初めての発動
どうにもならなかった。
腕も足も重く、上がらない。
力はあるのに、身体のほうがついてこない。
そんな奇妙なずれが、全身をぎしぎし言わせていた。
サガは荒い息を吐き、胸に手を当てる。
その奥で、微かに何かが流れている。
昨夜からずっとざわついていた“あれ”だ。
ゆっくり意識を向けると、ミストラが細い川みたいに体の中を巡っているのが分かった。
触れようとすると逃げ、力を込めると逆に散ってしまう。
それでも何度か試すうちに――ようやく、全身に広がる気配を掴めた。
次の瞬間、身体がふっと軽くなった。
重さが抜けたわけではない。
ただ、動き出す前から分かる。
“これなら、いける”と。
サガはそっと足場を確かめるように踏み込み、
軽く振った腕が、さっきまでとは別物のように滑らかに空気を切った。
「……そういうことか。」
独りごちた声は、驚きよりも納得に近い。
ミストラを全身に巡らせると、体が自然にまとまる。
理由なんて分からない。ただ、確かにそう感じられた。
頭上の黒い鳥が、また羽を揺らした。
サガの気づきを見透かしたように、
じっと、その動きを追っている。
軽くなった身体を試すようにもう一度踏み込み、
サガは呼吸を整えた。
……いける。
今なら、もっと動ける。
だが、胸の奥に残るざわつきは、別の記憶を引っ張り出してきた。
昨日のことだ。
あの瞬間、ただ逃げることしかできなかった。
森の影が迫ってきて、足がすくみ、背中がじっとり冷えた。
生きるためとはいえ、あんなふうに逃げ惑うしかなかった自分が、
どうしようもなく悔しい。
サガは拳を握った。
逃げるだけじゃ、何も守れない。
きっと、またあんな状況が来る。
……なら、自分で守ればいい。
ふと、指先に意識が集まる。
ミストラがそこに寄ってくる気配がする。
糸の感覚を思い出す。
細くて脆いのに、絡めれば想像以上に強い。
だったら——。
周囲を囲んでしまえばいい。
自分だけの空間を作るんだ。
誰も入り込めないように。
その考えが胸の中で形になった瞬間、
ミストラが指先で静かに光った。
「……できるかもしれない。」
サガはそっと手を広げる。
森の静寂が、彼の次の一手を見守っているようだった。
サガは指先の光を見つめた。
ミストラがかすかに震えている。
呼吸を合わせると、光は細い糸のように伸び、指と森の空気を結びつけた。
「……これなら。」
自分でもよく分からないまま、サガは周囲に意識を広げた。
森の空気が微かにざわめく。
糸がもう一本、また一本と生まれ、足元から広がっていく。
ただの糸じゃない。
触れれば切れるような細さなのに、引けば森そのものが支えてくれるような力を感じる。
サガはゆっくりと腕を回した。
糸たちはその軌跡に追従し、輪郭を作り始める。
彼を中心に、淡い光の線が円を描き、空間を囲む。
ひとつ、またひとつ。
糸が重なり、森の静けさの中で結界が形になっていく。
「……すご。」
言葉は漏れたが、驚きに浸る暇はない。
集中が少しでも乱れれば、糸は拡散してしまう。
サガは足を踏みしめ、意識を一点に集めた。
光の輪は、ゆっくり閉じていく。
外界の気配を薄く遮るように、空気が変わった。
一瞬、耳が詰まったような感覚が走る。
風の音が遠ざかり、世界が少しだけ静かになる。
——できた。
完全ではない。
ゆらゆらと不安定で、ところどころ途切れている。
でも確かに、誰も踏み込めない薄い壁ができていた。
サガがそっと手を伸ばすと、指先が自分の糸に触れた。
冷たくもあり、温かくもあり、森の呼吸と混ざった奇妙な感触。
その瞬間、黒い鳥が枝から飛び立った。
音もなく、空気がわずかに震えただけ。
サガの張った結界を避けるように、上へ弾かれるように舞い上がった。
サガは気づかない。
ただ、自分の足元に残った光の輪を見ていた。
「……できた。たぶん。」
小さいけれど、確かな第一歩。
森の静寂は、彼の新しい技を受け入れるようにゆっくりと揺れていた。




