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戦場の空気

右側戦線では、すでに大量のゴブリンが斃れていた。

レティアの突撃と、サガの結界のせいで地形が変わるほどの肉片の山。


だが左の戦場も同じだった。


“ゴブリンの死臭”が風に乗り、

湿った鉄と獣の脂が混じったような異様な匂いが広がっていく。


どこを見ても死体。

地面は泥ではなく“血”でぬかるみ、

足を踏み出すたびに“ぐちゅり”と生暖かい音を立てる。


ゴブリンの数は、当初の三分の一ほどになっていた。


……そのときだった。


空気が変わった。


死の匂いがさらに濃くなり、

風そのものが腐ったような嫌な重さを帯びる。


「なに……これ……」


最前列の吸血鬼が、思わず一歩引いた。


黒い霧の中心――

グロムがいた。


その身体は異様なほど大きく見え、

背中の骨は外に突き出し、

皮膚は灰のように乾き、

眼は赤い血溜まりのように濁っていた。


グロムが吠えた。


「オオオォォォォォッ!!」


ただの音ではない。

死そのものを押し出したような、生き物の声ではない咆哮。


その圧だけで、吸血鬼たちがごくりと唾を飲む。


吸血鬼は本来、

白兵戦が苦手なわけではない。

夜であれば誰にも気づかれず、一撃で心臓を抉れる。


ただ――

「姿を見せない」ことが美学であり、

「気づかれぬまま殺す」ことが誇りであるだけ。


だが今は、美学など関係なかった。


戦争――それは真正面から噛みつくしかない瞬間だ。


最前列の吸血鬼が、

影のようにグロムの背後へ跳んだ。


“シュッ”


伸びた爪――

エルフのミスリルですら切り裂く獰猛な刃が、

グロムの背に突き刺さるはずだった。


しかし。


“キンッ”


まるで金属を叩いたような音が響き、

爪が弾かれた。


「……は?」


次の瞬間。


“バキッ!!”


爪が折れた。


吸血鬼が目を見開く。


「そ、そんな……ゴブリンごときが……!」


折れたのは一本ではない。

立て続けに二本、三本。


“バキッ、バキッ”


そのたびに、吸血鬼が苦痛の声をあげる。


「嘘でしょ……わたしの爪が……」


ミレイユだ。


戦場の暗闇でも最も優れた夜目を持つ彼女は、

グロムの周囲に揺らめく黒い霧を見た瞬間、


(……やばい)


と本能で悟った。


だが遅い。


霧が死体を纏わせて作った“黒い棍棒”が、

彼女の視界に迫る。


速度は重力を無視したように速い。


「っ……!」


ミレイユは影へ跳び、ギリギリですれ違う。


棍棒が地面に叩きつけられた瞬間――


“ドンッ!!”


地面が抉れ、

爆発のような黒い霧が舞う。


ミレイユの額に汗が滲む。


「……これ……ほんとにゴブリンの族長……?」


焦りが喉につかえる。


彼女の背後で、

他の吸血鬼たちが次々と吹き飛ばされた。


夜の支配者である吸血鬼が――

死にかけている。


グロムは、

ゆっくりと、ゆっくりと次の標的へ歩き出す。


右腕には死体の棍棒、

左腕は黒い霧に覆われて形すら分からない。


笑っていた。


腹の底から満たされたように。


「足りる……もっと足りる……

 もっと……満たされる……ッ!!」


その声に、吸血鬼たちの背筋が凍った。


これはもう、

“敵”ではなかった。


“災厄”だった。


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