ミレイユ
ミレイユは唇を噛みしめた。
グロムの棍棒が地面を抉り、吸血鬼が遠くへ吹っ飛んだ瞬間――
もう、このまま戦う段階ではないと悟った。
親指を自分の犬歯へ当てる。
音もなく肉が裂け、冷たい血がにじむ。
その血が“生き物のように”むくりと動き、
空気が重く沈んだ。
湿った夜気が突然、鉛に変わる。
ミレイユの指先へ血が絡みつき、
しゅるりと形を変えながら赤黒い刀身へ伸びる。
脈を打ちながら光る10本の血刃は、
まるで意志を持つ獣。
さらに血は身体を包み、
破れた服を飲み込みながら黒と紅のドレスへと変化した。
仮面のように顔の半ばを覆う血膜が、
彼女の表情を奪う。
吸血鬼が“本気”の夜をまとう姿。
人目に晒すことなど決して許されない――
それほど危険で、妖しく、獰猛な形。
「……行くよ」
囁くような声。
横では他の第2夜軍も次々に同じ手順で血を噛み、
夜空が甘い血の香りで震えた。
グロムが巨躯をのしかからせるように振り返る。
棍棒を引きずりながら、
耳障りな骨の音を撒き散らして。
第2夜軍は影の散弾のように散開し、
一斉に襲いかかった。
“ギィンッ!!”
最初の衝撃で、
血刃は黒い霧に弾かれ、
二人の吸血鬼が尻もちをつく。
その直後――
“ドゴォォッ!!”
大ぶりに振っただけの棍棒が
吸血鬼を空へ吹き飛ばした。
空中で骨の砕ける音が響く。
「っ……はや……!」
ミレイユの目が震えた。
吸血鬼は人間の振る剣を指でつまむほど視力が鋭い。
その吸血鬼たちが、
棍棒の軌跡さえ“視認できない”。
“ドンッ! ドガッ!! バキィッ!!”
ひとり、またひとりと吹き飛ぶ。
血刃を立てても、
「止める」のがやっとだった。
(……退化種の力じゃ、ない……!)
冷汗が背中を伝ったそのとき――
鋭い風切り音。
「ミレイユ!!」
カーミラが駆けつけた。
血で形づくった深紅のレイピアを握り、
影のように滑り込んでくる。
「遅いっすよ先輩!!」
「あなたが早すぎるのよ!」
二人は肩を並べ、
グロムの棍棒へ真正面からぶつかった。
“ガアァァァァンッ!!”
血の剣と“硬質化した死体の棍棒”が衝突し、
爆風が砂を巻き上げた。
だが、その直後――
ミレイユのドレスに大きなヒビが走る。
カーミラの血装も裂け、
肩口から深く肉が抉れて血が流れ落ちる。
「っ……!」
「ミレイユ、下がって!」
「無理っす!! ここで避けたら、先輩が死ぬ!!」
グロムの第二撃が振り下ろされる。
その速度――
もはや“視界の外”。
カーミラの目が大きく見開かれた。
(……間に合わない!)
ミレイユが叫びながら飛び込んだ。
「先輩ェッ!!」
突き飛ばされるカーミラ。
その背中を押した直後、
ミレイユは正面から巨大な影に呑まれた。
“ドガァァァッ!!”
乾いた破砕音。
ミレイユの身体がくの字に折れ、
地面を滑りながら血の花を散らす。
血のドレスは砕け、
仮面は割れ、
大地に真紅の飛沫が滲む。
「ミレイユ!!!」
カーミラが叫んだ声は震えていた。
ミレイユは仰向けに倒れ、
息をするたび泡立つ血が喉から漏れた。
「……せんぱい……生きてる……?」
笑おうとして、
笑えなかった。
「……守った……すから……」
言いかけた瞬間――
ミレイユを黒い影が覆った。
肉の破裂音。
骨の折れる音。
泥に沈む濁音。
かろうじて“人の形”を留めるほどの破損。
「ミ”レ”イユッ!!!!」
カーミラは涙を押し殺せなかった。
目は限界まで見開かれ、
息をするのも忘れるほど震えている。
グロムはゆっくりと棍棒を引き抜き、
血と肉片を滴らせながら持ち上げた。
引き抜かれた棍棒には、苦痛を貼り付けたゴブリンの顔が無数に並んでいた。
吸血鬼の兵たちは恐怖で足をすくませ、
誰も動けない。
夜が震え、
地獄が形を得た瞬間だった。




