結界
森が震えた。
地面の奥から、木々の髄から、
まるで森そのものが息を吸い込むように、
重い気配が一帯に流れ込んでくる。
それは、後続一千のエルフが到着した合図だった。
森の奥から現れたのは、
整然とした銀青色の隊列。
風をまとう兵士たちの足音は静かなのに、
地響きになって戦場に満ちていく。
盾兵百。槍兵三百。弓兵二百。風術士百。
そして移動術を携えた遊撃隊が左右に散り、
一瞬で戦場が形を変えた。
ザッ……!
その瞬間、
まるで森の根が一斉に伸び、絡み合うように、
“点だった戦い”が“線の防壁”へと変貌した。
「後続部隊……。行くよ」
レティアの声は相変わらず風の揺らぎのように静かだったが、
その眼だけが鋭く光っていた。
新たな防衛線が森ごと動き始める。
突撃してきたゴブリンたちが、
まるで大河に跳ね返される水しぶきのように弾かれていく。
槍兵が前線を押し、弓が空気を裂き、
風術士が突進角度をズラして味方の死角を消す。
この千の到着は単なる“数”ではなかった。
森の精霊達が再び本領を取り戻したかのような迫力だった。
そして、
その“線”の隙間を埋めるようにして――
サガは動いていた。
胸の奥のミストラが、静かに、強くうねる。
集中すると、半径二メートルの糸結界が展開された。
触れたものを裂く、透明の刃。
突っ込んできたゴブリンが、結界に触れた瞬間――
“パツッ”
肉と骨が、抵抗すらできずに切り分けられる。
サガの足元に赤い雨のように落ちる。
(……切れてる。触れただけで)
恐怖より先に、役に立てている実感が胸を熱くした。
「サガ、深追いはだめ」
レティアの声はかすれていたが、
響くような静かな強さがあった。
しかしサガは、頷きながらも前へ出る。
千の到着で広がった戦線の隙間を埋めたい。それだけだった。
味方の盾隊を抜け、崩れかけた前方へ走る。
そこで味方が倒れ、数匹のゴブリンが群がっていた。
結界に触れたゴブリンが裂け、
また裂け、
また裂け――
斬るというより“勝手に壊れて”いく。
その頃、レティアは別の支援に呼ばれ、
サガとの距離はじわじわ開いていた。
戦線は“線”の形を維持しつつも、
前衛と後衛の波が波打ち、思わぬ穴が生まれる。
サガはそこを埋めに行くため、
さらに一歩、さらに一歩と前へ踏み出してしまった。
(……まだ、いける)
胸の奥――ミストラが熱く脈打つ。
結界が軋む。
ほどけて…繋いで…ほどけて…つないで――ほどけて…
それでも、サガは必死に保った。
「……まだ、落とせない……!」
胸の奥が、ぎゅっと握られる。
結界の外ではゴブリンが波になって襲いくる。
そのたび、触れた者が一瞬で細切れになった。
触れた瞬間、切断。
触れた瞬間、赤い粉。
触れた瞬間、肉片。
サガの結界は、細い糸が張り巡らされた“円”だ。
ゴブリンの爪が触れれば、腕が落ちる。
体ごと突っ込んでくれば、胴が裂ける。
初めて役に立てている実感が胸を突く。
でも、その喜びより先に――
苦しさで吐きそうだった。
(……苦しい、でも……止められない)
さらに前へ踏み込むと、
結界の表面が微かに震え、
数十体のゴブリンが同時に断ち切られる。
後続部隊の到着で前線は広がった。
だがそれは同時に“戦線が伸びた”という意味でもあった。
サガは気づけば、その一番前にいた。
一歩出るごとに、五体。
さらに十体。
群れの中心へ突っ込むほど、切断の雨は激しさを増す。
ミストラはまだまだあるように感じられるのに、出口が細く絞られているように
“詰まった呼吸”みたいに苦しい。
中は満ちているのに、外へ出せない。
結界を維持すれば維持するほど、
肺が潰れるような圧迫感に襲われる。
(……もう……無理だ……)
何度もそう思った。
膝も笑っている。
視界は白くちらつき、足元の地面が揺れる。
何度も倒れかける。
それでも倒れず、前へ。
ゴブリンが突っ込む。
結界がわずかに揺れた瞬間、サガは吠えるように力を込めた。
「……まだ……折れないッ!!」
結界がぎり、と縮む。
その“縮んだ反動”で、周囲のゴブリンが一気に削ぎ落ちた。
腕、脚、顔、腹――
触れた部分だけが肉片となり、飛び散る。
地面には、サガが通った跡が
“何十メートルも血のライン”になって続いていた。
呼吸はできない。
頭がクラクラする。
でも――
(……まだ……いける……)
その気迫だけで、
サガは結界を維持したまま、生きたまま、
千を超える数を削り続けた。
背後のエルフたちは声を失っていた。
「……化け物だ……」
サガは聞こえない。
もう音も色もほとんど分からない。
ただ必死に、
結界を握り続けていた。
結界は、面ではなかった。
無数の細い糸が、サガの周囲に張り巡らされた“球状の檻”だ。
ゴブリンが突っ込んでくれば、糸に触れた瞬間に切断される。
ただ――隙間はある。
糸と糸の間をすり抜けた石礫が、頬をえぐった。
「ッ……!」
次の瞬間、別のゴブリンが振り回した棍棒の破片が飛び、
サガの脇腹をざっくり裂いた。
熱い痛みが走る。
皮膚が破れ、血が流れ、
それに混じって何かベタつくものがついてくる。
……敵の体液なのか…それとも……サガの血なのか……分からない。
生臭さと鉄の匂いが混ざって、気持ち悪くなる。
糸は斬る。
でも、間を飛んでくるものまでは斬らない。
それでもサガは結界を維持し続けた。
痛みの数だけ、糸が揺れる。
揺れるたびに、ゴブリンがまた“細切れ”になって落ちていく。
頬から首へ、胸から腹へ、
傷と傷が繋がり、
体がどんどん“ひとつの大きな痛み”になっていく。
だが――サガは止まらない。
むしろ、痛みで頭がクリアになる。
血にまみれながら、糸の檻を保ち続けた。
結界を維持するたび、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(……苦しい……でも……)
そこで――
結界が、ふっと消えた。
糸がほどけたのではない。
切れたのでもない。
ただ、
ミストラが“外へ出られなくなった”。
「……っ!」
思わず膝をつく。
三方向からゴブリンが迫る。
結界なしでは即死確定。
サガは反射的に、
糸を鞭のように振り抜いた。
“パンッ!!”
空気が裂け、
三体が一度に吹き飛んだ。
皮膚も骨も抵抗にならない。
(いける……まだ動ける……!)
しかし胸は焼けるように痛い。
息ができない。
視界が揺れる。
(倒れたら……ここで死ぬ)
サガは必死にもう一度立ち上がる。
膝が笑い、視界が滲む。
だが糸は動く。
腕が振れる限り、鞭は走る。
ここからサガは――
本当の死闘へ踏み込んでいった。
レティアの声が遠くで聞こえた気がした。
サガは、振り返れなかった。
振り返れば死ぬと思った。
だから前へ進むしかなかった。




