミラの鼻を刺した。
胸の奥で、「プチッ」という小さな音がした。
百年前と同じ、心のどこかが割れるような音。
両親の干からびた骸の前で立ち尽くしたあの夜と同じだ。
記憶が勝手に溢れてくる。
祝われた17歳の誕生日。
温かい手。
優しい声。
ろうそくの光。
ケーキの甘い匂い。
すべてがひっくり返る直前の、幸福の最後の一秒。
そして気づいたら血の海の真ん中で、自分だけが立っていた。
吸血鬼は繁殖しない。
ヴァロライン近郊の“人間の突然変異”。
イドラス(ミストラ)の干渉で捻じれた“怪物”。
血縁はなく、吸血鬼の家族は恩義で繋がっている。
その“本性”は、いつだって突然目を覚ます。
「……ぇあぁ……ぁぁ……ぁあ……」
カーミラの喉が引きつる。
涙が勝手にこぼれ、止めようとしても止まらない。
ミレイユの頬に触れた指が震えた。
血と泥で汚れていても、そこには確かにミレイユがいた。
なにかが決壊する感覚がした。
沈黙が刃物のように胸に刺さり、理性がひっくり返る。
カーミラの肺が熱くなり、喉奥に何かがせり上がる。
戦場の音が遠のいていく。
まるで自分だけが水の底に沈んでいくように。
震える唇がミレイユの首へ触れた。
「……んぐっ……ミレイユの血ぃ……グフっ…えグッ しょっぱいなぁ〜…ジュル…」
涙で濡れた唇が震え、吸うたび嗚咽が漏れる。
ジュル……ピチャッ……ブシュ……。
吸血の湿った音と、押し殺した泣き声が混ざり合う。
こんな音は、世界のどこにもない。
血の味が喉を燃やし、心臓を締めつけた。
立ち上がった足元には、干からびた人の形が横たわっていた。
食いしばった口から声が漏れる。
「ゅるさない……ゆるさない……絶対に……許さない…………」
噛みしめた歯茎から血が流れた。
その血が地面に落ちず、逆にふわりと持ち上がる。
まるで生き物のようにカーミラの身体へ絡みつき、胸、首、肩、腕へと這い上がっていく。
深紅の布が咲くように形を成し、
瞳の奥の光が変わった。
静かに、深く、底なしに。
吸血鬼が“本性を解き放った”ときの姿。
誰も見てはならない、夜の女王の姿。
奪われた者だけが持つ、静かな狂気。
「絶対に許さないっ!!」
深紅の爪が音もなく伸び、夜が震えた。
カーミラの心も、世界も、その瞬間ひっくり返っていた。




